2013年7月22日月曜日

キーワードは「嫉妬」です


パウロっぽい考え方をするとしたら、

「おれの身内」を回心させるために「よそさま」に伝道する、

というわけですよね。

そうすれば、

やがては「おれの身内」が「よそさま」の姿を見る日が来るだろう。

そのとき、「おれの身内」は、自分と「よそさま」を比較するだろう。

そして、必ずや「よそさま」に対して「嫉妬」を抱くだろう。

で。

話は飛躍するし、ぴったり合っている話でもないのですが、

「おれの身内」を本気で回心させたければ、

その人たちの目から見たぼくの姿が、

「嫉妬」をもってしか見られないようなものになっていなきゃね、と思う。

ちっとも幸せそうでないぼくが、だれを回心させることができるんだろ、と思う。

「批判」なんかいくらしても、日本は変わらないですよね。

「嫉妬」させなきゃ。

今夜は「肉にら炒め」を作りました


「肉にら炒め」~\(^o^)/

もやし多めだけど、ナスも入ってるよ。

一人一個ずつコロッケ付き~。

オールスター(主演 大谷翔平くん)と

月9「SUMMER NUDE」(主演 山P)を観ながら

ウトウトしてました。

もう疲れたよパトラッシュ...

ぼくが「日本にキリスト教政党を」と主張しているときに考えていること

ぼくは歴史的な意味での「共産主義者」になることはできません。しかし、だからといって資本主義者であるわけでもありません。

プロテスタントの人はまるで自動的に資本主義者になってしまうかのように描かれた「あの歴史観」は、端的に作り話だと思っていますし、迷惑な話だと思っています。

ぼくが「日本にキリスト教政党を」ということを口にする場合に考えていることは大きく分けて次の二つです。

第一は、対社会的な面において、「神道政治連盟」と「公明党」と「幸福実現どうたら」など諸々の新興宗教政党を拒否するための方便です。

第二は、対教会的な面において、「教会は政治にかかわるべきではない」と言い出す人たちへの牽制と、「教会の理想と共産主義の理想は一致する」と躊躇も葛藤も臆面もなくストレートに結び付けることができる人たちへの牽制です。

字にしてしまうと身も蓋もない話になってしまいますが、まあ、そういうことです。

「クリスチャンなのに、なぜ?」と地味に問われた選挙だった気がします


「長浜博行さん」(選挙区)と「ツルネン・マルテイさん」(比例代表)に投票しましたとTwitterに流したら、さっそくフォロワーが減りはじめました。

いっそ、どんどん減ってほしいです。

宗教と政治(と野球)の話題は、日本では「ビジネスマナー違反」だそうですから、つまりは、ぼくの存在そのものが「ビジネスマナー違反」なわけです(これ既出ネタです)。

一票(まあ二票ですが)の重みというものは「あるのだあるのだ」と自分に言い聞かせながら投票所に行きました。

言っておきますが、ぼくたちの投票は、べつに「宝くじ」とか「馬券」とかじゃありませんからね。自分が支持した候補者が結果として負けたとしても、ぼくらの票が無駄になったわけではありません。

日本には「まだ」キリスト教政党は存在しません。

しかし、そういうのを生み出していく努力は必要だと思っています、たとえ実現は一、二世紀あとになるかもしれないとしても、です。

そしてその場合、ぼくにとっての問題は、

「政党」は既成現実に対するアンチという動機だけでも十分機能しうるものだと思うのですが、

「宗教」というか「キリスト教」はそうは行かない、ということです。

既成現実に対するアンチだけを純粋な動機として立っているような「キリスト教」を、ぼくは想像することすらできません。

その意味では、ぼくは「新カルヴァン主義者」、いえ、「カルヴァン主義者」なのでしょう。

目的のために手段を選ばない、というタイプの賭けごとをすることに対して、非常に慎重な気持ちに「ならざるをえません」。

「連帯」は大事だと思っています。ただ、その「連帯」にしろ「妥協」にしろ「程度問題」であると、ぼくには思えるということです。ぼくが不器用なだけかもしれません。

実はぼく、昨夜から今朝にかけてのネット言論をチラ見しながら、プチギレ(petit-gire)しかかっているんです。

ぼくが見ている範囲が狭いだけかもしれませんが、比較的若い世代の人文系(社会学とか政治学とか)の学者たちが「自民圧勝」の結果に失望して一種の「断筆宣言」まがいのことを書き散らしはじめています。

そういうの見ると、イヤだなあと心底がっかりするわけです。

自分の脳内ででっちあげた「論理」が「現実」に敗れただけのことだろーが、と言いたくなる。

あんたたち(人文系の学者)の仕事は、これからなんじゃないの?と言いたいです。

あと、高見の見物をしていたつもりは全くないですが、

ぼくが興味深く見守っていたのは、

今回の選挙で図らずも浮上してきた(とぼくには見えた)、マスコミが取り上げることはありえないけど、実は非常に深刻な(とぼくには思えた)「二つの問いかけ」です。

その二つに共通していたのは「クリスチャンなのに、なぜ?」という点でした。

書かずもがなかもしれませんが、一応書いておきます。

一方の問いは「石破さんはクリスチャンなのに、なぜあーなの?」で、

他方の問いは「クリスチャンなのに、なぜ共産党支持?」です。

信教の自由が保障されていないなら地下に潜ればいい


えっと、べつに選挙で疲れたわけではなくて、

(だって疲れるようなことやってないもん。紙を二枚、箱に入れただけだし)、

通常の日曜日の仕事で疲れましたので、そろそろ休みたいと思いますが、

最後に一言。

10年くらい前にぼくがあるところに書いた文章に、

ぼくより少し年上の友人が、

愛情をもって「憤怒」してくれたことがあります。

それは、ぼくが

「信教の自由が保障されているから教会活動ができる」という旨を書いたからです。

彼は「そんなことはないよ」と、キレ気味に言いました。

「信教の自由が保障されていないなら地下に潜ればいい。それだけのことだよ。」

正直言えば、当時(10年くらい前)は、彼の言い分にぼくは納得できませんでした。

ですが、今は違いますね。かなり理解できているような気がします。

まあ「地下」って言っても、今、それほどの暗黒の地底でもないですしね(笑)。

グーグルプラス・ハングアウトのビデオ通話って「地下活動」ですかね(笑)。

教会の宣教の課題としての「日本のキリスト教化」という観点からいえば、

今次の選挙で「元の黙阿弥」なんかにはゼッタイなっていませんからね!

それだけは言っておきますよ。

2013年7月21日日曜日

今回ぼくは「妥協」はできませんでした


選挙区のほうは「長浜博行」さんで、

比例代表のほうは「ツルネン・マルテイ」さんと書きました。

まあ、ぼくのネットつながりのお友達にはいろんな方がいてくださるので、

政治に関して「差しさわりのないことを書くのは不可能」な状態なのですが

ぼくは「それでも、いま民主党に倒れてもらったら困る」という線です。

第二次大戦後のオランダで「バルト主義者」と「新カルヴァン主義者」が激突した

状況を想起していました。

ファシズム反対では一致していました。しかし、

「バルト主義者」は労働党(共産党と同等)支持を呼びかけましたが、

「新カルヴァン主義者」はキリスト教政党支持を呼びかけました。

今次の選挙前にブログ等で「妥協」(Kompromiss)云々と書いていたことで

最後まで悩んでいたのは、

「ぼくは共産党を支持しうるか」という問題でした。

結果、「妥協」はできませんでした。

しかし、次回は分かりません。

民主党が消滅したら、共産党に投票「せざるをえない」かもしれません。

戒律ずくめでは息が苦しくなります

ローマの信徒への手紙4・13~17

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」

今日の個所でパウロが語っていることの要点は、人が救われるのは神を信じる信仰による、ということです。そして、そのような信仰による救いの模範を示したのが、わたしたち自身を含むすべての信仰者の父であるアブラハムである、ということです。

初めに申しておきたいことは、パウロあるいは聖書が「人が救われるのは神を信じる信仰による」ということを書いている場合の「信仰」の意味は「信頼」であるということです。その意味は「神を信頼すること」です。ですから、もしそのように言い換えるとしたら、「人が救われるのは神に対する信頼による」ということになるでしょう。

そして、その意味での「信頼」は、肩や体全体から力が抜けています。気楽ですし、のんびりしています。がんばって、気張って、一生懸命、熱心に、というようなことではありません。そのような力の入り方は「信頼」とは正反対の方向を向いています。

私ががんばって、がむしゃらに、猛烈に、食いついて、しがみついて、ではなく、神はいつも私と共にいてくださると安心していられるような関係。それが、パウロが「人が救われるのは神を信じることによる」という場合の「信じる」の意味です。それは「信頼」です。

このことを理解していただくためのたとえとして思い当たるのは、わたしたち人間の親子や夫婦の関係の中で求められる「信頼」です。そのことを考えていただけば、私の意図を理解していただけるのではないかと思います。

ぜひ実際の場面を想像してみていただきたいのです。たとえばの話ですが、子どもが親を信頼するとか、親が子どもを信頼する。そのことを口に出して言う場合に、「子どもが親を熱心に信頼する」とか「親が子どもを一生懸命信頼する」と言うのは、どう考えてもおかしいわけです。

夫婦の関係についても同じです。「夫が妻を熱心に信頼する」とか「妻が夫を一生懸命信頼する」とか言うのは、明らかにおかしい言い方です。

なぜおかしいのでしょうか。そのような場面で「熱心に」とか「一生懸命」とか言えば言うほど、その関係は危機的な状況にあるということを強調しているかのように響いてしまうからです。実は全く信頼しあえない関係になっている。不信感が募るばかりである。それなのに無理やり信頼している。だから「熱心に」信頼するとか、「一生懸命」信頼するとか言っているかのようです。

神と人間との関係について語る場合も同じことが当てはまります。わたしたちは「熱心に信じる」とか「一生懸命信じる」とかいう言葉を必ず使わなければならないかのように、どこかで思いこんでしまっているかもしれません。しかし、考えてみれば、そのようなことを言えば言うほど、かえっておかしいのです。神と人間の関係はそのようなものではありません。握りこぶしも力こぶも要らないのです。

これはよく用いられる比喩なのですが、人間を動物にたとえるのは嫌かもしれませんが、神と人間の関係は猿の親子ではなく、猫の親子であると言われます。猿の子どもは、親猿にしがみつきます。しかし、猫の場合は、親猫が子猫の首根っこをくわえて運びます。猫の子どもはぶらさがっているだけです。パウロが書いている「信仰」とは、そのようなことです。肩からも、体全体からも、力が抜けているのです。

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(13節)とあります。「その約束は律法に基づいてではない」とあるのは、もう少し噛み砕いておく必要があるでしょう。

パウロが書いていることは、神とアブラハム、また神とアブラハムの子孫との間に交わされた約束は、もしアブラハムたちが律法を完璧に守るならば、彼らに世界を受け継がせることにする。しかし、もしそうでないならば、彼らに世界を受け継がせることはしない、という約束ではないということです。律法を完璧に守るかどうかは、その約束を履行するかどうかの条件ではない、ということです。

なぜそれが条件ではないのでしょうか。その答えははっきりしています。そのような条件は、だれもクリアすることができないからです。律法を完璧に守ることができる人は、誰一人いないのです。ですから、完璧な人間でなければ世界を受け継ぐことができないというならば、世界を受け継ぐことができる人は誰もいないと言っているのと同じなのです。

世界を受け継ぐ人がだれもいないとしたら、人間は世界の外に出ていかなければならないと言っているのと同じことになります。しかし、わたしたちは世界の外に出ていくことはできません。それは死ぬことを意味しています。神はわたしたちが死ぬことを望んでおられません。生きることを望んでおられます。わたしたち人間は、だれひとり律法を完璧に守ることはできません。それでも生きろと、神がわたしたちにおっしゃっているとしたら、わたしたちが律法を完璧に守れるかどうかを神は問わないとおっしゃっているのと同じことになるのです。

人間が守ることもできないような律法を、神はなぜ人間に対して教えようとなさるのでしょうか。この問いに対する答えについてお話しする時間はありませんが、ハイデルベルク信仰問答(問115の答え)に書かれていますので、ぜひご参照ください。

「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります」(14節)とパウロは続けています。この「律法に頼る者」とは、自分は律法を完璧に守ることができると思いこんでいる人のことです。実際には不可能なのに、可能であると言い張っている人です。あるいは、実際にはいろんな面で律法を守れていないのに、私は守っている、だれからも、神からも責められたりとがめられたりする筋合いにはないと言い張っている人です。

そのような人が世界を受け継ぐのであれば、なるほど信仰は無意味です。できないことを「できます」と言い張り、できていないことを「できています」と言い張る人がいれば、うそをついているか、勘違いしているか、そのどちらかです。そのようなデタラメが通用するなら、信仰は要らない。パウロはそう言っているのです。

「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(16節)と話は続いています。これがパウロの結論であり、聖書の結論です。ぜひご理解いただきたいのは、この結論はわたしたちの慰めになるということです。なぜ慰めでしょうか。神はわたしたちに、できもしないことを無理やり押しつけられるようなお方ではないということを、わたしたちが百パーセント信じることが許されているということを意味しているからです。

戒律ずくめでは息が苦しくなります。できないことを押しつけられて、できないと罵られ、貶され、見捨てられる。もし神がそういうお方だとしたら、わたしたちの心は決して休まることも安らぐこともありません。そういうのはブラック会社と同じです。しかし、神はブラックなお方ではありません。失敗を許してくださる、完璧さなどはお求めにならない、心の広い寛大なお方なのです。

わたしたちは完璧でなければいけないのでしょうか。一番でなければダメでしょうか。なぜ二番ではいけないでしょうか。そもそもわたしたちは、どんなことでも勝ち負けを決めなくてはならないのでしょうか。競争しなければ気が済まない、競争に勝たなければ気が済まない。そのようにどんどん自分を追い込んで、追い詰めて生きていくことは、つらいでしょうに。

なんでもかんでも勝負事として考えようとする人たちがいます。勝ったときは狂喜乱舞かもしれませんが、負けたら地獄です。まだ若くて元気なときはそれでもよいかもしれません。しかし、肉体的にも精神的にも衰えていく。勝つことはほとんどなく、来る日も来る日も負け続きになる。そうすると、どんどん気持ちが萎えてきて憂うつな日々を過ごさざるをえなくなる。わたしたちの心に喜びも平安も無くなってしまいます。

パウロは続けます。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17節)。

ここで言われている「死者に命を与える」というのは「死者の復活」の意味にもなりますが、旧約聖書の創世記に書かれている、粘土をこねて人間の形にこしらえたその鼻の中に神が息を吹き入れてくださると、その粘土が人間になったというあの話を思い起こさせる言葉でもあります。

問題は、創世記に書かれていることをわたしたちがどのように理解し、受け容れるかです。人間は永遠に存在してきたわけではなく、人間が最初に生み出された瞬間がある。その人間に最初の命を与えてくださったのは神である。そのようなことを聖書は語ろうとしているのです。

「存在しないものを呼び出して存在させる」とは天地創造のことです。わたしたちの神は、そのようなことをなさった偉大な力をお持ちの方です。そもそもわたしたちは元々は存在しませんでした。私は47年前には存在しませんでした。70年、80年生きられた方でも、70年前、80年前は存在しませんでした。わたしたちはまるで、自分が存在しなかったことはいまだかつてなかったかのように思い込んでいるかもしれませんが、それは錯覚です。

わたしたちの命は、わたしたちが一生懸命がんばった結果として与えられたものではありません。わたしたちが努力したから、わたしたちが生まれたわけではありません。それと同様、わたしたちの努力の結果としてわたしたちが救われるというなら、神の恵みは要りません。神は要らないのです。

しかし、そういう話になっていくのは、そもそもの前提が間違っているからです。わたしたちの命も、人生も、そして救いも、すべて神からいただいたものなのです。わたしたちにそれを、感謝して受けとればよいのです。

(2013年7月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

死力を尽くして一票を投じるぞ


あ、でも、選挙の前に腹ごしらえだ。

腹が減ってはいくさができぬ。

死力を尽くして一票を投じるぞ。

待ってろよ、投票所。

「不愉快な」投票所にそろそろ行くか


もうずいぶん古い本になってしまった。

選挙のたびに読み返したくなるのは、筑紫哲也編『〈政治参加〉する7つの方法』(講談社現代新書、2001年)だ。

一冊まるまる読み返すわけではない。本書の編者である筑紫さん自身が書いた「プロローグ」の中の、わずか数行の文章を見に行くだけだ。そこにはこう書いている。

「一言で言えば、これ〔=民主主義。ー関口〕は『不愉快な制度』なのである。教育水準が上がり、個人として行動する自由が拡がり、自我が育っていけばいくほど、その自分が投票所に出かけていくと他の有象無象(と、それぞれの「自分」には思える)と同様に『ただの一票』にすぎない、という“屈辱”を覚悟しなくてはならない。しかも、その『一票』は、何十万、何百万もの票の中の一滴でしかない、という自分の『小さな存在』を思い知らされる機会でもある...」(20ページ)。

おお、もう12年前になるのか。本書が発売されてすぐに買い、冒頭の「プロローグ」のこの文章に首肯せざるをえなかった。

「そんなこと知ってらあ」と思わず叫びたくなる、このわたしという存在の耐えられない軽さを否が応でも思い知らされる、不愉快極まりない場所、それが「投票所」ということか。

あー、不愉快だ、不愉快だ。そろそろ選挙いこ。

2013年7月19日金曜日

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て

ついさっき、Twitterで

「日本では政治家がバカにされすぎ」とか

「ネガキャンばかりだと若者が選挙に行かなくなるのも当然だと思える」とか

そんな書き込みを見て、そのとおりだよねと納得しているところです。

でも、じゃあ、日本ではだれが尊敬されるんでしょうか。

宗教関係者でないことだけは確実ですが、じゃあだれ?

テレビに出る人?資産家?CEO?社長?会長?オリンピック出た人?

あ、やっぱりお医者さんですかね。痛いのをたちどころに治してくれるスーパーマン。

あ、だけど、「のどもと過ぎれば熱さ忘るる」って言うくらいですから

お医者さんを尊敬したくなるのは、痛いのを治してもらった直後だけかも、とかね。

やっぱり学校の先生ですかね。有名な大学の。さっぱり分かりません。

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て。

それって戦前日本の「反動」のような気がしますが、

ずいぶん長期の反動ですよね。「は~~~~~ん、ど~~~~~」ってくらい長い。

嫉妬と足の引っ張り合いばっかりの、低空飛行社会ですかね。

まあ、それもいいかもしれませんね。

ぼくが尊敬しているのは妻です(対外向けコメント)。

明日は臨時中会です。今日中に終わらせられることを終わらせたくて朝から必死です。