2015年1月10日土曜日

けんかをやめてほしいだけです

この一段分すべてファン・ルーラーの(of)/についての(about)本です
「両方大事」と言うと、両方から嫌われる。どちらからも「優柔不断」「裏切り者」「敵の味方は敵」「超然とした上から目線」と非難される。真ん中で接着剤になろうとすると、ニッチに立つことになりますよね(だれに同意求めてんだ)。接着剤は両方からブチュッとつぶされることで役を果たすものです。

両方からブチュッとつぶされる接着剤になろうとした神学者がファン・ルーラーです。それは一種の「ニッチの神学」です(これで意味が分かる人がいるのだろうか)。もっとも、彼は全キリスト教の接着剤になろうとしたわけではなく、オランダ改革派教会の内部分裂を食い止めようとしただけではあります。

私は、でもファン・ルーラーの神学は日本の全プロテスタント教会の接着剤にはなると思ってるんですけどね。「そう思ってるんだったら四の五の言ってないでさっさと翻訳しろ」とかどやされるんですが。でも、ブチュッとつぶされた神学者を紹介しようとすると「敵の味方は敵だ」とか思われてブチュッと。

とか書いてると「ブチュブチュうるせー」と、また怒られる。嫌われても嫌われても接着剤の位置関係にとどまり続けることに耐えられるほどもう若くないんで、どなたかやってくださいませんか。全部訳してくださるという証書にサインしてくださる方には私の蔵書のファン・ルーラー全著作をお譲りします。

有名な人になることも、人のほめる言葉も、私の心をひいたことはないですよ。ほんとですって。だいたい私、昔から今に至るまで、学業成績不良の勉強苦手人間なのですから。

けんかをやめてほしいだけです。けんかをやめて~、二人を止めて~、私の~ために~争わ~ないで~、もうこ~れ~以~上~です。

あーあ。

2015年1月8日木曜日

主の山に備えあり


「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名づけた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」
(創世記22:14、新共同訳)

「『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名づけた。」
(創世記28:17-19、新共同訳)

「『わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。』」
(創世記45:4-5、新共同訳)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
(ローマの信徒への手紙8:28、新共同訳)

「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。」
(ハイデルベルク信仰問答 問1の答、吉田隆訳)

「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。」
(ハイデルベルク信仰問答 問129の答、吉田隆訳)


2015年1月7日水曜日

私は「個人の行為」として説教原稿をネットで公開しています

私の説教ブログにはいろんな教会で行った説教が含まれています

ネット説教をグーグルで検索すると分かるのは、公開方法にタイプがあることです。最少でも二つのタイプがあります。(1)教会の行為として公開しているものと(2)説教者個人の行為として公開しているものです。さらに前者が二つに分かれます。(1a)説教者名つきのものと(1b)匿名のものです。

ネット説教を(1)教会の行為として公開していると言える根拠は、説教記事が掲載されているURL(ネット上の住所)に教会名が入っている、あるいは、教会の公式ホームページにリンクされている、というあたりです。その中に(1a)説教者名が明記されているものと(1b)匿名のものがあります。

教会の行為として公開されているネット説教が匿名になっている場合(1b)は、教会の公式ホームページにも牧師名もしくは説教者名が記されていない実例が多数確認できます。教会は人間のものではなく神のものである。説教は神の言葉であって人間の言葉ではないという態度表明ではないかと思われます。

私は(2)説教者個人の行為としてネットで説教を公開する方法を、意図的に選択しています。それは(1)教会の行為として公開する方法を批判ないし問題視してのことではありませんが(対抗意識は皆無)、説教文書の責任の所在や扱い方についてかなり悩み、熟考した結果として選んだ方法ではあります。

そもそも私がネットで(最初はメーリングリストやホームページ、最近はブログやSNS)説教を公開するようになった動機は「伝道目的ではない」と明言してきたことを覚えておられる方もいらっしゃると思います。そういう私の物言いに反感を抱かれた方もおられます。実際に面罵されたこともあります。

私が説教をネット公開しようと思った動機は、大別すると二つです。

(一)徹夜で書いた原稿も、一回限りで廃棄するものではある。しかし、原稿の保存は必要である。紙ではなくネットに載せておけば、かさばらなくて済むと思ったこと。

(二)「言った、言わない」論争で苦しんだ駆け出し時代があった。「あなたは○月○日の説教で私に個人的な当てこすりをした」「いやまさか、そんなことはしない」「いや、した」「いや、しない」。「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」といつでも言える備えが必要であると思ったこと。

ノートに手書きで原稿を書いていた頃は、「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」とは言いにくかったのですが、ブログやPDFの状態で保存しておけば、言いやすいです。しかし、ネットで説教を公開しはじめてからは、「言った、言わない」の論争に巻き込まれたことは、一度もありません。

私も決して、すべての説教者が説教原稿を公開しなければならないとは考えていません。「せずに済む」なら、それに越したことはないとも言えます。特に私は、(2)個人の行為としてネット説教を公開する方法を選択していますので、自由度は高いです。だれに強制されてしていることでもありません。

しかし、完全原稿でないものでも、たとえばメモでも、それはそれで公開すると、他の人の参考にはなると思います。説教の「内容」についての参考というよりも、説教の「形式」についての参考です。「おお、この方は、こういうメモで説教しているのか」ということがわかると、それはそれで面白いです。

他の人の説教との類似性という点も気にしなくていいと思います。ネット時代は複数の説教を並列的に読めます。複数の人が同じことを言っているほうが、かえって信頼感が増します。あの人とこの人が言っていることが全く違うと、何を信じればよいか分からなくなると言い出す人が増える可能性があります。

説教そのものと説教文書(紙の本であれ、ネットであれ)の関係を考えるとき、ポール・リクールの考察が役に立ちます。パロール(言葉)とエクリチュール(書)の関係は、預言「そのもの」と預言「書」の関係のみならず、説教「そのもの」と説教「文書」の関係を考えることに、そのまま当てはまります。

説教そのものは、空気の中で消えていく、目に見えない言葉です。それ以上でもそれ以下でもありません。しかしまた、その説教は少なからざる場合において容赦ない批判にさらされます。上記のような「言った、言わない」の不毛な論争に巻き込まれてみたり、揚げ足取りや告訴の言質にされてみたりします。

かくして説教者たちは、あらぬ噂や中傷誹謗の中で生活の根拠を失い、説教そのものをやめるか、人生をやめるかの二者択一の前に立たされます。そういったときに、エクリチュール(書)としての「説教文書」(紙の説教集であれ、ネット説教集であれ)が、小さからざる意味と役割を担うことがありえます。

エクリチュール(書)は、第三者の目に触れうるものであり、ある程度客観的に検証可能な物件です。「言った、言わない」の不毛な論争の原因となる発言を突き止め、対立する両者以外の第三者を加えて、言ったか言わなかったか、言ったとしてもどのような意味で言ったのかなどを論証することができます。

その上で、この説教者は資格や生活の根拠を奪われてもやむを得ないほどの過失や罪を犯したかどうかを、第三者機関で判定できます。しかし、説教がパロール(言葉)のままなら、それは不可能です。数人の(狭い)密室の中で処理されるだけです。説教者の側が保護されたケースは、ほとんどありません。

ネガティヴな話で終わってしまいましたね、すみません。これじゃダメだ。私がネットで説教を公開しはじめたのは、10年以上前です。今と状況が全く違います。私自身も10年前の動機のままではありません。もっとポジティヴな意義を感じています。客観情勢として、ネット説教の需要は増加しています。

虚しさは常にあるのです。ネット説教の需要の増加をネットで力説しても、読んでくださる可能性があるのはネットユーザーだけですよね。ネットユーザーにとっては自明のことをネットで主張してもほとんど意味ないですよね。ネットを使わない人には聞き流されるだけだし。虚しい、寂しい、苦しい言葉です。

またネガティヴな話に戻っちゃった。

ちなみに、今日は、午前中は通常の祈祷会がありました。午後は講演原稿を書いていました。来月(2月)と再来月(3月)に行われる、全く別の団体が主催する二つの講演会で、両方ともファン・ルーラーについての講演(内容は別々)をさせていただくことになっていて、そろそろお尻に火がついています。

「いまどうしてる?」を書かざるをえないのは、ツイッターやfacebookやブログに長い文章を書くとたちまち、ネットばかりやってるんだろう、他にやることあるだろう、教会員の顔が見えていないんだろうと非難されることが実際にあったし、いつでもありうるからです。

油断も隙もないネット界だ。

2015年1月6日火曜日

ネットの説教の需要は増加傾向にあります


「2015年新年礼拝説教」のアクセス数が「400」を超えました。ふだんの40倍です。

香山リカ先生がツイッターで、肯定的なコメントつきでリツイートしてくださったおかげです。

何が起こるか分からない2015年です。

今週の説教:2015年新年礼拝説教
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2015/01/1.html

グーグルの検索結果が何を意味するのかは、いまだもって全く理解できていない私ですが、

(専門用語で私に説明しようとしても無駄ですからね、アルゴリズムだとかカタカナ見るだけでゾワゾワする人間です)

つい気になるのは「今週の説教」の検索結果です。

私の「今週の説教」は、なぜかしばらく最上位にランクされていましたが、ずいぶんサボっていた間は、検索しても何ページも出てこないほどランク落ちしていました。

しかし、このたびかろうじて1ページ目(第10位)に返り咲いたようです。

以下は、つい先ほど検索してみた結果の1ページ目です。

2位も3位も「富士見町教会」なのは悔しいですけど納得です。藤盛勇紀牧師の説教は絶賛に値します。私も毎週礼拝に通って藤盛先生の説教を聴きたいくらいです。

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Google検索「今週の説教」(2015年1月6日)

約 615,000 件 (0.23 秒)

検索結果

今週の説教 こうじ神父
blog.goo.ne.jp/knkouji

今週の説教 日本基督教団富士見町教会
www.fujimicho-kyokai.org/preach/index.html

今週の説教 日本基督教団富士見町教会
www.fujimicho-kyokai.org/sp/sekkyo/new.html

今週の説教 日本福音ルーテル大阪教会
www.geocities.jp/jelcosaka/service.html

今週の説教 カトリック伊丹教会
www.itami.net/sermon.html

今週の説教 日本キリスト教団 仙台青葉荘教会
www.aobasou.com/category/sermon

今週の説教 日本福音ルーテル天王寺教会
www.k4.dion.ne.jp/~tenno-ji/service.html

今週の説教 キリスト改革派東洋宣教教会
shining-hill.jimdo.com/今週の説教/

今週の説教 日本基督教団多度津教会
tadotsu-ch.com › メッセージ

今週の説教 (これです)
yasushisekiguchi.blogspot.com/

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クリスチャンの方々は、けっこうネットで、いろんな教会のホームページを見たり説教を読んだりしておられるようです。とくに年配のクリスチャンの方々は、ネットに期待するものはキリスト教と教会に関する情報が中心で、それ以外のことにはあまりネットは使わない、というケースが多いかもしれません。

とくに後期高齢者の方々で、自動車の運転免許証を返上なさった世代の方々、しかも「これからはクルマ社会になる」と言われていた(50年くらい前に造られた)郊外型の(当時の)新興住宅地(バスはかろうじてあるが、鉄道はない地域)に住んでおられるような方々から、ネットの説教の需要があります。

若い頃は、自分で自動車をすいすいと運転して、どんな遠い町でも、自分の教会に通っていた。しかし、今はそれが叶わなくなった。子どもたちは信仰をもって(くれ)ないし、同居もしていないので、だれも教会に連れて行ってくれない、というようなことになっていたりする場合が、少なからずあります。

配偶者も動けない、または召された。教会の仲間が迎えに来てくれていた時期もあるが、仲間もみんな(後期)高齢者になった。それでも説教に触れたい。そういうときに、ネットで説教を読んでおられるようです。これ、特定のだれの話というわけではありません。かなり多くの方が同様の状況におられます。

結語

こんなふうに私がネットの説教の需要を力説しなければならないことには、理由があります。牧師たちがネットを利用することに対していまだに根強い批判があるからです。しかし、いま教会に「通える」人たちと、ネットなしでいつでも最新情報を入手できる人たちは、ある意味で「幸せ」なのだと思います。

しかし、教会と牧師が「幸せな」人たちだけに関心をもつようになり、その人たちの益のためだけに動くようになったらおしまいだと私は考えています。教会に「通えない」人たちがどうしたら「通えるようになる」かを考えることも大事です。しかしそのベクトルだけではなく逆のベクトルの思考も必要です。

言い方は過酷かもしれませんが、時計は逆回しできません。人間の年齢は不可逆です。若い頃にできていたことができなくなった。それがまたできるようになる可能性は、あるものとないものとがあります。それは私だって同じです。抜けた歯は二度と戻ってこないし、進んだ老眼は二度と回復しないでしょう。

「これからはクルマ社会になる」という50年前の「予言」に基づいて描かれた教会と信徒の各家庭の関係(物理的距離や移動手段の問題が主)は全面的に見直される必要が生じています。ただ、その一方で、ネットは非常手段であると私自身は考えています。ネットを教会に置き換えることは考えていません。

子どもだからこそ真剣勝負です


前にも書きましたが、私が成人洗礼を受けたのが小学校入学前のクリスマス(1971年12月26日)でしたから、6歳でした。教会附属幼稚園の園児、日曜学校幼稚科の生徒。私は神さまのこと、聖書のこと、教会のことについて十分に考えていたし、十分に悩んでいました。早熟でもなんでもありません。

私が教会から離れて生きることはありえないことなのに、なぜ私は聖餐に与れないのか、仲間はずれにするなと怒りの念を抱き(6歳の幼稚園児)、牧師(当時70歳くらい)に直談判で洗礼を授けてもらいました。そういう私ですから、子どもを甘く見ることはありえません。子どもだからこそ真剣勝負です。

誤解がないよう言葉を足しておきますが、私は自分が受けた洗礼のあり方(6歳の幼稚園児が成人洗礼)を絶対化するつもりはありません。私の子どもたちには、生後まもなく幼児洗礼を授けました。上に書いたことの趣旨は、「幼稚園児も宗教問題で十分に悩みうることは私には分かる」ということだけです。

ありていに言えば、こと宗教問題に関しては、子どもに「子どもだまし」は通用しません。難解な専門用語を使え、という意味ではありませんが、事に即して正確に教える必要があります。不正確な情報しか教えられないなら、いっそ宗教に関しては何も教えないほうがまだましかもしれないと思うくらいです。

2015年1月4日日曜日

伝道が楽しいです


ごく最近の何ヶ月かのことでしかないのですが、いま日曜学校がとても元気です。今日も小学生以下11名でした。30年前の日曜学校は100名来ていたとか、そういう比較されても困るのですが。今の小学生は2002年生まれで6年生ですよね。1年生が2007年生まれですよ。なんだかすごいでしょ。

掛け値なしの「純21世紀生まれ」の小学生たちが、聖書の教えをものすごく豊かに吸収していますからね。真剣に聞いてくれます。私の質問に正確に答えてくれます。彼ら/彼女らの疑問に私もごまかしなしに答えてきたつもりです。日曜学校の小学生たちと聖書の話をしているときが、いちばん楽しいです。

日曜学校だけでなく(いわゆる大人の)礼拝の出席者も増加傾向です。現住会員数より多いです。同じ町内から来てくださる方が増えるのはうれしいことですね。私は「純・流浪系」の人間ですが、そんな私に公立中のPTA会長とかやらせてもらえたりした、若干(いやかなり)リベラルな町かもしれません。

とにかく伝道が楽しくて楽しくて仕方ない。今はそういう心境です。昔から不器用で、何の取り柄もないことでは人後に落ちない自信があるほどですが、「私のことは嫌いでも、神さまと教会のことは嫌いにならないでください」と言いたいです。これ真面目な話です。「この道しかない」は私のセリフですから。

2015年1月1日木曜日

2015年 新年礼拝説教

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
PDF版はここをクリックしてください

エフェソの信徒への手紙6・10~20

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」

新年あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

このところ毎年の新年礼拝で、教会の一年間の目標とする聖句(目標聖句)の解説をさせていただいています。

12月の定期小会で相談した結果、2015年度の目標聖句を「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙6・10)に決めました。今月1月25日の定期会員総会で承認していただきたいと願っています。

この聖句を今年の目標聖句にしましょうと提案したのは私です。もちろん理由がありました。教会はどのような力によって立っているのかを、改めて深く考える一年になることを願ったからです。

その答えがこの聖句に明言されています。教会は「主の偉大な力」によって強くされて立っているのです。「主」とは神です。教会は「神の力」で立っています。

そんなことは当たり前だ、キリスト教のイロハである、何を今さらこのことを強調する必要があるのかと思われるかもしれません。しかし、当たり前のことだからこそ、真剣に考えましょう。

「いや、そうではない。教会は人間の努力によっても立っている」。そういうふうに考えることは、もちろんできます。そのことを私は否定しません。そして、そのことは聖書の中でも否定されていません。11節以下を読めば、聖書が人間の努力を否定していないことが分かります。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)と記されています。神の武具を身に着けるのはわたしたちです。教会です。

そして、そのわたしたちが神の武具を身に着けて何をするのかというと、「悪魔の策略に対抗して立つことができるようにする」のです。悪魔の策略に対抗して立つのもわたしたちです。教会です。

悪魔の策略に対抗することも、立つことも、わたしたち以外の誰かがやってくれるわけではありません。わたしたち自身は戦わないし、自分で立とうとはしないが、わたしたちの代わりに神が戦ってくださり、教会を立ててくださるという話ではないのです。

「神の武具」の具体的な種類が14節以下に書かれています。

「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。

ここに出て来るのは、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣です。こちらのほうだけ読めば、古代の軍人が鎧を着用した姿を思い浮かべることができます。しかし、これらすべてはたとえです。ここに書いてあるとおりのことをイメージするとしたら、この人は丸腰です。

帯くらいは締め、履物くらいは履いているかもしれません。しかし、胸当ても、盾も、兜も、剣も、目に見える形のものは持っていません。全くの裸ではないかもしれませんが、堅い金属のよろいではなく、ごく普通の服を着た人の姿でしかありません。

つまり、ここに描かれているのは武装した軍人の姿ではなく、文字通り丸腰の、完全なる一般市民の姿です。真理も、正義も、平和の福音を告げる準備も、信仰も、救いも、神の言葉も、わたしたちの目に見えないものだからです。

「それで何ができるのか」と思われるかもしれません。現実の武器や凶器を持った人もいる危険な世界の中に丸腰で出かけるのは、自ら死にに行くようなものではないかと思われるかもしれません。

しかし、教会とはそういうところなのです。わたしたちは「主の偉大な力」によって、すなわち「神の力」によって立っているのです。

教会では牧師だけではなく、長老や日曜学校の先生が聖書のお話をしてくださっています。また、聖書のお話をする人だけがいても、教会は成り立ちません。話を聞いてくださる人がいなければ、教会は成り立ちません。

言葉とはそういうものです。コミュニケーションです。キャッチボールです。相手がいない話は独り言です。独り言も言葉ではあります。しかし、そればかり続けていると虚しくなってきます。

「牧師の説教だけで教会が立っているわけではありません、そんなことはありえません」ということを言いたくて、今の点を付け加えました。教会の全員が神の言葉を宣べ伝えるために奉仕するのが教会です。

しかし、その神の言葉は、わたしたちの目に見えないものでもあります。何が、どんな力が、教会を立てているのかを、わたしたちは目で見ることができないのです。目に見えない神の力によって、神の言葉の力によって、教会は立っているのです。

「主に依り頼み」については説明が必要です。原文に「依り頼み」という表現は見当たりません。原文は「主にあって」(エン・キュリオー)です。「に依り頼み」は、訳者が補った表現です。

意味として間違っているわけではありません。しかし、今年の目標聖句の強調点は、原文にない「依り頼み」のほうではなく、後半の「その偉大な力によって強くなりなさい」のほうにあります。

教会は「神の力」によって強くなります。「神の力」で立っています。それは、神の言葉であり、聖書であり、説教であり、信仰です。

そこがおろそかにされたり、ないがしろにされたりすると教会は弱くなります。しかし逆に、そこが重んじられれば、教会は強くなります。

そのことを今年はぜひ深く考えたいと願っています。

(2015年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)

2014年12月31日水曜日

「関口康が選ぶ 二年で最高の本 BEST BOOK OF TWO YEARS 2013-2014」選考結果発表

「関口康が選ぶ 二年で最高の本 BEST BOOK OF TWO YEARS 2013-2014」

選考結果発表

ポール・リクール著『ポール・リクール聖書論集2 愛と正義』
(久米博、小野文、小林玲子訳、新教出版社、2014年)


厳正かつ「純粋に主観的に」選ばせていただきました。

【理由】

訳文が抜群に読みやすかったです。そして、収録論文のすべてが私の関心にドンピシャでした。

説教や翻訳などの書き言葉や語り言葉をどうするかというようなことで日々悩んでいる者として、「神の言葉」と「聖書」をいずれも大文字のパロール(言葉)とエクリチュール(書)としてとらえることの意味を教えられ、たいへん面白かったです。

本書の中で私が最も感動した文章を引用させていただきます。

「従って、預言者の口から語られる主の〈言葉〉は、全ての語られる言葉が持つ脆さを抱えており、書のみが、それを破滅から救ってくれる。『このように主は語る』という不在の声がわれわれのところにまで届くには、この二重の口述筆記がどうしても必要なのである。そして書かれた痕跡の消える危険が迫ることもあるからこそ、よく知られているようにエゼキエルは巻物を食べるようにとの強い促しの声を聞いたのだった。それはまるで、語り、また食べるその同じ口が、書かれたものとして生きた声の支えを既に奪われた書に対して、肉体を与えることができるかのようである」(81ページ、小野文訳)。

素晴らしい本を書いてくださったリクール先生は2005年に死去されましたので感謝の言葉を届けることはできませんが、訳者の久米博先生とは親しくさせていただいていますので、改めて感謝の言葉をお伝えしたいと思います。共訳者の小野文氏、小林玲子氏、そして新教出版社に感謝いたします。

2014年12月30日火曜日

教義はなんら硬直していません


あからさまに言うと嫌われるだけでしょうけど、「ブレーンストーミング」というのが、ずっと前からうさん臭くて仕方ないです。最初に付き合わされたとき、「こっくりさん」と大差ない感じがしたんです。

あと、教会や神学の文脈で使われる「インダクティヴ」というのも良いようで良くない。高校時代に「帰納」といえば「演繹」の対義語だと習いました。「帰納」で意味が分かる人に説明は不要ですが、インダクティヴは「誘導」ですよね。「誘導」と訳そうとなさった方がおられて、はっと気付かされました。

この「帰納/誘導」の意味の「インダクティヴ」という方法論が教会や神学で用いられ始めたのは50年ほど前ではないかと思われますが、それは「トップダウン」のあり方に対峙する、といえば「ボトムアップ」ということになるでしょうけど、そういう《新しい》あり方を示していると見られたからです。

目をつぶりながらでも書けそうなほど聞き飽きた言い回しとしては、硬直した教義に立つ権威主義的な教会が、説教壇の高みから命の通わない死せる神学命題の羅列のような「演繹的な説教」を、上から目線で語り下ろす。それに対抗するために「インダクティヴ」(帰納/誘導)的なあり方が求められた云々。

言わんとしてることは分かるんですが、今の我々からすれば「はあ、まあ、そうですか。過去にそういう時代もあったのかもしれませんね」としか応えようがない。トップダウンもボトムアップもない。そもそもトップが存在しないし、存在することが許されない環境の中でトップダウンなるものは成立しない。

今の点も深刻ですが、私にとってもっと深刻な問題は、かつてある時期持てはやされた「インダクティヴ」(帰納/誘導)の方法論の論理的前提として「教義とは硬直したものである」と事実上言ってしまっている点では、天地をひっくり返して見せただけの「見た目の」違いにすぎないと思われることです。

しかし「教義」はなんら「硬直」してないです。言いがかりに近いものがある。たぶんそれは遠目からのイメージですよね。終末論的に言えばあらゆる教義は未完成であり、不確定要素が多くあります。しかも教義の自己反省は教義学内部で十分可能です。他の諸学の助けが絶対必要というわけではありません。

ここから先はいくらか皮肉っぽい書き方になってしまいますが、教会や神学の文脈で「インダクティヴ」(帰納/誘導)を言いたがる人たちは、「教義」にはいつまでも「硬直」したままでいてもらわなければ困る面があるんだと思います。そうでなければ「インダクティヴ」を主張する意義が薄れますから。

でも、それこそが「仮想敵」みたいなものですよほんとに。「教義はなんら硬直してませんよ」という一言ですべて崩れ去るような話なのに。過去の過去の大昔にそういう批判が当てはまった時代があったのかもしれませんが、今は硬直してナイナイ。しようがないんですから。何のバリアも砦も塔もないのに。

神学者個人が単独で硬直しているケースは、それはあるかもしれませんけど、それは「教義」じゃないです。そういうのは、どうぞおひとりで硬直していてくださいな、という話に過ぎないのであって。説教壇の高みから、上から目線で何ごとかを語り下ろしても、そこにだれもいなかったら「教義」ではない。

脱線しました。書きたかったのは「インダクティヴ」(帰納/誘導)のことです。私がこのやり方にイマイチ乗れないのは、「見た目」を変えただけで「結論」は同じだと思えるからです。「教義」は「硬直」させたまま放置する点で、演繹的方法も帰納的方法も同じ。同じ結論へと「誘導」しているだけです。

「誘導」という日本語を耳にすると、おそらく多くの人がすぐに思い浮かべるのは、「自動車などの誘導」に関することと、「誘導尋問」ではないでしょうか。前者はポジティヴな意味ですが、後者はポジティヴな意味とは言えないでしょうね。「釣り」に近い。マインドコントロールとまで私は言いませんが。

「ブレーンストーミング」も「インダクティヴ」(帰納/誘導)に近いものがあるかもしれません。「あ、誘導だ」と、私のアラートは敏感に反応するように高感度設定されてしまっているようです。教会や神学の文脈でなければだいたい距離を置いています。全部に反応してたらうるさくてしょうがないんで。

2014年12月28日日曜日

主イエスのみ言葉を聞いて悟りなさい

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

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マルコによる福音書7・1~23

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、「父と母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。』それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。』イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から体の中に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。』更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」

今日は今年最後の主日礼拝です。引き続きマルコによる福音書を開いていただきました。この個所に登場するのは、イエスさまと弟子たち、そしてイエスさまと弟子たちのことを快く思っていない人々です。その人々とイエスさまが論争する場面です。

その人々がイエスさまに言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。イエスさまの弟子たちの中に食事の前に手を洗わない人がいたようです。それを見た人々がイエスさまにクレームをつけました。衛生上の問題としてではありません。彼らは、食事の前に念入りに手を洗わなければならないという古くからの言い伝えを固く守ってきた人々でした。その言い伝えをイエスさまの弟子たちが守っていないということを問題にしたのです。

なぜそういうことが言い伝えられていたのかは、ここには書かれていませんし、よく分かりませんが、おそらく当時のユダヤ社会の常識のようなこととして考えられていたのではないかと思います。常識を破ることが非常識です。イエスさまの弟子たちは非常識呼ばわりされたのです。

その人々が守ってきた言い伝えはそれだけではありませんでした。「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」と記されています。市場に買い物に行った人は、帰ってすぐには食事ができなかったようです。身を清める必要がありました。市場は汚れた場所であるとみなされていたのです。しかし、これも衛生上の理由ではありません。彼らはファリサイ派の人々であり、律法学者です。彼らが問題にしたのは宗教的な理由です。食事の前に手を洗わなければならないことも、市場から帰ってくると身を清めなければならないことも、彼らの宗教的確信に基づく考えでした。

しかしイエスさまはその人々に反論されました。その人々をイエスさまは「偽善者」であると非常に強い言葉で非難されました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。

もちろんイエスさまは、このようにおっしゃることで、弟子たちのことをかばわれたのです。食事の前に手を洗うことが悪いということではありません。しかし、手を洗わないような人は食事をしてはいけないというほどではないとイエスさまはお考えになりました。ある意味で個人の自由の領域のことであるとみなされました。その自由を奪う形で「○○しなければならない」と決めつけること、○○しない人は食事をしてはならないと排除することを、イエスさまはお嫌いになったのです。

しかもイエスさまは、そのようなクレームをつけてくる人々を「偽善者」とお呼びになって、対決姿勢をとられました。なぜそこまでの強い態度をとられたのでしょうか。食事の前に手を洗うことも、市場から帰ってくると身を清めることも、聖書そのものの教えではなく、人間の言い伝えにすぎないものだとおっしゃりたかったからです。

その人々が問題にしたことの理由はこの個所には必ずしも明確に書かれていません。しかし、それが宗教的な理由であるとすれば、ある程度までなら想像がつきます。

手を洗うことと身を清めることとに共通している要素は、日々の食事に象徴されるふだんの生活、あるいは市場に象徴される世間の営みは汚れているという物の見方です。そういうものに近づいたり触れたりすることで人は宗教的な意味で汚れると彼らは考えたのです。だから、家に帰れば身を清めなければならない、食事の前には念入りに手を洗わなければならないという話になったのです。

しかし、イエスさまは、そのようなことは全くお考えになりませんでした。彼らの考え方はイエスさまのお考えの正反対でした。もしイエスさまが彼らと同じような考えをもっておられたとしたら、伝道は成り立ちませんでした。

汚れた霊にとりつかれた人に対し、重い皮膚病の人に対して、イエスさまがなさったことは、御自身の手でその人々の体に直接触れることでした。

見ず知らずの大勢の群衆が押し寄せてきたとき、その人々は汚れているというようなお考えをイエスさまがもしお持ちになっていたら、その場にとどまって伝道されるどころか、群衆に背を向けて逃げ出されたことでしょう。しかし、そのようなことをイエスさまはなさいませんでした。

御自身のもとに集まって来た五千人の人々に五つのパンと二匹の魚を取り分けられたときも、「まずよく手を洗ってから食べてください」ということをおっしゃいませんでした。

安息日にイエスさまの弟子たちが麦畑を通るとき、麦の穂を摘んで食べ始めたとき、「手を洗わなければ食べてはならない」とはおっしゃいませんでした。

衛生上の観点からいえば別の言い方をしなければならないのかもしれません。しかし、イエスさまにとって、食事をすることと手を洗うこととは、何がなんでも結びつけて考えなければならないほどのことではなかったのです。

そして、イエスさまにとってそれ以上に問題だったのは、我々の日常生活そのものや世間そのものを汚れたものであるとみなす、ファリサイ派の人々や律法学者の思想そのものです。「人を見れば泥棒と思え」という言葉がありますが、人を見れば不潔と思う。世間は不潔だと思う。わたしたちまでがそのような感覚を持ち始めたら危険信号です。人に近づけなくなります。

しかし、それだけならまだいいほうです。イエスさまが彼らを「偽善者」とお呼びになったのは、自分たちは汚れていないと思い込んでいる人々だったからです。世間は汚れているが、我々は汚れていない。世間の汚れがとりついたら、さっさと水で洗えば、自分たちの清さは取り戻される。本当にそうだろうかと、イエスさまはおっしゃりたかったのです。汚れの度合いは大差ないのではないか。水で洗っても落ちない汚れがあなたがたの心の中にあるのではないか、と。

今申し上げたことに関係することが次の段落に出てきます。ここでイエスさまが指摘しておられるのは律法学者の偽善性です。一方で彼らはモーセの十戒に基づいて「あなたの父母を敬え」と教えている。しかし、他方で彼らは人々にあなたの父または母に「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」といえば父母を扶養する義務が免除されると教えていたというのです。

この件は教会も気をつけなければなりません。「教会に献金します」「教会の奉仕です」といえば、家族に対する義務が免除されるわけではありません。イエスさまはそのような態度こそが偽善であると激しくお嫌いになりました。家族や家庭を大切にすることと神への熱心な奉仕とは両立させなければなりません。どちらか一方を重んじるゆえに他方を軽んじるという態度そのものが、イエスさまにとっては問題だったのです。

14節以下の段落に記されているのは、イエスさまの基本的なお考えです。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これが何の話なのかを弟子たちは理解できませんでした。それであなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」とイエスさまに呆れられました。

皆さんはお分かりでしょうか。これはトイレの話です。今年最後の礼拝でトイレの話をすることになるとは思いませんでした。イエスさまが「わたしの言うことを聞いて悟りなさい」とおっしゃっているのは言葉を濁しておられるのです。私も詳しい説明は省略します。食べたものが外に出る。出て来たものには不潔な面がある。しかし、食べものを食べること自体で人を汚すことはないということをイエスさまはおっしゃっています。

しかし、これはもちろんたとえ話です。イエスさまがおっしゃりたいことは、「人から出て来るもの」の問題です。人の心の中にあるものの汚れの問題です。わたしたちの心の中にもある罪の問題です。手を洗うことも身を清めることも大事です。しかし、それよりももっと大事なことは、私たちの心が清くなることです。心の中から出て来るものが人を汚すのです。毒舌の持ち主は気をつけましょう。私も気をつけます。

(2014年12月28日、松戸小金原教会主日礼拝)