2015年2月26日木曜日

難解なことを難解な言葉で語ることを怠慢と言わないか

「噛み砕く作業」に原著者の名前を冠することはもはやできない
本に書いてあるようなことではないが、一人二人から聞いた話でもないので、おそらく長年多数の人口に膾炙されてきたことではないかと思うが、教会での説教にせよ、神学の講演や論文にせよ、どこか一部分でも極度に難解なところがあると権威性が高まる(?)という言い草があるが、あれが私は嫌いだ。

一夜もあればすらすら読めてしまうほど平易な言葉で書かれた本は暇つぶしにはならないからかもしれない。時間の埋め草には、たしかにならない。極度に難解なところのある本を読むなり説教を聞くなりすることで、ああでもないこうでもないと考え事をしたい人にとっては「分かりやすい」ことが嫌らしい。

もちろん世界は難解な存在である。人間も神も難解である。難解な存在をその本質と性格にふさわしく表現する言葉が難解であるというのは学問的に誠実な姿勢かもしれない。一例としてvocatio internaという古い神学概念を「内的召命」とだけ訳して済ますことこそ誠実な姿勢かもしれない。

しかし、いま書きたいのは翻訳の問題ではない。難解な外国語を平易な日本語に変換すべきであるというようなことを主張したいのではない。翻訳の問題は形式的なことにすぎないと言いたいのではないし、神学の翻訳本需要はまだ続きそうな気がするが、いいかげんやめたら?と言いたい思いが今の私にある。

しかし、「一夜で読み終えられるほど平易な日本語で書かれた神学書」がもしあるとしても、流行の自己啓発本のようなものを求めるつもりはないし、サブカル調でカムフラすりゃいいと考えているわけでもない。内容をとことん考え抜いて日常性の次元まで噛み砕いていくというようなことしか考えていない。

でも、その「内容をとことん考え抜いて日常性の次元まで噛み砕いていく」ということは、翻訳本にはたぶんもう不可能であるはずだ。翻訳という意味での「噛み砕く作業」そのものに原著者の名前を冠することは、もうできない。それはもはや訳者の全責任でなされるべきである。それが訳者の光栄でもある。

などなど、いろいろ考えこんでいて、それをメモしておこうとツイートしていると、同じ部屋で「アイカツ」とか「たまごっち」とかを家族の者が見始めて、横目でちらちら見ているうちに、何を書きたかったのかが分からなくなってしまった。面倒くさくなったので、気持ちを立て直すことができそうにない。