2014年9月18日木曜日

日記「神学は難しくない」

2013年6月27日・7月4日、立教大学でゲスト講義をさせていただきました

「ふなっしー状態ですか」とか光栄なことを言われてしまったここ数日でしたが、リアルの私はいたって平静です(いやそうでもない笑)。

全く別の唐突な話ですが、「神学は難しくない」です。「神学は難しい」と言い続ける一定の層が存在するように思えますが、それはそういう神学なんだと思います。

雑な言い方をすれば、「『神学は難しい』(ので一部のマニアの間だけで勝手にやってろ)という神学命題を主張してやまない、かぎかっこつきの『神学』」ですね、それは。

よく思うんですが、今の中学・高校レベルの英数国理社(だけじゃありませんが)、めっちゃ難しいですよ。あの難しさに比べれば「神学」は単純明快です。なんで「神学」だけが度外視されにゃならんのか。

「神学が難しい」んじゃないんです。各自が幼いころから教え込まれてきた世界観教育のようなものがあまりにも不動すぎて、神学的発想に対するほとんど無意識の拒否反応を起こし続けているだけです、たぶん。

過去に教え込まれてきたものを全部消去すべきだとは思いません。ていうか、消去は不可能です。消去を求めることを「洗脳」というのでしょうけど、神学はむしろ「洗脳」を激しく拒絶します。過去の世界観教育は残るし、残っていていいし、消去する必要はないし、消去できません。

結局、混ぜるしかないんですよね。混ざるし、混ぜる。脳は「洗えない」し、そういうことせんでください。ジャブジャブ、ぷはー、さっぱりーとか、こわいから。

前世紀の終わりごろ、たしか1980年代くらいじゃなかったかと思いますが、「神学する」という言葉を用いだした人々がけっこういました。私がちょうど神学を学び始めた頃です。「神学」を名詞としてではなく動詞としてとらえる。日常生活の発想が神学的なものになる。

ナニ、別にどうってことないです。一例だけあげれば、神学的発想の根本にあるのは、創造者(神)と被造物(世界と人間)の根源的区別です。創造者は「拝まれるべき」存在ですが、被造物はいかなる意味でも「拝まれるべきでない」存在です。その区別をするだけです。

世界も人間も「拝まれるべきでない」。だけど、「拝まれるべきでない」存在は「大切にしなくてもいい」わけではない。世界と人間は大切な存在です。「拝むこと」と「大切にすること」は区別されなくてはならない。

こういうことを順を追って考えていくだけです。どってことないでしょ。