Facebookでご質問をいただいたことに、コメント欄でお応えしました。せっかくですから、ブログに貼りつけておきます。
■ ご質問(要旨):
「『日本キリスト改革派教会では進化論に対してどのように答えるのか。先日、求道者が進化論を否定するキリスト教につまずいて教会に来なくなったので、改革派教会ではどう考えるか聞きたい』と問われたことにどう答えたらよいか。この分野で論じている資料でいいのはないか。こういう問題について説得を努力しても、それで信仰に入ると言うことはあまりないと思っている」
■ なんら権威のない関口康の応え:
ご質問ありがとうございます。実は私も最近、いろんな場所でその話題になり、そのたびに頭をひねっています。
私は、高校時代から理科系はからきしで、赤点常連者でした。しかし、神学の言うところの「弁証学」も、私は弱いですね。キリスト教の真理を固く護ろうとしても、たぶんすぐに言い負かされてしまいます。頼りない牧師です。
そんな感じですので、納得していただける答えのようなものは書けそうにないのですが(申し訳ありません)、創造論と進化論、というか、神学と物理学、というか、信仰と科学、というか、の関係については、ごくシンプルで大雑把な考えをもっています。
それは、ちょっとかっこよく哲学用語っぽくいえば、「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」の関係、だと考えています。
雑に訳せば「ア・プリオリ」は「前から」、「ア・ポステリオリ」は「あとから」。
進化論なり物理学なり科学なりの認識は、すでに存在する事物を「あとから」調査・観察・分析したデータに基づき、事物の発生起源や発展過程について「あとから前へとさかのぼって」推論することにおいて得られる認識、ですよね。
その意味で、進化論なり物理学なり科学なりの認識は「ア・ポステリオリ」だと、私は思います。
しかし、創造論なり神学なり信仰なりの認識は、そういうものとは違う。全く違うとも言い切れないのですが、順序が逆さまな感じです。
「ア・プリオリ」、つまり「前からあとへと」考えていく思考回路があると思います。信仰を前提にして世界を見る感じです。
この件に関する最近の本をご紹介したいところですが、申し訳ないことに、私は全くフォローできていません。ちょっと調べてみますね。
私が「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」という整理の仕方を学んだのは、記憶が間違いでなければ、T. F. トーランス『空間・時間・復活』(小坂宣雄訳、ヨルダン社、1985年)という本だったと思います。
この本の日本語版が出版された直後に、早稲田大学のキリスト者学生たちの自主ゼミ(指導教授 岩波哲男先生)に混ぜてもらって読みました。
トーランスはスコットランドのプロテスタント神学者で、カール・バルトの『教会教義学』を英訳したことで知られる人です。しかし、科学と神学の関係についてはバルトとは異なる考え方をもっていたと言われています。私はトーランスのことをそれほど詳しく知っているわけではありません。
おっしゃるとおり、この問題について説得を努力しても、それで信仰に入る、ということはあまりないことは確かだと私も思います。
ただ、私がこれまで出会ってきた方々とのやりとりの中から得たごく素朴な印象からいえば、
進化論なり物理学なり科学なりを専門的に研究してこられた方々の立場を、教会が創造論の立場から非難・攻撃・罵倒・中傷する、というようなことをすると、その方々が教会に来たくても来れなくなってしまう(居場所を奪ってしまう)ということがあるように思います。
もちろん逆のケースもありましたし、今もあります、よね。
ドーキンスさんとかのようにキリスト教はいかに間違っているかを「証明」するために科学なり物理学なり進化論を持ち出すというような仕方で、教会と教義を攻撃してくる人々もいます。そんなことをあからさまにしてくる人たちと教会はうまくやっていけるとは思いません。
妥協とか折衷とか中庸とか、そのようなことを私が考えているわけではないのですが、共存は可能であると思っています。一つの大学の中に神学部と理工学部や医学部が共存することは十分可能です。
ただし、「共存」の可能性を探る場合、理工学部や医学部のキリスト者学生たちは「キリスト教的物理学」や「キリスト教的医学」なるものを考えなくてはならないのかということは、おそらく必ず問題になると思います。
たとえば、キリスト教の洗礼を受けた人がおこなう計算や実験と、洗礼を受けていない人がおこなう計算や実験とが異なる解や結果を出すということがありうるのだろうか、というような問いの立て方がありうると思います。「異なる」と言い切る人もいますし、「同じじゃないか」と答える人もいます。
ところで、最初のご質問にお答えしていませんでした。「改革派教会ではどう考えるのか」ですよね。
どうでしょうか。私の印象では、20年くらい前(1980年代)までは「対立・対決」という姿勢がわりと鮮明にあったのではないでしょうか。その頃の私は日本キリスト改革派教会のメンバーではありませんでしたが。
しかし、1990年代以降あたりから「対立・対決」の姿勢は緩和・後退し、少なくとも共存模索の方向はあるのではないかと思います。
この問題については、聖書論を扱った「日本キリスト改革派教会 創立40周年宣言」(1986年)が教派全体に与えた影響は大きいと思います。いわゆるファンダメンタリズムからの脱却の方向が出たと思います。
しかし、私は1997年4月に改革派教会に加入させていただいたルーキーですので、「40周年宣言」のことなどは、伝聞以上のことは知りません。
2013年5月26日日曜日
教会にできることは何か
テモテへの手紙一5・3~16
「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。」
この個所は、現代の社会の中で読まれるとき、ほとんど堪えがたい思いを持ちながら読む人たちも少なからずいるに違いない、そういう部分を含み持っている個所であると、私自身は認識しています。たとえ聖書の御言葉であっても、わたしたちがこういう個所を不用意に持ち出して、女の人はどうのこうの、独身の人はどうのこうの、というような話を軽々しくすべきではありません。私はそのように考えます。
また、この個所には明らかに、パウロの口が滑りすぎというべき、かなり行き過ぎた言及があると言わざるをえません。もしかしたらパウロが現実に知っている何人かの人たちがここに書かれているようなタイプの人たちだったのかもしれないという可能性まで否定することはできません。しかし、そのような話をすべての人に当てはまる話であるかのように引き延ばして語ることは危険です。そのようなことをすると、多くの人の心を傷つけてしまうことになります。
しかしまた、逆の見方もできるかもしれないと、このたび考えてみました。それは、今申し上げたことを逆の順序で考え直してみるだけです。
ここに書かれていることをすべての人に当てはめるのは、とんでもないことです。しかし、パウロが知っている何人かの人々はこういう人々だったということは、語っても構わないわけです。それが歴史的な事実であるとすれば、わたしたちは非常に貴重な歴史資料を手にしていることになります。西暦一世紀の教会の内部の様子が非常によく分かります。当時の教会の中にはなるほどこういう感じの人たちがいたのかというようなことが、手に取るように分かります。
第一に分かることは、当時の教会に入会する際の登録内容の中に、自分が「やもめ」であることを明記する仕組みがあったということです。「やもめ」とは、パウロがこの個所に書いていることによりますと、結婚経験があり、かつ配偶者と死別して独り身になった、60歳以上の女性のことであるようです。
そのような人々に、教会に「やもめ」として登録してもらうことの理由は、この個所の中に言葉として明記されてはいません。しかし、ヒントはたくさんあります。それは「身寄りのない」人であるということや、子や孫や親族がいる場合は、その人々が世話をすべきであると書かれていることなどです。
これでほとんどはっきり分かることは、当時の教会は、身寄りのないやもめの生活を保護するために、今でいうところの高齢者福祉施設のようなものを作って、共同生活を営んでいたに違いないということです。
しかしそれはあくまでも、自活できなくなった人たちの生活の保護です。もっとはっきりいえば、それは、生きていくためのお金の問題です。自分で稼ぐ力がない人々を助けるために、教会が経済的に支援していたのです。だからこそ、自活する力がある人や、蓄えがある人や、家族や親族がいる人は、自分たちで何とかしなさいという意味のことを、パウロは書いているのです。
しかし、これは二千年前の教会も今の教会も同じだと思いますが、教会がそのような人々の生活を助けるとか支えるとかいっても、それは要するに、そのための献金を集めるというような形でするしかないわけです。しかし、今の教会のことを考えても、牧師家庭の生活や中会や大会の負担金を支払うことでほとんど精一杯です。
そのような教会がさらに高齢者たちの生活を支えたいというようなことを考えたとしても、明らかに限度があるわけです。「来る方は拒みません、何人でもどうぞ来てください。すべての方の面倒を見させていただきます」というようなわけには行かない。ある程度、基準を定めて、対象人数を絞る必要が生じます。だからこそ、9節以下のような話になっているのです。
「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。
しかしこれは、いま申し上げましたとおり、このような基準が設けられた理由として考えられるのは、教会側の経済的な限度という面が大きいと思われますので、逆に言えば、教会がもっと成長し、このような人々を助けられる力が増してくれば、基準を緩和していくこともありうるのだと思います。
しかし、パウロが「若いやもめは登録してはいけません」と書いていることの理由の部分については、さすがに、いくらなんでも言いすぎだと感じなくもありません。しかし、すべての人に押し並べて当てはまるのはとんでもないことですが、人間についての描写力は目に浮かぶようでもあり、文章として面白いとは思います。
しかしまた、パウロを弁護しておきたいと思う面もあります。それは、パウロが書いていることの中でおそらく最も大事なことは、「わたしが望むのは…反対者に悪口の機会を一切与えないことです」という点であるということです。
問題は、ここでパウロが「反対者」と呼んでいるのは、何に反対する人々のことなのかということです。考えられることは次のようなことです。当時の教会の中や外から、教会でそのような支援事業を行うこと自体についての反対の声があったのです。
そうでなくても弱く小さな教会なのに、そんなことのために力を注ぎ、お金を使うべきではない。もっと別のことに、力を注ぎ、お金を使うべきであるというような批判の声があがっていた。そのような非難・中傷・反対の中で、やもめたちの行状を見て、「ほらやっぱり」と非難され、妨害を受ける可能性があった。
そのような中で、パウロは、この事業は続行されるべきであると言いたかったのです。やもめたちの生活を教会が守らなくて、ほかのどこが守ってくれるのかと。ただ、力のない教会が行うことには限度があるので、いろいろと非難を受けて事業がストップしてしまわないように、気をつけてほしいと、パウロはテモテに伝えているのです。
現代社会においては、社会や政治の中に社会福祉の仕組みが整備されていますので、高齢者の福祉事業などに関して、教会がいろいろと抱え込まなくてもよいようになっています。しかし、社会福祉からも締め出されてしまい、最終的にどこにも頼るところが無くなって、教会に助けを求めてくる方もおられます。そのとき教会は何をすることができるでしょうか。そのような課題を考えていくときに、この個所に書かれていることは、大いに参考になると思います。
(2013年5月26日、松戸小金原教会主日夕拝) ※夕拝の説教題は、ブログ用に変更しました。
「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。」
この個所は、現代の社会の中で読まれるとき、ほとんど堪えがたい思いを持ちながら読む人たちも少なからずいるに違いない、そういう部分を含み持っている個所であると、私自身は認識しています。たとえ聖書の御言葉であっても、わたしたちがこういう個所を不用意に持ち出して、女の人はどうのこうの、独身の人はどうのこうの、というような話を軽々しくすべきではありません。私はそのように考えます。
また、この個所には明らかに、パウロの口が滑りすぎというべき、かなり行き過ぎた言及があると言わざるをえません。もしかしたらパウロが現実に知っている何人かの人たちがここに書かれているようなタイプの人たちだったのかもしれないという可能性まで否定することはできません。しかし、そのような話をすべての人に当てはまる話であるかのように引き延ばして語ることは危険です。そのようなことをすると、多くの人の心を傷つけてしまうことになります。
しかしまた、逆の見方もできるかもしれないと、このたび考えてみました。それは、今申し上げたことを逆の順序で考え直してみるだけです。
ここに書かれていることをすべての人に当てはめるのは、とんでもないことです。しかし、パウロが知っている何人かの人々はこういう人々だったということは、語っても構わないわけです。それが歴史的な事実であるとすれば、わたしたちは非常に貴重な歴史資料を手にしていることになります。西暦一世紀の教会の内部の様子が非常によく分かります。当時の教会の中にはなるほどこういう感じの人たちがいたのかというようなことが、手に取るように分かります。
第一に分かることは、当時の教会に入会する際の登録内容の中に、自分が「やもめ」であることを明記する仕組みがあったということです。「やもめ」とは、パウロがこの個所に書いていることによりますと、結婚経験があり、かつ配偶者と死別して独り身になった、60歳以上の女性のことであるようです。
そのような人々に、教会に「やもめ」として登録してもらうことの理由は、この個所の中に言葉として明記されてはいません。しかし、ヒントはたくさんあります。それは「身寄りのない」人であるということや、子や孫や親族がいる場合は、その人々が世話をすべきであると書かれていることなどです。
これでほとんどはっきり分かることは、当時の教会は、身寄りのないやもめの生活を保護するために、今でいうところの高齢者福祉施設のようなものを作って、共同生活を営んでいたに違いないということです。
しかしそれはあくまでも、自活できなくなった人たちの生活の保護です。もっとはっきりいえば、それは、生きていくためのお金の問題です。自分で稼ぐ力がない人々を助けるために、教会が経済的に支援していたのです。だからこそ、自活する力がある人や、蓄えがある人や、家族や親族がいる人は、自分たちで何とかしなさいという意味のことを、パウロは書いているのです。
しかし、これは二千年前の教会も今の教会も同じだと思いますが、教会がそのような人々の生活を助けるとか支えるとかいっても、それは要するに、そのための献金を集めるというような形でするしかないわけです。しかし、今の教会のことを考えても、牧師家庭の生活や中会や大会の負担金を支払うことでほとんど精一杯です。
そのような教会がさらに高齢者たちの生活を支えたいというようなことを考えたとしても、明らかに限度があるわけです。「来る方は拒みません、何人でもどうぞ来てください。すべての方の面倒を見させていただきます」というようなわけには行かない。ある程度、基準を定めて、対象人数を絞る必要が生じます。だからこそ、9節以下のような話になっているのです。
「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。
しかしこれは、いま申し上げましたとおり、このような基準が設けられた理由として考えられるのは、教会側の経済的な限度という面が大きいと思われますので、逆に言えば、教会がもっと成長し、このような人々を助けられる力が増してくれば、基準を緩和していくこともありうるのだと思います。
しかし、パウロが「若いやもめは登録してはいけません」と書いていることの理由の部分については、さすがに、いくらなんでも言いすぎだと感じなくもありません。しかし、すべての人に押し並べて当てはまるのはとんでもないことですが、人間についての描写力は目に浮かぶようでもあり、文章として面白いとは思います。
しかしまた、パウロを弁護しておきたいと思う面もあります。それは、パウロが書いていることの中でおそらく最も大事なことは、「わたしが望むのは…反対者に悪口の機会を一切与えないことです」という点であるということです。
問題は、ここでパウロが「反対者」と呼んでいるのは、何に反対する人々のことなのかということです。考えられることは次のようなことです。当時の教会の中や外から、教会でそのような支援事業を行うこと自体についての反対の声があったのです。
そうでなくても弱く小さな教会なのに、そんなことのために力を注ぎ、お金を使うべきではない。もっと別のことに、力を注ぎ、お金を使うべきであるというような批判の声があがっていた。そのような非難・中傷・反対の中で、やもめたちの行状を見て、「ほらやっぱり」と非難され、妨害を受ける可能性があった。
そのような中で、パウロは、この事業は続行されるべきであると言いたかったのです。やもめたちの生活を教会が守らなくて、ほかのどこが守ってくれるのかと。ただ、力のない教会が行うことには限度があるので、いろいろと非難を受けて事業がストップしてしまわないように、気をつけてほしいと、パウロはテモテに伝えているのです。
現代社会においては、社会や政治の中に社会福祉の仕組みが整備されていますので、高齢者の福祉事業などに関して、教会がいろいろと抱え込まなくてもよいようになっています。しかし、社会福祉からも締め出されてしまい、最終的にどこにも頼るところが無くなって、教会に助けを求めてくる方もおられます。そのとき教会は何をすることができるでしょうか。そのような課題を考えていくときに、この個所に書かれていることは、大いに参考になると思います。
(2013年5月26日、松戸小金原教会主日夕拝) ※夕拝の説教題は、ブログ用に変更しました。
矛盾だらけの人生でも誠実でありたい
ローマの信徒への手紙2・17~24
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです。」
今日もローマの信徒への手紙を開きました。いまお読みしました個所に書かれているパウロの言葉は、たいへん厳しい内容をもっています。あなたはユダヤ人と名乗り」(17節)と書かれてあるとおり、直接的にはユダヤ人に対する批判の言葉であると言えます。ユダヤ人は「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」(17~18節)いる人たちです。
しかし、前回もお話ししたとおり、この文脈でパウロが「律法」と書いている言葉はそのほとんどすべてを「聖書」という言葉に読み替えることができます。ユダヤ人は聖書に頼り、神を誇りとして生きている人々です。そしてもしそうであるならば、わたしたちキリスト者も同じです。わたしたちには新約聖書がありますので、新約聖書にも頼って生きているという点でユダヤ人とは異なる、という言い方もできなくはありません。しかし、わたしたちキリスト者は旧約聖書にも頼って生きています。わたしたちにとっては旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書です。
ですから、今日の個所でパウロが批判している相手がユダヤ人であることは間違いありませんが、その批判の矛先にわたしたちキリスト者は含まれていないと考えることはできません。わたしたちのことも批判されていると読むべきです。
しかしまた、この言葉を書いているパウロ自身がユダヤ人であり、かつキリスト者であるという点が、おそらく最も重要です。パウロは聖書に頼って生きている人々が抱え持つ矛盾に注目し、その点について厳しく批判しています。その場合の聖書に頼って生きている人々の中にはユダヤ人だけではなく、わたしたちキリスト者も含まれています。しかしまた、その人々の中には必ず、パウロ自身が含まれています。
つまり、パウロは悪い意味で自分のことを棚に上げて批判の言葉を書いているわけではないのです。自分の身を切るような言葉を書いています。このことを言えば確実に自分自身の身にも返ってくるようなことを、あえて書いています。
私が言うのはおかしいかもしれませんが、おそらくパウロは、そうとう真面目な人です。自分自身にとって不利になるようなことも書いたり語ったりすることができる人です。自己弁護をしません。問題がある人々を批判もしますが、同じ言葉で自分が批判されることになることを恐れません。そういうことができる人は物事を勝ち負けで考えない人だと思います。ディベートが好きな人々がいます。その中に、議論に勝つか負けるかだけが問題である人がいます。パウロはそういう人ではないと申し上げたいのです。
「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(19~20節)と続いています。最後に「教師」と書かれていることは無視できません。なぜなら、いくらなんでも、パウロが「ユダヤ人」のすべてを「教師」であると考えていたとは思えないからです。むしろ考えられることは、パウロが批判しているのは、聖書に頼って生きている人々であるという以上に、聖書の御言葉に基づいて人を教える教師たちであるということです。
その教師の中に「長老」は含まれていないのかという疑問が生じるかもしれません。あるいは教会役員や教会員。含まれていると読むこともできますし、含まれていないと読むこともできるでしょう。私が重要だと思いますことは、「ああ、パウロが書いていることは教師だけの問題なのか。それならば、わたしたちには関係ないことだ」というふうに考えないほうがよいという点です。なぜその点が重要なのかといえば、パウロがあえて自分自身の身を切るような苦しい言葉を書いている意図は、それはやはり、彼の言葉を読む人たちに反省を促すことに他ならないと思われるからです。
彼は明らかに自分自身が矛盾に苦しんでいます。彼の心と体には激しい痛みがあります。彼の痛み苦しむ姿を読者に想像してもらいたいと願っているように、私には読めます。そしてパウロとしては、おそらく読者にも彼が味わっているのと同じ痛みを味わってもらいたいとも願っています。おそらく彼は読者にも苦しんでもらいたいのです。パウロはいじめっ子ではありません。しかし、神に逆らい、罪を犯すことは、これほどまでに自分自身を苦しめ、周りの人々を苦しめるものであるということを、自分自身も苦しみながら訴えているのです。
「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」(21~22節)。このようにパウロが書いていることを「矛盾」という言葉で説明するのは間違っていると思われてしまうかもしれません。矛盾というよりも虚偽ではないか。うそをつき、人をだましているのであって、つまりそれは詐欺である。そのような読み方も可能かもしれません。
かりにも教師を名乗り、聖書の御言葉に基づいて人を教えようという人間であるならば、「盗むな」と説いた後に盗むな。「姦淫するな」と言った後、その舌の根も乾かぬうちに姦淫するな。そのように厳しい裁きを受けなくてはならないのが教師であるということは間違いありません。まさにいま私が申し上げたことがそのまま当てはまる言葉が、新約聖書の中にはっきりと記されています。ヤコブの手紙の次の言葉です。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」(ヤコブ3・1~2)。
ご存じの方もおられると思いますのでほんの少しだけ触れておきますが、ヤコブの手紙は16世紀の宗教改革者マルティン・ルターが「藁でできた手紙」と呼び、価値がないとみなしたものです。なぜルターがヤコブの手紙には価値がないと考えたのかを詳しく説明することは今日はできませんが、ひとことだけ言えば、パウロの教えとヤコブの手紙は矛盾するというふうに、ルターには読めたようです。パウロの教えを重んじたいルターにとっては、それと矛盾するヤコブの手紙は、新約聖書に収められたこと自体が間違いだったと言わなければならないほど無価値であると見えたようです。
しかし、それはルターの立場ではありますが、わたしたちはそのような立場は採りません。ヤコブの手紙にも価値があります。とても厳しい言葉が多く書かれていますが、まさに真理と思える言葉が書かれています。「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。これは、すでに教師の働きに就いている人々こそが聞かなくてはならない言葉です。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」。
しかし、ヤコブもまた「わたしたち教師」と書いていることが重要です。ヤコブは教会の中に教師という職務が置かれること自体が間違いだと言っているのではありません。ヤコブが書いていることはそういう意味ではありません。また、私は立派な教師だが、あなたがたは教師になる資格はないというようなことでもありません。そんなことではありえない。それではヤコブの意図は何なのかといえば、それが、今日開いていただいているローマの信徒への手紙の個所にパウロが書いているのとほとんど同じことであると考えることができると思うのです。
ヤコブが書いているのは教師制度の否定ではなく、自分の身を切る言葉を書いているのです。聖書に基づいて人を裁く仕事をする人は、その人自身も同じ言葉で必ず裁かれることになるし、「教師」という立場にあればもっと厳しい裁きを受けることになる。そのことを十分に自覚した上で教師になるなら、なりなさいと、ヤコブは逆説的なことを書いているのです。そしてパウロが書いていることも、趣旨においては、それと同じことなのです。
それは平たく言えば、教師も人間であるということになります。しかし、人間だから必ず罪を犯すという言い方は間違いです。だから人間は罪を犯すものなのだ、罪を犯してもよいのだ、それが自然な姿なのだなどと居直ることは間違っています。罪に市民権を与えてはなりません。しかし、人間には弱さがあり、欠けがあるゆえに、罪の誘惑に負けてしまう傾向があるということは、聖書が至る所で教えていることです。
そして、いずれにせよそのような罪の前で弱さを持つ人間が、教師になるのです。犬が教師になるわけではないし、牛が教師になるわけではありません。そういうのは通常ありえない話です。人間が教師になるのです。
そして、その人間である教師が「盗むな」と説きながら盗み、「姦淫するな」と言いながら姦淫し、偶像礼拝を禁止しながら偶像を拝むことにもなる。ただし、その場合の盗むとか姦淫するとか偶像を拝むというのは、だれの目から見ても明らかに犯罪であるような公然たるものである場合とは限りません。
キリスト者にとっての律法解釈の基準はイエス・キリストの教えです。それは、兄弟に「ばか」という者はその兄弟を殺したのと同じであり、みだらな思いで他人の妻を見る者は、姦淫を犯したのと同じであるというあのイエス・キリストの教えです。
その基準に当てはめたときに、いかなる意味でも罪を犯すことはありえないと言い張れる人がいるでしょうか。もしかしたらいるのかもしれませんが、何人くらいいるでしょうか。そのような、いかなる意味でも罪を犯さない人だけが教師としてふさわしいという話になるのだとすれば、だれが教師になれるでしょうか。一握りの人も、いや一人も残らないのではないかと思われます。
その意味で、パウロが書いていることは、やはり矛盾です。それはなるほど虚偽でも詐欺でもあるかもしれませんが、それ以上に矛盾です。「他人に教えながら、自分には教えない」と批判されながら人を教える仕事に、だれかが就かなければならない。それは、やはり矛盾なのです。しかし、矛盾だらけの人生でも誠実でありたい。そのような思いがパウロの中にあったと思うのです。
(2013年5月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです。」
今日もローマの信徒への手紙を開きました。いまお読みしました個所に書かれているパウロの言葉は、たいへん厳しい内容をもっています。あなたはユダヤ人と名乗り」(17節)と書かれてあるとおり、直接的にはユダヤ人に対する批判の言葉であると言えます。ユダヤ人は「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」(17~18節)いる人たちです。
しかし、前回もお話ししたとおり、この文脈でパウロが「律法」と書いている言葉はそのほとんどすべてを「聖書」という言葉に読み替えることができます。ユダヤ人は聖書に頼り、神を誇りとして生きている人々です。そしてもしそうであるならば、わたしたちキリスト者も同じです。わたしたちには新約聖書がありますので、新約聖書にも頼って生きているという点でユダヤ人とは異なる、という言い方もできなくはありません。しかし、わたしたちキリスト者は旧約聖書にも頼って生きています。わたしたちにとっては旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書です。
ですから、今日の個所でパウロが批判している相手がユダヤ人であることは間違いありませんが、その批判の矛先にわたしたちキリスト者は含まれていないと考えることはできません。わたしたちのことも批判されていると読むべきです。
しかしまた、この言葉を書いているパウロ自身がユダヤ人であり、かつキリスト者であるという点が、おそらく最も重要です。パウロは聖書に頼って生きている人々が抱え持つ矛盾に注目し、その点について厳しく批判しています。その場合の聖書に頼って生きている人々の中にはユダヤ人だけではなく、わたしたちキリスト者も含まれています。しかしまた、その人々の中には必ず、パウロ自身が含まれています。
つまり、パウロは悪い意味で自分のことを棚に上げて批判の言葉を書いているわけではないのです。自分の身を切るような言葉を書いています。このことを言えば確実に自分自身の身にも返ってくるようなことを、あえて書いています。
私が言うのはおかしいかもしれませんが、おそらくパウロは、そうとう真面目な人です。自分自身にとって不利になるようなことも書いたり語ったりすることができる人です。自己弁護をしません。問題がある人々を批判もしますが、同じ言葉で自分が批判されることになることを恐れません。そういうことができる人は物事を勝ち負けで考えない人だと思います。ディベートが好きな人々がいます。その中に、議論に勝つか負けるかだけが問題である人がいます。パウロはそういう人ではないと申し上げたいのです。
「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(19~20節)と続いています。最後に「教師」と書かれていることは無視できません。なぜなら、いくらなんでも、パウロが「ユダヤ人」のすべてを「教師」であると考えていたとは思えないからです。むしろ考えられることは、パウロが批判しているのは、聖書に頼って生きている人々であるという以上に、聖書の御言葉に基づいて人を教える教師たちであるということです。
その教師の中に「長老」は含まれていないのかという疑問が生じるかもしれません。あるいは教会役員や教会員。含まれていると読むこともできますし、含まれていないと読むこともできるでしょう。私が重要だと思いますことは、「ああ、パウロが書いていることは教師だけの問題なのか。それならば、わたしたちには関係ないことだ」というふうに考えないほうがよいという点です。なぜその点が重要なのかといえば、パウロがあえて自分自身の身を切るような苦しい言葉を書いている意図は、それはやはり、彼の言葉を読む人たちに反省を促すことに他ならないと思われるからです。
彼は明らかに自分自身が矛盾に苦しんでいます。彼の心と体には激しい痛みがあります。彼の痛み苦しむ姿を読者に想像してもらいたいと願っているように、私には読めます。そしてパウロとしては、おそらく読者にも彼が味わっているのと同じ痛みを味わってもらいたいとも願っています。おそらく彼は読者にも苦しんでもらいたいのです。パウロはいじめっ子ではありません。しかし、神に逆らい、罪を犯すことは、これほどまでに自分自身を苦しめ、周りの人々を苦しめるものであるということを、自分自身も苦しみながら訴えているのです。
「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」(21~22節)。このようにパウロが書いていることを「矛盾」という言葉で説明するのは間違っていると思われてしまうかもしれません。矛盾というよりも虚偽ではないか。うそをつき、人をだましているのであって、つまりそれは詐欺である。そのような読み方も可能かもしれません。
かりにも教師を名乗り、聖書の御言葉に基づいて人を教えようという人間であるならば、「盗むな」と説いた後に盗むな。「姦淫するな」と言った後、その舌の根も乾かぬうちに姦淫するな。そのように厳しい裁きを受けなくてはならないのが教師であるということは間違いありません。まさにいま私が申し上げたことがそのまま当てはまる言葉が、新約聖書の中にはっきりと記されています。ヤコブの手紙の次の言葉です。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」(ヤコブ3・1~2)。
ご存じの方もおられると思いますのでほんの少しだけ触れておきますが、ヤコブの手紙は16世紀の宗教改革者マルティン・ルターが「藁でできた手紙」と呼び、価値がないとみなしたものです。なぜルターがヤコブの手紙には価値がないと考えたのかを詳しく説明することは今日はできませんが、ひとことだけ言えば、パウロの教えとヤコブの手紙は矛盾するというふうに、ルターには読めたようです。パウロの教えを重んじたいルターにとっては、それと矛盾するヤコブの手紙は、新約聖書に収められたこと自体が間違いだったと言わなければならないほど無価値であると見えたようです。
しかし、それはルターの立場ではありますが、わたしたちはそのような立場は採りません。ヤコブの手紙にも価値があります。とても厳しい言葉が多く書かれていますが、まさに真理と思える言葉が書かれています。「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。これは、すでに教師の働きに就いている人々こそが聞かなくてはならない言葉です。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」。
しかし、ヤコブもまた「わたしたち教師」と書いていることが重要です。ヤコブは教会の中に教師という職務が置かれること自体が間違いだと言っているのではありません。ヤコブが書いていることはそういう意味ではありません。また、私は立派な教師だが、あなたがたは教師になる資格はないというようなことでもありません。そんなことではありえない。それではヤコブの意図は何なのかといえば、それが、今日開いていただいているローマの信徒への手紙の個所にパウロが書いているのとほとんど同じことであると考えることができると思うのです。
ヤコブが書いているのは教師制度の否定ではなく、自分の身を切る言葉を書いているのです。聖書に基づいて人を裁く仕事をする人は、その人自身も同じ言葉で必ず裁かれることになるし、「教師」という立場にあればもっと厳しい裁きを受けることになる。そのことを十分に自覚した上で教師になるなら、なりなさいと、ヤコブは逆説的なことを書いているのです。そしてパウロが書いていることも、趣旨においては、それと同じことなのです。
それは平たく言えば、教師も人間であるということになります。しかし、人間だから必ず罪を犯すという言い方は間違いです。だから人間は罪を犯すものなのだ、罪を犯してもよいのだ、それが自然な姿なのだなどと居直ることは間違っています。罪に市民権を与えてはなりません。しかし、人間には弱さがあり、欠けがあるゆえに、罪の誘惑に負けてしまう傾向があるということは、聖書が至る所で教えていることです。
そして、いずれにせよそのような罪の前で弱さを持つ人間が、教師になるのです。犬が教師になるわけではないし、牛が教師になるわけではありません。そういうのは通常ありえない話です。人間が教師になるのです。
そして、その人間である教師が「盗むな」と説きながら盗み、「姦淫するな」と言いながら姦淫し、偶像礼拝を禁止しながら偶像を拝むことにもなる。ただし、その場合の盗むとか姦淫するとか偶像を拝むというのは、だれの目から見ても明らかに犯罪であるような公然たるものである場合とは限りません。
キリスト者にとっての律法解釈の基準はイエス・キリストの教えです。それは、兄弟に「ばか」という者はその兄弟を殺したのと同じであり、みだらな思いで他人の妻を見る者は、姦淫を犯したのと同じであるというあのイエス・キリストの教えです。
その基準に当てはめたときに、いかなる意味でも罪を犯すことはありえないと言い張れる人がいるでしょうか。もしかしたらいるのかもしれませんが、何人くらいいるでしょうか。そのような、いかなる意味でも罪を犯さない人だけが教師としてふさわしいという話になるのだとすれば、だれが教師になれるでしょうか。一握りの人も、いや一人も残らないのではないかと思われます。
その意味で、パウロが書いていることは、やはり矛盾です。それはなるほど虚偽でも詐欺でもあるかもしれませんが、それ以上に矛盾です。「他人に教えながら、自分には教えない」と批判されながら人を教える仕事に、だれかが就かなければならない。それは、やはり矛盾なのです。しかし、矛盾だらけの人生でも誠実でありたい。そのような思いがパウロの中にあったと思うのです。
(2013年5月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年5月24日金曜日
「第9回 カール・バルト研究会」を行いました
予定どおり、本日(2013年5月24日金曜日)午後9時から11時30分まで、「第9回 カール・バルト研究会」を行いました。
出席者を五十音順で紹介します(敬称は略させていただきます)。
小宮山裕一(茨城県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
藤崎裕之(北海道)
毎回のことながら非常に盛り上がり、楽しかったです。
テキストは『教義学要綱』の「5. 高きにいます神」の後半部分でした。しゃべり疲れましたので、議論内容のレポートは別の機会にします(レポートしないで忘れてしまう可能性のほうが高いです)。
次回は、記念すべき「第10回」です。6月7日(金)午後9時から11時までの予定です。
キリ番にふさわしい特別企画を考えていますので、どうかお楽しみに。
出席者を五十音順で紹介します(敬称は略させていただきます)。
小宮山裕一(茨城県)
関口 康(千葉県)
中井大介(大阪府)
藤崎裕之(北海道)
毎回のことながら非常に盛り上がり、楽しかったです。
テキストは『教義学要綱』の「5. 高きにいます神」の後半部分でした。しゃべり疲れましたので、議論内容のレポートは別の機会にします(レポートしないで忘れてしまう可能性のほうが高いです)。
次回は、記念すべき「第10回」です。6月7日(金)午後9時から11時までの予定です。
キリ番にふさわしい特別企画を考えていますので、どうかお楽しみに。
ポエム書きました。「無題(笑)」
以下、ポエムです。フィクションです。つくりばなし。
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「無題(笑)」
関口 康
物心つく頃から、
何をやっても、どんなことでも、実際に競うと必ず負けるので、
競うのが嫌でした。
スポーツだめ。ゲームだめ。楽器弾けない。
学業だめ。語学だめ。日本語もっとだめ。
「負けず嫌い」というレッテルは貼られたくないです。
「勝つのが好き」だったわけじゃないですからね。
負けたくもないし、勝ちたくもない。
勝って「へへぇ」っていう顔をしているやつの、
その顔が嫌いだったから。
あれと同じ顔になるなら、いっそ勝ちたくないと思っていました。
「へへぇ」っていうその顔に
マジックで「バツ!」とか書きたい衝動ありました。
誰とも競わずに済むのはどんな生き方かと考えて、
これなら競わずに済むと気づいたのが○○の仕事でした。
だけど、そうでもないのかなと。
こんなところで勝った負けたみたいなことを
口に出さずとも、顔に出さずとも。
昨日・今日とか、最近とか、
べつに何かあったわけではありません。
むしろ何も無い。何も変わらない。もううんざりなんですけどね。
ずずんと重い、ぼくの宿題です。
勝負の無い世界って死ぬことなのかな。
正しい間違ってるは、あると思いますよ。それは、あるある。
だけど自分の間違いを認めることは負けですかね。
「株、あがるんじゃない?」と思うんだけど。
だけど、周りもだめなのか。
ひとの間違いを指摘するひとが「へへぇ」っていうあの顔してるから。
自分の間違いを認めたくなくなるんだね。
たぶんね。知らんけど。
本日「第9回 カール・バルト研究会」です
今日(2013年5月24日)は、二週に一度の「カール・バルト研究会」の日です。
なんと、9回目になります(これは快挙)。
前回(第8回)から、グループビデオ通話の方法を、
「スカイプ プレミアム」から「グーグルプラス ハングアウト」へ変更しました。
「スカイプ プレミアム」は有料(主催者のみ)で、5名くらいが限界でしたが、
「グーグルプラス ハングアウト」は無料で、10名までの同時通話が可能です。
「第9回 カール・バルト研究会」の開始時刻は、午後9時(日本時間)です。
・アメリカ東部(ミシガン州など)の方は、5月24日(金)午前8時からです。
・ドイツやオランダの方は、 5月24日(金)午後2時からです。
新規参加者を募集中ですので、ぜひお願いします。
参加条件は「バルト主義者にならないこと」だけです。参加無料です。
テキストはカール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック)です。
テキストを輪読して感想を述べあっているだけです。それがけっこう面白いです。
よろしくどうぞ。
清々しい朝のうちに「96条の会」の誕生を絶賛しておきます
今日の松戸は、優しい朝です。
気持ちが良いのでなるべく肯定的な話題を。
9条の会に続き、おお、96条の会。こういう動きは、肯定的で素晴らしいです。
「護憲」か「改憲」か、という二者択一よりいいです。
二者択一を迫られればぼくは「護憲」ですが、すべて金科玉条とは思っていません。
しかし、現憲法の中に「金科玉条」も含まれているとは思っています。
各人に各自のそれ(最も大切にしたい・している法律・規則)があるでしょう。
それの会がもっと作られるといいのだなと、96条の会の誕生で啓蒙されました。
「それ、それ」と指示代名詞が多い文章を書くぼくは、機嫌がいいときです。
自分の脳内だけで納得して、ふんふんと鼻歌をうたっているようなときです。
昨年(2012年)6月29日(金)には、ぼくまで総理官邸前に行きました。
記者クラブのほうではなく官邸前の警官隊の前にいたのに排除されなかったのは、
スーツを着たぼくが「公安」に見えたからではないかと、ジョークになりました。
でも、6月29日(金)の警官隊は、まだ笑顔でした。
そこいらのイケメンにいちゃんたちが制服着てるだけの感じで
「え~、道が混雑しているので~、立ち止まらないでくださ~い、えへら、えへら」
という調子でした。
その「えへらえへら警官」を70代くらいの痩身でインテリ風の背広のじいさんが
「てめえら、うるせえ~んだよ。警察よりな、憲法のほうがえれ~んだ」(ママ)
と怒鳴りあげている(のに警官たちは、まだ「えへらえへら」している)のを見て、
「平和だな~」と笑いがこみあげてきたことを、忘れられません。
なんか、あーゆーふーな日本でいてほしいなと、なんとなく思いました。
あらら、この文章を書いているうちに、朝の清々しさより、憂鬱な気分のほうが...
そろそろ、出かける準備を始めなくてはなりません。
あーあ、なんだかな...
(8:00)
2013年5月21日火曜日
「十字架の神学研究会」が始まりました
今日は本来ならば東関東中会の教師会に出席すべき日でしたが、事情を伝えて教師会を欠席し、今日が新規立ち上げの神学研究会に出席しました。
会場は、千葉県内唯一のプロテスタント系キリスト教主義の高校である「千葉英和高等学校」(千葉県八千代市村上709-1)でした。
神学研究会の名称は「十字架の神学研究会」。
千葉英和高校の宗教主事である石黒義信先生(日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会牧師)の呼びかけにより、千葉英和高校の聖書科担当の先生たちと、千葉県内の超教派の牧師たちとで、合計10名が集まりました。
テキストは、青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、新教出版社、2011年)です。
初回からとても充実した議論になりました。楽しかったです。
次回(第2回)は、6月18日(火)午後5時30分より千葉英和高校で行います。
懐かしい先生とお会いしました。大串眞先生(日本基督教団千葉北総教会牧師)です。直接お目にかかるのは1996年3月以来だと思いますので、17年ぶりです。
大串眞先生は東京神学大学の先輩です。卒業後も日本基督教団四国教区高知分区でご一緒させていただきました。
大串先生は宿毛教会(高知県宿毛市)の牧師として、ぼくは南国教会(高知県南国市)の牧師として働きました。
いま、再び大串先生とぼくが同じ千葉県内の教会で牧師として働いていることを神の不思議な導きと信じ、感謝するばかりです。
会場は、千葉県内唯一のプロテスタント系キリスト教主義の高校である「千葉英和高等学校」(千葉県八千代市村上709-1)でした。
神学研究会の名称は「十字架の神学研究会」。
千葉英和高校の宗教主事である石黒義信先生(日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会牧師)の呼びかけにより、千葉英和高校の聖書科担当の先生たちと、千葉県内の超教派の牧師たちとで、合計10名が集まりました。
テキストは、青野太潮先生の『「十字架の神学」をめぐって 講演集』(新教新書268、新教出版社、2011年)です。
初回からとても充実した議論になりました。楽しかったです。
次回(第2回)は、6月18日(火)午後5時30分より千葉英和高校で行います。
懐かしい先生とお会いしました。大串眞先生(日本基督教団千葉北総教会牧師)です。直接お目にかかるのは1996年3月以来だと思いますので、17年ぶりです。
大串眞先生は東京神学大学の先輩です。卒業後も日本基督教団四国教区高知分区でご一緒させていただきました。
大串先生は宿毛教会(高知県宿毛市)の牧師として、ぼくは南国教会(高知県南国市)の牧師として働きました。
いま、再び大串先生とぼくが同じ千葉県内の教会で牧師として働いていることを神の不思議な導きと信じ、感謝するばかりです。
2013年5月19日日曜日
聖書の教えと人間の良心の関係は何ですか
ローマの信徒への手紙2・11~16
「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」
先週からローマの信徒への手紙の2章に入っています。先週は1節から10節まで読みました。切り方として正しいかどうかは迷いましたが、先週読んだ個所と今日お読みしました11節から16節までの個所とで語られている内容に違いがありますので、10節と11節の間で区切りました。
今日の個所に書かれていることを、また最初に一言でまとめておきたいと思います。しかし、その前に説明しておかなくてはならないことがあります。それは、今日の個所に繰り返し出てくる「律法」は、「聖書」または「聖書のみことば」という言葉で置き換えるほうが分かりやすいし、きっと皆さんに納得していただける話になるだろうということです。実際にやってみます。
「神は人を分け隔てなさいません。聖書を知らないで罪を犯した者は皆、この聖書と関係なく滅び、また、聖書の下にあって罪を犯した者は皆、聖書によって裁かれます。聖書のみことばを聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ聖書を持たない異邦人も、聖書の命じるところを自然に行えば、聖書を持たなくとも、自分自身が聖書なのです。こういう人々は、聖書の要求することがその心に記されていることを示しています。」
いかがでしょうか。ほとんど違和感なくお聞きいただけたはずです。違和感がないということは、西暦一世紀にパウロが書いた「律法」という言葉の意味は、今のわたしたちが「聖書」という言葉で理解していることとほとんど同じであるということを意味しています。
実際にそうでした。はっきりしていることは、ローマの信徒への手紙をパウロが書いている時点では、わたしたちの言うところの新約聖書は存在しなかったということです。彼らにとって聖書といえば、わたしたちの言うところの旧約聖書だけです。
旧約聖書がなぜ「旧い」のかといえば、聖書に「新しい」部分が後から加わったからです。しかも、二千年前の聖書は今の旧約聖書と中身は同じですが、形式が違いました。当時の聖書の形式についての歴史的に正確で詳細な説明をすることは、私にはできません。
しかし大雑把にいえば、律法と預言者と諸書という三つの部分に分かれていました。それで「律法」や「預言者」という言葉だけでわたしたちの言う旧約聖書全体のことが言われることもありました。
そのため、今日の個所でも、パウロがたとえば「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく」(13節)と書いているところを、わたしたちが「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではなく」と読み替えることは、間違いでもこじつけでもありません。むしろ、パウロの意図を正確に理解できる読み方なのです。
ですから、今日の個所を一言でまとめる場合も、今まさに触れた「聖書のみことばを聞く者が神の前に正しいのではない」と読み替えた点を考えればよいのです。それはつまり、一人の人間が神の前に正しい生き方をしているかどうかは、その人が聖書の御言葉を聞いて学んで知っているかどうかということと完全に一致しているとは言えない、ということです。
聖書の御言葉を学んだことがない人でも、神の前に正しい生き方をすることは可能である。また、それとは逆に、聖書の御言葉をいつも聞き学んでいる人でも、神の前に正しくない生き方をすることはありうる、ということです。
しかも、わたしたちにとって聖書の御言葉を聞くということは、自分ひとりで、個人で聖書を学ぶという以上に、教会で聖書を学ぶことを意味しています。ですから、パウロが言っていることをさらに言い換えれば、教会に通っていない人でも神の前に正しい生き方をすることはできるし、逆に教会に通っている人でも神の前に間違った生き方をしていることがありうるということになるでしょう。
私はこのようなことをパウロが書いているということが重要であると考えます。そして、このようなことをパウロが書き、それが聖書としてまとめられ、聖書の中に書かれているということが重要であると考えます。
なぜ重要なのでしょうか。わたしたちはこのような言葉を、教会において聖書を学ぶことにおいて常に確認し続けることができるからです。そのようにしてわたしたちは、聖書の御言葉を聞いている者だけが独占的に神の前に正しい生き方をしているわけではないということを、聖書が教えているということを知ることができます。聖書はわたしたちが傲慢に陥ることを防いでくれるのです。
教会の中だけに神の前に正しい生き方をしている人々がおり、教会に通わない人たちはすべて神の前に間違った生き方をしているとは言い切れないということを、聖書が教えてくれるのです。
「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれていることが、まさに私がいま申し上げたことであると考えていただいて構いません。教会に通っているわたしたちは、教会に通っていない人たちを見くだすようなことをしてはならないのです。
教会に通っている人と、通っていない人とが全く同じであるという意味ではありません。違いがないわけではありません。しかし、教会に通っている人には罪がないとは言えません。罪という点においては、神は、教会の中の人と外の人とを差別されないのです。このことをわたしたちは自分自身に言い聞かせなければなりません。
しかし、私はここで話をやめることはできません。ここで話をやめると誤解を招いてしまいます。教会に通わないし、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない人でも、神の前に正しい生き方をすることはありうると言いましたのは、あくまでも可能性の話であって、実際にそうだということではありません。
パウロは、わたしたちはすでに学んだこの手紙の1章18節以下の部分で、すべての人に罪があるということを断言していました。それが意味することは、教会に通ったことはなく、聖書の御言葉を聞いたことも学んだこともない、そのような人にも罪があるということです。
何が罪で、何が罪ではないかを見分けるための判断基準としての聖書の御言葉を知らないからと言って、その人がしていることは罪ではないとは言えません。知らないうちに罪を犯しているということがありうるのです。しかしまた、その人々は、神のことも、神の御心のことも、全く知らないとも言えません。神の御心は、神御自身が創造されたこの世界のあらゆる現実の中ではっきり示されているからです。
しかし、人間はこの世界を破壊し、隣人を傷つけ、自分を傷つける罪を犯してしまいます。その罪に対して神は怒りを現され、裁きを行われます。「私は神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちに対しても、神は裁きを行われます。この点においても、神は人を分け隔てなさらないのです。
しかしいま申し上げたことは、いわば神の側からの見方です。「神など知らないし、信じていない」と言い張る人たちにとっては関係ない話だと思われてしまうことでしょう。だからこそパウロは今日の個所に次のように書いています。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び(る)」(12節)。次のようにも書いています。「たとえ律法を持たない異邦人でも、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」(14節)。
これは何を意味するのでしょうか。ここでも「律法」は「聖書の御言葉」と読み替えることが可能です。すると、どうなるか。聖書を読んだことがない人にとっては、その人自身が、いわばその人の聖書になるということです。聖書を知らず、神の御心を知らない人にとっては、その人自身がその人の神になるということです。そのような人にとっては、頼るものは自分だけです。自分の信念とか、自分の理想とか、自分の哲学とか、そのようなものがまるで神であるかのようにみなし、そのようなものを頼りにして生きていくしかありません。
しかし、パウロの結論は、まさかそのようなことにあるわけではありません。パウロが書いている、律法を持たない異邦人が律法の命じるところを自然に行う可能性があるとしたら、その根拠はすべての人が生まれつき持っていると言われるいわゆる人間の良心が正常に機能する場合の可能性を指していることは明らかです。
パウロが書いている「自分自身が律法である」(14節)という場合の「律法」とは明らかに、人間の良心の中に映し出された神の御心を指しています。すべての人は神に造られた存在なのですから、すべての人の心の中に何らかの仕方で神の御心が映し出されているということは、わたしたちも語ってよいことですし、信じてよいことです。聖書を学んだことがない人たちでも悪いことをすれば良心に呵責が生じるのはそのためです。どんなに悪いことをしても何も感じないというのは「良心が壊れている」と言わざるをえないのですが、良心が全く無いし、生まれたときからその人に神が良心を与えておられないということはないのです。
しかし、わたしたち人間の良心だけを頼りにして生きていくことは、だれにとっても心もとない、不安な人生になることは避けられません。「自分自身が律法である」ということは「我こそが裁判官である」と言っているのと同じです。しかし、自分の善悪のすべてを自分で判断することはできません。そんなことができるなら、それこそ警察も裁判所も要りません。
あるいはまた、もし自分が間違っていることを自分で自覚したとき、その罪を誰が赦してくれるのでしょうか。具体的に傷つけた相手がいる場合は、その相手が赦してくれれば済むかもしれません。しかし、そうでない場合はどうするのでしょうか。自分で自分を赦すのでしょうか。それで済むのでしょうか。
パウロの結論は、聖書を読まなくても神の前に正しい生き方ができるということではありません。正反対です。聖書は読むべきです。聖書から神の御心を知るべきです。そして、その御心は人間を罪の中から救い出してくださることにあることを知るべきです。神に従い、より頼んで生きていくことこそが大切であるということを、すべての人が知るべきなのです。
聖書の教えと人間の良心の関係は何ですか。聖書の教えは明瞭であるが、人間の良心は不明瞭である。聖書の教えの背後には神の愛と赦しがあるが、人間の良心にはそれがない。自分で自分を愛し、自分で自分を赦すしかないのです。
今日は一年に一度のペンテコステの礼拝です。教会がこの地上に誕生したことをお祝いする日曜日です。教会はわたしたちにとってなぜ必要なのでしょうか。どんなに間違っても、わたしたちを傲慢にし、教会に通わない人たちを見くだすために、教会が存在するのではありえません。自分を頼りにする生き方の限界を知り、聖書を通して示されている神の御心はわたしたちに対する深い愛であるということを知り、自分の罪を悔い改めて世と人を愛して生きていくことが大切であることを生涯学び続けるために、教会があるのです。
(2013年5月19日、松戸小金原教会ペンテコステ礼拝)
2013年5月17日金曜日
テレビの音声で聞くと「浮遊層」に聞こえて仕方ないです
20年周期説でも30年周期説でもなんでもいいです。
「隔世遺伝」とかいう言葉もありますね。
ぼくらの世代(40代とか50代とか)は、たぶんあなたたちより先に死にますから、スキップしていいです。
70年前に苦労した、という記憶をお持ちの方々は、今の10代20代の子たちの苦労に共感できるものをもっておられるはずなんですけどね。
なんとかミクスで「富裕層」の人たちの財布のヒモが緩んで、どうの、とかいう話を聞くと、食べたものが戻ってくるほど気持ち悪いです。
あ、テレビの音声で聞くと「浮遊層」に聞こえて仕方が無いんですが。
完全に暴言でしたね、お許しください。不快に思われた「としたら」お詫びします。
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