2013年9月22日日曜日

信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい

テモテへの手紙一6・11~16

「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」

テモテへの手紙一の学びもあと一回分残っているところまで来ました。しかし、前もってお知らせしておきます。来月は第四日曜日の夕拝は、休会とします。

10月27日日曜日、午後3時から、「東関東中会宗教改革記念合同礼拝」を、船橋高根教会で行います。そちらに合流します。松戸小金原教会の夕拝はありません。

そのため、この手紙の学びは、10月27日ではなく11月24日の夕拝で終わりにします。12月からは、新しいテキストを学びます。

今日の個所はこの手紙の締めくくりにふさわしく、手紙の送り先であるテモテを励ます言葉が書かれています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)。

「避けなさい」の原語の意味を調べてみました。「避ける」と訳しても間違いではありません。しかし、「逃げる」とか「逃げ去る」という意味のほうが強い言葉であることが分かりました。

「これらのこと」(11節)とは何でしょうか。いろんな意味が考えられます。しかし最も直接的には、直前に書かれている「金銭の欲」(10節)です。そして、欲深い生き方のすべてです。そういうものを避けることが求められています。しかし、その意味は、むしろ逃げることです。全速力で走って逃げること。逃亡することです。

人間を分け隔てするようなことを言うべきではありません。しかし、欲望というのは自分一人でも成り立ちますが、それが集団化すると凶悪なものになりかねません。組織的な犯罪のようなものに組み込まれてしまうと、個人の力ではいかんともしがたい状況に追い込まれてしまうことがあります。

そのような人間関係からは、全速力で逃げるべきです。そうでなければ、悪い仲間に引きずり込まれてしまいます。

そういう関係からは一目散に逃げてください。そして、全く新しい関係に加わってください。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求める仲間に加わってください。それが教会です。

教会は、そのような犯罪集団から逃げてきた人々を匿うことがあります。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれ、正義と信心、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求める仲間になっていただくことを願っているのです。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と続いています。

「信仰の戦い」とは何のことでしょうか。信仰とは戦うことでしょうか。思い当たるのは「欲」との戦い、あるいは「罪」との戦いです。

しかし、「戦いなさい」とパウロは言いながら、「避けなさい」(その意味は「逃げなさい」)とも言っています。わたしたちは、戦うべきなのでしょうか、それとも逃げるなのべきでしょうか。このような疑問が起こって来るような気がします。

しかし、パウロの言っていることは矛盾ではないと思います。「信仰の戦い」は、言葉の通常の意味での戦いではないのです。わたしたちの場合、「戦い」と言いましても、腕力を使うことではないし、暴力をふるうことでもありません。

それでは、言葉や知恵を用いて戦うのかと考えてみますと、もちろんその面もあるわけですが、口喧嘩をするわけではありません。言葉の暴力をふるいあうことではないのです。

ならば、何が「信仰の戦い」なのでしょうか。それは、罪を避けることです。欲望の誘惑から逃げることです。それこそが「信仰の戦い」です。

ですから、わたしたちは敵に背中を向けて逃げてもいいのです。弱虫と言われようが、負け犬と罵られようが、そこで立ち止まり、振り向いて、敵をめがけて暴力の戦いを挑むべきではないのです。

迷わず逃げてください。遠ざかってください。後ろを振り向かないでください。別れの言葉は要りません。「さようなら」と言わなくてはならないと思わないでください。それを言うために引き返す必要はありません。わたしたちは、命を得るために、罪から逃げるのです。逃げることは、恥ずかしいことではありません。

しかし、誤解がないようにお願いします。

それは「人生をやめること」ではありません。この世に生きているかぎり、罪を犯すことは避けられないということは、なるほど事実です。しかし、だからといって、罪から逃げるということは人生をやめることではないのです。

これはふざけた問いではありません。かなり深刻な問いです。深刻に真剣に、自分の罪を悔いるゆえに、自分がこの世に生きていること自体が罪であると思い、自分で命を断ってしまう人がいます。

しかし、それは誤解です。

「罪から逃げること」は、「人生をやめること」を意味するわけではありません。

そうではなくて、生きたままで、罪を犯さないように心がけることです。

つまり、「信仰の戦い」とは、地上で生きながらにして、罪を犯すことから逃げ続けるのをあきらめないことです。だからこそ、それは「戦い」なのです。

イエス・キリストと共に生きていくとは、そのようなことです。イエス・キリストは、腕力や暴力で戦われたわけではありません。全くの無抵抗の戦いでした。十字架につけられて殺されました。惨めであわれなお姿でした。

しかし、そのイエス・キリストと共に、わたしたちは生きていくのです。イエスさまは弱虫でも負け犬でもありません。罪との戦いを徹底的に戦い抜いた方なのです。

(2013年9月22日、松戸小金原教会主日夕拝)

今日の朝の礼拝の説教をブログに貼りつけました

たまには宣伝しておきます。

「関口康日記」の姉妹ブログである「今週の説教」のほうもぜひお読みいただきたく願っています。

今日の朝の礼拝の説教原稿を貼りつけておきました。

説教題は「教会に通うことは自由になることです」です。ローマの信徒への手紙7・1~6の講解です。

今週の説教: 教会に通うことは自由になることです(2013年9月22日)

教会に通うことは自由になることです

ローマの信徒への手紙7・1~6

「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

今日の個所にはずいぶんきわどい言葉が続いていますので、少々お話ししづらいところがあります。前回の個所と同様パウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(6・19)のです。話を分かりやすくするために、敢えてきわどいことを書いているのです。

小見出しに「結婚の比喩」と書かれています。しかし、その話の中に「夫が死ねば」という言葉が二回も繰り返されていますので、これは夫が死ぬ話であるということが分かります。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです」(1節)と書かれています。

「律法」とは法律です。字を書く順序を入れ替えただけです。聖書に記された神の戒めを「律法」と呼びますが、それが人間社会の秩序やルールを定めるものであるという点では、律法と法律は同じです。

ですから、パウロが言いたいことは、結婚とは法律に基づく行為であるということです。法律は、わたしたちが地上で生きている間だけ、わたしたちを縛るものであるということです。死んだ後までわたしたちを縛るものではありません。それが「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)とパウロが書いている意図です。

だからこそ、「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(3節)というような話にもなっていきます。死別後の再婚は何の問題もないと言っているのです。

しかし、これはあくまでも比喩です。パウロが言いたいことは、結婚とか死別とか再婚とか、そのこと自体ではありません。このような比喩を用いて別のことが言いたいのです。

パウロは何を言いたいのでしょうか。それは次の言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(4節)。

これはどういうことでしょうか。パウロの言葉から分かることは、前回までの個所に書かれていることとも合わせていえば、まずは洗礼を受けるということはイエス・キリストに結ばれることであるという点があります。そしてそのうえで、イエス・キリストと結ばれた人は律法に対しては死んだ者となっていると言っています。

なぜそういうことになるのかというと、ここで先ほどから申している「結婚の比喩」が関係してきます。「夫が死ねば」という点が重要です。夫が死ねば再婚は可能であるというわけです。

しかし、この話が、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれるという話とどのように関係してくるのでしょうか。洗礼の場合はだれが死ぬのでしょうか。その答えははっきりしています。わたしたちが死ぬのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのであり、「その死にあずかるものとな」ったのです(6・4)。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」(6・6)のです。
 
わたしたちは洗礼を受けたときに一度死んだのです。だから律法との関係はそこで終わったのです。そして、だからこそイエス・キリストの“再婚”が可能になったのです。律法との関係も続けながらイエス・キリストとの関係を始めたわけではないのだ。その意味で“姦淫”を犯しているのではないのだ。そのような話をパウロがしています。

しかし、これはわたしたちにとって分かりやすい話でしょうか、それとも、分かりにくいでしょうか。分かりにくいとお感じになる方が多いかもしれませんので、別の視点から考えてみる必要があるような気がします。

別の視点と言いますのは、次のようなことです。パウロが「律法の支配」と言っていることの中に、彼がおそらく生まれたときから関係し続けてきたと思われるユダヤ教との関係の問題が含まれているに違いない、ということです。

パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒の家庭に生まれ育った人です。彼自身、熱心なユダヤ教徒となり、エルサレムの律法学校の卒業生であり、ユダヤ教の指導者になることを目指して訓練を受けた人でもあります。

そのようなパウロが、人生の途中で方向を換えてイエス・キリストを信じる人になり、キリスト者となり、教会に通い、教会の牧師となり、伝道者となることは、彼の古巣であるユダヤ教の人たちの目から見れば、パウロは姦淫を犯しているというように見えたかもしれません。あれほどユダヤ教を信じていた人が、別の道に入った。裏切り者だ、姦淫の罪を犯している。二つの宗教を二股かけている。そのような批判やそしりを受けても仕方がないような立場にパウロが立ったことは間違いないのです。

しかし、パウロはもちろん、そのような意味での姦淫を犯しているわけではありません。彼は二股かけているわけではありません。律法に対しては死んだのだ。洗礼を受けたときにイエス・キリストと共に十字架につけられて死んだのだ。だから、もうそのときに律法との関係は終わったのだ。“再婚”は可能なのだ。だから、いま自分が教会に通っていることも、教会の牧師であり、伝道者であることは、誰から責められるようなことでもないのだと、パウロは声を大にして主張しているのです。

乱暴な言い方をするつもりはありません。しかし、ここで私が申し上げたいことは、宗教とはそのようなものだということです。あちらの宗教からも、こちらの宗教からも、自分にとって都合のよいところを少しずつもらって役立てる、というようなことはできないものだ、ということです。

聖書が教える「姦淫」というのは、男女の関係だけの問題ではありません。あちらの宗教の神さまと、こちらの宗教の神さまと、その両方とも信じるとか、両方に仕えようとする、というようなことも含んでいます。そのようなやり方は宗教にはそぐわないものです。それは、聖書が教える意味での「姦淫」を犯すことなのです。

ですから、洗礼を受けることには、やはり決断が伴います。ひとりの神さまを選ぶ、という決心と約束が必要です。より正確な言い方をすれば、まず第一に神がイエス・キリストにおいてわたしたちを選んでくださるのですが、わたしたちを選んでくださったその神をわたしたち自身が選ぶのです。この方をわたしたち自身が選び、この方と共に生きていくことを決めなくてはなりません。

いま私がみなさんにそのことを押しつけているのではありません。パウロはそうしたのだ、と申し上げているのです。生まれたときから通っていた、長年世話にもなった、そこで指導者になることを目指しもした、ユダヤ教の教会に別れを告げました。「薄情なやつだ」「裏切り者だ」と言われようとも。パウロは、古い自分は洗礼を受けたときに十字架につけられて死んだのだと信じました。そして、イエス・キリストとの“再婚”の道を選んだのです。

それは、どういうことになるでしょうか。ぜひ考えてみていただきたいことがあります。パウロのように生きることは、世間を狭くすることになるでしょうか、という問題です。洗礼を受けたばかりに、人間関係が希薄になった。友達が減った。孤立した。そのような寂しい人生を送らなければならなくなるでしょうか。「そのとおりだ」と言われてしまうかもしれませんが、私にはそうとは思えないのです。

パウロはむしろ、前よりももっと多くの、本当に心から信頼できる、心おけない仲間が与えられたのではないかと私は思います。そうではないでしょうか。なるほどたしかに、昔の人間関係は切れてしまったかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に基づいて愛と喜びを分かち合う仲間が与えられたのではないでしょうか。

私はキリスト者であり、教会の牧師ですから、「特定の宗教を宣伝している」と思われてしまうのは仕方がないことです。しかし、ひとりの神さま、ひとりのイエス・キリストを信じ、従って生きる道を選んだ人々には堂々たる安定感があると私は思っています。付和雷同的ではない。風見鶏ではない。首尾一貫性がある。安心して信頼できる存在になっていく。そういう人は、友達が少なくなるとか、世間が狭くなるということにはならないのです。

しかし、ここから先は、実際にその道を生きてみるしかないと言わざるをえません。今日の説教題に「教会に通うことは自由になることです」と書かせていただきました。これは日本だけではなく、現代の世界において最も説得力のない言葉だと思われてしまうことであるということは、分かっているつもりです。

多くの人は、全く逆のことを考えています。宗教に深入りしたら自由がなくなる。宗教はわたしたちの人生をがんじがらめに束縛する。教会とはそのようなところであると見られているということを、知らないでいるわけではないのです。

しかし、ぜひ私の言葉を信じていただきたいのです。「教会」と名の付くすべてが同じであるとまでは申しません。しかし、わたしたちの教会は、だれをも束縛しません。それが事実かどうかは、わたしたちの教会に通っている人の顔や姿を見ていただくしかありません。牧師の命令や脅迫に怯えている人はひとりもいません。自由の喜びに満たされています。

教会に通うことは自由になることです。洗礼を受け、イエス・キリストと結ばれ、教会に通うことによって、わたしたちは罪の誘惑から自由になります。自己実現の際限なき欲望から自由になります。そのことを信じていただきたいのです。

(2013年9月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月21日土曜日

日記「デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな」

いつからだろう、もしかしたら物心つく頃から

「だれからも支配されたくない。だれをも支配したくない」

と、ぼくは本当に考え続けてきたのですが、

これってデリダが言ってたらしいと、いま知りました。

(リンク先参照 http://www.rakuhoku-pub.jp/book/2701X.html

デリダは一冊(『ヘーゲルの時代』国文社、白井健三郎訳、1984年)しか読んでないけど、

そんなこと書いてたっけ。記憶にないなあ...

とか考えながら、いま『ヘーゲルの時代』を開いたら、こんな切り抜きが出てきました。

おやおや、「2004年11月18日 木曜日」だって。松戸に来た年だ。

「知識人の言葉は無力だが、あきらめてはいけない」

デリダをもう少しちゃんと読んでみるかな。


2013年9月19日木曜日

ほぼ最初の日から「ほとんど日本キリスト改革派教会の教師」でした


1990年4月、東京神学大学大学院を卒業して

補教師として赴任した日本基督教団南国教会(高知県南国市)の

当時「主任牧師」であった鈴木實先生のご夫人が、

初めてお目にかかった日に

「父が書いた本です」と言いながらプレゼントしてくださったのが、

岡田稔著『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)でした。

鈴木先生のご夫人の純さんは、岡田稔先生のご長女でした。

『改革派教理学教本』は粗削りであると思いましたが、武骨さに魅了されました。

岡田稔先生は1992年7月に亡くなられました。

神港教会での葬儀には、鈴木先生ご夫妻と共にぼくも参列しました。

1992年9月から1993年9月までに『岡田稔著作集』全5巻が出版されました。

『岡田稔著作集』もすべて、鈴木先生ご夫妻からのプレゼントです。

こんな感じでしたので、

ぼくは日本基督教団の補教師になったほぼ最初の日から、

心の中は「ほとんど日本キリスト改革派教会の教師」でした。

当時感じたことを偽りなく書きますが、

「姦淫」の罪を犯している気がしてきたので(そのように何度か公言しました)、

1998年6月、日本キリスト改革派教会の教師にしていただきました。

日本基督教団の制度には問題を感じていましたが、人を憎む思いは皆無でした。

神戸改革派神学校には2年次編入し、在学は1年3か月でしたが、卒業しました。

その短い間に、

牧田吉和先生と市川康則先生の「改革派教義学」のすべての講義を聴きました。

卒業論文も書きました。ファン・ルーラーの神学を取り上げました。

その後、東部中会で「厳しい」加入試験を受けて合格しました。

なんら、モグリではありません。

日本キリスト改革派教会に加入して16年目です。

しかし、『改革派教理学教本』と出会った日から数えれば24年目です。

妻と結婚して23年目(これは余談)。

日本キリスト改革派教会加入以来、

「新入り」と自称してモジモジしてきましたが、

ぼくよりも20歳も若い人が教師になりましたので、

もう「新入り」を名乗るのはやめようと思います。

今年度は大会では無役でヒマでしたが、中会では5つの委員会に加えられています。

ぼくはぼくなりに充実した毎日を過ごしております。

ありがとうございます。

2013年9月18日水曜日

罪の力に負けないでください

ローマの信徒への手紙6・15~23

「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

今日の個所でもパウロは罪の問題を考え続けています。しかし、今日の個所でパウロが問題にしていることの中心にあるのは、わたしたちは罪を犯してもよいかどうかということです。その答えは、当然のことですが、「だめです」ということです。罪を犯してもよいという話にはなりません。そんな話になるわけがありません。それは明らかにおかしな話です。

これは冷静に考えれば、だれでも分かる話です。そもそも「犯してもよい罪」が存在するでしょうか。そんなのはありません。それを「罪」とは呼びません。

私はもちろん、聖書に書かれている意味の「罪」について考えています。その場合でも、どんな場合でも、「罪」には必ず加害者と被害者とがいるのだということを忘れてはなりません。加害者も被害者もいない罪などは存在しません。だれかが罪を犯せば、その罪によって他のだれかが必ず傷つくのです。

もしそうであれば、「犯してもよい罪」は存在しないということは、だれでも分かる話です。それは、言い方を換えれば、だれかが犯した罪によって傷つけられてもよい人は存在しない、ということです。

これから申し上げるのは、よく使われるたとえです。それを「罪」と呼ぶのは大げさかもしれません。あくまでもたとえです。だれかの足を踏んだ人と、その人に足を踏まれただれかがいる。だれかの足を踏んだ人は、痛くもかゆくもない。しかし、その人に足を踏まれただれかは、一生忘れないと言いたくなるほど痛くてたまらない。

「踏まれてもよい足」が存在するでしょうか。そんなのはないのです。あってはならないのです。パウロが考えているのはそのようなことだと考えていただいて構いません。

「犯してもよい罪」などは存在しません。だれかに傷つけられてもよい人は存在しません。そんなことはやめてください。立場を逆にしてみればすぐ分かることです。自分が犯した罪は自分にとっては小さなものだと感じるかもしれません。しかし、その罪によって傷つけられた人にとっては大きなものだと感じます。

自分が加害者になったときはその罪をできるだけ小さなものに見せようとします。しかし、自分が被害者になったときは復讐の鬼になります。相手の罪を暴きたて、とことんまで責め立てます。そういうふうになっていくのが人間の弱さです。

復讐の攻防はえんえんと続きます。どちらかがどこかで断ち切らなければ、終わることがありません。しかし、そのとき、加害者が被害者の前で開き直って、自分の罪は「犯してもよい罪」だったのだ、などと言ってよいはずがありません。そんな罪は存在しないのです。

罪を犯さないようにすること。「犯してもよい罪」などは存在しないのだということを自分自身に強く言い聞かせること。それだけが復讐の攻防の悪連鎖を断ち切る唯一の道です。

しかし、パウロは、冷静に考えればだれでも分かるようなことを敢えて取り上げています。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」(15節)と書いています。

どうしてこんな話になるのでしょうか。それは先週の個所の最後に書かれていたことに関係しています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)と書かれていました。

これについて私は「わたしたちの支配者が変わったのだ」と説明しました。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれたわたしたちの支配者はイエス・キリストである。かつては罪がわたしたちの支配者だったが、その支配者がイエス・キリストに変わったのだと申しました。これはこれで、このまま受け入れていただきたいことです。そして、イエス・キリストにおいて表された「神の恵み」とは、わたしたちの罪を赦してくださる恵みです。これもこのとおりです。この説明自体が間違っているわけではありません。

しかし、こういうことを申しますと時々出てくる話は、「なるほど、それでは、わたしたちの犯す罪は何度でも赦していただけるのですね。それならば、これからも遠慮なくどんどん罪を犯してもいいのですね。だって神さまの広い心で何度でも赦してもらえるんでしょ?」というようなことだったりします。

そんな屁理屈は成り立ちませんよ、とパウロは言いたいのです。少しは遠慮しなさいと言いたいのです。いえ、「少し」どころか、ものすごく遠慮する必要があります。罪は犯してはいけないのです。犯してはいけないことを「罪」と呼ぶのです。

パウロは次のように書いています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷になる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。

「神に従順に仕える奴隷」とは何のことでしょうか。パウロが用いているこの表現は明らかに極端なものです。なぜパウロはこのような極端な表現を用いているのかといえば、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」(19節)と書いてあるとおりです。「分かりやすく説明している」つもりなのです。

「神に従順に仕える奴隷になる」というのは、文脈から見て明らかに、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれることを言い換えたことばです。そして「結ばれる」とは「結婚すること」とほとんど同じことを意味すると、先週申し上げました。それは、この後すぐに7章1節以下に「結婚の比喩」が出てくることからも明らかです。

しかし、洗礼を受けることは「結婚」とほとんど同じことだと言ったすぐ後に「それは神の奴隷になることだ」と言いはじめるのは、話の運び方としては、かなりまずいです。結婚することは奴隷になることでしょうか。こういうことを言うと、今ではものすごく怒られます。

しかし、話の運び方としては明らかにまずいのですが、たしかに分かりやすいことは分かりやすいです。パウロの意図を考えるとしたら、明らかに極端な表現を敢えて用いることによって強調しようとしている論点があるということです。

それは、もしわたしたちが「神の奴隷」にならないならば、ほとんど必ず「罪の奴隷」になるのだということです。なんでそんな話になるのかといえば、パウロは「罪」の力がものすごく強いものであり、人を誘惑し、魅了し、圧倒するものであるということを知っているのです。だからこそ、罪から人を引きはがし、引き離す力は神だけが持っておられるものだという話になり、罪から人を引きはがし、神のもとで保護される必要があるという話になるのです。神の支配下にもつかないが、罪の支配下にもつかないという中立の状態はないと言っているのです。

つまり、「神の奴隷」になることは、「罪の奴隷状態からの解放」を意味しています。罪のもとから、神があなたを取り戻す。奪還作戦が展開されるのです。

しかし、「神の奴隷」になるというのは、やはり言いすぎと言えば言いすぎです。そのことはパウロもよく分かっています。洗礼を受けて教会に通うことは、真に自由になることです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(18節)と書いています。

「伝えられた教えの規範」とは教会の中に伝えられた教えのことですから、今のわたしたちはそれを聖書という形で読むことができますが、パウロの時代には今の聖書ほどまとまったキリスト教の本は存在しませんでした。しかし、まとまっていない形のいろんな教えの規範がありました。そういうものに「心から従うようになる」とは、これも今のわたしたちで言えば、聖書を学ぶことと同じです。

それがどうして「神の奴隷」になることだと言うのかといえば、聖書を学ぶことは、これはこれでけっこう大変なことでもあり、苦痛もあるからではないかと思われます。「教会に来ても、また勉強か。うんざりだ」と思われてしまう面があることは否定できません。聖書を学ぶことに苦痛を感じ始めると、教会に通うことが苦痛になるかもしれません。「そうだったのか。教会に通うことは、教会の奴隷になることだったのか。こんなのはまっぴらだ」というような話になってしまう場合もあるわけです。

しかし、ここでパウロが言いたいことは、比較なのだと思います。「罪の奴隷」であり続けるぐらいならば、「神の奴隷」になるほうがましだ、と言いたいのです。しかし、洗礼を受けることは、奴隷になることではありませんから、どうかご安心ください。自由になることです。解放されることです。そのことをパウロは百も承知で、敢えて極端なことを言っているのです。

「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(19節)。

今日の個所でパウロは、一つのことしか言っていません。同じことを、いろんな言葉で何度も何度も言い換えているだけです。

「罪を犯してはいけない」と言っているだけです。罪の生活をこれからも続けて死にたいのか。そんなはずはないだろう、と言っているのです。罪の生活をやめて生きてくれ、と言っているのです。

罪を犯せば、必ず責められます。神からも人からも責められます。その責めに耐えられる人はいません。神からも人からも逃げ続けて生きなくてはならなくなります。

うそをつけば、そのうそを正当化するために、うそでうそを塗り固め続けなくてはならなくなります。ばれないようにするために、孤立し、隠れなくてはならなくなり、暗く寂しい人生になります。

それでいいのか、いいはずないだろう。

罪の奴隷状態から、あなたを奪い返す。

イエス・キリストの恵みの下であなたを保護する。

神の教えを学んで立ち直ってほしい。

そのようなパウロの強い意志が表われています。

それは、神御自身の意志であり、教会の意志でもあるのです。

(2013年9月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月17日火曜日

青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』を興味深く読ませていただいています

千葉英和高等学校(2013年9月17日17:30)


今日(2013年9月17日火曜日)午後5時30分から7時まで

「第4回 十字架の神学研究会」に出席しました。

会場は千葉英和高等学校でした。

今日のテキストは、

青野太潮著『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、2011年)の

「2 『贖い』の思想について―川島重成氏との対話―」でした。

この章の主旨は、

国際基督教大学での青野先生の先輩である川島重成氏(無教会関根正雄集会のメンバー)から

青野先生宛に送られた「書簡」に対する「反論」です。

刺激的で興味深い内容ですので、どんな議論が交わされているかをご紹介したいところですが、

この章は(本書は新書版ですが)62ページも費やされていますので、

聖書学に関して門外漢であるぼくにはなおさら、短い言葉でまとめて紹介することは不可能です。

しかし、一つの点だけですが、忘れないうちに書きとめておこうと思うことがありました。

それは、青野先生の議論は、ファン・ルーラーの神学をほんの少しかじっているぼくにとっては、

とても納得できるものであるということです。

それもそのはずです。

青野先生はすでに引退されていますが、

寺園喜基先生や天野有先生といったバルト研究者(主義者とお呼びしてよろしいでしょうか)への

明確な反論を青野先生が持っておられることが、論述の端々からはっきり分かるからです。

議論の過度の単純化は青野先生から叱られてしまうかもしれませんが(知己を得ていません)、

青野先生の「十字架の神学」の根本概念は、

イエス・キリストにおける「贖い」と「十字架の死」、否「殺害」との区別です。

すなわち、それは、

「イエス・キリストがわたしたちの身代わりに死んでくださったこと」と

「イエス・キリストが十字架に架けられて殺害されたこと」の区別です。

この区別によって神学と信仰においてどのような変化が起こるのかは、

青野先生のご著書を精読していただくほかはありません。

しかし、さしあたりすぐに指摘できることは、

「贖罪論一辺倒の神学」には限界がある、ということが、はっきり分かるということです。

青野先生が(ご本人の承諾を得た上で)全文を公開しておられる川島重成氏の「書簡」の中に

興味深いくだりがありました。以下、引用。

「昨年秋、無教会のある集会で、ロマ書八章後半について話す機会がありました。その関連文書を同封させてください。そこで書いたとおり、その時、私は、御霊のうめき(26節、27節)は、私たちのうめきに代わるものという点を強調しました。それ故に、もはや、うめかなければならないということはない、というのが私の主旨でした。むしろ喜ぶことこそが許されているのではないか、と。」
(青野、前掲書、73ページ)

この川島先生の見解にも、青野先生は反論しておられます。これは反論されて当然です。

川島先生のおっしゃっていることは、(ここでファン・ルーラーに登場してもらいます)

キリスト論における「代理」の概念を、聖霊論にも無理やり適用することによって

聖霊論の意図をメチャクチャに破壊している典型例です。

イエス・キリストは「わたしたち“の身代わりに”死んでくださる」ことによって、

わたしたちに命を与えてくださいました。

しかし、

聖霊は「わたしたち“の身代わりに”うめいてくださる」(?!)ことによって、

わたしたちはもはやうめかなくてもよくなる、というような意味での

「代理」の働きをするわけではないのです。

従って、川島先生のおっしゃっていることは、

《キリスト論の論理》と《聖霊論の論理》との完全なる混同であり、錯綜です。

厳しく言えば、支離滅裂としか言いようがありません。

聖霊は「わたしたち“と共に”うめいてくださる」のであって、

わたしたちもうめき続けるのです。

「代理のうめき」などというのは、全くもって奇妙な話です。

(この議論に「フィリオクェ」は無関係です。)

しかし、今ぼくが書いているのは組織神学の観点からの議論であって、

聖書学の議論には馴染まないかもしれません。

それでもぼくは、青野先生の議論を“面白がって”読ませていただいています。

そのことを書きとめておきたいと思いました。

「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です

今日は夕方からお出かけなので、それまでに書いておこうと、実は一昨日から思っていました。

先週金曜日に行った「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です。

テキストは、カール・バルトの『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8、造り主なる神」でしたが、

この個所が面白いのです。

以下、テキストを見ないで書きますので、ちょっと不正確かもしれませんが、

バルトの意図は次のようなことです。

この章でバルトが強調していることを一言でいえば、世界と人間はリアルな存在だということです。夢でも幻でもない、仮象でもなければ摩耶(ブッダの母)のヴェールでもない。リアルそのものである。

なぜ世界と人間はリアルであると言えるのかといえば、それを「神が創造された」からだとバルトは言う。

世界も人間も、神の性質の流出(神の中身が外にとろけでたような存在)ではないし(もしそうだとしたら、世界と人間はそれ自体で「神としての性質」を帯びていると言わざるをえなくなるが、事実はそうではない)、また、世界も人間も、永遠から永遠へと生きている存在ではない。

そうではなく、世界と人間は、神の創造力により「無から造られたもの」であり、無の土台の上に立っている。そのようにして、神によって造られた現実、すなわち「被造現実」(geschöpflichen Wirklichkeit)こそが、最もリアルな存在なのである。

しかし、世界と人間がリアルであることを我々が認識するためには、「神が人間になる」必要があった、とバルトは言います。ここにバルト神学の真骨頂である「キリスト論的集中」の論理が登場します。とくにバルトはキリストの《受肉》を、我々の世界認識、人間認識の土台に据えることを試みています。

なぜ「神が人間になること」が、我々が世界と人間をリアルなものとして認識する根拠になるのか、といえば、

そのことについてバルトはそれほどはっきりと語っているようには見えませんでしたが、

要するに、子なる神(イエス・キリスト)が「世界の外」(extra mundus)から「世界の内」(intra mundus)へと突入してくることによって初めて、世界と非世界の《境界線》が明確化される、というあたりのことを言っているように思えました。

その論理は、言うならば、「ウルトラマンがM78星雲から銀河系の地球まで来てくれたことによって、われらの愛する地球がリアルな存在であることが初めて分かる」というようなことだと考えればよいのかもしれません。

しかし、ここで、はたと立ち止まる。

「神が人間になること」なしには、世界と人類がリアルな存在であることを正しく認識することはできないというバルトの論理は、我々にとってはかなり分かる話でもあり、感動的な話ですらあるのだけれども、

本当にそれだけなのか、という問いかけは、あって然るべきだとは思えました。

神学論文のタイトル風にいえば「創造論のキリスト論的基礎づけ」には、長所もあるでしょうけど、短所もあるでしょう。

一例だけ挙げれば、

「神が人間になること」(イエス・キリストにおける神の子の受肉)への信仰を告白しない者は、いかなる意味でも世界と人間をリアルな存在として認識しえない、というような断言が成り立ちうるだろうか、

というような問いが具体的にありうるでしょう。

なんか、こんな感じのことを議論しながら、現実の問題を真剣に考えている「カール・バルト研究会」です。

関心ある方は、ぜひご参加ください。次回(第16回)は2013年9月27日(金)午後9時から11時まで(日本時間JST)です。大歓迎いたします。

あの頃ぼくたちは「神学」に夢中だっただけなんです!

もうちょっと続けます。

「神学」にネットを利用しはじめた頃の話。

直接的に、面と向かって、強く言われる、というわけでもないのです。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのです。

確認すると、それが事実だと分かる、という。

ぼくたちは「神学」に夢中になっているつもりだったのですが、

人の目から見ると「パソコンをいじくっている」としか見えないようで、

関口たちは「パソコン遊び」に夢中であると批判されていたらしい。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのですから、

だれがどんなことをおっしゃっていたのかは、いまだに知りません。

知りたいとは思っていませんので、ぼくには何も教えないでくださいね。

まあ、でも、だいたいのことは想像つきます。

嫌悪感を持たれた理由も、ごく最近、ふと気づきました。

原因の少なくとも一端は、たぶん「お医者さん」ですよね?違いますか。

よく愚痴を聞かされるようになったのが、ちょうどその頃です。

「わたしたちは何時間も待たされて、診てもらえるのは1分、2分なのに、

 先生(お医者さん)はその間もずっとパソコンの画面しか見ていない。

 わたしたちの顔を見てくれなくなった。」

これでパソコン嫌いになったんですよね?違いますか。

そんな中で、

教会の牧師たちまでが「パソコン遊び」を始めたと聞くと、

残念な気持ちになったんですよね?違いますか。

べつに、「パソコンいじくってた」んじゃないんですけどね。

「神学」に夢中だっただけです。

今は、その手の批判は、ほとんど聞かなくなりました。

そういうことをおっしゃっていた(世代の)方々こそが、

いま熱心にパソコン画面を見つめておられますからね。

皮肉で書いているのではありませんよ。

「誤解が解けて良かった」と思っているのです。

これからもお世話になります。よろしくお願いいたします。

「カール・バルト研究会」がドイツで紹介されました

ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の齋藤篤先生が「カール・バルト研究会」をブログで紹介してくださいました!

「菩提樹の窓より」2013.9.13 ~読書会~」
http://koelnbonn.jp/2013/09/「菩提樹の窓より」2013-9-13-~読書会~/

「カール・バルト研究会」の様子

ケルン・ボン日本語キリスト教会の初代牧師は、我々日本キリスト改革派教会の牧田吉和先生です。

齋藤先生はFacebookで仲良くしていただけるようになりました。まだ直接お会いしてはいません。

しかし、これだけ高性能のビデオ通話を何度か繰り返せば、初めてお会いする日が来たとき、もうさすがに「はじめまして」とは言えない気がします。

「まだ握手やハグ(はリアルでもしないけど)をしたことがない」だけですね、もはや。

齋藤先生、これからもよろしくお願いいたします。

ありがとうございました!