過去のローカルな話ですが、
中学も高校も、自宅から10キロほど離れた学校に自転車で通っていたので、
行きはともかく、帰りはほぼ毎日、どこかに寄り道していました。
でも、実際の行き先が、中高生ごときにそんなにたくさんあるわけではない。
友人宅でしゃべるか、そうでなければ本屋かあるいは公立の図書館に行くか、
ほとんどそのどちらかでした。
本屋も次第にラップで包んだりして立ち読みをさせてもらえないようになり、
そうなるともう、ある意味で必然的・消去法的に
長時間とどまって「休憩」できる場所は、公立の図書館しかない、
という状況に追い込まれていきました。
冒険するタイプではないので、
学校と自宅を結ぶ直線から遠く離れたところまで飛び出していく勇気はない。
実際の行き先は、(以下すべて「岡山市立」)
中央図書館、幸町図書館、浦安総合公園図書館のどれかでした。
それはまさに、ぼくにとっては「帰路の休憩所」以上でも、それ以下でもありませんでした。
今さら文句を言いたいわけではないんですが、
「知的好奇心」を刺激してやまないキラキラ輝く本が立ち並んでいたわけではないです。
ぼく的には、本を読んでいるふりして休憩させてもらっているだけでしたので、
なるべく見た目が格好いい装丁の本を選ぶ傾向がありました。
そういうのをデンと机の上に置き、読むというより眺めているのが好きでした。
そういう「偽装用アイテム」として、ぼくがよく使わせてもらったのは、
『三島由紀夫全集』でしたね。
字をおっかけても全く頭に入らないし、興味もわかないんですけどね。
司書さんの目からはどんなふうに見えてたんでしょうね。
毎日のように汗だくで図書館に駆け込み、『三島由紀夫全集』を耽読している高校生。
思い出すだけで笑えますね。
つまらない話ですいません。
2013年9月27日金曜日
2013年9月26日木曜日
I Have A Dream
5年前(2008年12月)
アムステルダム自由大学で開催された
「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler Congres)で、
モルトマン先生が最前列に座っていた約200名の欧米の神学者の前で
ぼくが英語でスピーチをした、ということで、
その後、一人の方(ぼくより年上の女性の牧師さんです)から
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
と(ネットではなくリアルで)言われたのですが、
「いや、まだ死ねないですね」
と真顔で応えたことを、昨日のことのように覚えています。
今年(2013年)ぼくが立教大学のゲスト講義をさせていただいたあと、
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
とは、だれも言ってくれません。
「もうそろそろいいかな」と思ってるんですけど。
ぼくが何をしたいのかについて、釈明の必要があるでしょうかね。
ぼくという人間を個人的に少しでも知っている方々は、
「功成り名遂げる」ことなどに興味を持つ人間ではありえないことを、
例外なく知っています。
ついでにいえば、
「競争」がとにかく苦手で、そういう状況に追い込まれると、
ほぼ100パー「どうぞどうぞ」(ダチョウ倶楽部)と譲ってしまう人間でもあります。
そういうことではなくて、ですね、
ぼくは、
日本の教会と牧師が、
もっと「神学」(←ここ重要です)を勉強することで、
もっと「社会的に信頼される」(←ここも重要です)存在になってほしいと、
「自分のことを棚に上げないで」(←ここが最も重要です)願っているだけです。
教会と牧師が「神学」を学ぶことが、なぜ「社会的信頼」につながるのかといえば、
話は単純です。
自分が語っている言葉や、していることの意味や内容を
きちんと説明することもできない人たちを、だれが信用するのかという問題です。
前に書きましたよね(書きませんでしたっけ?)、
ぼくが牧師になろうと思った動機の、いくつかある中の一つ。
生まれたときから通っていた教会の牧師の説教があまりにも支離滅裂に思えたので、
ぼくが代わりに説教しなければならないと思い詰めた、という話。
みなさんに言っておきますよ。
自分の子どもや教会の青年に「牧師になってほしい」と願っている牧師たちは、
名説教をしてはいけません。聞くに堪えない説教をしてください。
そうすれば、
貴方の(ひどい)説教に我慢できなくなった青年たちが、
次々に神学校に入学し、牧師を目指しはじめるでしょう。
ぼくは、日本キリスト改革派教会の教師を引退する定年70歳まで、
残り22年とちょっとです。
引退まで、ただひたすら、説教と牧会を続けていく所存です。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
2013年9月26日
関口 康
アムステルダム自由大学で開催された
「国際ファン・ルーラー学会」(Internationale Van Ruler Congres)で、
モルトマン先生が最前列に座っていた約200名の欧米の神学者の前で
ぼくが英語でスピーチをした、ということで、
その後、一人の方(ぼくより年上の女性の牧師さんです)から
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
と(ネットではなくリアルで)言われたのですが、
「いや、まだ死ねないですね」
と真顔で応えたことを、昨日のことのように覚えています。
今年(2013年)ぼくが立教大学のゲスト講義をさせていただいたあと、
「関口さん、もういつ死んでもいいですね」
とは、だれも言ってくれません。
「もうそろそろいいかな」と思ってるんですけど。
ぼくが何をしたいのかについて、釈明の必要があるでしょうかね。
ぼくという人間を個人的に少しでも知っている方々は、
「功成り名遂げる」ことなどに興味を持つ人間ではありえないことを、
例外なく知っています。
ついでにいえば、
「競争」がとにかく苦手で、そういう状況に追い込まれると、
ほぼ100パー「どうぞどうぞ」(ダチョウ倶楽部)と譲ってしまう人間でもあります。
そういうことではなくて、ですね、
ぼくは、
日本の教会と牧師が、
もっと「神学」(←ここ重要です)を勉強することで、
もっと「社会的に信頼される」(←ここも重要です)存在になってほしいと、
「自分のことを棚に上げないで」(←ここが最も重要です)願っているだけです。
教会と牧師が「神学」を学ぶことが、なぜ「社会的信頼」につながるのかといえば、
話は単純です。
自分が語っている言葉や、していることの意味や内容を
きちんと説明することもできない人たちを、だれが信用するのかという問題です。
前に書きましたよね(書きませんでしたっけ?)、
ぼくが牧師になろうと思った動機の、いくつかある中の一つ。
生まれたときから通っていた教会の牧師の説教があまりにも支離滅裂に思えたので、
ぼくが代わりに説教しなければならないと思い詰めた、という話。
みなさんに言っておきますよ。
自分の子どもや教会の青年に「牧師になってほしい」と願っている牧師たちは、
名説教をしてはいけません。聞くに堪えない説教をしてください。
そうすれば、
貴方の(ひどい)説教に我慢できなくなった青年たちが、
次々に神学校に入学し、牧師を目指しはじめるでしょう。
ぼくは、日本キリスト改革派教会の教師を引退する定年70歳まで、
残り22年とちょっとです。
引退まで、ただひたすら、説教と牧会を続けていく所存です。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
2013年9月26日
関口 康
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2013年9月25日水曜日
日記「たとえていえば、買ったばかりのパソコンのようなものです」
ぼくは「哲学」ということばを、広い意味でも狭い意味でも考えています。
広い意味での「哲学」はモノゴトの考え方の筋道というくらいの意味ですので、そこには「宗教」は含まれます。宗教の哲学を「宗教哲学」と呼んだりします。あるいは、数学であれ物理学であれ、モノゴトの考え方の筋道が示されて然るべき学問ですから、それらも一種の「哲学」です。
しかし、狭い意味での「哲学」は、たとえばヘーゲルが示したような形、それは「論理学」(よみかきそろばん、といえばよいでしょうか)と「自然哲学」(理系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)と「精神哲学」(文系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)を総合したようなものです。
それを教えるのは大学に入ってからだ、というのがヨーロッパでは昔からの考え方でしたが、それをもっと低年齢から教えはじめるべきだ、というのがデリダの主張だったようです。現状ではそれらはまだ、少なくとも日本の公教育の中では十分に教えられているとは言えないので、一つの(現状に対する批判的な)問題提起として、デリダの主張は日本でももっと聞かれるべきではないかと、ぼくは思います。
ぼくの場合はかなり過激な意見になってしまいがちなのですが、今の公共教育(とくに小学校から高校まで)が重んじていることは「形式」(フォーム)ばかりで、「内容」(マテリアル)がないと、ぼくは感じるのです。
英語力も計算力も強化されているとは思う。だけど、それは、たとえていえば、買ってきたばかりのパソコンのようなものです。どんなに高性能でも、中身(マテリアル)が空っぽです。もちろん、いまならパソコンのスイッチを入れてネットにつなげば、ブラウザ経由で無尽蔵のデータが手に入るのかもしれない。だけど、その中から自分に必要なデータを取捨選択するのは、あくまでも自分自身です。
その取捨選択の根拠とその論理は何かを問うても、ポカン顔でスルーされてしまう感じ。何を問われているのか、その質問の意図さえ理解してもらえない。その「内容」が、ぼくは「哲学」なり「宗教」なりではないだろうかと思っているのです。
ぼく自身の中でも未整理で錯綜している部分が多いので、途中で辻褄が合わなくなってしまうところがあることを自覚しています。
デリダが「哲学教育の低年齢化」という場合、具体的に何歳くらいで教育を始めるべきだと考えていたのかが一つの問題ですが、1822年(19世紀初頭!)のヘーゲルが「11歳のときにヴォルフのイデア・クラーラ(明晰判明ナル観念)の定義を学び、ついで13歳のときに三段論法の格および規則の総体をわがものにした」と子どもの頃を回顧している言葉をデリダが引用しています(ジャック・デリダ『ヘーゲルの時代』白井健三郎訳、国文社、1984年、48ページ)。
それが「ヘーゲルの時代」の学校教育だった、しかし、いま(のフランス)は違う、そういうことを全く教えていない、というわけです。
しかし、ぼく自身は、日本の公立学校の教育、とくに義務教育の小中学校の間に「哲学」を教えるべきだ、ということまでは、さすがに(まさか)考えていません。やはり高校以上でしょう。
ぼく自身は岡山の県立高校の卒業生ですが、当時の「倫理社会」の先生とかが授業中に「私は仏教徒です」とか名乗りながらえんえんと仏教の解説をしたり、哲学をこと細かに教えてくれたりしました。
ぼくは高校時代にはすでにキリスト教徒でしたので、その先生の授業に心底辟易しながらも(だっておもむろにキリスト教批判とか始めるんですよ)、今でも心に残る良い授業だったと思っています。
そういうのが最近はあるのでしょうか。あるなら素晴らしいと思うのですが、無さそうに感じます。
そして、その傾向(公教育で哲学を熱心に教えている様子が感じられないという傾向)は、公立・私立は関係ないような気がします。
逆に、高校ごときで教えるレベルの「中途半端な」思想性を身につけて大学に入ってこられたら扱いにくくて困る、そういうことするなら、おたくの学校の推薦枠を取り消しちゃうよ、みたいなクギでも大学側から刺されているのではないかと感じるほどの、高校の「価値中立化」があるのではないか、と穿ってみたくさえなります。
広い意味での「哲学」はモノゴトの考え方の筋道というくらいの意味ですので、そこには「宗教」は含まれます。宗教の哲学を「宗教哲学」と呼んだりします。あるいは、数学であれ物理学であれ、モノゴトの考え方の筋道が示されて然るべき学問ですから、それらも一種の「哲学」です。
しかし、狭い意味での「哲学」は、たとえばヘーゲルが示したような形、それは「論理学」(よみかきそろばん、といえばよいでしょうか)と「自然哲学」(理系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)と「精神哲学」(文系学問の根本原理、といえばよいでしょうか)を総合したようなものです。
それを教えるのは大学に入ってからだ、というのがヨーロッパでは昔からの考え方でしたが、それをもっと低年齢から教えはじめるべきだ、というのがデリダの主張だったようです。現状ではそれらはまだ、少なくとも日本の公教育の中では十分に教えられているとは言えないので、一つの(現状に対する批判的な)問題提起として、デリダの主張は日本でももっと聞かれるべきではないかと、ぼくは思います。
ぼくの場合はかなり過激な意見になってしまいがちなのですが、今の公共教育(とくに小学校から高校まで)が重んじていることは「形式」(フォーム)ばかりで、「内容」(マテリアル)がないと、ぼくは感じるのです。
英語力も計算力も強化されているとは思う。だけど、それは、たとえていえば、買ってきたばかりのパソコンのようなものです。どんなに高性能でも、中身(マテリアル)が空っぽです。もちろん、いまならパソコンのスイッチを入れてネットにつなげば、ブラウザ経由で無尽蔵のデータが手に入るのかもしれない。だけど、その中から自分に必要なデータを取捨選択するのは、あくまでも自分自身です。
その取捨選択の根拠とその論理は何かを問うても、ポカン顔でスルーされてしまう感じ。何を問われているのか、その質問の意図さえ理解してもらえない。その「内容」が、ぼくは「哲学」なり「宗教」なりではないだろうかと思っているのです。
ぼく自身の中でも未整理で錯綜している部分が多いので、途中で辻褄が合わなくなってしまうところがあることを自覚しています。
デリダが「哲学教育の低年齢化」という場合、具体的に何歳くらいで教育を始めるべきだと考えていたのかが一つの問題ですが、1822年(19世紀初頭!)のヘーゲルが「11歳のときにヴォルフのイデア・クラーラ(明晰判明ナル観念)の定義を学び、ついで13歳のときに三段論法の格および規則の総体をわがものにした」と子どもの頃を回顧している言葉をデリダが引用しています(ジャック・デリダ『ヘーゲルの時代』白井健三郎訳、国文社、1984年、48ページ)。
それが「ヘーゲルの時代」の学校教育だった、しかし、いま(のフランス)は違う、そういうことを全く教えていない、というわけです。
しかし、ぼく自身は、日本の公立学校の教育、とくに義務教育の小中学校の間に「哲学」を教えるべきだ、ということまでは、さすがに(まさか)考えていません。やはり高校以上でしょう。
ぼく自身は岡山の県立高校の卒業生ですが、当時の「倫理社会」の先生とかが授業中に「私は仏教徒です」とか名乗りながらえんえんと仏教の解説をしたり、哲学をこと細かに教えてくれたりしました。
ぼくは高校時代にはすでにキリスト教徒でしたので、その先生の授業に心底辟易しながらも(だっておもむろにキリスト教批判とか始めるんですよ)、今でも心に残る良い授業だったと思っています。
そういうのが最近はあるのでしょうか。あるなら素晴らしいと思うのですが、無さそうに感じます。
そして、その傾向(公教育で哲学を熱心に教えている様子が感じられないという傾向)は、公立・私立は関係ないような気がします。
逆に、高校ごときで教えるレベルの「中途半端な」思想性を身につけて大学に入ってこられたら扱いにくくて困る、そういうことするなら、おたくの学校の推薦枠を取り消しちゃうよ、みたいなクギでも大学側から刺されているのではないかと感じるほどの、高校の「価値中立化」があるのではないか、と穿ってみたくさえなります。
日記「教会は事実上「(低年齢化された)哲学教育」をやってきたのだと思う」
ジャック・デリダが『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、1984年、国文社)でも(おそらく他の本でも)主張していることを一言でいえば
「哲学教育の低年齢化の必要性」ですよね。
ぼくの読み方が間違っていなければそういうことだと思います。
ぼくは賛成ですね、「哲学教育の低年齢化」賛成。
というか、ぼくら教会は、かなり無自覚でやってますよ、「日曜学校」という形での、きわめて低年齢からの(独特の意味での)「哲学教育」。
旧約聖書に書かれていますよね、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12:1)。これは創造者なる神への「信仰」を持つのは「青春の日々」が良い、という勧めとして読むことができます。
「神の創造」についての信仰などは子どもに対しても大人に対しても一切触れない(そういう「信仰」は一切持つべきでないと考えている)教会も、なかにはあるのかもしれませんけどね。
そのような例外はともかくとして、
もし教会が、「神の創造」についての信仰を小さな子どもに対して教えているとしたら、そのときすでに事実上の「(低年齢化された)哲学教育」が開始されているのだと、ぼくは思います。
そして、そのような教育は、子どもたちの将来にとって(良かれ悪しかれ)モノスゴク重大な影響を与えると思います。
そのような場面で手抜き教育が行われると、子どもたちは思想的に混乱します。
どのみち、小学校も中級くらいになってくると世界の成り立ちについての自然科学的な考え方がどんどん教えられますので、それと聖書の教えとの“関係”(それは“違い”だけではないです)が、手抜きなく教えられる必要があります。
それはかなり高度な神学的・哲学的な問いを間違いなく含んでいますので、問いに応えるにも熟練が必要です。
それでぼくは何を言いたいのかといえば、
デリダな人たちをつかまえて「うちの教会の日曜学校を見習ってほしい」と言いたいのではないし、教会のみんなに「デリダを読むべきだ」などと言いたいのでは(まさか)ありませんので、念のため。
ただ、強いて言えば、実際にはぼくたち(教会のことです)は、ずいぶん低年齢から「特殊教育」を受けたり施したりしているんだと思いますよ、と言いたい、かな。
以上、それだけ。
「哲学教育の低年齢化の必要性」ですよね。
ぼくの読み方が間違っていなければそういうことだと思います。
ぼくは賛成ですね、「哲学教育の低年齢化」賛成。
というか、ぼくら教会は、かなり無自覚でやってますよ、「日曜学校」という形での、きわめて低年齢からの(独特の意味での)「哲学教育」。
旧約聖書に書かれていますよね、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12:1)。これは創造者なる神への「信仰」を持つのは「青春の日々」が良い、という勧めとして読むことができます。
「神の創造」についての信仰などは子どもに対しても大人に対しても一切触れない(そういう「信仰」は一切持つべきでないと考えている)教会も、なかにはあるのかもしれませんけどね。
そのような例外はともかくとして、
もし教会が、「神の創造」についての信仰を小さな子どもに対して教えているとしたら、そのときすでに事実上の「(低年齢化された)哲学教育」が開始されているのだと、ぼくは思います。
そして、そのような教育は、子どもたちの将来にとって(良かれ悪しかれ)モノスゴク重大な影響を与えると思います。
そのような場面で手抜き教育が行われると、子どもたちは思想的に混乱します。
どのみち、小学校も中級くらいになってくると世界の成り立ちについての自然科学的な考え方がどんどん教えられますので、それと聖書の教えとの“関係”(それは“違い”だけではないです)が、手抜きなく教えられる必要があります。
それはかなり高度な神学的・哲学的な問いを間違いなく含んでいますので、問いに応えるにも熟練が必要です。
それでぼくは何を言いたいのかといえば、
デリダな人たちをつかまえて「うちの教会の日曜学校を見習ってほしい」と言いたいのではないし、教会のみんなに「デリダを読むべきだ」などと言いたいのでは(まさか)ありませんので、念のため。
ただ、強いて言えば、実際にはぼくたち(教会のことです)は、ずいぶん低年齢から「特殊教育」を受けたり施したりしているんだと思いますよ、と言いたい、かな。
以上、それだけ。
2013年9月24日火曜日
日記「ヘーゲルが難しすぎて泣ける」
こういうことを書くと、ただ軽蔑を招くだけなのか、
だれかを慰めることになるのかは分かりませんが、
ぼくが買った本の中には
10年でも20年でも「読めない」本がたくさんあります。
たとえばヘーゲル関係の本などがそうです。
興味津々なのですが、難解すぎて読めません。
岩波版『ヘーゲル全集』も欲しいと思っているくらいですが、
それを買っても、たぶん結果は同じです。
ヘーゲルは生前に(出版年順に)
『精神現象学』と『大論理学』と『エンチュクロペディー』と『法の哲学』を出版したそうですが、
これは組織神学をかじっている者には興味津々です。
ヘーゲルはテュービンゲン神学校で「神学」を学んだ人なので、
ヘーゲルの思想にキリスト教の影響があるのは当然のことですし、
「一種のキリスト教哲学を営んだ」と見ることが、飛躍や暴論であるとは思えません。
著書にしても
『エンチュクロペディー』
『神の義(レヒト)の哲学』(法哲学)
『神のことば(ロギーク)の研究』(大論理学)
『神の霊(ガイスト)の現象』(精神現象学)
とでも考えてみれば、三位一体的な構成のような気がしてきます。
でも、全く歯が立たないので、「もしかしてそうかな?」と思っているだけです。
「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」という気持ちです。
ヘーゲルに強い方、ぜひ教えてください。
2013年9月23日月曜日
アイ・ラヴ・ユー
I love you.は「わたしはあなたを愛しています」ではないよね、
てか、「わたしはあなたを愛しています」という日本語は無いよね、
...と思ってましたが、ありますねそれ。
それはある、ということにさっき気づいて、反省しました。
でも、ちょっと違う気がする。
「わたしはあなたを愛してるよ」
ですかね(照れる)。
でも、これI love you.じゃないですね。
てか、「わたしはあなたを愛しています」という日本語は無いよね、
...と思ってましたが、ありますねそれ。
それはある、ということにさっき気づいて、反省しました。
でも、ちょっと違う気がする。
「わたしはあなたを愛してるよ」
ですかね(照れる)。
でも、これI love you.じゃないですね。
2013年9月22日日曜日
信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい
テモテへの手紙一6・11~16
「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」
テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。
10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。
そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。
今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。
「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。
「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。
人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。
そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。
そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。
教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。
「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。
しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。
しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。
それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。
ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。
ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。
迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。
しかし、誤解がないようにお願いします。
それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。
これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。
しかし、それは誤解です。
「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。
そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。
つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。
イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。
しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)
「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」
テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。
10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。
そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。
今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。
「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。
「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。
人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。
そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。
そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。
教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。
「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。
しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。
しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。
それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。
ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。
ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。
迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。
しかし、誤解がないようにお願いします。
それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。
これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。
しかし、それは誤解です。
「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。
そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。
つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。
イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。
しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)
今日の朝の礼拝の説教をブログに貼りつけました
たまには宣伝しておきます。
「関口康日記」の姉妹ブログである「今週の説教」のほうもぜひお読みいただきたく願っています。
今日の朝の礼拝の説教原稿を貼りつけておきました。
説教題は「教会に通うことは自由になることです」です。ローマの信徒への手紙7・1~6の講解です。
今週の説教: 教会に通うことは自由になることです(2013年9月22日)
「関口康日記」の姉妹ブログである「今週の説教」のほうもぜひお読みいただきたく願っています。
今日の朝の礼拝の説教原稿を貼りつけておきました。
説教題は「教会に通うことは自由になることです」です。ローマの信徒への手紙7・1~6の講解です。
今週の説教: 教会に通うことは自由になることです(2013年9月22日)
教会に通うことは自由になることです
ローマの信徒への手紙7・1~6
「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
今日の個所にはずいぶんきわどい言葉が続いていますので、少々お話ししづらいところがあります。前回の個所と同様パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(6・19)のです。話を分かりやすくするために、敢えてきわどいことを書いているのです。
小見出しに「結婚の比喩」と書かれています。しかし、その話の中に「夫が死ねば」という言葉が二回も繰り返されていますので、これは夫が死ぬ話であるということが分かります。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」(1節)と書かれています。
「律法」とは法律です。字を書く順序を入れ替えただけです。聖書に記された神の戒めを「律法」と呼びますが、それが人間社会の秩序やルールを定めるものであるという点では、律法と法律は同じです。
ですから、パウロが言いたいことは、結婚とは法律に基づく行為であるということです。法律は、わたしたちが地上で生きている間だけ、わたしたちを縛るものであるということです。死んだ後までわたしたちを縛るものではありません。それが「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)とパウロが書いている意図です。
だからこそ、「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3節)というような話にもなっていきます。死別後の再婚は何の問題もないと言っているのです。
しかし、これはあくまでも比喩です。パウロが言いたいことは、結婚とか死別とか再婚とか、そのこと自体ではありません。このような比喩を用いて別のことが言いたいのです。
パウロは何を言いたいのでしょうか。それは次の言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(4節)。
これはどういうことでしょうか。パウロの言葉から分かることは、前回までの個所に書かれていることとも合わせていえば、まずは洗礼を受けるということはイエス・キリストに結ばれることであるという点があります。そしてそのうえで、イエス・キリストと結ばれた人は律法に対しては死んだ者となっていると言っています。
なぜそういうことになるのかというと、ここで先ほどから申している「結婚の比喩」が関係してきます。「夫が死ねば」という点が重要です。夫が死ねば再婚は可能であるというわけです。
しかし、この話が、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれるという話とどのように関係してくるのでしょうか。洗礼の場合はだれが死ぬのでしょうか。その答えははっきりしています。わたしたちが死ぬのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのであり、「その死にあずかるものとな」ったのです(6・4)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6・6)のです。
わたしたちは洗礼を受けたときに一度死んだのです。だから律法との関係はそこで終わったのです。そして、だからこそイエス・キリストの“再婚”が可能になったのです。律法との関係も続けながらイエス・キリストとの関係を始めたわけではないのだ。その意味で“姦淫”を犯しているのではないのだ。そのような話をパウロがしています。
しかし、これはわたしたちにとって分かりやすい話でしょうか、それとも、分かりにくいでしょうか。分かりにくいとお感じになる方が多いかもしれませんので、別の視点から考えてみる必要があるような気がします。
別の視点と言いますのは、次のようなことです。パウロが「律法の支配」と言っていることの中に、彼がおそらく生まれたときから関係し続けてきたと思われるユダヤ教との関係の問題が含まれているに違いない、ということです。
パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った人です。彼自身、熱心なユダヤ教徒となり、エルサレムの律法学校の卒業生であり、ユダヤ教の指導者になることを目指して訓練を受けた人でもあります。
そのようなパウロが、人生の途中で方向を換えてイエス・キリストを信じる人になり、キリスト者となり、教会に通い、教会の牧師となり、伝道者となることは、彼の古巣であるユダヤ教の人たちの目から見れば、パウロは姦淫を犯しているというように見えたかもしれません。あれほどユダヤ教を信じていた人が、別の道に入った。裏切り者だ、姦淫の罪を犯している。二つの宗教を二股かけている。そのような批判やそしりを受けても仕方がないような立場にパウロが立ったことは間違いないのです。
しかし、パウロはもちろん、そのような意味での姦淫を犯しているわけではありません。彼は二股かけているわけではありません。律法に対しては死んだのだ。洗礼を受けたときにイエス・キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。だから、もうそのときに律法との関係は終わったのだ。“再婚”は可能なのだ。だから、いま自分が教会に通っていることも、教会の牧師であり、伝道者であることは、誰から責められるようなことでもないのだと、パウロは声を大にして主張しているのです。
乱暴な言い方をするつもりはありません。しかし、ここで私が申し上げたいことは、宗教とはそのようなものだということです。あちらの宗教からも、こちらの宗教からも、自分にとって都合のよいところを少しずつもらって役立てる、というようなことはできないものだ、ということです。
聖書が教える「姦淫」というのは、男女の関係だけの問題ではありません。あちらの宗教の神さまと、こちらの宗教の神さまと、その両方とも信じるとか、両方に仕えようとする、というようなことも含んでいます。そのようなやり方は宗教にはそぐわないものです。それは、聖書が教える意味での「姦淫」を犯すことなのです。
ですから、洗礼を受けることには、やはり決断が伴います。ひとりの神さまを選ぶ、という決心と約束が必要です。より正確な言い方をすれば、まず第一に神がイエス・キリストにおいてわたしたちを選んでくださるのですが、わたしたちを選んでくださったその神をわたしたち自身が選ぶのです。この方をわたしたち自身が選び、この方と共に生きていくことを決めなくてはなりません。
いま私がみなさんにそのことを押しつけているのではありません。パウロはそうしたのだ、と申し上げているのです。生まれたときから通っていた、長年世話にもなった、そこで指導者になることを目指しもした、ユダヤ教の教会に別れを告げました。「薄情なやつだ」「裏切り者だ」と言われようとも。パウロは、古い自分は洗礼を受けたときに十字架につけられて死んだのだと信じました。そして、イエス・キリストとの“再婚”の道を選んだのです。
それは、どういうことになるでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことがあります。パウロのように生きることは、世間を狭くすることになるでしょうか、という問題です。洗礼を受けたばかりに、人間関係が希薄になった。友達が減った。孤立した。そのような寂しい人生を送らなければならなくなるでしょうか。「そのとおりだ」と言われてしまうかもしれませんが、私にはそうとは思えないのです。
パウロはむしろ、前よりももっと多くの、本当に心から信頼できる、心おけない仲間が与えられたのではないかと私は思います。そうではないでしょうか。なるほどたしかに、昔の人間関係は切れてしまったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に基づいて愛と喜びを分かち合う仲間が与えられたのではないでしょうか。
私はキリスト者であり、教会の牧師ですから、「特定の宗教を宣伝している」と思われてしまうのは仕方がないことです。しかし、ひとりの神さま、ひとりのイエス・キリストを信じ、従って生きる道を選んだ人々には堂々たる安定感があると私は思っています。付和雷同的ではない。風見鶏ではない。首尾一貫性がある。安心して信頼できる存在になっていく。そういう人は、友達が少なくなるとか、世間が狭くなるということにはならないのです。
しかし、ここから先は、実際にその道を生きてみるしかないと言わざるをえません。今日の説教題に「教会に通うことは自由になることです」と書かせていただきました。これは日本だけではなく、現代の世界において最も説得力のない言葉だと思われてしまうことであるということは、分かっているつもりです。
多くの人は、全く逆のことを考えています。宗教に深入りしたら自由がなくなる。宗教はわたしたちの人生をがんじがらめに束縛する。教会とはそのようなところであると見られているということを、知らないでいるわけではないのです。
しかし、ぜひ私の言葉を信じていただきたいのです。「教会」と名の付くすべてが同じであるとまでは申しません。しかし、わたしたちの教会は、だれをも束縛しません。それが事実かどうかは、わたしたちの教会に通っている人の顔や姿を見ていただくしかありません。牧師の命令や脅迫に怯えている人はひとりもいません。自由の喜びに満たされています。
教会に通うことは自由になることです。洗礼を受け、イエス・キリストと結ばれ、教会に通うことによって、わたしたちは罪の誘惑から自由になります。自己実現の際限なき欲望から自由になります。そのことを信じていただきたいのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日礼拝)
「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
今日の個所にはずいぶんきわどい言葉が続いていますので、少々お話ししづらいところがあります。前回の個所と同様パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(6・19)のです。話を分かりやすくするために、敢えてきわどいことを書いているのです。
小見出しに「結婚の比喩」と書かれています。しかし、その話の中に「夫が死ねば」という言葉が二回も繰り返されていますので、これは夫が死ぬ話であるということが分かります。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」(1節)と書かれています。
「律法」とは法律です。字を書く順序を入れ替えただけです。聖書に記された神の戒めを「律法」と呼びますが、それが人間社会の秩序やルールを定めるものであるという点では、律法と法律は同じです。
ですから、パウロが言いたいことは、結婚とは法律に基づく行為であるということです。法律は、わたしたちが地上で生きている間だけ、わたしたちを縛るものであるということです。死んだ後までわたしたちを縛るものではありません。それが「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)とパウロが書いている意図です。
だからこそ、「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3節)というような話にもなっていきます。死別後の再婚は何の問題もないと言っているのです。
しかし、これはあくまでも比喩です。パウロが言いたいことは、結婚とか死別とか再婚とか、そのこと自体ではありません。このような比喩を用いて別のことが言いたいのです。
パウロは何を言いたいのでしょうか。それは次の言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(4節)。
これはどういうことでしょうか。パウロの言葉から分かることは、前回までの個所に書かれていることとも合わせていえば、まずは洗礼を受けるということはイエス・キリストに結ばれることであるという点があります。そしてそのうえで、イエス・キリストと結ばれた人は律法に対しては死んだ者となっていると言っています。
なぜそういうことになるのかというと、ここで先ほどから申している「結婚の比喩」が関係してきます。「夫が死ねば」という点が重要です。夫が死ねば再婚は可能であるというわけです。
しかし、この話が、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれるという話とどのように関係してくるのでしょうか。洗礼の場合はだれが死ぬのでしょうか。その答えははっきりしています。わたしたちが死ぬのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのであり、「その死にあずかるものとな」ったのです(6・4)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6・6)のです。
わたしたちは洗礼を受けたときに一度死んだのです。だから律法との関係はそこで終わったのです。そして、だからこそイエス・キリストの“再婚”が可能になったのです。律法との関係も続けながらイエス・キリストとの関係を始めたわけではないのだ。その意味で“姦淫”を犯しているのではないのだ。そのような話をパウロがしています。
しかし、これはわたしたちにとって分かりやすい話でしょうか、それとも、分かりにくいでしょうか。分かりにくいとお感じになる方が多いかもしれませんので、別の視点から考えてみる必要があるような気がします。
別の視点と言いますのは、次のようなことです。パウロが「律法の支配」と言っていることの中に、彼がおそらく生まれたときから関係し続けてきたと思われるユダヤ教との関係の問題が含まれているに違いない、ということです。
パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った人です。彼自身、熱心なユダヤ教徒となり、エルサレムの律法学校の卒業生であり、ユダヤ教の指導者になることを目指して訓練を受けた人でもあります。
そのようなパウロが、人生の途中で方向を換えてイエス・キリストを信じる人になり、キリスト者となり、教会に通い、教会の牧師となり、伝道者となることは、彼の古巣であるユダヤ教の人たちの目から見れば、パウロは姦淫を犯しているというように見えたかもしれません。あれほどユダヤ教を信じていた人が、別の道に入った。裏切り者だ、姦淫の罪を犯している。二つの宗教を二股かけている。そのような批判やそしりを受けても仕方がないような立場にパウロが立ったことは間違いないのです。
しかし、パウロはもちろん、そのような意味での姦淫を犯しているわけではありません。彼は二股かけているわけではありません。律法に対しては死んだのだ。洗礼を受けたときにイエス・キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。だから、もうそのときに律法との関係は終わったのだ。“再婚”は可能なのだ。だから、いま自分が教会に通っていることも、教会の牧師であり、伝道者であることは、誰から責められるようなことでもないのだと、パウロは声を大にして主張しているのです。
乱暴な言い方をするつもりはありません。しかし、ここで私が申し上げたいことは、宗教とはそのようなものだということです。あちらの宗教からも、こちらの宗教からも、自分にとって都合のよいところを少しずつもらって役立てる、というようなことはできないものだ、ということです。
聖書が教える「姦淫」というのは、男女の関係だけの問題ではありません。あちらの宗教の神さまと、こちらの宗教の神さまと、その両方とも信じるとか、両方に仕えようとする、というようなことも含んでいます。そのようなやり方は宗教にはそぐわないものです。それは、聖書が教える意味での「姦淫」を犯すことなのです。
ですから、洗礼を受けることには、やはり決断が伴います。ひとりの神さまを選ぶ、という決心と約束が必要です。より正確な言い方をすれば、まず第一に神がイエス・キリストにおいてわたしたちを選んでくださるのですが、わたしたちを選んでくださったその神をわたしたち自身が選ぶのです。この方をわたしたち自身が選び、この方と共に生きていくことを決めなくてはなりません。
いま私がみなさんにそのことを押しつけているのではありません。パウロはそうしたのだ、と申し上げているのです。生まれたときから通っていた、長年世話にもなった、そこで指導者になることを目指しもした、ユダヤ教の教会に別れを告げました。「薄情なやつだ」「裏切り者だ」と言われようとも。パウロは、古い自分は洗礼を受けたときに十字架につけられて死んだのだと信じました。そして、イエス・キリストとの“再婚”の道を選んだのです。
それは、どういうことになるでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことがあります。パウロのように生きることは、世間を狭くすることになるでしょうか、という問題です。洗礼を受けたばかりに、人間関係が希薄になった。友達が減った。孤立した。そのような寂しい人生を送らなければならなくなるでしょうか。「そのとおりだ」と言われてしまうかもしれませんが、私にはそうとは思えないのです。
パウロはむしろ、前よりももっと多くの、本当に心から信頼できる、心おけない仲間が与えられたのではないかと私は思います。そうではないでしょうか。なるほどたしかに、昔の人間関係は切れてしまったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に基づいて愛と喜びを分かち合う仲間が与えられたのではないでしょうか。
私はキリスト者であり、教会の牧師ですから、「特定の宗教を宣伝している」と思われてしまうのは仕方がないことです。しかし、ひとりの神さま、ひとりのイエス・キリストを信じ、従って生きる道を選んだ人々には堂々たる安定感があると私は思っています。付和雷同的ではない。風見鶏ではない。首尾一貫性がある。安心して信頼できる存在になっていく。そういう人は、友達が少なくなるとか、世間が狭くなるということにはならないのです。
しかし、ここから先は、実際にその道を生きてみるしかないと言わざるをえません。今日の説教題に「教会に通うことは自由になることです」と書かせていただきました。これは日本だけではなく、現代の世界において最も説得力のない言葉だと思われてしまうことであるということは、分かっているつもりです。
多くの人は、全く逆のことを考えています。宗教に深入りしたら自由がなくなる。宗教はわたしたちの人生をがんじがらめに束縛する。教会とはそのようなところであると見られているということを、知らないでいるわけではないのです。
しかし、ぜひ私の言葉を信じていただきたいのです。「教会」と名の付くすべてが同じであるとまでは申しません。しかし、わたしたちの教会は、だれをも束縛しません。それが事実かどうかは、わたしたちの教会に通っている人の顔や姿を見ていただくしかありません。牧師の命令や脅迫に怯えている人はひとりもいません。自由の喜びに満たされています。
教会に通うことは自由になることです。洗礼を受け、イエス・キリストと結ばれ、教会に通うことによって、わたしたちは罪の誘惑から自由になります。自己実現の際限なき欲望から自由になります。そのことを信じていただきたいのです。
(2013年9月22日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年9月21日土曜日
日記「デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな」
いつからだろう、もしかしたら物心つく頃から
「だれからも支配されたくない。だれをも支配したくない」
と、ぼくは本当に考え続けてきたのですが、
これってデリダが言ってたらしいと、いま知りました。
(リンク先参照 http://www.rakuhoku-pub.jp/book/2701X.html)
デリダは一冊(『ヘーゲルの時代』国文社、白井健三郎訳、1984年)しか読んでないけど、
そんなこと書いてたっけ。記憶にないなあ...
とか考えながら、いま『ヘーゲルの時代』を開いたら、こんな切り抜きが出てきました。
おやおや、「2004年11月18日 木曜日」だって。松戸に来た年だ。
「知識人の言葉は無力だが、あきらめてはいけない」
デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな。
「だれからも支配されたくない。だれをも支配したくない」
と、ぼくは本当に考え続けてきたのですが、
これってデリダが言ってたらしいと、いま知りました。
(リンク先参照 http://www.rakuhoku-pub.jp/book/2701X.html)
デリダは一冊(『ヘーゲルの時代』国文社、白井健三郎訳、1984年)しか読んでないけど、
そんなこと書いてたっけ。記憶にないなあ...
とか考えながら、いま『ヘーゲルの時代』を開いたら、こんな切り抜きが出てきました。
おやおや、「2004年11月18日 木曜日」だって。松戸に来た年だ。
「知識人の言葉は無力だが、あきらめてはいけない」
デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな。
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