2015年3月8日日曜日

主イエスは人の祈りをかなえてくださいます

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書10・46~52

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰が救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」

今日もマルコによる福音書を開きました。前半の「ガリラヤ編」が今日の個所で終わりになります。来週学びます11章からが後半の「エルサレム編」です。イエスさまの地上のご生涯の最期の一週間が描かれています。

しかし、今日のイエスさまはすでにエリコにおられます。エリコはエルサレムまであと30キロです。具体的にイメージしていただくために30キロがどのくらいかを調べてみました。松戸小金原教会から東京駅までがちょうど30キロです。直線距離ではなく道路の長さで調べました。そういうことが今はインターネットですぐ分かります。もう一箇所調べてみました。松戸小金原教会から稲毛海岸までがちょうど30キロです。

こう考えますと、30キロというのは、歩くともちろん遠いですが、車なら1時間、電車でも1時間。同じ空気、同じ空、同じ言葉、同じ文化を共有する関係であるとお互いに感じあえる距離です。これで私が言おうとしているのは、今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、「エルサレム編」の一歩手前であるということです。

エリコは私も一回だけ行ったことがあります。エリコの行政区域そのものはそれなりの広さがありますが、市街地はとても小さなところです。そのエリコの町にイエスさま一行がお着きになりました。「一行はエリコの町に着いた」。

しかし、すぐにイエスさまはこの町を出て行かれたかのように描かれています。エリコの町で何をなさったかは記されていません。「着いた」の次の文章が「出て行こうとされた」というのですから、まるで短時間のトイレ休憩かなにかのようです。食事かもしれませんが、食事の場合は「食事である」とはっきり書かれているものです。しかし、ここに書かれているのは「着いた」途端に「出た」です。エリコでは記録するほどのことはしていないということでしょう。

しかし、それにしては様子がおかしいです。エリコの町に着いたときの「一行」は、イエスさまと弟子たちだけ、つまり13人だけだったはずです。しかし、「出て行こうとされたとき」には「大勢の群衆」が一緒でした。エリコの町に入った途端、たちまち大勢の群衆に囲まれたのです。そして町を出て行くイエスさまは群衆の中におられたのです。

しかし、これはあまり慌てずに考える必要があるところです。今日の個所は「ガリラヤ編」の最後ではありますが、エルサレムまで残り30キロ地点のイエスさまが描かれています。エリコの町を出て行かれるイエスさまと一緒に描かれている「大勢の群衆」は、ガリラヤの「大勢の群集」と同じような存在としてとらえてよいかどうかは考えどころです。

ガリラヤにおられた頃に、イエスさまのもとに集まってきた人たちは、イエスさまは難しい病気を治してくださるらしいとか、悪霊を追い出してくださるらしいとか、死んだ人を生き返らせる力まであるらしいとか、いろんな噂を聞いて集まってきた、イエスさまに関心がある人たちです。

しかし、今日の個所に出てくる「大勢の群衆」は、ガリラヤの群衆とはおそらく性質が違います。その人々は必ずしもイエスさまに関心を抱いて集まってきた人々であるとは限りません。その可能性はないとは言いません。しかし、それよりもはるかに可能性が高いのは、エルサレムに早く行きたいと願い、道を急いでいる人たちだったのではないかということです。

これは結果論ではなくて、もともとイエスさまご自身が意図的に計画されたことであると思われることですが、そもそもこのときイエスさまが弟子たちと共にエルサレムを目指されたのはエルサレム神殿で行われる過越祭の時期に合わせた上京であったことは明らかです。まさにその時期に大勢の人がエルサレムに集まります。つまり、イエスさまと一緒にエリコから出てきた大勢の群衆は過越祭に参加するための神殿の参拝者たちだったのではないかと考えられます。

そして、あえて単純に言い切ってしまえば、エリコにいる「群衆」はいわば都会的な感覚だったのではないでしょうか。満員電車の中の人たちのように、周りの人にいちいち関心を持ったりしない。そんなことをしはじめたらきりがない。他人のことよりも自分の行き先や目的に関心を集中しようとしている人々。田舎とは違います。

そのような中で、エリコの町の出入口のような位置であると思われるところに、ティマイの子どものバルティマイが座っていました。ティマイはお父さんの名前で、バルティマイは子どもの名前です。名前が似ているのは当然です。バルティマイの「バル」が子どもという意味です。ティマイの子どもだからバルティマイです。

しかし、バルティマイは盲人でした。生まれつきだったかどうかは分かりません。しかし、生まれつきの場合は生まれつきだと書いている場合が多い中で、書いていないのは生まれつきでないからかもしれません。

いろいろ考えさせられました。親が自分の子どもに名前を付けるときは、いろんなことを考えます。バルティマイの父親は自分の名前を子どもに付けた人です。ティマイの子だからバルティマイ。親にとって相当思い入れのある子どもだったのではないでしょうか。しかし、その自分の子どもが盲人になる。あるいは、盲人として生まれた。どちらであったかは分かりません。そのときバルティマイの親たちはどのようなことを考えたでしょうか。

そして、やがてバルティマイは、エリコの町で道端に座って物乞いをするようになりました。自分で仕事をしてお金を稼ぐことはできない。しかし、どうも彼はひとりです。彼の家族が見えません。自分の名前を付けるほどに自分の子どもに思い入れを持っていた父親ティマイは、どこに行ったのでしょうか。あるいは母親は。

物乞いをすることが悪いとかいいとか、私はいま、そういう話をするつもりはありません。ただ、彼自身が望んでそうなったわけでもなさそうです。バルティマイ自身は自分が物乞いをしていることは嫌だったのだと思います。こんなことは続けたくない、なんとかしたいという思いがあったのだと思います。そのことが後で分かります。

しかし、彼は孤独です。家庭や社会は彼を助けていません。だから彼はエリコの町で物乞いをしていました。エルサレムに近い、ほとんど都会と言ってよいエリコの道端に座って、通りがかりの見ず知らずの人たちに頭を下げ、お金をください、物をくださいとお願いする生活をしていました。

しかし、彼の耳はよく聞こえていました。周りの人たちが話している声の内容をしっかり聞き取ることができました。彼の前をナザレのイエスが通っている。彼の近くにイエスさまがおられる。そのことが分かりました。

それで彼は大きな声でイエスさまを呼びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。ところが、多くの人が彼を叱りつけて黙らせようとしたと書いてあります。単純にうるさいと思ったのだと思います。それほど大きな声だったのかもしれません。しかし、彼は黙りませんでした。ますます大きな声でもう一度、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、必死でイエスさまを呼びました。

だれも彼を助けてくれない、振り向いてもくれない、大きな声をすると叱られる、黙らせられる。しかし、イエスさまならば、このわたしの声を聞いてくださるはずだ、助けてくださるはずだ、憐れんでくださるはずだと彼は信じました。彼は諦めませんでした。自分に訪れた最後のチャンスだと思った。このチャンスは二度と巡ってこないと思った。だから彼は諦めずに叫び続けました。

その声がイエスさまに届きました。イエスさまは立ち止まってくださいました。そして彼をみもとに呼んでくださり、彼の心の声に耳を傾けてくださいました。そして、イエスさまは質問されました。「何をしてほしいのか」。

彼の願いは「わたしを憐れんでください」でした。しかし、それは具体的な願いではありません。抽象的な内容にとどまっています。物乞いの彼が求めている「憐れみ」の内容は何であるかをイエスさまは尋ねてくださいました。

彼の願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」ということでした。それがバルティマイの具体的な願いでした。しかしそれは、これまで見えなかった目が見えるようになるということだけにとどまることではありませんでした。目が見えるようになることは、自分の願いや判断に基づいて、自由に動けるようになることです。自分で働き、自分で稼いで生きることができるようになること、これまでの生活に終止符を打つこと、自分の力で人生を切り開いていくことができるようになることです。

彼の願いはそれでした。だからこそ、イエスさまは彼の願いを叶えてくださいました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださいました。彼の目はすぐ見えるようになりました。そして、イエスさまに従う者になりました。

彼の行く道を邪魔するものはもはやなくなりました。彼の人生に新しい希望の光が差し込んできました。バルティマイの目が「どれくらい」見えるようになったのかは分かりません。とにかく見えるようになりました。イエスさまのお姿が見えるようになりました。イエスさまの弟子として、イエスさまに従って生きる人生の前途が見えるようになりました。

来週から「エルサレム編」です。エルサレムでイエスさまは十字架にかけられます。バルティマイの目には、十字架にかけられたイエスさまのお姿がはっきり見えたことでしょう。このわたしのためにもイエスさまは死んでくださった。そのことをはっきりと見て、信じる者になったでしょう。

(2015年3月8日、松戸小金原教会主日礼拝)