毎週水曜日は、教会の祈祷会です。
今はハイデルベルク信仰問答を学んでいます。
今日のテーマは「善きわざについて」(問62~64、91)でした。
聖書個所は新約聖書・ヤコブの手紙2章14節以下、とくに24節の
「これであなたがたも分かるように、
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」
でした。良い学びができたと思います。
午後は祈祷会出席者有志で会堂清掃をしました。
そうしているうちに、先週アマゾンで注文したばかりの本(右)を
配送業者が届けてくださいました。
伊藤利男著
『ツィンツェンドルフ
ヘルンフート同胞教団を創った夫妻の物語』
(鳥影社、2005年、1800円+税)
先週のカール・バルト研究会のとき、藤崎裕之先生からお薦めいただいたので
読んでみたいと思いました。藤崎先生、ありがとうございます。
ただ、今日の午後読もうとしていたのは、別の本でした。
それは写真左側にある本でした。
G. ファン・ローン著
『1933年から1941年までの
オランダとドイツのプロテスタント諸教会』
(ヘット・スペクトラム出版社、1973年)
「1933年から1941年まで」、
つまりナチス台頭から第二次世界大戦開戦までのオランダとドイツのプロテスタント諸教会が、
どのように神学的・政治的に戦ったのか、あるいは、戦わなかったのかについて書かれた本です。
どちらを読もうかなと迷っています。
うーん。
2013年12月11日水曜日
不愉快な「伝道」の制度、はじまりはじまり、だそうで
ぼくにはもう関係ない話なのですが、
「人を見くだすことにおいて人後に落ちない」と言っているかのような
不愉快な制度がスタートしたらしいと、風の便りで知りました。
「著名人(かどうかは微妙)を講師として派遣します。費用は出します」
というのが「伝道」だそうで。
そんな方法で、仮にそのとき一度きり人が集まったからといって
(そのとき人が集まるかどうかすら相当微妙)
それでどうにかなるものであるわけないことくらい
分かり切っているでしょうに。
「著名人(かどうかは激しく微妙)を手本にしてこれから伝道がんばれ」
とでも言いたいのか。バカにしてると思う。
総理にバカにされ、教会でもバカにされると、行き場無くなりますね。
あ、ぼくにはもう関係ない話なのですけどね。
「人を見くだすことにおいて人後に落ちない」と言っているかのような
不愉快な制度がスタートしたらしいと、風の便りで知りました。
「著名人(かどうかは微妙)を講師として派遣します。費用は出します」
というのが「伝道」だそうで。
そんな方法で、仮にそのとき一度きり人が集まったからといって
(そのとき人が集まるかどうかすら相当微妙)
それでどうにかなるものであるわけないことくらい
分かり切っているでしょうに。
「著名人(かどうかは激しく微妙)を手本にしてこれから伝道がんばれ」
とでも言いたいのか。バカにしてると思う。
総理にバカにされ、教会でもバカにされると、行き場無くなりますね。
あ、ぼくにはもう関係ない話なのですけどね。
2013年12月10日火曜日
1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は今では与党です
「日本キリスト党 武藤富男」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/tomio.html
ぼくも最近まで詳しくは知りませんでしたので、
おそらく若い世代の方々は全く知らないと思う。
こういう「党」と、こういう「人」が、日本に実在しました。
1977年のことなので、激しい過去でもありません。
当時の雰囲気はぼくには分かりませんが(1977年にぼくは12才でした)
世間にも教会にも嘲笑され無視された存在だったに違いありません。
泡沫党の泡沫候補(最近ではインディーズと言うらしい)のまま、
一瞬で消えたようです。
1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は、
今では首相(アンゲラ・メルケルさん)を党首とする与党です。
違いがあるのは当たり前です。日本の教会が弱すぎるからです。
だから、こういうことを書くと、
「あんたが立候補すれば~?」とか「政治家になりたいの~?」とか
しょうもないことを言われるお約束になっているのがイヤなのですが、
ぼくが言いたいことは、
教会の伝道の使命は、それが着実に遂行されていくときには、
その国の現実政治において、必ず影響を及ぼすようになる、
ということです。
言わずもがなのことだと思うのですけどね。
「世」と「教会」がうまく連結していないと、
こんな当たり前の話でさえ理解してもらえないときがあります。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/tomio.html
ぼくも最近まで詳しくは知りませんでしたので、
おそらく若い世代の方々は全く知らないと思う。
こういう「党」と、こういう「人」が、日本に実在しました。
1977年のことなので、激しい過去でもありません。
当時の雰囲気はぼくには分かりませんが(1977年にぼくは12才でした)
世間にも教会にも嘲笑され無視された存在だったに違いありません。
泡沫党の泡沫候補(最近ではインディーズと言うらしい)のまま、
一瞬で消えたようです。
1945年に結党されたドイツのキリスト教民主同盟(CDU)は、
今では首相(アンゲラ・メルケルさん)を党首とする与党です。
違いがあるのは当たり前です。日本の教会が弱すぎるからです。
だから、こういうことを書くと、
「あんたが立候補すれば~?」とか「政治家になりたいの~?」とか
しょうもないことを言われるお約束になっているのがイヤなのですが、
ぼくが言いたいことは、
教会の伝道の使命は、それが着実に遂行されていくときには、
その国の現実政治において、必ず影響を及ぼすようになる、
ということです。
言わずもがなのことだと思うのですけどね。
「世」と「教会」がうまく連結していないと、
こんな当たり前の話でさえ理解してもらえないときがあります。
2013年12月9日月曜日
「歴史は繰り返さない」の続きです
以下、前稿「歴史は繰り返さない」の続きです。
---------------------------------------
そして、もし許されるなら言わせていただきたいことは、88年前の日本と今の日本の決定的な違いは、「日本の教会」のかつてと今の違いです。
キリシタンは一度日本で(地下に潜った方々以外は)消し去られました。そのトラウマが日本でキリスト教信仰を持とうとする者の心に、いまだに刻みつけられています。
しかし、それでも、150年前にまがりなりにも日本の教会史が「再開」されました。しかし、88年前(治安維持法制定時)は、(再開後の)日本宣教(わずか)60年。今は150年。かつてと今の「教会」は同じでしょうか。
日本の「異物」である教会の信仰は「人を恐れない」。
国民の1%「しか」クリスチャンはいない、クリスチャンは日本では少数だ、少数だと繰り返し言われますけど、100万人も「人を恐れない」人が住んでいる国を、はたしてこれから現今の「ファシズム政権」は”鎮圧”できるでしょうか。
希望的観測すぎることは認めますが、過去80年間もカール・バルト、カール・バルトと「反ナチ神学者」を後追いし続けた日本の教会のことは、そう簡単には”鎮圧”できないと思いますけど。
そういえば、今の政府のほぼど真ん中にいる人もクリスチャンなはずだけど。
まあそれはともかく、歴史は繰り返していませんよ。
もし繰り返すのだとしたら、日本の教会は過去88年間、ただ惰眠をむさぼり続けただけだと謗られても仕方ありません。
---------------------------------------
そして、もし許されるなら言わせていただきたいことは、88年前の日本と今の日本の決定的な違いは、「日本の教会」のかつてと今の違いです。
キリシタンは一度日本で(地下に潜った方々以外は)消し去られました。そのトラウマが日本でキリスト教信仰を持とうとする者の心に、いまだに刻みつけられています。
しかし、それでも、150年前にまがりなりにも日本の教会史が「再開」されました。しかし、88年前(治安維持法制定時)は、(再開後の)日本宣教(わずか)60年。今は150年。かつてと今の「教会」は同じでしょうか。
日本の「異物」である教会の信仰は「人を恐れない」。
国民の1%「しか」クリスチャンはいない、クリスチャンは日本では少数だ、少数だと繰り返し言われますけど、100万人も「人を恐れない」人が住んでいる国を、はたしてこれから現今の「ファシズム政権」は”鎮圧”できるでしょうか。
希望的観測すぎることは認めますが、過去80年間もカール・バルト、カール・バルトと「反ナチ神学者」を後追いし続けた日本の教会のことは、そう簡単には”鎮圧”できないと思いますけど。
そういえば、今の政府のほぼど真ん中にいる人もクリスチャンなはずだけど。
まあそれはともかく、歴史は繰り返していませんよ。
もし繰り返すのだとしたら、日本の教会は過去88年間、ただ惰眠をむさぼり続けただけだと謗られても仕方ありません。
2013年12月8日日曜日
歴史は繰り返さない
えっとですね、一応申し上げておきますと、
ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。
1925年と2013年が同じなわけないです。
ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、
それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて
「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。
しかし、それは「権力の座」からの退場であって、
地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。
つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて
「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」
ということだと、ぼくは思っています。
歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、
それこそファシズムの一種です。
犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。
「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。
そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。
屁理屈っぽくてすみません。
犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。
ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、
今はもうできません。
その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。
逃げられるものなら逃げてみろ。
たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。
「人々を恐れてはならない。
覆われているもので現されないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)
ぼくは「歴史」は「繰り返さない」という立場なんです。
1925年と2013年が同じなわけないです。
ぼくの考えは、「繰り返される」のは「犯罪行為」であって、
それを「繰り返している」やつらにレッドカードを突きつけて
「権力の座」から退場させなくてはならないというものです。
しかし、それは「権力の座」からの退場であって、
地上の世界からの追放ではありませんし、あってはなりません。
つまり、「歴史は繰り返す」のではなくて
「歴史そのものは犯罪者を絶滅させる役割を必ずしも持っていない」
ということだと、ぼくは思っています。
歴史から犯罪者がいなくなればすっきりする、という考えもあるでしょうけど、
それこそファシズムの一種です。
犯罪者を締め出し、絶滅させる役割を「歴史」そのものは持っていない。
「歴史は繰り返される」ではなく「犯罪は繰り返される」。
そのたびに我々は何を考え、何をなすべきか。それが重要だと思います。
屁理屈っぽくてすみません。
犯罪者の「手口」は昔も今も同じ。
ですが、まんまと逃げおおせることが、かつてはできたかもしれませんが、
今はもうできません。
その意味では、「歴史」は「繰り返さない」と思います。
逃げられるものなら逃げてみろ。
たまには牧師らしく、聖書の御言葉を引用します。
「人々を恐れてはならない。
覆われているもので現されないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
(新約聖書・マタイによる福音書10章26節)
2013年12月7日土曜日
「この私が何者であるか知らないふりをなさるならば」
今週火曜日(12月3日)
北小金駅から国会議事堂駅までの電車の中で読んでいた本の中で、
最も感動した言葉を引用させていただきます。
ひとりで涙が止まらなくなり、隣の男子高校生に二度見されました。
-------------------------------------------------------
総督は、なおも執拗に、「カェサルの守護霊にかけて誓え」と迫ったが、
ポリュカルポスは答えた。
「私が、あなたの言うとおりにカェサルの守護霊にかけて誓うだろう
などという空しい考えを持ち、
この私が何者であるか知らないふりをなさるならば、
心を広くしてお聞き下さい。
私はキリスト教徒です。
キリスト教の教えの内容を学びたいならば、
一日の猶予をお与え下さい。
そうすればお話し致します。」
「聖なるポリュカルポスの殉教」(土岐正策・土岐健治訳)より引用。
『キリスト教教父著作集22 殉教者行伝』教文館、1990年、11頁。
-------------------------------------------------------
みなさま、それではおやすみなさい。
ゆっくり休むことが明日の力になります。
「第20回 カール・バルト研究会」報告
(日付が変わってしまったので)昨日、
2013年12月6日(金)
午後9時から7日(土)午前0時すぎまで
「第20回 カール・バルト研究会」を
グーグルプラス・ハングアウトで行いました。
テキストはカール・バルト『教義学要綱』
(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の
「11 救い主にして神の僕」の前半部分でした。
日付が変わるくらい盛り上がりました。面白かったです。
神学の学びをしているときも
国会前のデモ参加者と祈りで連帯しています。
今が「信仰告白的事態」(status confessionis)でなくて、
いつがそうなのでしょうか。
ぼくらはべつに、神学ごっこしてるわけじゃないんだ。
そのへんはね、なんとかお伝えしたいところです。
2013年12月4日水曜日
2013年12月3日(火)参議院前のデモの様子です
2013年12月3日(火)午後2時頃の参議院前のデモの様子です。 ぼくのガラケーで撮りました。 どこに「テロ」の要素があるんだか、さっぱり分かりません。 一般市民をこれ以上バカにしないほうがいいと思いますよ。 軍事オタク政権の皆さまへ。
無理な採決、もうやめましょうよ
軍事オタク政権に戦勝妄想から覚めてもらうための一つの方法として、
デモは確かに有効かもしれません。
40年前ならね、
鉄パイプとか火炎瓶とか迫撃砲を持ってるんじゃないかとか、
でたらめな嫌疑をかけて、警官隊に実弾こめさせる、
みたいなことが可能だったかもしれませんが、
今は無理です、それは。
最大でプラカード一枚持ってるだけです。
あ、太鼓持ってた人もいたな。
全員が全員、丸腰の一般市民。
ぼくなんかガラケーと財布と本しか持ってなかったし。
あ、ボールペンもあったか。
そのボールペン、スパイ道具みたいな仕掛けとかないですよ。
ないない。アホか。
ぼくらテロリストですか。違うと思うけど。
そんなぼくら相手に実弾こめれますか。
こめれたとしても、それどうにかできますか。
そんなことさせてしまうのは、
善良な警察のみなさんに対して、むしろ申し訳ないですよ。
させられるか、そんなこと。
ちっちゃい子どもさんいる警察の人たちもたくさんいるでしょうし、
首都圏だって線量、十分高いし、
今の国を動かしてる人たちに向かって言いたいこと、山ほどあるはず。
本心では制服ぬいでデモに参加したいけど、
それやると家族を食わせることができなくなるので我慢してるだけ。
違憲国会で決めたことになんか、だれも従えないって。
無理な採決、もうやめましょうよ。
登録:
コメント (Atom)


