2014年9月16日火曜日

神学が照らし出す人間と学問の関係(1962年/1968年)

神学のポピュラーな性格

神学という学問(theologische wetenschap)は、最も古い学問の一つであるばかりでなく、最もポピュラーな学問の一つでもある。この場合の「ポピュラー」の意味は、一般の人にも役立つとか興味深いということにとどまらない。一般の人が傑出した高みに至るまで自分自身でよく考えることが可能であるし、理解することが可能であるということでもある。

「教職」と「信徒」の間には、おそらく違いがある。しかし、その違いは職務に就いたかどうかに関係しうるだけである。この違いを本質的に神学に関係づけることはできない。神学には、原則としてだれでも参加し、意見を述べることが許されている。いずれにせよ、「信徒」という語の意味は、「神学者」という語と対比されている場合と「教会役員」という語と対比されている場合とで全く異なる。前者の場合に重要なことは訓練と専門知識であるが、後者の場合に重要なことは任職と全権委任である。

ともかく、それを担うのが神学者ではない教会役員の職務(長老と執事)も存在するのであり、長老と執事なしには、これら教会職制の十分な職務性も、この教会役員に属する「教職」も、用済みになってしまう。長老や執事は御言の奉仕者よりも劣っているとか、その人々は御言の奉仕者とは原理的に異なる意味での教会役員であるというようなことは全くありえない。

この命題は、教会規程上の長老主義的会議制における多くの栄えある側面の一つである。それは――全世界の教会において――この〔長老主義〕制度の中でのみ見出されるものである。長老主義は、「専門家神学」(vakmatige theologie)というものが教会政治を支配し、それゆえ教会生活〔または「教会の生命」〕を支配してしまうことを阻止する。「御言葉の奉仕者の神学」(theologie van de dienaren van het Woord)は長老と執事の(霊的)人間性によってバランスが保たれ、節度を守る。神学的考察と信仰的実践〔または「敬虔の修練」〕とのこのバランスこそが、聖霊のみわざの特徴である。神学は、それ自体においていとも簡単に非人間的なものになり果てるものであり、それによってとくに教会にとって致命的なものさえ手に入れることになる。

もちろん、たしかに神学者と信仰者の間には違いがある。しかし、それは本質的な違いではなく、程度の違いに過ぎない。教会役員と神の民との違いの背後には、(キリストにおける)神と(罪人としての)人間との「対立」が潜んでいる。だが、それと同じような仕方での「対立」をもたらすような区別が、神学者と信仰者との間にあるわけではない。その区別は習熟と能力を意味するだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。たしかに、教会役員会と教会員の区別においても、教会員の側から「参加して意見を述べること」がある。しかしそれは、神学者に対して信仰者が(場合によっては未信者が)参加して意見を述べることとは全く異なる次元があることを示している。前者は最も深いところで神において、神と共に、神と対立しながら、神と人間が語り合うことである。しかし、後者は人間同士の語り合いである。

神学の方法は一つではない。いろんな言葉を伴い、明確な神的承認を保持し、与えるものである。神学は人間的な学問である。その中で学者が機会を得ることは特になく、むしろ、昔の祭司とかまじない師が位置を占めているような学問でさえある。それはちょうど、特にわれわれの時代の多くの他の諸学に、そのようなケースがわりとあるのと同じである。神学はそれ自体に独特のデモクラティックな特徴をなす傾向を持っている。神学が取り組んでいる基本的な諸問題はいかなる人間でも自分自身のために判断することができ、判断することが許され、判断しなければならないものである、という前提から、神学は出発するのである。

神学は信仰告白のこの面の上に立つものである!啓示が生起する。神の御言が人間へと到来する。御言の告知が執り行われる。御言が人間の心と人間の生命との中で共鳴する。信仰の告白と讃美とが生まれる。人間は信仰告白と讃美において自分自身と固有のアイデンティティを見出す。これが救いであり、永遠の命である。このことについて――すなわち、宣べ伝えられるべき御言(!)だけではなく、わがものになった御言(!)についても――神学は、学的反省において熟考する。われわれはどうしたら、そのようなものであるところの神学の中から固有なもの―― 真理と救いをわがものにすること――を放逐し、あるいは拒絶し、全く閉め出してしまうことができるのだろうか。そんなことができるわけがない。

もちろん、神学の基本的な諸問題は、とくにわれわれが「組織神学」(systematische theologie)と呼び慣らしてきた分野において取り組まれる。この「組織神学」という名称は、いくらか曖昧なもので、少なくとも恣意的な語である。しかし、この組織神学という分野は、まさに「神学のすべて」(helemaal theologie)でもある。聖書神学、あるいは教会史や宗教史の神学は――自己責任において――文学部に委ねることもできるであろう。ところが、以下のことが起こった途端、ひとは、おのずから文学部を飛び出して、やはり別個に独立した神学部を持たなければならなくなる。

第一に、真理についての問いが起こり、「人間がかつてどこかで保持していたし、保持している真理とは何か」という問いではもはやなくなり、むしろ「真理とは何か」という問い、換言すれば「われわれが今ここで保っている真理とは何か」という問いが生じるや否や。

第二に、この問いが根底に至るまで(tot op de grond) (これは「神に至るまで」(tot op God)という表現と共に流行している言葉である)真剣であることを保留することも自制することももはやできなくするや否や。

加えて第三に、すべての現実はその存在の現実だけではなく、その救いの現実でもあるということ、そしてとりわけ、イスラエルの現実、キリストの現実、そして教会の現実に心を惹かれるや否や。

旧来の高等教育法の下で規制されていた立場と新しい科学教育法の下に規制されている立場とを異なるものとみなすとき――哲学は、それ自体の中で近年起こった一連の事態の必然性に気づかせてくれる。哲学は文学部から分離され、独立した「総合大学に包括される全学部の中心(!!)に立つ共通学部」になった。この共通学部の編制に際して、実際の哲学は教義学のようなものとして存在すると――驚くべき自明性をもって――考えた人は、誰もいなかった。そのことは、いずれにせよ同様の仕方で、彼らが頭脳に関する狭量な体系において一般教養カリキュラムを編成しているのを見るにつけ、明白である。

しかし我々は、これらすべてのことに触れないままにしておくことができる。これらの問いは、「そもそも神学部は、本質的に見て、中心的な共通学部的な分野ではないのだろうか、あるいはそのようになってはならない分野なのだろうか」という問いと同様、われわれを哲学と神学との関係の問題という迷路の中へと導いていくであろう。オランダ政府は、神学部の立場を明確にしないままに中心的な共通学部へと昇格した哲学によって実際に単純に難問が解決できるのだと主張しているだけである。この一連の事態には我慢ならないものがある。倫理学が依然として神学部の中に留まっているのは奇妙なことである。ヒューマニストたちは、このことに、徐々に異議を唱え始めるべきである。

いずれにせよ、神学部は――おそらく慣性の法則に従い(あるいは国会で喧嘩するという事態をおそれ)、多くの妥協と曖昧さの相の下で――依然として常に存在する。神学部が取り扱う問題は、信仰者であれ未信者であれ、だれにでも関係がある。それは、神学が「哲学はどのような問題を取り扱うのか」という問いに関わる場合があるように、神学の問いと哲学の問いとの両種の間にはすでに、本質的な違いがあるのである。

ここでさらに神学は、人間が、ことさらに組織神学の問題だけに関係づけられているわけではないということに気づかされる。たとえば、非神学者(niet-theoloog)である一人の人間は、聖書学部門にも関与することができるし、関与しなければならない。文献的に聖書を解読すること以上、あるいは黙想的に聖書を読むこと以上である「聖書研究」(schrift-studie)は、いかなるキリスト者も、とりわけいかなる改革主義的なキリスト者も、それへと招かれ、促されている、高度な文化価値の一つの注目すべき現象である。

彼はなぜ伝統の研究、従って教会史と教理史の研究にも関与すべきではないのだろうかということには触れないでおく。それらは常に、人類の歴史において聖書が成就してきたことすべてについての研究であり、それゆえ同様に――それによって聖書と伝統との関係のさらなる明確な規定についてはなおそれほど多くは語られていない――聖書そのものが持つ救済的意義についての研究である。

私見によると、神学の新しい分野(宗教史や宗教現象学)は、自分自身をある程度尊重しているいかなる人間であっても、その中で自分自身を特別にすすんで掘り下げる全く新しい世界を開示した。たとえば、われわれの時代のだれが、仏教に興味を持っていないだろうか。

ところが、非神学者は、神学的作業の一つないし多くの領域において、権威を持っているだろうか。それとも、この分野の人間である神学者だけが、権威を持っているのだろうか。彼は本当に権威を持っているのだろうか。学問(wetenschap)は、いつどこで、権威をもって、真の権威をもって語られたことがあるだろうか。われわれは今、「変則的な神学者」(irreguliere theologen)の問題、すなわちその人の並外れた才能と専門的熟練に到達する努力によって、専門的神学者よりも意義において相当勝っている非神学者の問題は考慮しないでおく。この問題はすでに含まれているが、十分に論じることは難しい。彼らは、聖書を囲む多数の人々を説得する力を持っている。

学問的釈義は、聖書を神の御言として開示すべきだろうか(あるいは、開示できるだろうか)。そのようにして、非神学者が教会的職務的権威の位置に来るのだろうか。非神学者が信仰者を統治するのだろうか。それとも彼は、最大限で夫役を務めるのだろうか。また信仰者は、神がその御言においてお語りになっていることは何かを決定する力量があるほどに、成熟しているだろうか。それとも、学問的釈義と敬虔な神の子との両者が(しかし、いずれにせよ職務的指導と職務的会議は必要であるが)、それ自体で明白な聖書の祝福に満ちた権威を体験するために必要だろうか。ともかくひとは、この関連で、(御言による、あるいは心の中での)聖霊の証言に基づく指示をもって事足れりとすることはできない。それは殺し文句になりかねない。

(続く)

【出典】
A. A. van Ruler, Theologisch Werk Deel 1, Uitgeverij G. F. Callenbach N. V., Nijkerk, 1969, p. 9-45.
A. A. van Ruler, Verzameld Werk Deel 1, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2007, p. 115-148.