2013年7月17日水曜日
まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないと思うのですが
彼をかばう気持ちとかは無いです。
しかし、「逆説的な」発言ではないだろうかという気がしてならないのです。
ごく普通の日本人(ぼくもです)なら誰でも反発するに違いないことを言ったわけです。
そんなことは、言った本人自身が誰よりもよく分かっているはずです。
「軍法会議」だ「死刑」だと、国民感情を意図的に逆なでしているとしか思えない発言は、
自民党にとっては、一種の自爆テロに近い結果になるのではないでしょうか。
国民感情を敵に回して票をとれるほど選挙は甘くないことくらい、
何十年この国の与党をしてこられたのかという(なんかそのこと、もう忘れられてますよね、笑)
老舗政党が、
分かっていないはずはありえない。
それを、あえて、明らかに意図的に、やっちゃったわけです。
まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないとは思うのですが、
なにかしら秘められたメッセージがあるのではないでしょうか。
石破さんは愚鈍で軽率な人ではないので(それはよく知られていることです)、
何事か死ぬほど考え抜いた結果の発言であることは間違いないとは思うのですが。
ぼくの考えすぎでしょうか。
ちょっと気になっているのは、
彼の発言を「キリスト教的ではない」と評価しておられる複数の方々の意見です。
もちろんぼくも、結論は全く同じと言ってよいほどですが、
その結論に至るプロセスの点で、もうちょっとだけ様子を見てみたい気がするのです。
ぼくは、石破さんは良い意味で「論理の人」だと思っています。
支離滅裂の人や、ワンフレーズ・ポリティックスの人や、付和雷同・風見鶏の人よりは、
はるかに「信頼」できると思っています。
それは、突然襲い掛かってくるモンスターにはなりそうにない、という意味での「信頼」です。
2013年7月14日日曜日
慰めの声こそ旅路ゆく人の力
ローマの信徒への手紙8・31~39
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
おはようございます。松戸小金原教会の関口です。今日は東関東中会講壇交換です。稲毛海岸教会の朝の礼拝で説教させていただくのは、10年ぶりくらいです。どうかよろしくお願いいたします。
今日開いていただきました聖書の個所は、ローマの信徒への手紙の8章が終わる直前の部分です。文脈がある話ですので、この部分を正しく理解するためには、ローマの信徒への手紙の1章から8章までについて解説する必要があるかもしれませんが、時間の関係で割愛します。しかし、ある程度大づかみのことは申し上げておきたいと思います。
この手紙にパウロがとにかく書いていることは、御子イエス・キリストにおいて父なる神の御心が明らかにされたということです。イエス・キリストを信じるすべての人に神の救いの恵みが与えられ、罪赦され、けがれをきよめられ、永遠の命が与えられます。その人は罪の中から救い出され、新しい人生を始めます。全く自由に生きられるようになります。
しかし、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、洗礼を受けても、罪を犯し続けます。大きな罪、小さな罪を犯します。人間は弱い存在です。そのことをパウロは知っています。そして、その弱いわたしたちを助けてくださるのは「聖霊」であるということを直前の個所で教えています。
「聖霊」について聖書はどのようなことを教えているでしょうか。聖霊は、わたしたちの存在の内側に「注ぎ込まれる」方であると言われます。またわたしたちの内部に「住みこんでくださる」方でもあります。そして、聖霊はわたしたちにとって端的に「神」です。父・子・聖霊なる三位一体の神です。
ですから、わたしたちは次のように語ることができます。
わたしたちは「神に祈る」と言いますが、どこに向かって祈るのでしょうか。父なる神のイメージは、天地万物の創造者です。天地万物よりも巨大で、なおかつ宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。そうすると、宇宙の果てまで届くほど大きな声で祈らなければならないような気がしてきます。
イエス・キリストのイメージも同じです。十字架につけられた方が三日目によみがえられて、その四十日後に天に昇られました。イエス・キリストはどこに行かれたのでしょうか。天の父なる神の右に座っておられると告白します。父なる神と同じ場所におられるなら、やはり宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。ですから、祈るときは宇宙の果てに届くほど大きな声で祈らなければならないような気がします。
しかし、聖霊なる神は違います。聖霊はこのわたし、そこのあなた、わたしたち一人一人の心と体の中に住んでおられるのです。そして、わたしたちの中に住んでおられるこの聖霊が、端的に「神」なのです。ですから、わたしたちはその神に祈るときは大きな声で祈らなくてもよいのです。むしろ小さな声で、ひそひそ声で、自分の胸に言い聞かせるように祈ってもよいのです。
わたしたちの中に住んでおられるその聖霊なる神が「弱いわたしたちを助けてくださる」(26節)とパウロは書いています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と続けています。
わたしたちは、自分のこと、個人的なことで苦しみます。家族のことで苦しみます。会社のことや社会のことで苦しみます。そして教会のことで苦しみます。「これからわたしたちの教会はどうなっていくのだろうか」と考えるだけで不安になります。心配になります。涙が出てくることもあります。そのようなとき、わたしたちは「どう祈るべきか」が分からなくなります。
そのような場面で、聖霊なる神御がわたしたちの中で「言葉に表せないうめき」を発してくださるというのです。まるで神が絶句なさっているかのように。まるで神が理路整然とした言葉を語れなくなってしまわれたかのように。
「絶句する神」というのは、理屈の上では明らかにおかしい話です。しかし、わたしたちの神は、そのような方です。わたしたちの神は、悩み苦しみ、深く傷ついている人たちの前で、一方的な正論を押しつけがましく語り続けるような方ではありません。わたしたちが絶句しているときには、神も絶句してくださるのです。わたしたちが泣き叫んでいるときは、神は黙って見守ってくださるのです。
そのような方のことをパウロは「わたしたちの味方」(31節)と呼んでいます。次のように書かれています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」(31~32節)。
「敵」だ「味方」だという字を見ますと、わたしたちはつい争いや戦争の場面を思い起こします。なんとなく物騒でキナ臭い様子を思い浮かべてしまいます。しかし、パウロが言おうとしていることは、戦いの状況に関することだけではありません。戦時だけではなく平時の状況でも当てはまることです。
パウロが言いたいことは、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださる方であるということです。ただし、イエス・キリストによる贖いのみわざは必要です。イエス・キリストを通してわたしたちは神と和解していただいた関係にあります。神と人間とを仲保してくださるイエス・キリストを信じる信仰があるからこそ、神がわたしたちの側に立ってくださることを信じることができる、という事情でもあります。しかし、そのことを踏まえたうえで、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださり、わたしたちの味方でいてくださるということをパウロは強く語っています。
そのときに、「だれがわたしたちの敵でありえようか」と続けています。「もし~ならば、だれが~でありえようか」とたしかにパウロは言っていますが、仮定の話をしたいわけではありません。敵はいない、いるわけがない、と言っているのです。我々は無敵だと言いたいだけです。
そういうことを言いますとすぐに批判が出てきます。「わたしたちは無敵だ」などと言い張るパウロは傲慢だとか、クリスチャンは傲慢だとか。すぐにそういう話にされてしまいます。しかしパウロはそういうことを言いたいではありません。
パウロの言いたいことは、35節以下に端的に語られています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」そのどれでもないとパウロは言いたいのです。キリストの愛からわたしたちを引き離すことができる力は何もありません、と言いたいのです。わたしたちが「キリストの愛から」離れることはありえません。いえいえ、わたしたちは「キリストから」離れることはないのです。
38節以下にも同じ趣旨の言葉が出てきます。「いかなるものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(39節)と言っています。どんなことがあっても、わたしたちが神の愛から離れることはありえないと、言っているだけです。離れないのは「神の愛から」でもありますが、それは「神から」離れないと言っているのと同じです。
しかしまた、神の側からのアクションの価値だけを認めて、人間のアクションの価値は認めないということでなくてもよいと思います。信じるのは、わたしたちです。どんな迫害があっても、信仰を捨てることはありえないのです。
そのように言えるのは、パウロが強いからではありませんし、傲慢だからではありません。そうではなくて、パウロは、神によって助けていただかなければならないほどに自分の弱さを自覚していました。パウロは弱いからこそ信仰を捨てることはありえないのです。
神が共にいてくださる、これこそがわたしたちの慰めです。いろんな苦しみの中にあっても、神は傍らにいてくださいます。共に苦しんでくださいます。共に悩んでくださいます。このことがわたしたちの慰めです。
もし神が、わたしたちががんばった分だけ支払ってくださるというお方であるならば、わたしたちは神に雇われた賃金労働者です。もしわたしたちの働きが無くなれば、即刻わたしたちは解雇です。しかし、もしそうだとしたら、わたしたちには慰めがありません。なぜなら、わたしたちは、遅かれ早かれ、働きがなくなるからです。
いつまでも元気でいられると思わないほうがいいのです。私は若い若いと言われます。47歳ですが、最近目が悪くなりました。昔はよく見えていた目が、最近は見えにくくなりました。わたしたちの体は確実に衰えます。みなさんを脅しているのではありません。事実を申し上げているだけです。
わたしたちの働きが無くなるときは必ず来ます。しかし、「働きが無くても、(わたしたちの)信仰を義と認めてくださる神」がわたしたちと一緒にいてくださることが、わたしたちの慰めなのです。
皆さんにとって、教会はどのような存在でしょうか。牧師はどうでしょうか。
金銀財宝がザクザクあふれていて、困った人がいればお金をさっと出して助けてくれるような教会のほうが信頼できるでしょうか。
牧師がムキムキマッチョで怪力のスーパーマンのような人であれば信頼してもらえるでしょうか。
私は違うと思います。むしろわたしたちは、わたしたち自身が怪力のスーパーマンではないということに感謝すべきなのです。
教会の強さ、牧師の強さは、自分がいかに弱いかを知っていること、どれほどまでに神の助け、救い主の助けが必要であるかを自覚し、信頼しているかにかかっているのです。
わたしたちと共にいてくださる神は、わたしたちの弱さをよくご存じです。わたしたちが弱いからこそ、助けてくださり、かばってくださいます。
その方をこれからも信頼し続けていこうではありませんか。
(2013年7月14日、稲毛海岸教会主日礼拝)
2013年7月13日土曜日
白熱教室!
去る2013年7月4日(木)、立教大学(池袋キャンパス)全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」でのゲスト講義の第二回目の写真を公開させていただきます。
二回の講義を通じてのテーマは、「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるか」でした。学生さんたちは熱心に聴いてくださいました。ありがとうございました。
当日配布した資料はここにあります。→ レジュメ 付録
大学だけでなく、小学校でも中学校でも高校でも、日曜日以外なら、どこでも行きます。
ぜひぼくを使ってください!よろしくお願いいたします。(怒涛の売り込み)
二回の講義を通じてのテーマは、「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるか」でした。学生さんたちは熱心に聴いてくださいました。ありがとうございました。
当日配布した資料はここにあります。→ レジュメ 付録
大学だけでなく、小学校でも中学校でも高校でも、日曜日以外なら、どこでも行きます。
ぜひぼくを使ってください!よろしくお願いいたします。(怒涛の売り込み)
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| 講義開始前。真面目で熱心な学生さんたちでした |
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| やっと講義が始まりました |
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| なにやら「神学」について話しているようです |
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| おや?笑ってますね、余裕でしょうか(それはないです) |
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| 90分は短くもあり、長くもあり。大学の先生たちを尊敬します! |
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| 終了後、鈴木昇司先生と。ありがとうございました! |
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| カメラマンは畏友・山本信太郎先生(神奈川大学)。ありがと! |
いいぞ、半沢直樹!
「半沢直樹」の第一話。ぼくも見ました。
小説は読んでなくて(たぶん読まないと思う)、初回を見ただけの印象ですが
徒党を組まず、なにも持たず、
単身で敵地に乗り込み、タイマン張りに行くあの感じが痛快ですね。
自分の立場や所属ばかりが気になり、
自ら率先して「口封じ」に応じ、
かつ「口封じ」の片棒を担ぎ、
やがてはその親玉になる。
くっだらねえですよね、そういうの。
そういうんじゃない人を時代が求めているんじゃないでしょうか。
まだ続き、見てませんけどね。ゼンゼン違う方向に進んで行ったりして。
2013年7月12日金曜日
車載CD一覧
ぼくが車の中で聴いている音楽は、こんな感じ。
オムニバス「70’s ディスコ・ヒッツ」
(君の瞳に恋してる、スカイハイ、ジンギスカン...)
スペクトラム「スペクトラム伝説」
倉木麻衣「Wish You The Best」
中島美嘉「NANA」
コブクロ「MUSICMANSHIP」
コブクロ「NAMELESS WORLD」
なかなか新しいものが加わらないのですが、
同じ曲を何百回も聴きこんで来ましたので、
イントロバトル番組に出られるレベルです(笑)
日本にキリスト教主義政党があれば「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに語ることができる
一昨日(2013年7月10日)の記事でぼくが、パネンベルクのトレルチ論まで持ち出して、
「妥協」(Kompromiss)という言葉を、神学的なコンテクストでポジティヴな意味で用いてよいかどうかについて書いたのは、
否定的な意見があることを重々承知しつつの問題提起でした。
これは教義の問題でもありますが、それ以上に生理的嫌悪感を表明する人が出てくる問題になりうることも承知しています。
しかし、現実には「妥協」は避けられないし、打ち消しがたいと言わざるをえない面もあります。
ところが、教会に行くと生理的嫌悪感をもって退けられる。
そうすると、どうなるか。それで教会を去る人もいると思いますが、教会に残る人もいる。
「妥協」は公言すると生理的に嫌悪される。百歩譲ってもらえて「語ることはやむをえなくても、その場合はネガティヴな意味でのみ語れ」と言われる。
そうすると、どうなるか。教会の中で妥協が「地下に潜る」と思うんです。
教会の闇の部分(というのがもしあるとしたら)に「妥協」が隠れる。
「妥協」を禁じれば、教会は、より胡散臭い団体になり下がる可能性が出てくるのではないかと、ぼくには思えるのです。
ぼく自身も、「妥協」の無際限な肯定を推奨ないし是認すべきであると言いたいわけではありません。
「寸分の妥協も許さない」というのは、モットーやスローガンとしては成り立ちえますし、好ましいことでさえあると思える。
しかし、現実には、パーフェクトには不可能。
だとしたら、「妥協」の事実を公開し、公の目で監視・管理すべきではないだろうかと、そういうことを考えているだけです。
「正々堂々と妥協する」というのは、言い方としては明らかにおかしいわけですが、
しかし、これは宗教と政治の関係、教会と国家の関係といったコンテクストの話として、理解してもらう必要があります。
日本の教会が自前のキリスト教主義政党を持っていない以上、
たとえばの話、どこかの政党と「(妥協的に)協力」しなければならない場合が、あるかもしれません。
ドイツのように、キリスト教主義政党があれば、
パネンベルクのように「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに言いうる、かもしれない。
だけど、日本にはそれがない。
「宗教」の団体である教会が「宗教の倫理」としてのキリスト教倫理を政策的に実現するために、
政党は不要であるという理屈が成り立ちうるか。ぼくには「否」と思える。
しかし、我々のパートナーは、自民党なのか、公明党なのか、社民党なのか、みんなの党なのか、共産党なのか、もろもろの党なのか。
政党の支持は各個人の事項なのだから、いかなる意味でも教会は教会員に「呼びかけ」をしてはならない、という話になるのか、ならないのか。
こういう感じの問題群にかかわる問題提起のつもりです。
「胡散臭く」はないと思いますが、「キナ臭く」はなるかもしれません。
「妥協」(Kompromiss)という言葉を、神学的なコンテクストでポジティヴな意味で用いてよいかどうかについて書いたのは、
否定的な意見があることを重々承知しつつの問題提起でした。
これは教義の問題でもありますが、それ以上に生理的嫌悪感を表明する人が出てくる問題になりうることも承知しています。
しかし、現実には「妥協」は避けられないし、打ち消しがたいと言わざるをえない面もあります。
ところが、教会に行くと生理的嫌悪感をもって退けられる。
そうすると、どうなるか。それで教会を去る人もいると思いますが、教会に残る人もいる。
「妥協」は公言すると生理的に嫌悪される。百歩譲ってもらえて「語ることはやむをえなくても、その場合はネガティヴな意味でのみ語れ」と言われる。
そうすると、どうなるか。教会の中で妥協が「地下に潜る」と思うんです。
教会の闇の部分(というのがもしあるとしたら)に「妥協」が隠れる。
「妥協」を禁じれば、教会は、より胡散臭い団体になり下がる可能性が出てくるのではないかと、ぼくには思えるのです。
ぼく自身も、「妥協」の無際限な肯定を推奨ないし是認すべきであると言いたいわけではありません。
「寸分の妥協も許さない」というのは、モットーやスローガンとしては成り立ちえますし、好ましいことでさえあると思える。
しかし、現実には、パーフェクトには不可能。
だとしたら、「妥協」の事実を公開し、公の目で監視・管理すべきではないだろうかと、そういうことを考えているだけです。
「正々堂々と妥協する」というのは、言い方としては明らかにおかしいわけですが、
しかし、これは宗教と政治の関係、教会と国家の関係といったコンテクストの話として、理解してもらう必要があります。
日本の教会が自前のキリスト教主義政党を持っていない以上、
たとえばの話、どこかの政党と「(妥協的に)協力」しなければならない場合が、あるかもしれません。
ドイツのように、キリスト教主義政党があれば、
パネンベルクのように「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに言いうる、かもしれない。
だけど、日本にはそれがない。
「宗教」の団体である教会が「宗教の倫理」としてのキリスト教倫理を政策的に実現するために、
政党は不要であるという理屈が成り立ちうるか。ぼくには「否」と思える。
しかし、我々のパートナーは、自民党なのか、公明党なのか、社民党なのか、みんなの党なのか、共産党なのか、もろもろの党なのか。
政党の支持は各個人の事項なのだから、いかなる意味でも教会は教会員に「呼びかけ」をしてはならない、という話になるのか、ならないのか。
こういう感じの問題群にかかわる問題提起のつもりです。
「胡散臭く」はないと思いますが、「キナ臭く」はなるかもしれません。
2013年7月11日木曜日
ぼくらは日本をあきらめない!(勝手にあきらめないでくれよ、みんな)
その昔、プロデューサー、エディター、ライターといった人たちは
「裏方に徹する」ことを美徳みたいにとらえて、カオバレは嫌がったものだ。
でも、いまは違う。
秋元康、鈴木おさむといった人たちの名前を出すまでもなく、
かつての「裏方」たちは今、等身大の自分自身を大胆に露出し、
だれよりもアクティヴに動き回るようになった。
彼らの批判なんかするなよ。
身も蓋もないこと言わせてもらえば、
批判したければ、彼ら以上に動き回ってから言え。
キリスト教界もそうだ。
ぼくのイチオシのキリスト教系ジャーナリストと、
まさに偶然、出会う機会をえた。
松谷信司(まつたに しんじ)。この名は覚えておけ。
このイケメンはイクメンだ。
ぼくもイクメンだったけどイケメンではない。うるさいわ。
知ってるか。「ペンは剣よりも強い」(Calamvs Gladio Fortior)んだぜ。
あ、知ってるね。
ぼくたちは武器は持ってないけどね、
でもね、書き続けることはやめないよ。
しんどいときは「しんどい」と書けばいいのさ。
抗議するときは「抗議する」と書けばいい。
負けそうなときは「負けそうだ」と書く。
何にも書けないときは「何にも書けない」と書けばいい。
そうすると、何かが変わるよ。その体験あるから保証する。
「世界は変わらない。日本はダメになる。」
そんなことを確信するなよ。
脳内だけででっち上げた三段論法で、世界をあきらめるなよ。
「世界は変わる。日本はダメにならない。」
そう言い続け、書き続けてくれよ。
ぼくらは、そうするから。
少なくとも松谷信司は、世界と日本をあきらめないから。
相方のぼくは、松谷信司を追いかけるだけさ。
彼はグレートだ。ぼくが保証する。
2013年7月11日
関口 康
2013年7月10日水曜日
都心ドライブ 記念写真
グーグルプラス・ハングアウトで行っている「カール・バルト研究会」のメンバーである中井大介先生(日本基督教団千里聖愛教会牧師)とリアルでは初めてお会いしました。都心をドライブしながら、教会のこと、政治のこと、子育てのこと、あといろいろ、大いに語り合いました。
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| 東京駅前 |
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| キリスト新聞社 松谷信司氏と |
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| 奇跡のスリーショット(笑) |
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| 日本基督教団高輪教会(港区高輪3丁目) |
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| 高輪教会の中村公一牧師(右端)と |
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| 中村先生のお連れ合い(中央)と |
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| 実は初対面です |
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| 実は腐れ縁です(笑)中村先生はぼくの大先輩です |
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| 慶應義塾大学(港区三田2丁目)東門前で |
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| 日本基督教団鳥居坂教会(港区六本木5丁目) |
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| 鳥居坂教会の塔 |
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| 鳥居坂教会の中庭 |
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| 日本基督教団霊南坂教会(港区赤阪1丁目) |
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| 東京タワーです(説明不要ですね) |
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| 東京タワーです(だから説明不要だって) |
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| レインボーブリッジを渡っています |
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| 天気が良くて東京湾周辺の夜景がきれいに見えました |
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| お台場到着 |
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| お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ |
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| お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ |
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| 東京駅でお別れ |
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| また会う日まで |
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| 東京スカイツリー |
問題は「妥協」をどう評価するかです
で、
ぼくにとって、というか、
もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが
最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。
以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。
「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。
この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)
この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」
(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)
ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。
パネンベルクの意図を要約すれば、
「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。
「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。
ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。
「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、
でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。
立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。
こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、
でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。
こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。
「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。
結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。
具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。
いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。
ぼくにとって、というか、
もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが
最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。
以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。
「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。
この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)
この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」
(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)
ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。
パネンベルクの意図を要約すれば、
「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。
「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。
ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。
「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、
でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。
立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。
こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、
でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。
こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。
「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。
結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。
具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。
いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。
2013年7月9日火曜日
パネンベルクのトレルチ論を読み返している理由
いまごろになって、パネンベルクのトレルチ論(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、107~153ページ)を読み返していることには、理由があります。
読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。
ごくざっくり言えば、
パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、
カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、
ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、
「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、
トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。
で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。
しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。
だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。
でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。
こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。
その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、
基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。
客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。
挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。
これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。
もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。
そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。
分からず屋がいるとね、苦労しますよ。
あ、愚痴っぽくてすいません。
読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。
ごくざっくり言えば、
パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、
カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、
ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、
「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、
トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。
で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。
しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。
だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。
でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。
こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。
その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、
基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。
客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。
挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。
これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。
もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。
そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。
分からず屋がいるとね、苦労しますよ。
あ、愚痴っぽくてすいません。
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