2014年9月24日水曜日
「長い目を持つこと」と「腹をくくること」
Wikipedia「松戸市」に「千葉県北西部の市。東京都に接する。東京都特別区部への通勤率は37.3%」とあります。「東京都特別区部」とは23区のことです。今の私は「ほぼ東京」の松戸市民です。厳密に言えばもちろん東京都民ではないので「首都圏在住」という言葉をだいたい使っています。
でも、私は出身が岡山県ですし、大学・大学院時代に東京の三鷹に6年間住んだ以外は、厳密な意味での東京都内を住所地にしたことはないので、その「ハタから見た松戸と東京の比較」という感覚からですと、松戸の「ほぼ東京感」は明白だと思っています。昔からの松戸市民に叱られる発言かもしれません。
もっとも私は、松戸が「非東京」であろうと「ほぼ東京」であろうと、そのこと自体に対してなんら利害関係はないのですが(私有不動産ゼロです)、時々引っかかることがあるとしたら、東京の人の口からけっこう繰り返し「松戸のような田舎」という言葉を聞くときくらいですね。それ聞くたびに笑えます。
Wikipedia「松戸市」に「千葉県内では千葉市、船橋市に次いで居住人口3位」とも書いてますね。私自身が松戸を誇る立場にはないし、競う思いもありませんが、ほんとにただ一つ、東京の人の口から聞く「松戸のような田舎」という評価には相当偏見があるような気がしますよと言いたいだけです。
でも、どうなんでしょうね。私が教会の牧会を始めたのは1990年ですから(最初の教会は高知県でした)、あまり厳密な言い方ではないけどバブル期の最中か直後です。日本全国に「閑静な住宅街」が生まれ、「ああ、こんな整った町ができたなら、この町のこのあたりに教会があればいいな」と夢を描く人がたぶん多かった頃です。
あれからまもなく25年。あの頃生まれた「閑静な住宅街」の中の教会は、いま成長しているでしょうか。そうだといいのですが、どうでしょうか。気になるところです。「こんな整った町の、このあたりに、こんな感じの教会があるといいな」という願いとヴィジョンが、いまどうなっているか。
「教会にもいろいろあるんだから、成長しているかどうかとかそういう問いを発すること自体が間違っている」というご意見はありえますし、私にとってはなんら他人事ではないことを書いていますので、それぞれの教会がかつて描いた夢と今の現実とのギャップがもしあるとしても、非難する意図は皆無です。
ただ、そうは言ってもやはり、考えこんでしまう要素がないわけではない。今ほどの少子高齢化が訪れることを、25年前の教会はどれほど予想していたでしょうか。大都市の、鉄道の駅から徒歩10分以内の教会。こういうところは今でもある程度の規模や勢いが維持されています。しかし他はどうでしょう。
もしくは、25年前、あるいはもっと前から、「これからは自動車で教会に通う人が増える」との予想から、広い駐車スペースを確保しつつ郊外型の会堂をたてた教会もあると思いますが、そういう教会は今どうなっているでしょうか。自動車も、ある年齢を超えると運転自体が危険になりますよね。
あくまでも想像ですが、「教会で自動車を買うから、ほらほら若い人たち、運転して、高齢会員のお迎えに行きなさい」という話になっている教会も一部あるでしょうけど、「教会で自動車を買うなんて無理」「若いから運転者になれという発想が無理」「駐車場を維持できない」という話になってませんか。
いま書いていることは直接的な意味で「うちの教会」の話ではないし、どこかの教会の当てこすりでもありません。論理(ろんり)的に考えてみているだけです。我々の「人間としての習性」と教会(毎週日曜日に礼拝する場所)の地理的な位置とが非常に密接な関係にあることは、疑いの余地がないでしょう。
長い目で見れば、いえ、長い目で見なくても、やっぱり人は必ず高齢化するし、「若い人は高齢者の世話をすべきだ」と言われても限度がある。そんなことは当然分かっていなければならない話だったと思います。「大都市の、鉄道の駅から徒歩10分以内の教会」は、少子高齢化の時代でも強いと思います。
逆も然りです。はっきり書きすぎると「読むのがツライ」と言われてしまうかもしれませんが、鉄道の駅から遠く引っ込んだ位置にある「閑静な住宅地」にある教会や、自動車でないと通えない郊外型の教会は、少子高齢化の時代には、苦しい状態ではないだろうかという気がします(「気がする」だけです)。
打開策も処方箋も思いつきません。少子高齢化をどうすることもできないのは、まさか教会のせいじゃないでしょう。政府だって大臣だってどうすることもできない。牧師たちが「少子高齢化になったのは我々のせいです。申し訳ございません」と謝ればなにか解決するなら頭ぐらいいくらでも下げますけどね。
打開策でも処方箋でもありませんが、無理やりひねり出すとしたら、すべての教会は「長い目」を持つべきだ、ということです。長い目で見れば、人は必ず高齢化します。自分で自動車を運転できなくなるし、家族が自分のために運転してくれるとも、教会が自分のために運転手を確保してくれるとも限らない。
だとしたら、鉄道の駅に近いところに教会があるほうが「長い目で見ると」いい感じです。「閑静な住宅地」の教会や郊外型の教会に「撤退」を勧めているわけではありませんが(そんなことを言う立場にないというか)、そのタイプの教会は「自分たちはこれでいいのだ」と腹をくくるほうがいいと思います。
いちばん悪いのは、そもそもタイプが違う「鉄道系教会」(「駅弁教会」とか言わないでください笑)と「閑静な住宅地教会」と「郊外型教会」を一緒くたにして「あの教会はうちより大きいだ小さいだ」「あの教会のように成長しないうちの教会の問題は牧師にある役員にある」と言っては裁き合うことです。
前半の「松戸市うんぬん」の話と後半の教会の話は、別々のようでつながっている話です。
ですが、どのように話がつながっているかを説明するのが面倒になりましたので、あとはご想像にお任せすることにします。すみません。
2014年9月18日木曜日
日記「神学は難しくない」
![]() |
| 2013年6月27日・7月4日、立教大学でゲスト講義をさせていただきました |
「ふなっしー状態ですか」とか光栄なことを言われてしまったここ数日でしたが、リアルの私はいたって平静です(いやそうでもない笑)。
全く別の唐突な話ですが、「神学は難しくない」です。「神学は難しい」と言い続ける一定の層が存在するように思えますが、それはそういう神学なんだと思います。
雑な言い方をすれば、「『神学は難しい』(ので一部のマニアの間だけで勝手にやってろ)という神学命題を主張してやまない、かぎかっこつきの『神学』」ですね、それは。
よく思うんですが、今の中学・高校レベルの英数国理社(だけじゃありませんが)、めっちゃ難しいですよ。あの難しさに比べれば「神学」は単純明快です。なんで「神学」だけが度外視されにゃならんのか。
「神学が難しい」んじゃないんです。各自が幼いころから教え込まれてきた世界観教育のようなものがあまりにも不動すぎて、神学的発想に対するほとんど無意識の拒否反応を起こし続けているだけです、たぶん。
過去に教え込まれてきたものを全部消去すべきだとは思いません。ていうか、消去は不可能です。消去を求めることを「洗脳」というのでしょうけど、神学はむしろ「洗脳」を激しく拒絶します。過去の世界観教育は残るし、残っていていいし、消去する必要はないし、消去できません。
結局、混ぜるしかないんですよね。混ざるし、混ぜる。脳は「洗えない」し、そういうことせんでください。ジャブジャブ、ぷはー、さっぱりーとか、こわいから。
前世紀の終わりごろ、たしか1980年代くらいじゃなかったかと思いますが、「神学する」という言葉を用いだした人々がけっこういました。私がちょうど神学を学び始めた頃です。「神学」を名詞としてではなく動詞としてとらえる。日常生活の発想が神学的なものになる。
ナニ、別にどうってことないです。一例だけあげれば、神学的発想の根本にあるのは、創造者(神)と被造物(世界と人間)の根源的区別です。創造者は「拝まれるべき」存在ですが、被造物はいかなる意味でも「拝まれるべきでない」存在です。その区別をするだけです。
世界も人間も「拝まれるべきでない」。だけど、「拝まれるべきでない」存在は「大切にしなくてもいい」わけではない。世界と人間は大切な存在です。「拝むこと」と「大切にすること」は区別されなくてはならない。
こういうことを順を追って考えていくだけです。どってことないでしょ。
2014年9月16日火曜日
国家に対する教会の姿勢
我々は預言の結果についての研究、またセオクラシーの形態について記述された個所に見られるセオクラシーが発展していくプロセスについての研究に取り組んだ。この関連において議論されるべき第一の問題は、国民生活の統治において、そもそも教会的な統治と市民的な統治との二者がなにゆえ二者的なのかということである。
この問題については今や次のような答えが示された。第一の答えは、それはそもそも二者的であるというものである。第二の答えは、それは歴史的・終末論的行為において自己を啓示される神を通して事実として明示されている二者性であるというものである。第三の答えは、それは神の国の地上的形態という点、すなわち、キリスト教文化という点から言ってそのような二者性は存在しないと語ることのできない二者性であるというものである。
従って、たとえばヨーロッパにおける定め(lot)とは、悪い意味での宿命(noodlot)だけではなく、もっと多くの祝福に満ちた定めがある。そのことは、あらゆる問題や緊張を伴いつつではあるが、この事実上の二者性をはっきりと明示している。そして、それは、神が統合しておられるものを人間が切り離すようにと勧めたりはしない。なにゆえ神が二者の関係を明示されかつ統合されたのか、また、いかにしてこれら二者が神の最も深い御意志によって切り離しがたく結び合わされているのかという理由を、われわれは知っている。われわれが知っていることを一言で述べるならば、それは、教会と国家とのこの二者性のうちに、世界の主なる方の救いがかかっている、ということである。
このことは、セオクラシーの形態についての記述に関して議論がなされるべきもう一つの問題群を扱うことへと、われわれを備えさせる。すなわち、国家に対する教会の姿勢、教会に対する国家の姿勢、中間領域における教会と国家との関係という三つの問題である。なにゆえ教会と国家との間には二重性があるのか、という問いに対する答えの中で見出された視点こそが、我々がこれら三つの問題のために探し求めてきた答えの決着である。
最初の問題は、国家に対する教会の姿勢である。わたしはこの姿勢を以下の三つの言葉で表現したいと願っている。すなわち、とりなし(voorbede)、仲裁(voorspraak)、助言(voorlichting)である。教会は、政府に代わって、神にとりなす。教会は、政府のために、国民との仲裁をする。教会は、政府に対し、神の言葉に基づいて助言を与えるのである。 従って、国家に対する教会の姿勢には、仕える・奉仕するという姿勢がある。教会は、国家のために存在する。そのことは、これら三つの教会活動からしてきわめて明白である。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Religie en Politiek, G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1945, p. 321.
この問題については今や次のような答えが示された。第一の答えは、それはそもそも二者的であるというものである。第二の答えは、それは歴史的・終末論的行為において自己を啓示される神を通して事実として明示されている二者性であるというものである。第三の答えは、それは神の国の地上的形態という点、すなわち、キリスト教文化という点から言ってそのような二者性は存在しないと語ることのできない二者性であるというものである。
従って、たとえばヨーロッパにおける定め(lot)とは、悪い意味での宿命(noodlot)だけではなく、もっと多くの祝福に満ちた定めがある。そのことは、あらゆる問題や緊張を伴いつつではあるが、この事実上の二者性をはっきりと明示している。そして、それは、神が統合しておられるものを人間が切り離すようにと勧めたりはしない。なにゆえ神が二者の関係を明示されかつ統合されたのか、また、いかにしてこれら二者が神の最も深い御意志によって切り離しがたく結び合わされているのかという理由を、われわれは知っている。われわれが知っていることを一言で述べるならば、それは、教会と国家とのこの二者性のうちに、世界の主なる方の救いがかかっている、ということである。
このことは、セオクラシーの形態についての記述に関して議論がなされるべきもう一つの問題群を扱うことへと、われわれを備えさせる。すなわち、国家に対する教会の姿勢、教会に対する国家の姿勢、中間領域における教会と国家との関係という三つの問題である。なにゆえ教会と国家との間には二重性があるのか、という問いに対する答えの中で見出された視点こそが、我々がこれら三つの問題のために探し求めてきた答えの決着である。
最初の問題は、国家に対する教会の姿勢である。わたしはこの姿勢を以下の三つの言葉で表現したいと願っている。すなわち、とりなし(voorbede)、仲裁(voorspraak)、助言(voorlichting)である。教会は、政府に代わって、神にとりなす。教会は、政府のために、国民との仲裁をする。教会は、政府に対し、神の言葉に基づいて助言を与えるのである。 従って、国家に対する教会の姿勢には、仕える・奉仕するという姿勢がある。教会は、国家のために存在する。そのことは、これら三つの教会活動からしてきわめて明白である。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Religie en Politiek, G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1945, p. 321.
神学が照らし出す人間と学問の関係(1962年/1968年)
神学のポピュラーな性格
神学という学問(theologische wetenschap)は、最も古い学問の一つであるばかりでなく、最もポピュラーな学問の一つでもある。この場合の「ポピュラー」の意味は、一般の人にも役立つとか興味深いということにとどまらない。一般の人が傑出した高みに至るまで自分自身でよく考えることが可能であるし、理解することが可能であるということでもある。
「教職」と「信徒」の間には、おそらく違いがある。しかし、その違いは職務に就いたかどうかに関係しうるだけである。この違いを本質的に神学に関係づけることはできない。神学には、原則としてだれでも参加し、意見を述べることが許されている。いずれにせよ、「信徒」という語の意味は、「神学者」という語と対比されている場合と「教会役員」という語と対比されている場合とで全く異なる。前者の場合に重要なことは訓練と専門知識であるが、後者の場合に重要なことは任職と全権委任である。
ともかく、それを担うのが神学者ではない教会役員の職務(長老と執事)も存在するのであり、長老と執事なしには、これら教会職制の十分な職務性も、この教会役員に属する「教職」も、用済みになってしまう。長老や執事は御言の奉仕者よりも劣っているとか、その人々は御言の奉仕者とは原理的に異なる意味での教会役員であるというようなことは全くありえない。
この命題は、教会規程上の長老主義的会議制における多くの栄えある側面の一つである。それは――全世界の教会において――この〔長老主義〕制度の中でのみ見出されるものである。長老主義は、「専門家神学」(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえ教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止する。「御言葉の奉仕者の神学」(theologie van de dienaren van het Woord)は長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守る。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴である。神学は、それ自体においていとも簡単に非人間的なものになり果てるものであり、それによってとくに教会にとって致命的なものさえ手に入れることになる。
もちろん、たしかに神学者と信仰者の間には違いがある。しかし、それは本質的な違いではなく、程度の違いに過ぎない。教会役員と神の民との違いの背後には、(キリストにおける)神と(罪人としての)人間との「対立」が潜んでいる。だが、それと同じような仕方での「対立」をもたらすような区別が、神学者と信仰者との間にあるわけではない。その区別は習熟と能力を意味するだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。たしかに、教会役員会と教会員の区別においても、教会員の側から「参加して意見を述べること」がある。しかしそれは、神学者に対して信仰者が(場合によっては未信者が)参加して意見を述べることとは全く異なる次元があることを示している。前者は最も深いところで神において、神と共に、神と対立しながら、神と人間が語り合うことである。しかし、後者は人間同士の語り合いである。
神学の方法は一つではない。いろんな言葉を伴い、明確な神的承認を保持し、与えるものである。神学は人間的な学問である。その中で学者が機会を得ることは特になく、むしろ、昔の祭司とかまじない師が位置を占めているような学問でさえある。それはちょうど、特にわれわれの時代の多くの他の諸学に、そのようなケースがわりとあるのと同じである。神学はそれ自体に独特のデモクラティックな特徴をなす傾向を持っている。神学が取り組んでいる基本的な諸問題はいかなる人間でも自分自身のために判断することができ、判断することが許され、判断しなければならないものである、という前提から、神学は出発するのである。
神学は信仰告白のこの面の上に立つものである!啓示が生起する。神の御言が人間へと到来する。御言の告知が執り行われる。御言が人間の心と人間の生命との中で共鳴する。信仰の告白と讃美とが生まれる。人間は信仰告白と讃美において自分自身と固有のアイデンティティを見出す。これが救いであり、永遠の命である。このことについて――すなわち、宣べ伝えられるべき御言(!)だけではなく、わがものになった御言(!)についても――神学は、学的反省において熟考する。われわれはどうしたら、そのようなものであるところの神学の中から固有なもの―― 真理と救いをわがものにすること――を放逐し、あるいは拒絶し、全く閉め出してしまうことができるのだろうか。そんなことができるわけがない。
もちろん、神学の基本的な諸問題は、とくにわれわれが「組織神学」(systematische theologie)と呼び慣らしてきた分野において取り組まれる。この「組織神学」という名称は、いくらか曖昧なもので、少なくとも恣意的な語である。しかし、この組織神学という分野は、まさに「神学のすべて」(helemaal theologie)でもある。聖書神学、あるいは教会史や宗教史の神学は――自己責任において――文学部に委ねることもできるであろう。ところが、以下のことが起こった途端、ひとは、おのずから文学部を飛び出して、やはり別個に独立した神学部を持たなければならなくなる。
第一に、真理についての問いが起こり、「人間がかつてどこかで保持していたし、保持している真理とは何か」という問いではもはやなくなり、むしろ「真理とは何か」という問い、換言すれば「われわれが今ここで保っている真理とは何か」という問いが生じるや否や。
第二に、この問いが根底に至るまで(tot op de grond) (これは「神に至るまで」(tot op God)という表現と共に流行している言葉である)真剣であることを保留することも自制することももはやできなくするや否や。
加えて第三に、すべての現実はその存在の現実だけではなく、その救いの現実でもあるということ、そしてとりわけ、イスラエルの現実、キリストの現実、そして教会の現実に心を惹かれるや否や。
旧来の高等教育法の下で規制されていた立場と新しい科学教育法の下に規制されている立場とを異なるものとみなすとき――哲学は、それ自体の中で近年起こった一連の事態の必然性に気づかせてくれる。哲学は文学部から分離され、独立した「総合大学に包括される全学部の中心(!!)に立つ共通学部」になった。この共通学部の編制に際して、実際の哲学は教義学のようなものとして存在すると――驚くべき自明性をもって――考えた人は、誰もいなかった。そのことは、いずれにせよ同様の仕方で、彼らが頭脳に関する狭量な体系において一般教養カリキュラムを編成しているのを見るにつけ、明白である。
しかし我々は、これらすべてのことに触れないままにしておくことができる。これらの問いは、「そもそも神学部は、本質的に見て、中心的な共通学部的な分野ではないのだろうか、あるいはそのようになってはならない分野なのだろうか」という問いと同様、われわれを哲学と神学との関係の問題という迷路の中へと導いていくであろう。オランダ政府は、神学部の立場を明確にしないままに中心的な共通学部へと昇格した哲学によって実際に単純に難問が解決できるのだと主張しているだけである。この一連の事態には我慢ならないものがある。倫理学が依然として神学部の中に留まっているのは奇妙なことである。ヒューマニストたちは、このことに、徐々に異議を唱え始めるべきである。
いずれにせよ、神学部は――おそらく慣性の法則に従い(あるいは国会で喧嘩するという事態をおそれ)、多くの妥協と曖昧さの相の下で――依然として常に存在する。神学部が取り扱う問題は、信仰者であれ未信者であれ、だれにでも関係がある。それは、神学が「哲学はどのような問題を取り扱うのか」という問いに関わる場合があるように、神学の問いと哲学の問いとの両種の間にはすでに、本質的な違いがあるのである。
ここでさらに神学は、人間が、ことさらに組織神学の問題だけに関係づけられているわけではないということに気づかされる。たとえば、非神学者(niet-theoloog)である一人の人間は、聖書学部門にも関与することができるし、関与しなければならない。文献的に聖書を解読すること以上、あるいは黙想的に聖書を読むこと以上である「聖書研究」(schrift-studie)は、いかなるキリスト者も、とりわけいかなる改革主義的なキリスト者も、それへと招かれ、促されている、高度な文化価値の一つの注目すべき現象である。
彼はなぜ伝統の研究、従って教会史と教理史の研究にも関与すべきではないのだろうかということには触れないでおく。それらは常に、人類の歴史において聖書が成就してきたことすべてについての研究であり、それゆえ同様に――それによって聖書と伝統との関係のさらなる明確な規定についてはなおそれほど多くは語られていない――聖書そのものが持つ救済的意義についての研究である。
私見によると、神学の新しい分野(宗教史や宗教現象学)は、自分自身をある程度尊重しているいかなる人間であっても、その中で自分自身を特別にすすんで掘り下げる全く新しい世界を開示した。たとえば、われわれの時代のだれが、仏教に興味を持っていないだろうか。
ところが、非神学者は、神学的作業の一つないし多くの領域において、権威を持っているだろうか。それとも、この分野の人間である神学者だけが、権威を持っているのだろうか。彼は本当に権威を持っているのだろうか。学問(wetenschap)は、いつどこで、権威をもって、真の権威をもって語られたことがあるだろうか。われわれは今、「変則的な神学者」(irreguliere theologen)の問題、すなわちその人の並外れた才能と専門的熟練に到達する努力によって、専門的神学者よりも意義において相当勝っている非神学者の問題は考慮しないでおく。この問題はすでに含まれているが、十分に論じることは難しい。彼らは、聖書を囲む多数の人々を説得する力を持っている。
学問的釈義は、聖書を神の御言として開示すべきだろうか(あるいは、開示できるだろうか)。そのようにして、非神学者が教会的職務的権威の位置に来るのだろうか。非神学者が信仰者を統治するのだろうか。それとも彼は、最大限で夫役を務めるのだろうか。また信仰者は、神がその御言においてお語りになっていることは何かを決定する力量があるほどに、成熟しているだろうか。それとも、学問的釈義と敬虔な神の子との両者が(しかし、いずれにせよ職務的指導と職務的会議は必要であるが)、それ自体で明白な聖書の祝福に満ちた権威を体験するために必要だろうか。ともかくひとは、この関連で、(御言による、あるいは心の中での)聖霊の証言に基づく指示をもって事足れりとすることはできない。それは殺し文句になりかねない。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk Deel 1, Uitgeverij G. F. Callenbach N. V., Nijkerk, 1969, p. 9-45.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 115-148.
神学という学問(theologische wetenschap)は、最も古い学問の一つであるばかりでなく、最もポピュラーな学問の一つでもある。この場合の「ポピュラー」の意味は、一般の人にも役立つとか興味深いということにとどまらない。一般の人が傑出した高みに至るまで自分自身でよく考えることが可能であるし、理解することが可能であるということでもある。
「教職」と「信徒」の間には、おそらく違いがある。しかし、その違いは職務に就いたかどうかに関係しうるだけである。この違いを本質的に神学に関係づけることはできない。神学には、原則としてだれでも参加し、意見を述べることが許されている。いずれにせよ、「信徒」という語の意味は、「神学者」という語と対比されている場合と「教会役員」という語と対比されている場合とで全く異なる。前者の場合に重要なことは訓練と専門知識であるが、後者の場合に重要なことは任職と全権委任である。
ともかく、それを担うのが神学者ではない教会役員の職務(長老と執事)も存在するのであり、長老と執事なしには、これら教会職制の十分な職務性も、この教会役員に属する「教職」も、用済みになってしまう。長老や執事は御言の奉仕者よりも劣っているとか、その人々は御言の奉仕者とは原理的に異なる意味での教会役員であるというようなことは全くありえない。
この命題は、教会規程上の長老主義的会議制における多くの栄えある側面の一つである。それは――全世界の教会において――この〔長老主義〕制度の中でのみ見出されるものである。長老主義は、「専門家神学」(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえ教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止する。「御言葉の奉仕者の神学」(theologie van de dienaren van het Woord)は長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守る。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴である。神学は、それ自体においていとも簡単に非人間的なものになり果てるものであり、それによってとくに教会にとって致命的なものさえ手に入れることになる。
もちろん、たしかに神学者と信仰者の間には違いがある。しかし、それは本質的な違いではなく、程度の違いに過ぎない。教会役員と神の民との違いの背後には、(キリストにおける)神と(罪人としての)人間との「対立」が潜んでいる。だが、それと同じような仕方での「対立」をもたらすような区別が、神学者と信仰者との間にあるわけではない。その区別は習熟と能力を意味するだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。たしかに、教会役員会と教会員の区別においても、教会員の側から「参加して意見を述べること」がある。しかしそれは、神学者に対して信仰者が(場合によっては未信者が)参加して意見を述べることとは全く異なる次元があることを示している。前者は最も深いところで神において、神と共に、神と対立しながら、神と人間が語り合うことである。しかし、後者は人間同士の語り合いである。
神学の方法は一つではない。いろんな言葉を伴い、明確な神的承認を保持し、与えるものである。神学は人間的な学問である。その中で学者が機会を得ることは特になく、むしろ、昔の祭司とかまじない師が位置を占めているような学問でさえある。それはちょうど、特にわれわれの時代の多くの他の諸学に、そのようなケースがわりとあるのと同じである。神学はそれ自体に独特のデモクラティックな特徴をなす傾向を持っている。神学が取り組んでいる基本的な諸問題はいかなる人間でも自分自身のために判断することができ、判断することが許され、判断しなければならないものである、という前提から、神学は出発するのである。
神学は信仰告白のこの面の上に立つものである!啓示が生起する。神の御言が人間へと到来する。御言の告知が執り行われる。御言が人間の心と人間の生命との中で共鳴する。信仰の告白と讃美とが生まれる。人間は信仰告白と讃美において自分自身と固有のアイデンティティを見出す。これが救いであり、永遠の命である。このことについて――すなわち、宣べ伝えられるべき御言(!)だけではなく、わがものになった御言(!)についても――神学は、学的反省において熟考する。われわれはどうしたら、そのようなものであるところの神学の中から固有なもの―― 真理と救いをわがものにすること――を放逐し、あるいは拒絶し、全く閉め出してしまうことができるのだろうか。そんなことができるわけがない。
もちろん、神学の基本的な諸問題は、とくにわれわれが「組織神学」(systematische theologie)と呼び慣らしてきた分野において取り組まれる。この「組織神学」という名称は、いくらか曖昧なもので、少なくとも恣意的な語である。しかし、この組織神学という分野は、まさに「神学のすべて」(helemaal theologie)でもある。聖書神学、あるいは教会史や宗教史の神学は――自己責任において――文学部に委ねることもできるであろう。ところが、以下のことが起こった途端、ひとは、おのずから文学部を飛び出して、やはり別個に独立した神学部を持たなければならなくなる。
第一に、真理についての問いが起こり、「人間がかつてどこかで保持していたし、保持している真理とは何か」という問いではもはやなくなり、むしろ「真理とは何か」という問い、換言すれば「われわれが今ここで保っている真理とは何か」という問いが生じるや否や。
第二に、この問いが根底に至るまで(tot op de grond) (これは「神に至るまで」(tot op God)という表現と共に流行している言葉である)真剣であることを保留することも自制することももはやできなくするや否や。
加えて第三に、すべての現実はその存在の現実だけではなく、その救いの現実でもあるということ、そしてとりわけ、イスラエルの現実、キリストの現実、そして教会の現実に心を惹かれるや否や。
旧来の高等教育法の下で規制されていた立場と新しい科学教育法の下に規制されている立場とを異なるものとみなすとき――哲学は、それ自体の中で近年起こった一連の事態の必然性に気づかせてくれる。哲学は文学部から分離され、独立した「総合大学に包括される全学部の中心(!!)に立つ共通学部」になった。この共通学部の編制に際して、実際の哲学は教義学のようなものとして存在すると――驚くべき自明性をもって――考えた人は、誰もいなかった。そのことは、いずれにせよ同様の仕方で、彼らが頭脳に関する狭量な体系において一般教養カリキュラムを編成しているのを見るにつけ、明白である。
しかし我々は、これらすべてのことに触れないままにしておくことができる。これらの問いは、「そもそも神学部は、本質的に見て、中心的な共通学部的な分野ではないのだろうか、あるいはそのようになってはならない分野なのだろうか」という問いと同様、われわれを哲学と神学との関係の問題という迷路の中へと導いていくであろう。オランダ政府は、神学部の立場を明確にしないままに中心的な共通学部へと昇格した哲学によって実際に単純に難問が解決できるのだと主張しているだけである。この一連の事態には我慢ならないものがある。倫理学が依然として神学部の中に留まっているのは奇妙なことである。ヒューマニストたちは、このことに、徐々に異議を唱え始めるべきである。
いずれにせよ、神学部は――おそらく慣性の法則に従い(あるいは国会で喧嘩するという事態をおそれ)、多くの妥協と曖昧さの相の下で――依然として常に存在する。神学部が取り扱う問題は、信仰者であれ未信者であれ、だれにでも関係がある。それは、神学が「哲学はどのような問題を取り扱うのか」という問いに関わる場合があるように、神学の問いと哲学の問いとの両種の間にはすでに、本質的な違いがあるのである。
ここでさらに神学は、人間が、ことさらに組織神学の問題だけに関係づけられているわけではないということに気づかされる。たとえば、非神学者(niet-theoloog)である一人の人間は、聖書学部門にも関与することができるし、関与しなければならない。文献的に聖書を解読すること以上、あるいは黙想的に聖書を読むこと以上である「聖書研究」(schrift-studie)は、いかなるキリスト者も、とりわけいかなる改革主義的なキリスト者も、それへと招かれ、促されている、高度な文化価値の一つの注目すべき現象である。
彼はなぜ伝統の研究、従って教会史と教理史の研究にも関与すべきではないのだろうかということには触れないでおく。それらは常に、人類の歴史において聖書が成就してきたことすべてについての研究であり、それゆえ同様に――それによって聖書と伝統との関係のさらなる明確な規定についてはなおそれほど多くは語られていない――聖書そのものが持つ救済的意義についての研究である。
私見によると、神学の新しい分野(宗教史や宗教現象学)は、自分自身をある程度尊重しているいかなる人間であっても、その中で自分自身を特別にすすんで掘り下げる全く新しい世界を開示した。たとえば、われわれの時代のだれが、仏教に興味を持っていないだろうか。
ところが、非神学者は、神学的作業の一つないし多くの領域において、権威を持っているだろうか。それとも、この分野の人間である神学者だけが、権威を持っているのだろうか。彼は本当に権威を持っているのだろうか。学問(wetenschap)は、いつどこで、権威をもって、真の権威をもって語られたことがあるだろうか。われわれは今、「変則的な神学者」(irreguliere theologen)の問題、すなわちその人の並外れた才能と専門的熟練に到達する努力によって、専門的神学者よりも意義において相当勝っている非神学者の問題は考慮しないでおく。この問題はすでに含まれているが、十分に論じることは難しい。彼らは、聖書を囲む多数の人々を説得する力を持っている。
学問的釈義は、聖書を神の御言として開示すべきだろうか(あるいは、開示できるだろうか)。そのようにして、非神学者が教会的職務的権威の位置に来るのだろうか。非神学者が信仰者を統治するのだろうか。それとも彼は、最大限で夫役を務めるのだろうか。また信仰者は、神がその御言においてお語りになっていることは何かを決定する力量があるほどに、成熟しているだろうか。それとも、学問的釈義と敬虔な神の子との両者が(しかし、いずれにせよ職務的指導と職務的会議は必要であるが)、それ自体で明白な聖書の祝福に満ちた権威を体験するために必要だろうか。ともかくひとは、この関連で、(御言による、あるいは心の中での)聖霊の証言に基づく指示をもって事足れりとすることはできない。それは殺し文句になりかねない。
(続く)
【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk Deel 1, Uitgeverij G. F. Callenbach N. V., Nijkerk, 1969, p. 9-45.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 115-148.
2014年9月14日日曜日
新しいぶどう酒は新しい革袋に入れます
| 日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
PDF版はここをクリックしてください
マルコによる福音書2・13~22
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが集税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。』だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎ当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」(13節)と記されています。「湖」とはガリラヤ湖のことです。「再び」とありますのは、以前にもイエスさまはガリラヤ湖のほとりに行かれたからです。イエスさまがシモンと兄弟アンデレ、ヤコブと兄弟ヨハネを最初の弟子にしてくださったときです。
しかし、今回は二回目であるという意味ではありません。イエスさまはガリラヤ湖のほとりに頻繁に行かれました。このときも「また」行かれました。それが「再び」の意味です。
そのたびに群衆がイエスさまのそばに集まって来ました。イエスさまはそのたびに説教されました。しかし、曜日と集合場所を決めて定期的に行うような集まりではなかったと思われます。イエスさまとしては、とくに予定なく、ぶらっと行かれる。そこに多くの人が集まってくる。なんとなく集会が始まる。それが一種の野外礼拝のようなものになっていく。そんな感じです。
イエスさまがお出かけになったのはシモンの家からです。カファルナウムでイエスさまはシモンの家で生活なさいました。安息日にはカファルナウムの会堂で説教なさいました。そして、安息日以外の日は、いろんなところに行かれました。
ガリラヤ湖まで行く途中に「集税所」と呼ばれる場所がありました。アルファイの子レビが座っていました。集税所とは税金を集める場所です。レビは税金を集める徴税人でした。
そのレビにイエスさまは「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。レビは立ち上がってイエスさまに従いました。こうしてマルコによる福音書によれば5人目のイエスさまの弟子に、レビがなりました。
このレビは「マタイ」とも呼ばれる人でした(3・18)。弟子の数が12人になりました。弟子たちにイエスさまは「使徒」という職名をお与えになりました(3・14)。しかし、今日はまだその話まで進んでいく途中です。徴税人のレビが5人目の弟子になったところまでです。
その後レビは、イエスさまと弟子たちを自分の家にお迎えし、食事の席を設けました。そこには、大勢のお客さんがいました。その中に「多くの徴税人や罪人」(15節)がいました。それを見た人たちの中に、不愉快な思いを抱いた人がいたというのです。
それはファリサイ派の律法学者でした。なぜ嫌な気持ちになったのでしょうか。それはわたしたちも理解できることです。
「罪人」というのは、その国の法律やルールを破って刑罰を受けたことがある人のことです。収監されていない状態ではあったようです。しかし、そういう人が社会復帰するのは簡単なことではありません。偏見や差別の目で見られる、そのように扱われる。仕方がないとかそれでいいという意味で言っているのではありませんが、時間が必要であることはたしかです。
しかし、「徴税人」と一緒に食事をすることが、なぜ咎められなければならなかったのでしょうか。それは、当時の政治状況と関係しています。
ユダヤ王国はローマ帝国の属国でした。レビを含む徴税人が集める税金は、ローマ帝国に上納するためのものでした。ローマ帝国のための税金を集める徴税人たちは自分の国を売っているようなものだ。しかも徴税人たちは、ユダヤ人たちから集めた税金の中から自分たちの利益を得ている。それがユダヤ人たちから徴税人たちが嫌われた理由です。
ところが、その「罪人」や「徴税人」とイエスが一緒に食事をしている。それはいったいどういうことなのか。イエスはユダヤ人たちが忌み嫌う人々の味方であるということは、ユダヤ人の敵であるということなのか。そのような不快感を抱いた人がいたのです。
しかし、イエスさまは全く動じられないで毅然とした態度をおとりになりました。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(17節)。
ここでわたしたちが考えるべきことは、イエスさまにとって「伝道」とは何なのかということです。イエスさまはどういう人たちに伝道したいと願っておられたのでしょうか。
「罪人」の反対は義人、善人です。法律やルールを守る人、聖書の戒めや掟を守る人が義人であり、善人です。そういう人たちに集まってもらいたい。社会の中で尊敬されている人や、その正しさが多くの人に認められている人。そういう人たちに集まってもらえば、我々も安心できるし、対外的な信頼を得られる。
しかし、罪人とか、人から嫌われている人とか、そういう人には来てもらいたくない。そういう人が来ると、我々が巻き込まれる。我々のことまで外の人から偏見や差別を受ける。
イエスさまの「伝道」は、こういう考え方の正反対だったということです。
ここで次の段落に進みます。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』」(18節)。
「断食」は宗教的な行為です。聖書的な根拠もあります。断食をすること自体が間違っているわけではありません。しかし、イエスさまは断食することを弟子にお命じになりませんでした。いつ何を食べることも飲むことも自由でした。食事に関して、宗教的タブーを設けられませんでした。
そして、「断食」はやはり宗教的な意味での禁欲を意味しています。逆に「断食しないこと」は禁欲の反対の意味になります。享楽や快楽を禁じないことです。積極的な意味で享楽主義、快楽主義まで言う必要はありませんが、人生にそういう要素があることを否定しないでむしろ受け容れることです。
そういうイエスさまと弟子たちの姿が、ある人々からすれば不真面目に見えたようです。禁欲しない人間は宗教家の風上にも置けない。神を信じる人は禁欲的に真面目に生きるべきだ。しかしイエスとその弟子はそうではない。そのような拒絶反応が起こったのです。
しかし、イエスさまは、ここでも毅然とした態度をおとりになりました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(19節)。
ここで「花婿」とはイエスさま御自身のことです。だからこそ花婿が奪い去られる話にもなります。それはイエスさまの十字架上の死を意味しています。しかし今はまだそのときではない。今は結婚式の最中だとおっしゃったのです。
お祝いの席で禁欲するほど愚かなことはない。断食すること、禁欲すること自体が間違いであるわけではないが、それは結婚式が終わってからすればいいという意味になります。
神の御子なる救い主が、今ここにいる。世界が今まさに救われようとしている。今は喜びの時代である。結婚式の主催者でもある花婿が「喜んで食べてください、飲んでください」と言っているのだから、そんな場所で禁欲などしなくてもよい。
イエスさまは、ファリサイ派の律法学者、あるいはユダヤ教の祭司たちが、国民に対していろいろ設けている宗教タブーに対して、それは違うのではないかとおっしゃりたかったのだと思います。
食事の内容に至るまで宗教的タブーがあれば、何かを食べたり飲んだりするたびに人々は律法学者や祭司たちに質問に来るでしょう。国民生活のありとあらゆること、細部に至るまでのすべてを宗教家たちが支配できることになります。しかし、それは非常に窮屈で不自由な世界です。イエスさまはそのことを問題にされたのです。
ですから、ここでもわたしたちが考えるべきことは、イエスさまにとって「伝道」とは何かということです。これはわたしたちの問題として考えれば分かることです。
わたしたちは毎日の生活の中で、これは食べていいか、これはだめかといちいち考えたりしません。心配になるたびに、教会や牧師にいちいち問い合わせしたりしません。私はみなさんから、そういう電話を受けたことがありません。かけてこないでください。一切は自由です。イエスさまが新しい生き方を教えてくださいました。
しかしまた、そのような新しい自由な生き方を選びとることは、過去の古い生き方、戒律ずくめで不自由な生き方を捨てることでもあります。「過去の」と言いましたが、その古い戒律ずくめの生き方をずっと昔から守り続けて来た人たちとの関係はどうなるのかということが必ず問題になります。
その問題の答えをイエスさまは、はっきり示されました。それが21節以下に書かれていることです。
「だれも、織り立ての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(21~22節)。
このイエスさまの御言葉の意味がお分かりでしょうか。厳しい言葉です。古い戒律ずくめの生き方を守りたい人たちと、新しい自由な生き方を選びとる人たちが、無理に折り合いを付けて一緒にいることは難しい、ということです。そういうことをすれば全体が壊れてしまう。全体を壊さないために、別々の道を行きましょう、とおっしゃっているのです。
イエスさまは安息日には会堂に行かれましたが、ふだんは町のどこでも行き、そこで集会が始まる。それは場所や建物に縛られることからの自由を意味します。ユダヤ人たちから嫌われている徴税人や罪人たちに伝道する。古い戒律で人を縛り、禁欲的な断食をするようなことはもはやしない。新しい自由な生き方を選びとる人たちと共に新しい共同体を作る。そのように宣言しておられるのです。
(2014年9月14日、松戸小金原教会主日礼拝)
2014年9月9日火曜日
「バルト以降の神学者」はバルトよりスケールが小さいか
「バルト以降の神学者」と呼ばれるモルトマン、パネンベルク、ユンゲルは、バルトに比べるとスケールが小さいのだろうか(大意)という問いかけをいただきました。以下は私なりの答えです。
----------------------------------------
「バルト以降は『これ』という神学がない」(大意)とモルトマンも1957年(31歳)まで感じていたと明言しています。なので、若いうちは安心してバルト温泉を堪能できます。じっくり味わった人だけが次のステージに進めると思います。
モルトマンの当該発言:
「私は、カール・バルトの『教会教義学』を勉強して以来、その後ずっと、バルト以後はもはや新しい体系的な神学はありえまい、という印象をもっておりました。ちょうどかつて、ヘーゲル以後はもはや哲学はありえないと考えられたように、バルトはすべてを言いつくしてしまったように思えたのです。しかしながら、1957年、オランダの伝道の神学者アーノルト・A. ファン・ルーラーは、私をそうした誤解から解放してくれました。」
(モルトマン『十字架と革命』大庭健訳、新教出版社、1974年、5ページ。)
私は、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルがバルトよりスケールが小さいとは思いません。
バルトはゲッティンゲン大学神学部「改革派神学講座」の初代教授です。二代目はオットー・ヴェーバーで、三代目はハンス・ヨアヒム・クラウスです。モルトマンはゲッティンゲン大学で二代目ヴェーバーから教義学を学びました。
へんな話、どの世界でも「初代」というのは歴史的な意味を持つわけです。二代目以降は、初代の働きを継承する役目をどうしても負わされます。ある意味で初代よりも実力が勝っていなければ「継承」はできないと思うのですが、初代を越え出ることを控えるのを求められたりもして。
加えて『カルヴァンの神学』の著者ヴィルヘルム・ニーゼルが、実際には短期間だったゲッティンゲン大学教授時代のバルトの学生でした。ニーゼルは、バルトがスイスに帰国したあとドイツ告白教会やドイツ国内の改革派教会の強力な指導者でした。そりゃバルトを持ち上げるに決まってます。
そのようにして神学論壇的にはバルトの後継者オットー・ヴェーバーやハンス・ヨアヒム・クラウス、また教会政治的にはバルトの学生ヴィルヘルム・ニーゼルらがドイツの神学と教会をがっちり固めている中で、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルらはバルトを超える新しい道を探ったわけです。
モルトマン、パネンベルク、ユンゲルら世代の神学教授は必死だったと思います。バルトのままでいいなら彼ら自身が新しい教科書を書く必要はなく、バルトの著作のコピーでも配って解説すればいいだけですが、場合によってはそういうことを真顔で求める学生がいたとも限りません。
しかし、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルからすれば、バルトの神学でいいわけありません。バルト(1886年生まれ)との年齢差は、モルトマン(1926年生まれ)40才、パネンベルク(1928年生まれ)42才、ユンゲル(1934年生まれ)48才です。ほぼ半世紀差です。
しかも、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルがドイツの神学部の第一線で活躍するようになったのは1960年代です。日本の60年安保だとか全共闘だとかの頃。ドイツの神学部も荒れまくっていたようです。デモクラシーの政教分離原則と国立大学神学部の両立は難しいですからね。
そんな感じでしたから、モルトマン、パネンベルク、ユンゲルらの世代の神学的課題は、バルトやボンヘッファーのような「デモーニッシュな国家を倒す」というテーマよりも、むしろ「国家のかけらをカオスの中から拾い出して再建する」というテーマでなければならなかったはずです。
しかし、「国家のかけらをカオスの中から拾い出して再建する」というのは私なりの表現ですが、このテーマに「神学」が取り組むとはどういうことか。それが、モルトマンなら「希望の神学」、パネンベルクなら「歴史の神学」、ユンゲルなら実存論的神学のようなものになったといえます。
彼らの営みを最も単純化して言うとしたら、現在の欧米や日本の大学で「これがサイエンスだ」とされている認識や価値観を「イエス・キリストの名のもとに」全否定せず、むしろ重んじること。哲学、歴史学、政治学、数学、医学、物理学等と神学のポジティヴな関係を探ること、です。
1946年であればまだ「世界の創造者はイエス・キリストですからね!」とバルトがボン大学の教室で笑顔で講義しても感動の涙を誘うことができたかもしれませんが、1960年代のドイツで同じことを言う教授がいたら、「この非科学的教員を徹底糾弾する」とつるし上げられたでしょう。
1970年代になれば「アポロが月に行く時代に神だ宗教だ言ってやがる連中が国立大学の中にいる」呼ばわりです。そういう周囲の目を恐れて迎合したのが「神の死の神学」でしょう。「神は死んだ。だから我々はもはや神なしで生きられるよう成熟しなくてはならない」と神学者が率先して言う。
そういうことを言い出すヨーロッパの国立大学神学部教授やアメリカの著名神学部・神学校教授の言説を嫌がり、「正統的な神学」を求めた神学者たちは、少数精鋭の小規模教団の小規模神学校に拠点を移したりしましたが、それはそれで先細りの一途をたどることにもなったように思います。
そろそろまとめます。バルト以降に「これ」という組織神学がない理由は、第二次大戦後の欧米の伝統大学神学部が衰退したからです。聖書学、キリスト教学、キリスト教史学なら大学のサイエンスだが、組織神学はサイエンスにあらず。文科省を持つ国では特にそうだったと思います。
全体的な衰退過程の中で(それは今も続いている)モルトマン、パネンベルク、ユンゲルの世代の神学は、バルトと比べて「分かりにくく」なったはずです。加速度的に乖離していく「教会の常識」と「社会の常識」のどちらにとっても中途半端で、風見鶏のように見えるものかもしれません。
「教会の常識」か「社会の常識」かのどちらか一方に立ち、一方から他方を全否定する言説は時と場合によっては聴く者に強烈な快感を与えるものとなります。どっちつかずの曖昧な言説は、唾棄されるか無視される。しかし、それこそが我々にとっての最凶・最悪の罠なのだと私は思います。
「組織神学」にせよ「教義学」にせよもともと地味なサイエンスです。バーフィンクが『改革派教義学』の序文(1895年)に「教義学は今日重んじられていない。キリスト教の教えは時代に疎んじられている。時おり感じることは(中略)見捨てられた寂しさと孤独感である」と書いています。
バルトの世界的ヒットで「組織神学」が突如好景気になりましたが、一種のバブルです。「組織神学バブル」です。しかし18世紀以降は、基本的にほぼずっと底辺進行で来たサイエンスだったと言ってよいと思います。
なので、現代の組織神学に「これ」は必要ない。これが私の結論です。
2014年9月8日月曜日
考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ
前に同じことを書いた気がするが、別に構うまい。私は昔から全集とか著作集とか「セットもの」を集めてきた。文庫や新書も番号順に並べたりする。番号を揃えるためだけに、あまり興味ない本でも買う。学生寮の同室者から「きみはセットものが好きなんだね」と笑われたことを30年くらい忘れられない。
学生時代の私はなぜ「セットもの」を集めたいと思うのかを説明できなかった。でも今は少し違う。全集や著作集が出ている著者の本は、全集や著作集として「も」買うべきだと思う。全集や著作集にはやはり本としての完成形がある。少なくとも著者自身や編集者が目指してきたその本の究極進化形態がある。
加えていえば、「セットもの」を全部揃えることや、文庫や新書の同じ著者のものはできるだけ揃えることは、一人の著者の思想の全貌を可能なかぎり見通すために役に立つ。著者自身の「文脈」を知ることができる。そもそも「文脈」があることが分かる。「その本は何のために書かれたのか」が見えてくる。
私の書斎にある全集や著作集の著者は、どなたも昔の方々ばかりで、ネット時代に属する方はいない。ルターやカルヴァンの時代にtwitterやfacebookがあれば、彼らは当然利用しただろう。ネットだからといって手を抜かず、丁寧に慎重に書いただろう。ネットでも文章がうまかっただろう。
「ブログやtwitterやfacebookは一切使わない。ネットに字は書かない。だけど、紙の雑誌や本の原稿なら書く」という人は、「映画には出演するが、テレビドラマやバラエティ番組には出演しない」という俳優・女優にたぶん似ている。ご自分が高倉健レベルだとお思いなら、どうぞご自由に。
複数の著者の紙の全集や著作集を長年集めてきて分かることは、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は縦に積めば1メートル位までだということだ。収録作品の多くは「商品」として書店に並んだものだが、未発表のものが含まれている場合もある。しかし、それらを含めても、せいぜい1メートル位だ。
だが、ここから先が私の言いたいことだ。かつては、どんなに偉大な著者でも、一生の著作物は、縦に積めばせいぜい1メートル位だった。しかし、今はどうだ。ブログやtwitterやfacebookに一人の人が一生書く文章をすべてプリントした紙を縦に積んだら、1メートルどころじゃないだろう。
今の人は昔の人より饒舌になったのだろうか。そんなことはないだろう。昔の人だって多くのことを考え、書き、語っていただろう。ただ、それが残っていないだけだ。保存できなかっただけだ。使徒パウロが一生の間に1メートル位の紙の著作物を書いたかどうかは分からない。そう、「分からない」だけだ。
我々がブログ、twitter、facebookに書くすべてを(紙での出版なしに)指して「これが我々の著作集だ」といえば笑われるだけだろう。しかし過去の偉大な著者の著作権が切れた文章が、今やネットで無料公開されている。我々の「ネット著作集」は、途中のプロセスを省けば、それと同じだ。
思想の伝達経路のかつてと今を強引に単純化して比較すれば、かつては著者→鉛筆→紙→活字→印刷機→本屋→読者→著作権消失後はネットで永久保存、だったが、今は著者→ネット→読者(→たまに紙の本として出版)→ネットで永久保存、であろう。紙の本は「不要」とは思わないが、「ほとんど不要」だ。
考える葦よ、ネットに書いて書いて書きまくれ。字を書くことに、遠慮も躊躇も要らない。文章の価値は著者ではなく読者が決める。身近な人や今の人は評価してくれないかもしれないが、後代の人がきっと評価してくれる。我々が遺した言葉の中の価値あるものを、ネットの海の底からサルベージしてくれる。
だからこそ私は強く思う。ネットだからといって手を抜くな(ただし訂正は可能だ)。無作法するな。人をなぶるな。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな。文章の「品格」とは難解で典雅な言葉を多用することではない。その文章に表れる著者自身の内面的なグロテスクさの程度の問題だ。
ネットで「品格」を守る人はリアルでも重用される。リアルでの重用を目的としてネットを手段にすることは問題ない。ネットとリアルで文体が違うのは問題ない。リアルでできないことがネットはできるというのもある程度事実。しかし問題は「人なぶり」をネットならできると思いこむ人だ。これはまずい。
2014年9月7日日曜日
主イエスは罪を赦す権威を持っておられます
| 日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
PDF版はここをクリックしてください
マルコによる福音書1・40~2・12
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と行った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、イエスにおられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」
今日お読みしました個所の最初に「重い皮膚病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方と、「らい病を患っている人」と書いてある聖書をお持ちの方とがおられるかもしれません。
私が持っている何冊かの新共同訳聖書を調べてみました。1993年に発行されたものには「らい病を患っている人」と書いてありますが、2006年に発行されたものには「重い皮膚病を患っている人」と書いてあります。
いつ変更されたのか正確なことを私は知りませんが、解釈が変更されました。皮膚の病気であることには変わりありませんが、病気の種類を「らい病」と特定しないのが現在の新共同訳聖書の立場です。
その人が、イエスさまのもとに来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。「御心ならば」とは「もしあなたがそのことを願ってくださるならば」という意味です。この人自身も自分の病気が治ることを願っていました。しかしその願いがきかれない。他に頼る相手がいない。だからイエスさま助けてください。そのような切実な思いがこもった「御心ならば」です。
その願いをイエスさまがかなえてくださいました。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」と書かれています。
これは奇蹟です。イエスさまがその人の体に触ってくださるだけで、その人の病気がいやされました。そのようなことは普通の人にはできません。イエスさまは特別なお方です。神の御子であり、救い主です。そのことをマルコはもちろん知っています。
しかし、続きに書かれていることが気になります。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい』」。
イエスさまがおっしゃったのは他言無用ということです。口止めをなさいました。なぜイエスさまは口止めをなさったのでしょうか。この人自身が願い、またイエスさまが願ってくださって、この人の病気がいやされたのです。とてもうれしいことです。多くの人に知ってもらい、喜んでもらいたいことです。それなのに、イエスさまは口止めなさいました。なぜでしょうか。これは謎です。
謎はもう一つあります。重い皮膚病がいやされたこの人にイエスさまがおっしゃったことは、祭司に体を見せなさいということでした。この意味は何でしょうか。これは今のわたしたちには、ぴんと来ないことですが、当時の祭司の仕事と関係しています。我々に理解可能な言葉でいえば、市民権の問題であるといえます。
祭司の役割は、その人が清いかどうかを判断することです。清くない人は、市民権が保留されて他の人から遠ざけられていました。もちろん今でも、伝染病の場合は自宅待機、あるいは場合によっては隔離が必要です。しかし、当時で言う清いとか清くないというのは、医学的な意味というより宗教的な意味です。
当時の考え方として、病気の人は汚れているとされていました。罪の罰として病気になっていると考えられていました。それは宗教的な意味です。それは今でも同じようなことを言う人がいると思います。「罰があたった」というあれです。それは宗教的な意味です。その意味での清い人か清くない人かを判断するのが、祭司の仕事でした。
ですから、その意味では、重い皮膚病がいやされる前のその人がイエスさまのもとに来たこと自体が問題にされる可能性がありました。鍵のついた部屋に閉じ込められてはいなかったからこそイエスさまのところに来ることができたのだと思います。しかし、来る途中で他の人に見つかると大問題にされた可能性があります。それで、イエスさまはこの人が他の人から責められないように、口止めをなさったのかもしれません。
しかし、問題はそれだけではありません。ある意味でもっと大変な問題がありました。それはこの人がイエスさまのところに来たことの問題のほうではなく、イエスさまが御自分のところに来たこの人に触ったことの問題です。イエスさまがその人に触ることは禁じられていたことだったからです。
その人が清いかどうかを判断するのは祭司でした。祭司の許可なしに、その人に触ることは許されていませんでした。しかし、イエスさまがその人に触ったとき、当然のことながら祭司の許可など得ていません。ですから、イエスさまがその人に触ったことを、もし祭司に知られたら大問題になります。
我々の許可を得なければできないことをイエスはした。それは祭司の権威を否定することに等しい。そのような怒りを引き起こすことになったに違いありません。
事実、ここから先そういう展開になっていきます。イエスさまはこの人に「誰にも何も言うな」と口止めしたのですが、この人は黙っていることができません。
この人は口が軽い人だったというよりも、うれしかっただけです。その病気にかかっているかぎり、祭司の許可がなければ、人と付き合うことができない状態でした。とても寂しい気持ちを抱いていたに違いありません。そのような、ただ体が病気であるだけでなく、心に寂しさを抱えている人をイエスさまは憐れんでくださり、近づいてくださり、触ってくださったのです。
その人に触ることのために祭司の許可を得ることなど、イエスさまはお考えになりませんでした。そんなことはくそくらえだとお考えになったのです。そんなことよりも、この孤独な人に近づいてくださること、この人に触って病気をなおすことのほうを優先してくださったのです。
数日後、本質的には同じようなことが起こりました。
「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」と書かれている中の、カファルナウムの「家」はシモンの家です。
シモンの家にイエスさまが寝泊まりされるようになって以来、この家が一躍有名になりました。シモンの家に行けば、そこにイエスさまがおられ、いろんな病気を治していただけると多くの人が期待するようになりました。
それで「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」というのです。
とんでもないことをする人たちが現れました。他人の家の屋根をはがすと、今なら器物破損の現行犯で逮捕です。当時はそうすることが許されたのでしょうか。そんなわけがありません。むちゃくちゃです。
しかし、イエスさまはその人たちのむちゃくちゃな行為に「信仰」を感じとってくださいました。これが重要です。
シモンの家はその日以来しばらくの間、屋根に穴が開いた状態になりました。そのこと自体は大問題です。しかし、このようなめちゃくちゃなことをしてでも、イエスさまのところに連れていきたい人がいる。その人の病気を治していただきたい。イエスさまに触れていただきたい。
熱烈な願いと祈り、そして信仰を、彼らの行為の中に、イエスさまは感じとってくださったのです。だからこそ、イエスさまは、その人たちの「信仰」を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのです。
しかし、それがどういう意味なのかが分からない、なぜイエスさまがそういうことをおっしゃったのかが分からないと感じた人たちが、そこにいた人たちの中にいました。数名の律法学者たちでした。
イエスさまの言葉を聴いた彼らは、それは神を冒瀆する言葉であると受け取りました。罪を赦すとか赦さないとか、そういうことを普通の人は言ってはならない。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と彼らは考えました。
実はわたしたちにもイエスさまがこのときおっしゃったことの真意は分かりません。はっきりしているのは、「あなたの罪は赦される」とイエスさまがおっしゃった相手は、シモンの家の屋根を壊して病気の人をイエスさまのもとへつり降ろした四人の男の人たちではないということです。「あなたがたが他人の家の屋根を壊した罪は赦される」という意味ではありません。イエスさまがこのことをおっしゃった相手は、重い皮膚病にかかっていたその人です。
そのことは、律法学者たちも分かっていました。だからこそ、彼らは腹を立てたのです。そして、そのようなことを律法学者が考えたという点が重要です。イエスさまの言葉に限らず人が語る言葉が「神を冒瀆する言葉」であるかどうかを判断するのは律法学者の仕事だったからです。聖書の御言葉に照らし合わせ、それは神の御心にかなっているかどうか、神を冒瀆する言葉であるかどうかを判断するのが、彼らの仕事でした。
だからこそ、彼らはイエスさまの言葉を聴いて、すぐに不愉快になったのです。自分たちの権威を否定していると感じたのです。我々の許可も判断も得ないで、「あなたの罪が赦される」という言葉を口にするイエスの存在が赦せなかったのです。
そのようなことを律法学者たちが考えているということを、イエスさまはすぐに見抜かれました。というよりも、おそらくイエスさまは初めから分かっておられました。
祭司も然り、律法学者も然り、自分たちの権威が否定されたとか、自分たちが無視されたとか、そのようなことにはだれよりも敏感な人々でした。プライドが高いのです。だれの許可を得てそういうことをするのか、そういうことを言うのかと、すぐに腹を立てる。自分たちの領域がおかされることをだれよりも嫌う。イエスさまは、こういうことを言えば必ず彼らが起こすであろう反応を、初めから分かっておられたのです。
しかし、それでは、祭司たちが、律法学者たちが、病気の人をいやすことができたのかというと、そうではなかったわけです。イエスさまに文句を言いたいなら、自分たちが病気の人をいやしてから言え、と言いたくなるほどです。しかし、それはできないわけです。自分たちはその人をいやすことも助けることもできもしないのに、イエスさまが彼らの権威を否定するようなことをしたということばかりに敏感である。
イエスさまは、おっしゃいました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。これはどちらが易しいのでしょうか。これは、この個所を読むたびに、必ず問題になることです。正解はどこにも書いていません。どちらであると考えることもできます。
ただし、見落とされやすい点がありますので、注意しなくてはなりません。それは、イエスさまが比較しておられるのは「『あなたの罪は赦される』と“言う”こと」と「『起きて、床を担いで歩け』と“言う”こと」であるという点です。イエスさまがおっしゃっているのは、どちらの言葉を“言う”ことのほうが易しいかという問いかけです。「人の罪を赦すこと」と「その人の病気をいやして歩けるようにすること」との比較ではありません。
これはわたしたち自身のこととして考えてみれば分かることだと思います。
わたしたちは、だれかの病気を治すことができるでしょうか。病気で寝込んでいる人に「起きて、歩きなさい」と言うだけなら簡単かもしれません。しかし、そのように言えるだけの健康な状態にしてあげることができるでしょうか。医師の方ならできることかもしれませんが、みんなが医者になれるわけではありません。
しかしまた、イエスさまがなさったのは奇蹟です。現代の医療行為とは異なることです。わたしたちは奇蹟を起こすことができるでしょうか。それは難しいことではないでしょうか。
病気をいやしたり、奇蹟を起こしたりすることよりも、「あなたの罪は赦される」と言うことのほうが、はるかに易しいことではないでしょうか。それも言ってはいけないでしょうか。それは神を冒瀆することでしょうか。
今日も礼拝の中で先ほど「罪の告白と赦しの宣言」をしました。一同で「罪の告白」をし、牧師が「罪の赦しの宣言」を読み上げました。あんな牧師の口から「罪の赦しの宣言」など聴きたくないと思われる方がおられると思います。牧師は罪人です。私は罪人です。「あなたの罪は赦される」などと言える立場にはありません。口にするのも畏れ多い言葉であることは確実です。
しかし、「あなたの罪は赦される」という言葉をわたしたちは言ってはいけないでしょうか。それは神への冒瀆でしょうか。それほど目くじらを立てなくてはならないことではないのではないでしょうか。もしその言葉を聞くと慰めを感じるという方がおられるのであれば、あまり遠慮せずにどんどん言ってあげたらいいのではないでしょうか。
イエスさまは、家よりも、祭司や律法学者の権威よりも、人の命を優先されました。しかしイエスさまの前には逆の人たちがいたようです。人の命よりも、家のほうが大事。人の命よりも祭司や律法学者の権威のほうが大事。そのような人たちにイエスさまは挑戦的に立ち向かっておられるのです。
(2014年9月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
2014年8月27日水曜日
牧師が一生の間に書きのこすことは何か
だれでもカール・バルトになれるわけではないし、なる必要もないが、日本語版『カール・バルト著作集』と『教会教義学』(いずれも新教出版社)を見ると、一人の牧師・神学者が一生の間に書きのこすことにはどのようなことがあるかについて、そのほぼ全貌を知ることができる。これは大いに参考になる。
日本語版『カール・バルト著作集』は次のような構成になっている。教義学論文集(第1~3巻)、神学史論文集(第4巻)、倫理学論文集(第5巻)、政治・社会問題論文集(第6~7巻)、単行本として出版されたもの(第8~15巻)、説教集(第16~17巻)。第18巻書簡集は刊行されなかった。
『カール・バルト著作集』の第8~15巻を「単行本として出版されたもの」と書いたが、ざっくりまとめすぎたかもしれない。第8~10巻が教義学関係、第11~13巻が神学史関係、そして第14~15巻が聖書注解。このように日本語版著作集は論理的に美しく整理されている。編集者の腕の見せ所だ。
しかし、今書いていることの趣旨は神学の中身を詳細に分類することではない。むしろ逆にできるだけ大づかみに考えたい。『カール・バルト著作集』の教義学論文集、神学史論文集、倫理学論文集、また単行本の教義学関係、神学史関係、聖書注解までをすべて「神学論文」の一言でまとめておくことにする。
ここで考えるべき問題は、第6~7巻の「政治・社会問題論文集」と第16~17巻の「説教」をどのように分類すればよいかだ。「説教」が「神学論文」とは区別されることは大方の了解は得られると思うが、難しいのは「政治・社会問題論文集」と「神学論文」の関係だ。区別すべきか、すべきではないか。
異論はあるだろうが、結論を早めていえば、「政治・社会論文集」と「神学論文」は区別するほうがいいだろうと私は考えている。また、日本語版著作集では刊行されなかったので忘れそうになるが、第18巻「書簡集」もカテゴリー的に区別されて然るべきだろう。
さらに、巨大なる『教会教義学』のすべても「神学論文」に数えてしまうことにする。今しているのは大雑把な話だ。したがって、カール・バルトの生涯全著作は、ざっくり分ければ四種類になると私は考える。第一は「神学論文」、第二は「政治・社会論文」、第三は「説教」、そして第四は「書簡」である。
カール・バルトの「神学論文」と「政治・社会論文」を区別すべきかどうかが難しいのは、どちらの問題を考えるときもバルトの発想方法は一貫しているからだ。神学論文を書くときのバルトが「神学的に考えている」のは当然だが、政治・社会論文を書くときのバルトも、同じように「神学的に考えている」。
しかし私はやはりバルトの「神学論文」と「政治・社会論文」は区別するほうがよいと考える。理由は日本語版著作集「政治・社会問題論文集」(第6~7巻)の内容をご覧になると、ある程度理解していただけるはずだ。すべてではないが、かなり多くが「手紙」として書かれている。内容は時事問題である。
「時事問題」を軽んじる意図は私には皆無である。それだけは言っておきたい。しかし、実際には「時事問題」を扱っているバルトの「政治・社会論文」と「神学論文」(教義学、神学史、倫理学、聖書注解など)は一緒くたにしないほうがいい。ごちゃ混ぜにすると、まぎらわしいし、ややこしい。
バルトの場合、「神学的に考えている」という点では「説教」も「書簡」も同じだ。神学論文も、時事問題(政治・社会問題論文)も、説教も、そして(私的)書簡も、どれを書くときのバルトも常に「神学的に考えている」。それほど一貫した発想方法の持ち主だった。それだけは間違いない。
しかし、今書いているのはカール・バルトの場合に限った話だ。彼の全著作を四つに分類できる、第一は神学論文、第二は時事問題(と言い換えよう)、第三は説教、第四は(私的)書簡であると、このような順序で整理するのは、大学教授としてのバルトを考えているからだ。
バルトには、大学教授になる前、教会の牧師だった時代がある。牧師時代のバルトも、神学論文も、時事問題も、説教も、書簡も書いていた。しかし、「重要度」を言いたいのではないが、牧師の働きとしての「優先順位」をあえて言うとしたら、説教、書簡、時事問題、神学論文の順ではないだろうか。
そろそろまとめよう。バルトの生涯著作は雑に分ければ四種類になるという話をしてきた。最後に書いた「牧師的順序」でいえば、説教、書簡、時事問題、神学論文を書いた。それはバルトだけではなく、多くの牧師・神学者が同じようなことを書いてきた。昔から今に至るまで、そしてこれからも。
今の牧師・神学者は、かなり多くの人がネットを利用している。説教と時事問題はブログで、書簡はメールで、神学論文はPDFで書いたりしている。メールは原則非公開だが、各情報がばらばらにならないように、FacebookやTwitterのタイムラインに貼り付けて、時系列的に整理している。
牧師がネットを利用することに違和感を表明されることがいまだにあるのは私にとっては残念なことだが、こればかりは理解していただくほかはない。今の牧師たちが書いている内容は、過去の多くの牧師・神学者が書いてきたことと基本的に全く同じなのだ。説教、書簡、時事問題、神学論文である。
私の文体がしばしば「ちゃらい」のは、以前も書いたことがあるが、意図的な文体研究上の工夫をしているだけであって他意はない。いばるわけではないが、私はTPOに合わせて文体を使い分けることが苦手ではないほうだという自負がある。読者を想定しながら、できるだけ読みやすい文章を心がけている。
いちばん困るのは、今の高校生や大学生くらいの世代の方々に読んでもらえないかと自分で工夫して書いたつもりの文章を、70代80代くらいの人たち(私の親の世代ですな)が見て「牧師のくせにこんなふざけた文章を書くとは、けしからん」とか言い出されることだ。マジで参ります。やめてください。
最後は私の愚痴になりました。まあお許しください。
日本語版『カール・バルト著作集』は次のような構成になっている。教義学論文集(第1~3巻)、神学史論文集(第4巻)、倫理学論文集(第5巻)、政治・社会問題論文集(第6~7巻)、単行本として出版されたもの(第8~15巻)、説教集(第16~17巻)。第18巻書簡集は刊行されなかった。
『カール・バルト著作集』の第8~15巻を「単行本として出版されたもの」と書いたが、ざっくりまとめすぎたかもしれない。第8~10巻が教義学関係、第11~13巻が神学史関係、そして第14~15巻が聖書注解。このように日本語版著作集は論理的に美しく整理されている。編集者の腕の見せ所だ。
しかし、今書いていることの趣旨は神学の中身を詳細に分類することではない。むしろ逆にできるだけ大づかみに考えたい。『カール・バルト著作集』の教義学論文集、神学史論文集、倫理学論文集、また単行本の教義学関係、神学史関係、聖書注解までをすべて「神学論文」の一言でまとめておくことにする。
ここで考えるべき問題は、第6~7巻の「政治・社会問題論文集」と第16~17巻の「説教」をどのように分類すればよいかだ。「説教」が「神学論文」とは区別されることは大方の了解は得られると思うが、難しいのは「政治・社会問題論文集」と「神学論文」の関係だ。区別すべきか、すべきではないか。
異論はあるだろうが、結論を早めていえば、「政治・社会論文集」と「神学論文」は区別するほうがいいだろうと私は考えている。また、日本語版著作集では刊行されなかったので忘れそうになるが、第18巻「書簡集」もカテゴリー的に区別されて然るべきだろう。
さらに、巨大なる『教会教義学』のすべても「神学論文」に数えてしまうことにする。今しているのは大雑把な話だ。したがって、カール・バルトの生涯全著作は、ざっくり分ければ四種類になると私は考える。第一は「神学論文」、第二は「政治・社会論文」、第三は「説教」、そして第四は「書簡」である。
カール・バルトの「神学論文」と「政治・社会論文」を区別すべきかどうかが難しいのは、どちらの問題を考えるときもバルトの発想方法は一貫しているからだ。神学論文を書くときのバルトが「神学的に考えている」のは当然だが、政治・社会論文を書くときのバルトも、同じように「神学的に考えている」。
しかし私はやはりバルトの「神学論文」と「政治・社会論文」は区別するほうがよいと考える。理由は日本語版著作集「政治・社会問題論文集」(第6~7巻)の内容をご覧になると、ある程度理解していただけるはずだ。すべてではないが、かなり多くが「手紙」として書かれている。内容は時事問題である。
「時事問題」を軽んじる意図は私には皆無である。それだけは言っておきたい。しかし、実際には「時事問題」を扱っているバルトの「政治・社会論文」と「神学論文」(教義学、神学史、倫理学、聖書注解など)は一緒くたにしないほうがいい。ごちゃ混ぜにすると、まぎらわしいし、ややこしい。
バルトの場合、「神学的に考えている」という点では「説教」も「書簡」も同じだ。神学論文も、時事問題(政治・社会問題論文)も、説教も、そして(私的)書簡も、どれを書くときのバルトも常に「神学的に考えている」。それほど一貫した発想方法の持ち主だった。それだけは間違いない。
しかし、今書いているのはカール・バルトの場合に限った話だ。彼の全著作を四つに分類できる、第一は神学論文、第二は時事問題(と言い換えよう)、第三は説教、第四は(私的)書簡であると、このような順序で整理するのは、大学教授としてのバルトを考えているからだ。
バルトには、大学教授になる前、教会の牧師だった時代がある。牧師時代のバルトも、神学論文も、時事問題も、説教も、書簡も書いていた。しかし、「重要度」を言いたいのではないが、牧師の働きとしての「優先順位」をあえて言うとしたら、説教、書簡、時事問題、神学論文の順ではないだろうか。
そろそろまとめよう。バルトの生涯著作は雑に分ければ四種類になるという話をしてきた。最後に書いた「牧師的順序」でいえば、説教、書簡、時事問題、神学論文を書いた。それはバルトだけではなく、多くの牧師・神学者が同じようなことを書いてきた。昔から今に至るまで、そしてこれからも。
今の牧師・神学者は、かなり多くの人がネットを利用している。説教と時事問題はブログで、書簡はメールで、神学論文はPDFで書いたりしている。メールは原則非公開だが、各情報がばらばらにならないように、FacebookやTwitterのタイムラインに貼り付けて、時系列的に整理している。
牧師がネットを利用することに違和感を表明されることがいまだにあるのは私にとっては残念なことだが、こればかりは理解していただくほかはない。今の牧師たちが書いている内容は、過去の多くの牧師・神学者が書いてきたことと基本的に全く同じなのだ。説教、書簡、時事問題、神学論文である。
私の文体がしばしば「ちゃらい」のは、以前も書いたことがあるが、意図的な文体研究上の工夫をしているだけであって他意はない。いばるわけではないが、私はTPOに合わせて文体を使い分けることが苦手ではないほうだという自負がある。読者を想定しながら、できるだけ読みやすい文章を心がけている。
いちばん困るのは、今の高校生や大学生くらいの世代の方々に読んでもらえないかと自分で工夫して書いたつもりの文章を、70代80代くらいの人たち(私の親の世代ですな)が見て「牧師のくせにこんなふざけた文章を書くとは、けしからん」とか言い出されることだ。マジで参ります。やめてください。
最後は私の愚痴になりました。まあお許しください。
2014年8月21日木曜日
「日曜学校好景気」の理由は何だったのか
私は社会学を専門的に勉強したことがないので研究方法が分からないが、戦後から1970年代初頭までの日本の教会の日曜学校に子どもが大勢集まっていた理由を正確に知りたい。当時の「日曜学校好景気」との比較で、今の教会の「不振」がずっと責め続けられてきた。もう40年以上前のことなのに。
「あの頃の日曜学校は毎週100人以上いた(のに、今は...)」という話を何度聞かされたことか。私は40年前の「日曜学校好景気」を覚えている。忘れられるわけがない。あれほどたくさん集まっていた日曜学校と教会から、一人また一人と、去っていく人の後ろ姿を40年以上ずっと見てきたからだ。
私は牧師の子弟ではないので、牧師になる前は基本的に、日曜日と水曜日の夜の教会しか知る由もなかった。しかし、だからこそはっきり分かる面もある。40年かけて、教会と日曜学校からだんだん人がいなくなった。特定の教会の話ではない。日本国内の「社会現象」として、そういう流れがあった。
私は40年前は日曜学校の生徒だったので、来なくなった子どもたちの気持ちや理由は、わりと手にとるように分かる。塾、そろばん、習い事、町内会の野球、サッカー、学校のクラブ、部活。そしてとにかくテレビ。特撮ヒーロー、アニメ。これでもかこれでもかと日曜日に「お楽しみ」が集中する。
級友たちが日曜日を「楽しく」過ごしているのを横目で見ながら教会に行く間、しきりと考えていたことは、「何が悲しくて私は教会に行くのか」ということだった。これは後からとってつけた話ではなく当時の本心だ。だから日曜学校に来なくなった子どもたちの気持ちや理由はかなり分かっているつもりだ。
だけど、今の私が知りたいのは当時の子どもたちの気持ちの側ではない。戦後から1970年代初頭までの日本の教会の「日曜学校好景気」の正確な理由を知りたい。いやらしい言い方をお許しいただけば、政治的誘導はあったような気がする。しかし、それが無くなった。そのあたりの事情を知りたいと思う。
「あの頃の日曜学校は毎週100人以上いた(のに、今は...)」という話を何度聞かされたことか。私は40年前の「日曜学校好景気」を覚えている。忘れられるわけがない。あれほどたくさん集まっていた日曜学校と教会から、一人また一人と、去っていく人の後ろ姿を40年以上ずっと見てきたからだ。
私は牧師の子弟ではないので、牧師になる前は基本的に、日曜日と水曜日の夜の教会しか知る由もなかった。しかし、だからこそはっきり分かる面もある。40年かけて、教会と日曜学校からだんだん人がいなくなった。特定の教会の話ではない。日本国内の「社会現象」として、そういう流れがあった。
私は40年前は日曜学校の生徒だったので、来なくなった子どもたちの気持ちや理由は、わりと手にとるように分かる。塾、そろばん、習い事、町内会の野球、サッカー、学校のクラブ、部活。そしてとにかくテレビ。特撮ヒーロー、アニメ。これでもかこれでもかと日曜日に「お楽しみ」が集中する。
級友たちが日曜日を「楽しく」過ごしているのを横目で見ながら教会に行く間、しきりと考えていたことは、「何が悲しくて私は教会に行くのか」ということだった。これは後からとってつけた話ではなく当時の本心だ。だから日曜学校に来なくなった子どもたちの気持ちや理由はかなり分かっているつもりだ。
だけど、今の私が知りたいのは当時の子どもたちの気持ちの側ではない。戦後から1970年代初頭までの日本の教会の「日曜学校好景気」の正確な理由を知りたい。いやらしい言い方をお許しいただけば、政治的誘導はあったような気がする。しかし、それが無くなった。そのあたりの事情を知りたいと思う。
登録:
コメント (Atom)


