2014年9月16日火曜日

国家に対する教会の姿勢

我々は預言の結果についての研究、またセオクラシーの形態について記述された個所に見られるセオクラシーが発展していくプロセスについての研究に取り組んだ。この関連において議論されるべき第一の問題は、国民生活の統治において、そもそも教会的な統治と市民的な統治との二者がなにゆえ二者的なのかということである。

この問題については今や次のような答えが示された。第一の答えは、それはそもそも二者的であるというものである。第二の答えは、それは歴史的・終末論的行為において自己を啓示される神を通して事実として明示されている二者性であるというものである。第三の答えは、それは神の国の地上的形態という点、すなわち、キリスト教文化という点から言ってそのような二者性は存在しないと語ることのできない二者性であるというものである。

従って、たとえばヨーロッパにおける定め(lot)とは、悪い意味での宿命(noodlot)だけではなく、もっと多くの祝福に満ちた定めがある。そのことは、あらゆる問題や緊張を伴いつつではあるが、この事実上の二者性をはっきりと明示している。そして、それは、神が統合しておられるものを人間が切り離すようにと勧めたりはしない。なにゆえ神が二者の関係を明示されかつ統合されたのか、また、いかにしてこれら二者が神の最も深い御意志によって切り離しがたく結び合わされているのかという理由を、われわれは知っている。われわれが知っていることを一言で述べるならば、それは、教会と国家とのこの二者性のうちに、世界の主なる方の救いがかかっている、ということである。

このことは、セオクラシーの形態についての記述に関して議論がなされるべきもう一つの問題群を扱うことへと、われわれを備えさせる。すなわち、国家に対する教会の姿勢、教会に対する国家の姿勢、中間領域における教会と国家との関係という三つの問題である。なにゆえ教会と国家との間には二重性があるのか、という問いに対する答えの中で見出された視点こそが、我々がこれら三つの問題のために探し求めてきた答えの決着である。

最初の問題は、国家に対する教会の姿勢である。わたしはこの姿勢を以下の三つの言葉で表現したいと願っている。すなわち、とりなし(voorbede)、仲裁(voorspraak)、助言(voorlichting)である。教会は、政府に代わって、神にとりなす。教会は、政府のために、国民との仲裁をする。教会は、政府に対し、神の言葉に基づいて助言を与えるのである。 従って、国家に対する教会の姿勢には、仕える・奉仕するという姿勢がある。教会は、国家のために存在する。そのことは、これら三つの教会活動からしてきわめて明白である。

(続く)

【出典】
A. A. van Ruler, Religie en Politiek, G. F. Callenbach N. V. Nijkerk, 1945, p. 321.