2015年2月21日土曜日

私はもう失望する側にはいません

昨夜の自作料理「海老と鶏肉のクリーミーマカロニグラタン」
24で教会の牧師(うるさくいえば伝道師)になった頃は焦りばかり先行して本気で「早く老人になりたい」と毎日お祈りしていたが、49の今思うのは「ただ老人になればいいってもんでもない」ということだったりする。若いころから努力し続けて老人になるのがベスト。まあこんなの書かずもがなだけど。

でも、私がいままで幸せだったのは、日本のすべての教会に当てはまるとは思わないが、牧師の上下関係がうるさくない環境で過ごせたことだ。若いうちは先輩のカバン持ちをしろだとか言われたことがないし、持ったことがない。自分のカバンくらい自分で持てよ。茶坊主になることを求められたこともない。

カバン持ちだ茶坊主だを見ると「気持ち悪い」と反応する感覚を共有する、世代を超えた牧師仲間の中で24から49まで過ごすことができた。これはラッキー。失礼を省みず書けば、今のローマのフランシスコ教皇もたぶん我々と同類だ。自分のカバンくらい自分で持てよ、と言ってくれそうな勢いを感じる。

日本の教会、これからどうなっていくのだろう。失望はしていない。「失望される側」(または「失望させる側」)であっても「失望する側」ではないという自意識くらいは持っている。世界だ社会だを論じる力はないし、人生の残りの時間はそんなにない。日本の教会をなんとかしたい。ひたすらそれだけだ。