2013年9月18日水曜日

罪の力に負けないでください

ローマの信徒への手紙6・15~23

「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

今日の個所でもパウロは罪の問題を考え続けています。しかし、今日の個所でパウロが問題にしていることの中心にあるのは、わたしたちは罪を犯してもよいかどうかということです。その答えは、当然のことですが、「だめです」ということです。罪を犯してもよいという話にはなりません。そんな話になるわけがありません。それは明らかにおかしな話です。

これは冷静に考えれば、だれでも分かる話です。そもそも「犯してもよい罪」が存在するでしょうか。そんなのはありません。それを「罪」とは呼びません。

私はもちろん、聖書に書かれている意味の「罪」について考えています。その場合でも、どんな場合でも、「罪」には必ず加害者と被害者とがいるのだということを忘れてはなりません。加害者も被害者もいない罪などは存在しません。だれかが罪を犯せば、その罪によって他のだれかが必ず傷つくのです。

もしそうであれば、「犯してもよい罪」は存在しないということは、だれでも分かる話です。それは、言い方を換えれば、だれかが犯した罪によって傷つけられてもよい人は存在しない、ということです。

これから申し上げるのは、よく使われるたとえです。それを「罪」と呼ぶのは大げさかもしれません。あくまでもたとえです。だれかの足を踏んだ人と、その人に足を踏まれただれかがいる。だれかの足を踏んだ人は、痛くもかゆくもない。しかし、その人に足を踏まれただれかは、一生忘れないと言いたくなるほど痛くてたまらない。

「踏まれてもよい足」が存在するでしょうか。そんなのはないのです。あってはならないのです。パウロが考えているのはそのようなことだと考えていただいて構いません。

「犯してもよい罪」などは存在しません。だれかに傷つけられてもよい人は存在しません。そんなことはやめてください。立場を逆にしてみればすぐ分かることです。自分が犯した罪は自分にとっては小さなものだと感じるかもしれません。しかし、その罪によって傷つけられた人にとっては大きなものだと感じます。

自分が加害者になったときはその罪をできるだけ小さなものに見せようとします。しかし、自分が被害者になったときは復讐の鬼になります。相手の罪を暴きたて、とことんまで責め立てます。そういうふうになっていくのが人間の弱さです。

復讐の攻防はえんえんと続きます。どちらかがどこかで断ち切らなければ、終わることがありません。しかし、そのとき、加害者が被害者の前で開き直って、自分の罪は「犯してもよい罪」だったのだ、などと言ってよいはずがありません。そんな罪は存在しないのです。

罪を犯さないようにすること。「犯してもよい罪」などは存在しないのだということを自分自身に強く言い聞かせること。それだけが復讐の攻防の悪連鎖を断ち切る唯一の道です。

しかし、パウロは、冷静に考えればだれでも分かるようなことを敢えて取り上げています。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」(15節)と書いています。

どうしてこんな話になるのでしょうか。それは先週の個所の最後に書かれていたことに関係しています。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)と書かれていました。

これについて私は「わたしたちの支配者が変わったのだ」と説明しました。洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれたわたしたちの支配者はイエス・キリストである。かつては罪がわたしたちの支配者だったが、その支配者がイエス・キリストに変わったのだと申しました。これはこれで、このまま受け入れていただきたいことです。そして、イエス・キリストにおいて表された「神の恵み」とは、わたしたちの罪を赦してくださる恵みです。これもこのとおりです。この説明自体が間違っているわけではありません。

しかし、こういうことを申しますと時々出てくる話は、「なるほど、それでは、わたしたちの犯す罪は何度でも赦していただけるのですね。それならば、これからも遠慮なくどんどん罪を犯してもいいのですね。だって神さまの広い心で何度でも赦してもらえるんでしょ?」というようなことだったりします。

そんな屁理屈は成り立ちませんよ、とパウロは言いたいのです。少しは遠慮しなさいと言いたいのです。いえ、「少し」どころか、ものすごく遠慮する必要があります。罪は犯してはいけないのです。犯してはいけないことを「罪」と呼ぶのです。

パウロは次のように書いています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷になる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。

「神に従順に仕える奴隷」とは何のことでしょうか。パウロが用いているこの表現は明らかに極端なものです。なぜパウロはこのような極端な表現を用いているのかといえば、「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」(19節)と書いてあるとおりです。「分かりやすく説明している」つもりなのです。

「神に従順に仕える奴隷になる」というのは、文脈から見て明らかに、洗礼を受けてイエス・キリストと結ばれることを言い換えたことばです。そして「結ばれる」とは「結婚すること」とほとんど同じことを意味すると、先週申し上げました。それは、この後すぐに7章1節以下に「結婚の比喩」が出てくることからも明らかです。

しかし、洗礼を受けることは「結婚」とほとんど同じことだと言ったすぐ後に「それは神の奴隷になることだ」と言いはじめるのは、話の運び方としては、かなりまずいです。結婚することは奴隷になることでしょうか。こういうことを言うと、今ではものすごく怒られます。

しかし、話の運び方としては明らかにまずいのですが、たしかに分かりやすいことは分かりやすいです。パウロの意図を考えるとしたら、明らかに極端な表現を敢えて用いることによって強調しようとしている論点があるということです。

それは、もしわたしたちが「神の奴隷」にならないならば、ほとんど必ず「罪の奴隷」になるのだということです。なんでそんな話になるのかといえば、パウロは「罪」の力がものすごく強いものであり、人を誘惑し、魅了し、圧倒するものであるということを知っているのです。だからこそ、罪から人を引きはがし、引き離す力は神だけが持っておられるものだという話になり、罪から人を引きはがし、神のもとで保護される必要があるという話になるのです。神の支配下にもつかないが、罪の支配下にもつかないという中立の状態はないと言っているのです。

つまり、「神の奴隷」になることは、「罪の奴隷状態からの解放」を意味しています。罪のもとから、神があなたを取り戻す。奪還作戦が展開されるのです。

しかし、「神の奴隷」になるというのは、やはり言いすぎと言えば言いすぎです。そのことはパウロもよく分かっています。洗礼を受けて教会に通うことは、真に自由になることです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(18節)と書いています。

「伝えられた教えの規範」とは教会の中に伝えられた教えのことですから、今のわたしたちはそれを聖書という形で読むことができますが、パウロの時代には今の聖書ほどまとまったキリスト教の本は存在しませんでした。しかし、まとまっていない形のいろんな教えの規範がありました。そういうものに「心から従うようになる」とは、これも今のわたしたちで言えば、聖書を学ぶことと同じです。

それがどうして「神の奴隷」になることだと言うのかといえば、聖書を学ぶことは、これはこれでけっこう大変なことでもあり、苦痛もあるからではないかと思われます。「教会に来ても、また勉強か。うんざりだ」と思われてしまう面があることは否定できません。聖書を学ぶことに苦痛を感じ始めると、教会に通うことが苦痛になるかもしれません。「そうだったのか。教会に通うことは、教会の奴隷になることだったのか。こんなのはまっぴらだ」というような話になってしまう場合もあるわけです。

しかし、ここでパウロが言いたいことは、比較なのだと思います。「罪の奴隷」であり続けるぐらいならば、「神の奴隷」になるほうがましだ、と言いたいのです。しかし、洗礼を受けることは、奴隷になることではありませんから、どうかご安心ください。自由になることです。解放されることです。そのことをパウロは百も承知で、敢えて極端なことを言っているのです。

「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(19節)。

今日の個所でパウロは、一つのことしか言っていません。同じことを、いろんな言葉で何度も何度も言い換えているだけです。

「罪を犯してはいけない」と言っているだけです。罪の生活をこれからも続けて死にたいのか。そんなはずはないだろう、と言っているのです。罪の生活をやめて生きてくれ、と言っているのです。

罪を犯せば、必ず責められます。神からも人からも責められます。その責めに耐えられる人はいません。神からも人からも逃げ続けて生きなくてはならなくなります。

うそをつけば、そのうそを正当化するために、うそでうそを塗り固め続けなくてはならなくなります。ばれないようにするために、孤立し、隠れなくてはならなくなり、暗く寂しい人生になります。

それでいいのか、いいはずないだろう。

罪の奴隷状態から、あなたを奪い返す。

イエス・キリストの恵みの下であなたを保護する。

神の教えを学んで立ち直ってほしい。

そのようなパウロの強い意志が表われています。

それは、神御自身の意志であり、教会の意志でもあるのです。

(2013年9月15日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年9月17日火曜日

青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』を興味深く読ませていただいています

千葉英和高等学校(2013年9月17日17:30)


今日(2013年9月17日火曜日)午後5時30分から7時まで

「第4回 十字架の神学研究会」に出席しました。

会場は千葉英和高等学校でした。

今日のテキストは、

青野太潮著『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、2011年)の

「2 『贖い』の思想について―川島重成氏との対話―」でした。

この章の主旨は、

国際基督教大学での青野先生の先輩である川島重成氏(無教会関根正雄集会のメンバー)から

青野先生宛に送られた「書簡」に対する「反論」です。

刺激的で興味深い内容ですので、どんな議論が交わされているかをご紹介したいところですが、

この章は(本書は新書版ですが)62ページも費やされていますので、

聖書学に関して門外漢であるぼくにはなおさら、短い言葉でまとめて紹介することは不可能です。

しかし、一つの点だけですが、忘れないうちに書きとめておこうと思うことがありました。

それは、青野先生の議論は、ファン・ルーラーの神学をほんの少しかじっているぼくにとっては、

とても納得できるものであるということです。

それもそのはずです。

青野先生はすでに引退されていますが、

寺園喜基先生や天野有先生といったバルト研究者(主義者とお呼びしてよろしいでしょうか)への

明確な反論を青野先生が持っておられることが、論述の端々からはっきり分かるからです。

議論の過度の単純化は青野先生から叱られてしまうかもしれませんが(知己を得ていません)、

青野先生の「十字架の神学」の根本概念は、

イエス・キリストにおける「贖い」と「十字架の死」、否「殺害」との区別です。

すなわち、それは、

「イエス・キリストがわたしたちの身代わりに死んでくださったこと」と

「イエス・キリストが十字架に架けられて殺害されたこと」の区別です。

この区別によって神学と信仰においてどのような変化が起こるのかは、

青野先生のご著書を精読していただくほかはありません。

しかし、さしあたりすぐに指摘できることは、

「贖罪論一辺倒の神学」には限界がある、ということが、はっきり分かるということです。

青野先生が(ご本人の承諾を得た上で)全文を公開しておられる川島重成氏の「書簡」の中に

興味深いくだりがありました。以下、引用。

「昨年秋、無教会のある集会で、ロマ書八章後半について話す機会がありました。その関連文書を同封させてください。そこで書いたとおり、その時、私は、御霊のうめき(26節、27節)は、私たちのうめきに代わるものという点を強調しました。それ故に、もはや、うめかなければならないということはない、というのが私の主旨でした。むしろ喜ぶことこそが許されているのではないか、と。」
(青野、前掲書、73ページ)

この川島先生の見解にも、青野先生は反論しておられます。これは反論されて当然です。

川島先生のおっしゃっていることは、(ここでファン・ルーラーに登場してもらいます)

キリスト論における「代理」の概念を、聖霊論にも無理やり適用することによって

聖霊論の意図をメチャクチャに破壊している典型例です。

イエス・キリストは「わたしたち“の身代わりに”死んでくださる」ことによって、

わたしたちに命を与えてくださいました。

しかし、

聖霊は「わたしたち“の身代わりに”うめいてくださる」(?!)ことによって、

わたしたちはもはやうめかなくてもよくなる、というような意味での

「代理」の働きをするわけではないのです。

従って、川島先生のおっしゃっていることは、

《キリスト論の論理》と《聖霊論の論理》との完全なる混同であり、錯綜です。

厳しく言えば、支離滅裂としか言いようがありません。

聖霊は「わたしたち“と共に”うめいてくださる」のであって、

わたしたちもうめき続けるのです。

「代理のうめき」などというのは、全くもって奇妙な話です。

(この議論に「フィリオクェ」は無関係です。)

しかし、今ぼくが書いているのは組織神学の観点からの議論であって、

聖書学の議論には馴染まないかもしれません。

それでもぼくは、青野先生の議論を“面白がって”読ませていただいています。

そのことを書きとめておきたいと思いました。

「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です

今日は夕方からお出かけなので、それまでに書いておこうと、実は一昨日から思っていました。

先週金曜日に行った「第15回 カール・バルト研究会」の報告書です。

テキストは、カール・バルトの『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8、造り主なる神」でしたが、

この個所が面白いのです。

以下、テキストを見ないで書きますので、ちょっと不正確かもしれませんが、

バルトの意図は次のようなことです。

この章でバルトが強調していることを一言でいえば、世界と人間はリアルな存在だということです。夢でも幻でもない、仮象でもなければ摩耶(ブッダの母)のヴェールでもない。リアルそのものである。

なぜ世界と人間はリアルであると言えるのかといえば、それを「神が創造された」からだとバルトは言う。

世界も人間も、神の性質の流出(神の中身が外にとろけでたような存在)ではないし(もしそうだとしたら、世界と人間はそれ自体で「神としての性質」を帯びていると言わざるをえなくなるが、事実はそうではない)、また、世界も人間も、永遠から永遠へと生きている存在ではない。

そうではなく、世界と人間は、神の創造力により「無から造られたもの」であり、無の土台の上に立っている。そのようにして、神によって造られた現実、すなわち「被造現実」(geschöpflichen Wirklichkeit)こそが、最もリアルな存在なのである。

しかし、世界と人間がリアルであることを我々が認識するためには、「神が人間になる」必要があった、とバルトは言います。ここにバルト神学の真骨頂である「キリスト論的集中」の論理が登場します。とくにバルトはキリストの《受肉》を、我々の世界認識、人間認識の土台に据えることを試みています。

なぜ「神が人間になること」が、我々が世界と人間をリアルなものとして認識する根拠になるのか、といえば、

そのことについてバルトはそれほどはっきりと語っているようには見えませんでしたが、

要するに、子なる神(イエス・キリスト)が「世界の外」(extra mundus)から「世界の内」(intra mundus)へと突入してくることによって初めて、世界と非世界の《境界線》が明確化される、というあたりのことを言っているように思えました。

その論理は、言うならば、「ウルトラマンがM78星雲から銀河系の地球まで来てくれたことによって、われらの愛する地球がリアルな存在であることが初めて分かる」というようなことだと考えればよいのかもしれません。

しかし、ここで、はたと立ち止まる。

「神が人間になること」なしには、世界と人類がリアルな存在であることを正しく認識することはできないというバルトの論理は、我々にとってはかなり分かる話でもあり、感動的な話ですらあるのだけれども、

本当にそれだけなのか、という問いかけは、あって然るべきだとは思えました。

神学論文のタイトル風にいえば「創造論のキリスト論的基礎づけ」には、長所もあるでしょうけど、短所もあるでしょう。

一例だけ挙げれば、

「神が人間になること」(イエス・キリストにおける神の子の受肉)への信仰を告白しない者は、いかなる意味でも世界と人間をリアルな存在として認識しえない、というような断言が成り立ちうるだろうか、

というような問いが具体的にありうるでしょう。

なんか、こんな感じのことを議論しながら、現実の問題を真剣に考えている「カール・バルト研究会」です。

関心ある方は、ぜひご参加ください。次回(第16回)は2013年9月27日(金)午後9時から11時まで(日本時間JST)です。大歓迎いたします。

あの頃ぼくたちは「神学」に夢中だっただけなんです!

もうちょっと続けます。

「神学」にネットを利用しはじめた頃の話。

直接的に、面と向かって、強く言われる、というわけでもないのです。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのです。

確認すると、それが事実だと分かる、という。

ぼくたちは「神学」に夢中になっているつもりだったのですが、

人の目から見ると「パソコンをいじくっている」としか見えないようで、

関口たちは「パソコン遊び」に夢中であると批判されていたらしい。

間接的に、なんとなく、そのにおいが伝わってくるのですから、

だれがどんなことをおっしゃっていたのかは、いまだに知りません。

知りたいとは思っていませんので、ぼくには何も教えないでくださいね。

まあ、でも、だいたいのことは想像つきます。

嫌悪感を持たれた理由も、ごく最近、ふと気づきました。

原因の少なくとも一端は、たぶん「お医者さん」ですよね?違いますか。

よく愚痴を聞かされるようになったのが、ちょうどその頃です。

「わたしたちは何時間も待たされて、診てもらえるのは1分、2分なのに、

 先生(お医者さん)はその間もずっとパソコンの画面しか見ていない。

 わたしたちの顔を見てくれなくなった。」

これでパソコン嫌いになったんですよね?違いますか。

そんな中で、

教会の牧師たちまでが「パソコン遊び」を始めたと聞くと、

残念な気持ちになったんですよね?違いますか。

べつに、「パソコンいじくってた」んじゃないんですけどね。

「神学」に夢中だっただけです。

今は、その手の批判は、ほとんど聞かなくなりました。

そういうことをおっしゃっていた(世代の)方々こそが、

いま熱心にパソコン画面を見つめておられますからね。

皮肉で書いているのではありませんよ。

「誤解が解けて良かった」と思っているのです。

これからもお世話になります。よろしくお願いいたします。

「カール・バルト研究会」がドイツで紹介されました

ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の齋藤篤先生が「カール・バルト研究会」をブログで紹介してくださいました!

「菩提樹の窓より」2013.9.13 ~読書会~」
http://koelnbonn.jp/2013/09/「菩提樹の窓より」2013-9-13-~読書会~/

「カール・バルト研究会」の様子

ケルン・ボン日本語キリスト教会の初代牧師は、我々日本キリスト改革派教会の牧田吉和先生です。

齋藤先生はFacebookで仲良くしていただけるようになりました。まだ直接お会いしてはいません。

しかし、これだけ高性能のビデオ通話を何度か繰り返せば、初めてお会いする日が来たとき、もうさすがに「はじめまして」とは言えない気がします。

「まだ握手やハグ(はリアルでもしないけど)をしたことがない」だけですね、もはや。

齋藤先生、これからもよろしくお願いいたします。

ありがとうございました!


ぼくが「神学」にネットを利用しようと考えた最初の動機はこれでした


これは書いておこうと、いま思いました。

ぼくが「神学」にネットを利用しようと考えた最初の動機です。

あとからとってつけた話ではありません。

それはローマの信徒への手紙の次のことばです。

「五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:13)

前から書いているように、ぼくは、

1996年にウィンドウズ3.1機を実兄からもらって「パソコン通信」を始め、

1998年(ウィンドウズ98発売年)に買ったパソコンで「ネット」を始め、

1999年2月からメーリングリスト「ファン・ルーラー研究会」を始めました(複数の友人と共に「始めた」中の一人でした、という意味です、念のため)。

他のグループについて正確なことは分かりませんが、インターネットを利用した「神学研究会」としては、ファン・ルーラー研究会は日本でおそらく最初期のほうではないかと思います。

なぜ「ネット」を利用しようと考えたか。

当時「ネット」は、いかがわしい道具だと、かなり多くの人から見られていたからです。

「出会い系」という言葉はまだ無かったんじゃないかと思いますが、その種のもろもろ。

凶器でもクスリでも何でも手に入る、など。今ほど監視の目が強くなく、実際にそういう危険な取り引きが成り立っていた時期だったとは思います。

そして、匿名掲示板、学校裏サイトなどでの叩き、いじめ。

多くの人からいかがわしい道具だと思われているからこそ、それを利用して「神学研究会」をやろうと考えました。

ネットそのものは罪でも悪でもないはずだ。悪く使うのも人間。だけど、「義のための道具として神に献げる」(ローマ6:13)のも人間だ。そんなことを、その頃、しきりと考えていました。

なので、もしかしたら「ネットで神学がけがれる」と考える人がいるかもしれないとしても、とりあえず放置することにしました。

逆だと思いました。「ネットを神学できよめる」効果を期待しました。

玉石混交のデータの中の「きらぼし」であれたらいいなと願いました。

パソコン作業でお疲れの方々の「箸休め」であれたらとも思いました。

実際には、ネット特有のドンパチ炎上も、なかったわけではありません。

ぼくが原因のときには落ち込みもしました。

しかし、参加者からは、「あのときの刺激的なやりとりが面白かった」と評価してもらえることも少なくありませんでした。

あれから14年。

当事者性を自覚している者の自己評価などは何の当てにもなりませんが、なんとかうまくやってこれたのではないかと自負しています。

めざましい結果などは出せていませんけど。

でもそれは、ぼくだけではないので(と言い逃れておきます)。

我々の「カール・バルト研究会」がドイツで紹介されました!(と書くとちょっとカッコイイ)

ドイツのケルン・ボン日本語キリスト教会の齋藤篤先生が「カール・バルト研究会」をブログで紹介してくださいました!

「菩提樹の窓より」2013.9.13 ~読書会~」
http://koelnbonn.jp/2013/09/「菩提樹の窓より」2013-9-13-~読書会~/

「カール・バルト研究会」の様子

ケルン・ボン日本語キリスト教会の初代牧師は、我々日本キリスト改革派教会の牧田吉和先生です。

齋藤先生はFacebookで仲良くしていただけるようになりました。まだ直接お会いしてはいません。

しかし、これだけ高性能のビデオ通話を何度か繰り返せば、初めてお会いする日が来たとき、もうさすがに「はじめまして」とは言えない気がします。

「まだ握手やハグ(はリアルでもしないけど)をしたことがない」だけですね、もはや。

齋藤先生、これからもよろしくお願いいたします。

ありがとうございました!


2013年9月16日月曜日

神学をもっと学ぶことしかないと思うんですけどね

台風一過の江戸川堤防(2013年9月17日18:30)

牧師の仕事に「説教」があり、

その「説教」が《ある一定の論理》に基づく「ことば」であり、

その「ことば」を長期にわたり聴き続ける「教会」があり、

その「教会」は「人間」であり、

その「人間」は、3回同じ話を聴くと「飽きる」という性質を持ち、

その「飽きる」という性質がかなり普遍的なものである以上、

「説教」が常に更新される必要がある。

その「更新」とは、

プレゼンの方法(話法、姿勢、服装など)と無関係とは言えませんが、

それよりも

《ある一定の論理》のほうに、より多く関係しているものと思われます。

その《ある一定の論理》が、ぼくは「神学」だと言いたいわけなので、

牧師が「神学」を学び続けることを、

「神学オタク」だの、「勉強好き」だの、言われたくはないわけです。

それは「説教の更新」に直接関わることであり、

「飽き飽きする退屈な礼拝」から教会を解放する唯一の道ですから。

ただ、神学も一つの学問である以上、お金かかります。

「自腹の神学」には限界があります。

とっくの昔にその限界にぶち当たり、

ごきぶりホイホイの粘着シートにひっついて先に進めません。モガモガ。

と、ここまで書いて、

「あ、そうか。『自腹の神学』という本を書けば売れるかも」と

アクドイ商売を思いつき、

その次の瞬間に「やっぱダメだ。売れそうにない」と自分で却下する

アクドクナイ牧師でした(ぼくのことです、笑)。

「御心のままに」はたのしくたのしくやさしくね


激しく自分から動き回ってつかみとる。

黙って待つことで初めて与えられる。

能動性と受動性。

自慢じゃないですが(自慢かなあ)

両方やりました、ぼくは今まで、ぼくなりに。

結果、どっちがよかったかなあ。

自分でつかみとると言っても、

自己目的性は低いんですけどね、ぼくらの場合は。

自分の十字架に架かりに行くようなものかも。

日本語聖書で伝統的に「御心」と訳されてきたευδοκίαは

英語聖書の伝統ではgood pleasure of Godですよね。

オランダ語聖書でもwelbehagen van Godです。

welがgood、behagenがpleasureと同義ですので。

「良い」+「喜び」=ευδοκία、と長らく理解されてきた。

だけど「御心」という日本語には

goodな雰囲気も、pleasureな弾ける感覚も、ないなあ。

なんか暗ーい感じ。呪術的とさえ言える。

「御心のままに」(・_・)

ぼくも言いますけどね。牧師ですしね、これでもまあ。

でも、呪術的におどろおどろしくは言わない。

「神の良い(good)喜び(pleasure)」に満ち満ちた顔で

「御心のままに」\(^o^)/

と言わなくちゃね。

そういうのウザい、と思われちゃうのかもしれませんけどね。

2013年9月13日金曜日

「第15回 カール・バルト研究会」を行いました

本日(2013年9月13日金曜日)午後9時から11時30分まで(すべて日本時間JST)「第15回 カール・バルト研究会」を、グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは、カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の「8 造り主なる神」でした。

議論は大いに盛り上がりました。バルトが必ずしも直接取り上げているわけではない諸問題にも踏み込んで考えました。自死、安楽死、中絶等。神の創造と人間の自由と尊厳との関係の問題。あるいは、自然科学と宗教の関係。核兵器の問題。

どれも結論が出るような話ではありませんが、真剣かつ深刻な問題であることは間違いありません。

参加者は以下の5名でした(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
斉藤 篤(ドイツ・ケルン市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)
藤崎裕之(北海道亀田郡)

国境も時差もモノともしない「カール・バルト研究会」でした。