2013年1月3日木曜日

ティリッヒの「受容の受容」は改革派神学においてどのように評価しうるか

なんだかもう、ひたすら脱力した正月を過ごしています。

二度と立ち上がることができないのではないかと思うほどの、腰抜けチャーリー・ブラウンです。

しかし、今日は一通だけ返信メールを書くことができました。ちょうど一週間前の12月27日(木)に受けとったメールのお返事を、今ごろ送っています。遅筆、遅配、お詫びのしようもありません。

メールの送り先がどなたであるかは伏せますが、分かる人には分かってしまうかもしれません。

「パウル・ティリッヒの『受容された受容』という概念は改革派教会の教える予定論とは相容れないのではないか」という旨が書かれていましたので、ぼくなりの意見を述べました。

新年早々「なんじゃこりゃ」な神学議論で申し訳ないのですが、もしかしたら興味を持っていただける方がおられるかもしれませんので、必要な修正を施して公開させていただきます。

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ほにゃらら先生

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

メールをいただき、ありがとうございました。返事を書くよりも、電話でお話しするほうがいいような気がして何度か掛けたのですが、お留守のようでしたので、簡単に書いておきます。微妙なニュアンスは電話のほうが伝わると思うので、また電話します。

パウル・ティリッヒは、ぼくの東京神学大学(学部)の卒業論文のテーマでしたので、わりと読んだほうです。ティリッヒはニューヨーク・ユニオン神学校やハーヴァード大学で教えましたが、元来はドイツ人で、ナチスから逃れてアメリカに亡命した人です。

ティリッヒの本はとても難しくて歯が立たないところが多いのですが、ある視点を持てば「なるほど」と納得できるものがありました。ある視点とは、ティリッヒ自身が明言していることですが、ティリッヒの父親がドイツのルーテル教会の牧師であったことが決定的に影響し、ティリッヒ自身も明確にルター派の信仰を意識した神学を営んでいるということです。

ですから、ティリッヒの「受容の受容」(accept acceptance)は、「このわたしが神に受け容れられているということを、このわたし自身が受け容れること」を意味する言葉ですが、これはルターが強調した信仰義認の教理を哲学的な概念を用いて言い直した言葉であると理解することができます。

もしそうであれば、改革派教会の予定論とも矛盾しないはずです。ルターの信仰義認の教理とカルヴァンの二重予定の教理は、矛盾しないどころか、ルターの教えをカルヴァンが継承発展させたと考えるほうが正しいわけです。

なぜなら、カルヴァンの二重予定の教理は、ルターの「人が救われるのは、行いによってではなく、信仰による」という線を継承しながら、「人がそれによって救われる信仰そのものもまた、神の恩恵である」というアウグスティヌスの線を強化した結果として生まれたものであるととらえることができるからです。

しかし、我々の体験に照らし合わせると、神の恩恵としての信仰を(神から与えられて)持っている人と、持っていない人がいることは明白である。もしそうだとすれば、神はある人々に対しては信仰を与えて救ってくださるが、他の人々に対してはそうではないと考える他はない。そこに「予定の二重性」(praedestinatio gemina)があるとカルヴァンはとらえたわけです。

このように「信仰」という観点から見ると、カルヴァンの二重予定の教理はルターの信仰義認の教理の発展型であると考えることができます。

そして、ティリッヒの「受容の受容」という概念は、ルターの信仰義認の教理の哲学的解釈であると見ることができます。

もしそうであれば、ティリッヒの「受容の受容」は改革派教会の予定論とは矛盾しないと言ってもよいのではないでしょうか。

しかし、問題は、我々はそれをどのようにとらえればよいか、です。

繰り返し言えば、ティリッヒの「受容の受容」は、「このわたしが神に受け容れられているということを、このわたし自身が受け容れること」を意味しています。

これを神学的概念で言い換えると、どうなるか。ぼくなりに言い換えてみますと、こうなります。

「このわたしが依然として罪深い人間であるにもかかわらず、あたかも罪がない者であるかのように神がみなしてくださり、神の子として受け容れてくださっているということを、このわたし自身が受け容れ、同意すること」です。

つまり、それは「信仰告白」です。

改革派神学の古い概念でいえば、「受動的義認」(iustificatio Dei passiva)との対比で語られる「能動的義認」(iustificatio Dei activa)です。

「受動的義認」は、ルターが強調した「神がこのわたしを義と認めてくださる」という、人間側の受動性の観点から見た義認の教理です。

これに対して「能動的義認」の意味は、「このわたしが神を義とする」ということです。

不遜なことを言っているような気がするかもしれませんが、このような概念を改革派神学は昔から用いてきました。その意味は、「神は義なる方であるという信仰を告白すること」です。

「受動的義認」(passive justification)と「能動的義認」(active justification)の区別と関係については、ハインリヒ・ヘッペ『改革派教義学』英語版(Heinrich Heppe, Reformed Dogmatics)555~559ページに記されていますので、ご参照ください。

電話でお伝えしたかったことは、とりあえず以上です。字で書くだけでは分かりにくい内容を含んでいると思いますので、もし分からない点がありましたら、電話でお話ししましょう。

ほにゃらら先生から再三言われてきたことは、「どうしてもファン・ルーラーでなければダメなんですか」という問いかけでしたね。

ぼくは何もファン・ルーラーにこだわっているわけではありません。

実をいえば、ぼくが日本基督教団の教師だった頃からずっと抱いてきた夢は、このハインリヒ・ヘッペの『改革派教義学』を日本語で読めるようにしたいということでした。

ヘッペの『改革派教義学』は、17世紀を中心とするヨーロッパの改革派神学者の著書からの「抜粋集」のような本ですので、資料集に近いものです。ウェストミンスター信仰規準の神学の歴史的背景を知ることができる本でもあります。

このヘッペの本は、カール・バルトが「再発見」したことで現代神学のコンテキストに登場するに至りました。バルトの『教会教義学』の中で、ヘッペは大活躍しています。

そして、ぼくが日本基督教団の教師だった頃には知る由もなかったことですが、なんと、このヘッペの本を、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部で教義学講義の際に、教科書として使用していたのです。

ヘッペには英語版があります。ぼくはドイツ語版原著を持っています。

そのうち、これの読書会しませんか。仲間が見つからなくて困っていました。

2013年1月3日

関口 康

2013年1月1日火曜日

主の業に常に励みなさい


2013年 新年礼拝説教

コリントの信徒への手紙一15・56~58

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

今日は2013年の新年礼拝です。最近の新年礼拝で行っているのは、松戸小金原教会が毎年「目標聖句」として掲げる聖書の御言葉の意味を解説することです。

昨年2012年に掲げた目標聖句は「キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイの信徒への手紙2・6)でした。その御言葉の意味を昨年の新年礼拝で解説しました。今年も同じようにします。

今年の目標聖句は、先ほど朗読しました聖書の御言葉の一部分です。「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(コリントの信徒への手紙一15・58)。

これを今年の目標聖句にすることを12月の定期小会で決議しました。今月20日(日)の定期会員総会で承認します。そのようにして、この御言葉を教会のみんなで覚えつつ、今年一年間を過ごしたいと願っています。

この御言葉は二つの文章で成り立っています。前半は「動かされないようにしっかり立ち(なさい)」です。後半は「主の業に常に励みなさい」です。

二つの文章はつながっていますが、内容の異なることが書かれています。ですから、今日は二つの部分を分けてお話しします。

第一は「動かされないようにしっかり立ちなさい」です。

この御言葉には歴史的な文脈があります。これは使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の一節です。

コリント教会は必ずしもしっかり立っていませんでした。ぐらぐら揺れていました。だからこそ、パウロは「しっかり立ちなさい」と呼びかけているのです。

コリント教会の問題は大きく分けると二つありました。一つは教会の中に不道徳があったということです。もう一つは教会が信じるべき信仰の内容に混乱がありました。

つまり、コリント教会は道徳面でも信仰面でもぐらついていたのです。その教会が「動かされないようにしっかり立つ」ためには、道徳・信仰の両面の立て直しが必要だったのです。

しかし、その立て直しは、どのようにして実現するものなのでしょうか。

このことについて改革派教会は、伝統的な答えを持っています。改革派教会の答えは、道徳面についてはモーセの十戒を規準にし、信仰面については使徒信条を代表とする教会の基本信条を規準にすることです。

たとえば、わたしたちが毎週の礼拝で交読しているハイデルベルク信仰問答は、使徒信条と十戒と主の祈りの解説です。それを繰り返し読むことで、改革派教会は「動かされないようにしっかり立つ」とはどういうことかを学んできたのです。

今日お話しすべき第二のことは「主の業に常に励みなさい」とはどういうことなのか、ということです。とくに考えなくてはならないことは、「主の業」という言葉をパウロがどのような意味で書いたのかという点です。

それを考えるために、パウロがこの言葉をどのような文脈の中で書いたのかを知る必要があります。とくに58節の後半の言葉が重要です。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

「主」とはわたしたちの救い主イエス・キリストを指していることは明らかです。もしそうであるならば、「主の業」とは救い主イエス・キリストの働きを指していると考えることが可能です。

そして、パウロによると、教会は「主に結ばれている」存在です。つまり、救い主イエス・キリストの存在と教会の存在は「結ばれている」関係にあるのです。

これはどういうことでしょうか。教会にとってイエス・キリストは、大昔に死んだ過去の存在ではありません。復活して今も生きておられ、かつ天に挙げられている状態にあると教会は信じています。天に挙げられているイエス・キリストと、地上の教会が「結ばれている」関係にあるのです。

すると、どうなるか。教会の働きは、天に挙げられたイエス・キリストの働きを地上において続けることを意味すると考えることができるのです。地上の教会が天におられるイエス・キリストの働きを地上において続けているのです。それはつまり、教会自身が人を救うのだと言っているのと同じことなのです。

わたしたちが人を救うのです。わたしたちの働きが、人を救うために用いられるのです。

たとえば、教会が人に洗礼を授けるとは、そういうことです。困っている人に必要な助けの手を差し伸べることも、人を救う働きです。わたしたちが、具体的に人を救い、助ける働きに就くのです。

しかし、それはあくまでも「主に結ばれている」かぎりにおいて、という限定のある話であることを忘れてはいけません。イエス・キリストとは無関係に、わたしたちが勝手に人を救うという話ではありません。天に挙げられているイエス・キリストが、わたしたちを用いてくださるのです。

しかし、地上の教会には限界があります。わたしたちの教会の規模や能力は小さいものです。教会の規模と働きがあまりにも小さすぎてがっかりされることがあります。

しかし、わたしたちの働きは「主に結ばれているならば」無駄ではありません。教会の存在は無意味でも無価値でもありません。イエス・キリストが生きて働いてくださるからです。

そのことを信じて、今年も地味で・地道で・有意義な歩みを続けていこうではありませんか。

(2013年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)

2012年12月31日月曜日

日記「関口康が選ぶ(笑)今年最高の本 BOOK OF THE YEAR 2012第1位の発表です!」


「関口康が選ぶ(笑)

今年最高の本 BOOK OF THE YEAR 2012」

第1位の発表です!

(ドラムロール....ドロロロロロロ、じゃん)

ぱっぱらぱっぱぱー

文句なし!

佐藤優著『同志社大学神学部』(光文社、1600円)



「みなさん、ごめんなさい!!」と、なぜか謝らなくてはならない気分なのですが、いや、もう、圧倒的なリードでした。

佐藤氏の筆力もさることながら、同志社大学神学部が面白い。

ネタにするのは申し訳ないというかマズイ気がしてならないのですが、爆笑できますね、これは。

いやー面白かった。

卒業生たちは近親憎悪のような感情を持っておられる可能性があるので部外者のぼくの言うことなどは話半分に聞いていただけるくらいでいいと思うのですが、ぼくの「理想」を見た思いでした。

こういう神学部に行きたかったなあ、ぼくの人生は全く違うものになっていたに違いない(良い意味で)と、わりと真剣に思いました。

とくに、ぼくが魅了されたのは、本書に登場する緒方純雄先生の存在です。

面識はありませんが、いやなんか素敵な方だなと思いました。こういう先生、大好きです。

以上、第1位の発表でした!

なお、お断りしておきますが、この本を第1位にしたのは、ユーモアではありません。出版物としての完成度の高さを評価しました。

これくらい「日本語として読みうる本」であることを、他のすべての本に望みます。

2012年12月30日日曜日

教会につながっていれば、また会えます(録画説教)

日本基督教団置戸教会(北海道常呂郡)での録画説教
テサロニケの信徒への手紙一3・6~10

「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えてくれていること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に願っています。」

置戸教会の礼拝で説教させていただくのは、今日が初めてです。初めての方々とお会いするときは、自己紹介から始めるべきかもしれません。しかし、いまお話ししているのは礼拝の説教です。聖書のみことばを後回しにすることはできません。自己紹介は後回しにし、聖書の話を先にします。

しかし、少しだけ自己紹介をさせていただきます。松戸小金原教会は、東京との県境にある千葉県松戸市にあります。インターネットで、松戸小金原教会から置戸教会までの距離を調べてみました。直線距離ではなく、自動車を使うとどれくらいかを調べました。

東北自動車道を使うと1369キロあることが分かりました。ざっと1400キロです。時間は約19時間26分かかるようです。概算で20時間です。ただし、ノンストップの場合です。一人の運転手にはたぶん不可能です。二人か三人の運転手がいれば交代できますので、なんとかなるかもしれません。

飛行機を使えば、だいぶ違います。松戸小金原教会から羽田空港までが1時間、羽田空港から釧路空港まで1時間半くらいでしょうか、2時間かかるでしょうか。釧路空港から置戸教会までが自動車で3時間半とのこと。全部で6時間くらいです。ただし、飛行機はやはりかなりお金がかかります。.

これで申し上げたいことは、私と皆さんとのあいだの物理的な距離は非常に遠いということです。しかし、その距離を飛び越えて、私はいま置戸教会の礼拝説教をさせていただいています。これは、やはり驚くべきことであり、おそるべきことです。神がすべてを導いてくださり、わたしたちのこのような関係を作り出してくださったことへの畏れを覚えます。

しかし、なぜこの私が置戸教会の礼拝で説教しているのでしょうか。この点についてはやはり丁寧に説明しなくてはなりません。しかし、その話は後回しにします。

今日開いていただきました聖書の個所は、テサロニケの信徒への手紙一3・6~10です。テサロニケの信徒への手紙は、使徒パウロがギリシアの町テサロニケにある教会の人々に宛てて書いた手紙です。

この手紙を書いたパウロは、テサロニケ教会の設立にかかわった人です。しかし、テサロニケ教会の設立後、パウロはこの地を離れ、別の地で新しい教会の設立に当たりました。そのため、この手紙を書いている時点では、パウロはテサロニケとは別の場所にいます。パウロは、この教会からは遠い地からこの手紙を書いていることになります。

たいへん申し訳ないことですが、置戸教会の歴史については、ほとんど何も存じません。しかし、これも少しインターネットで調べさせていただきましたら、42歳で亡くなられた野口重光先生が置戸教会の初代牧師であると書いてあるページが見つかりました。もしこの情報が正しいなら、野口先生と置戸教会の関係が、パウロとテサロニケ教会の関係であるというふうに、たとえることができます。

野口先生はすでに天に召されています。しかし、パウロは生きていました。テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中におさめられたパウロが書いた手紙の中で最も古いものであると言われています。つまり、パウロが最も若かったころに書かれたものです。体力的にも精神的にも元気でした。

そのパウロとしては、できればもう一度、テサロニケの地に訪れて教会のみんなに会いたい、教会のみんなを励ましたいと願っていました。どんなに苦しくても、厳しい状況の中でも、信仰を捨てないでほしい、教会につながっていてほしい、そのために教会を励ましたいと願っていました。

しかしパウロは、テサロニケ教会の人々にもう一度会いたいとどんなに願っても、なかなか行くことができません。今のように飛行機はありませんし、新幹線もないし、電車もないし、自動車も高速道路もありません。インターネットもDVDもありませんし。電話も携帯もない。唯一の連絡手段は手紙でした。海の上は船に乗りました。しかし、ほとんどは歩いて行くしかありませんでした。

パウロにとって教会とは、自分がどのような目に会おうとも、なんとかして励ましたい存在でした。パウロは、自分が苦労して設立した教会だからテサロニケ教会のことを大事に思っていたというのとは違います。教会の存在をまるで自分の手柄のようなものとして考えて、自分のした仕事の結果が失われるのを見るのがつらい、というような感覚とは違います。彼はそのようなことを考える人ではありません。

もっと人格的なつながりです。最も単純な言葉を使えば「愛」です。パウロはテサロニケ教会が単純に好きだったのです。好きに理由はない。まるで歌謡曲の歌詞のような話です。理屈では説明できない愛情をテサロニケ教会の人々に対して持っていた。感覚的にいえば、そういうことです。

しかし、パウロとテサロニケ教会とのあいだの距離が遠すぎて、ちょくちょく足しげく通い、その教会の人々と仲良くすることはできません。遠くのほうから、大丈夫かなあ、どうしているかなあと、心配するしかありません。しかし、パウロは我慢できなくなりました。なにがなんでも、テサロニケまで行きたくなりました。

ただし、自分自身が行くという願いは叶わないことが分かりましたので、自分の代わりに後輩のテモテに行ってもらうことになりました。テモテが帰って来て伝えてくれたことは、テサロニケ教会の人々は以前と変わらず熱心な信仰を持ち、しかも、パウロに対する愛と尊敬を持ち続けているということでした。それでパウロはうれしくなってこの手紙を書いたのです。

そのことが今日の個所に書かれています。そして、今日の個所の中で皆さんにとくに注目していただきいのは、7節と8節のみことばです。「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」

これは新共同訳聖書(1988年)の訳です。一昔前の口語訳聖書(1954年)では「あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである」と訳されていました。さらに昔の文語の改訳聖書(1917年)では「汝等もし主に在りて堅く立たば我らは生くるなり」と訳されていました。どれも分かるような、分からないような訳です。

新改訳聖書(1970年)は「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」となっています。かなり分かりやすい訳です。しかし、意味が特定されすぎていて、かえって疑わしい。ここでパウロは「生きがい」の話をしているのでしょうか。私には疑問です。

なぜなら、「生きがい」と言いますと、言葉のニュアンスとしては、ああ生きていてよかったという気持ちを持てる、というふうな意味です。パウロ側の気持ちや感覚の次元に事柄が還元されてしまいます。しかし、パウロがテサロニケ教会の人々に伝えようとしているのは、そういうことではないと思うのです。

パウロの生きがいの話など全くしていません。はっきりいえば、パウロの生きがいなんかどうだっていいことです。「生きがいがほしくて伝道している」というような牧師など要らないです。そういうのは人間的な野心の自己実現です。神の御心を行うという態度とは違うものです。

パウロがしているのは、自分の側の生きがいの話ではない。そうではなくて、彼が言いたいことは、むしろ、テサロニケ教会の側に関することです。それを言葉で表現するのは難しいことです。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言える」と書かれているのですが、考えるべき問題は、わたしたちは、今、「どこに」生きているかです。「どこに」をパウロは書いていません。しかし、考えられることは、「テサロニケ教会に」です。

パウロの気持ちとしては、もしあなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちはテサロニケ教会にいる、あなたがたの教会の中に、今、わたしたちが、わたしが生きていると言える。一緒に礼拝をささげている。あなたがたの中に、あなたがたの側に、このわたしが生きている。

こういうことをパウロは書いているのだと思うのです。なんだか遠くから、きみたちが信仰を捨てないでいてくれることがわたしの生きがいであるというような言い方は、踏ん反り返った感じです。

パウロがしているのは「伝道者の生きがい」の話ではありません。むしろ、テサロニケ教会の存立の問題です。もっと大胆な言い方をすれば、いわば復活なのです。あなたがたが信仰をもってしっかり立っているなら、パウロがテサロニケ教会に復活したのと同じだ、このわたしがよみがえったのと同じだ、と言っているのです。

このあたりで、そろそろ私の話をさせていただきます。今日このような形の礼拝が実現しましたのは、百瀬考幸さんのおかげです。その事情をご説明させていただきます。

ことの始まりは25年前にさかのぼります。1987年7月のことです。

当時私は東京神学大学の学生でした。1987年7月の一か月間、夏期伝道実習として春採教会で奉仕させていただきました。私が北海道に行ったのは、そのときだけです。

そのとき道東地区の高校生修養会に参加し、当時高校生の百瀬考幸さんと初めてお会いしました。その修養会で私は聖書のお話をさせていただきました。

前列左から秋保牧師、田村牧師、高田牧師、後列に関口(左から2人目)と百瀬さん(右から2人目)

その中で私は確かにこう言いました。なぜか、そのことだけは25年間忘れることができませんでした。

「私はこれから東京に帰りますが、教会につながっていれば、また会えます。いつかまた必ず会いましょう」。

今日の説教のタイトルは、私自身が25年前に確かに言った言葉です。

しかし、そのあとは24年間ほど百瀬さんとも道東地区の高校生たちとも全くお会いすることができませんでした。しかし、なんとついにお会いできました。フェイスブックです。

昨年の東日本大震災からまもなくの頃、全国の牧師や信徒がインターネットを使って連絡を取り合う活動が活発になってきたころ、百瀬さんがフェイスブックで私の名前を見つけてくださり、「もしかして、あのときの関口先生ですか」と連絡してくださいました。ものすごくびっくりしましたが、とてもうれしかったです。

フェイスブック、ありがとう。百瀬さん、ありがとう。

そして、神さま、ありがとうございます。置戸教会の皆さま、本当にありがとうございます。

本音を言えば、今すぐにでも、皆さんのところに飛んで行きたいです。しかし、それは叶いません。

松戸の地から、みなさんのためにお祈りさせていただきます。

(2012年12月30日、日本基督教団置戸教会主日礼拝、録画説教)

「アーメン」という言葉は何を意味していますか


テモテへの手紙二2・11~13

「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。』」

今日は2012年最後の礼拝です。今年一年間も、神の御手に守られて過ごすことができましたことを感謝しています。

さて、今日の説教のタイトルは、先ほどみんなで交読しましたハイデルベルク信仰問答の第52主日の問129の言葉をそのまま引用したものです。「『アーメン』という言葉は、何を意味していますか」。

ですから、今日の説教の結論は決まっています。ハイデルベルク信仰問答の問129の答えそのものです。それは次のとおりです。

「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」(吉田隆訳、新教出版社)。

これが今日の説教の結論です。これ以上に付け加えることはほとんどありません。私にできることがあるとしたら、ハイデルベルク信仰問答がこの問いの答えとして書いていることの意味をいくらか噛み砕いて説明することくらいです。

「アーメン」という言葉は、旧約聖書の時代から使われているヘブライ語が歴史的にいちばん古いと言われています。そして、この言葉の意味は、ハイデルベルク信仰問答がまさに書いているとおり、「真実である」とか「確実である」ということです。

また、他の人の意見に同意や賛成の意を表わすときに言う「そのとおり」という意味でもあります。願いや祈りの意味の「そうでありますように」という意味にもなります。ですから、いちばん短く言えば「アーメン」は「そうだ」という意味です。

そのような意味の言葉をわたしたちキリスト者は、すべての祈りの最後や、賛美歌の最後、そして日常会話の中でさえ繰り返し用いています。つまり、わたしたちは、ほとんど毎日のように「そうだ、そうだ」と言っているのです。

とにかくこれだけははっきり言えることは、「アーメン」とは、なにかを肯定する言葉であるということです。否定ではありません。他人の語る言葉のすべてをいちいち「そうではない、そうではない」と否定していくタイプの人が時々いますが、ちょうど正反対です。

「アーメン」は「そうではない」の正反対です。「そうだ」です。他人が語る言葉に同意することであり、賛成することです。否定することではなく、肯定することです。

しかも、祈りや賛美歌の場合を考えてみると、それは必ずだれか人間の祈りであり、だれか人間の賛美です。日曜日の礼拝の中で祈りをささげるのは司式の長老や牧師ですが、水曜日の祈祷会などでは、それぞれが個人的な願いごとをお祈りします。

その最後にみんなで「アーメン」と唱えることは、祈りそのものや賛美そのものへの肯定でもあるのですが、同時に、その祈りをささげた人やその賛美を歌った人への肯定でもあると考えることもできるでしょう。

その人の語る言葉を肯定するだけではなく、その言葉を語る人自身の存在そのものを肯定すること、受け容れることも、その「アーメン」の中に含まれているはずです。

言い方は明らかにおかしいわけですが、「あなたの祈りの内容は肯定しますが、あなたの存在は肯定できません」というような奇妙な使い分けを、わたしたちはしません。

「あなたのことは嫌いだけど、あなたの祈りにはアーメンと言ってあげます」というようなことは、教会の中では言ってはならないことです。

わたしがあなたの祈りに「アーメン」と言うときは、同時にあなた自身の存在に「アーメン」と言っているのです。わたしたちは、そのような意味でも「アーメン」と言うのです。

しかし、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えに書かれていることは、私がいま申し上げたことだけでは終わらない内容をもっています。

今まで申し上げてきたことも重要ですが、答えの後半部分に書かれていることが、ある意味でもっと重要です。「なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」と記されています。

ここに書かれていることをよく読みますと、その主旨は、先ほど申し上げたような、わたしたちのうちの誰かがささげた祈りそのものへの肯定であるとか、その祈りをささげている人への肯定であるというよりも、むしろ、わたしたちがささげる祈りを聞いてくださる神御自身への肯定であるということが分かってきます。

「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている」というのは、言い方を換えれば、わたしが心の中で感じていることは不確実である、ということです。そのような不確実なことよりも、わたしの祈りを聞いてくださっている神という方は確実な方であるということです。

確実な方というのは日本語としては適切ではないかもしれません。信頼できる方とか、安心できる方というほうがよいかもしれません。

なるほど、たしかにわたしたちの祈りは不確実なものです。祈っても聞かれないと感じることは、たくさんあります。あなたの信仰が足りないからだ、あなたの努力が足りないからだと言われると、わたしたちは言葉を失います。そのとおりであると認めざるをえませんが、それ以上どうすることもできないところまで追いつめられてしまいます。

信仰が足りない、努力が足りないと言われて「そんなことはありません」と反論できる人は教会にはいません。そもそも教会には、信仰においても努力においてもすっかり破れてしまった人たちが、神の助けを求めて集まってきているからです。

もしわたしたちが、自分の力で自分の生きるべき道のすべてを切り開いていけるなら、わたしたちは神に祈る必要はありません。祈りとは、自分の信仰や努力が不確実であることを実感し、かつ痛感しているからこそ、わたしたちの心の叫びのように湧き出してくるものなのです。

しかし、わたしたち自身は不確実でも、確実なものがあることをわたしたちは知っています。それは神さまです。世界のすべてが不確実であり、不安定であっても、神さまは確実であり、この世界を根底から支えてくださっています。その信頼と安心のうちに、わたしたちは神に祈りをささげることができ、「アーメン」と唱えることができるのです。

今日開いていただいたのは、テモテへの手紙二2・11以下のみことばです。なぜこの個所を選んだのかといいますと、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えの最後に「引証聖句」と呼ばれる聖書の御言葉が三か所指示されている中の一つが、テモテへの手紙二2・13だからです。

この個所が「引証聖句」であるということの意味は、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えは、この聖書の御言葉を根拠にして書かれているということです。それは次の御言葉です。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテへの手紙二2・13)。

今日わたしたちが考えているのは「アーメン」という言葉の意味です。それは真実であり、確実であるという意味であると、すでにご説明しました。しかし、問題は何が真実であり確実なのかです。

その最も正しい答えとして考えられることは、ハイデルベルク信仰問答が指示しているこの御言葉に書かれていること、すなわち、「キリストは常に真実であられる」ということであり、さらにその根拠は「キリストは御自身を否むことができないからである」ということだ、ということです。

「キリストは御自身を否むことができない」とは言われていることは、非常に興味深いことです。どこが興味深いのかといえば、キリストにもできないことがあると言われているからです。全知全能の神の御子なるキリストにもできないことがあるのです。なんでもできる方(全能者)にもできないことがあるというのは論理的に矛盾しています。しかし、そのように聖書ははっきり書いています。

イエス・キリストにも、できないことがある。それは、御自身を否定することです。それができない。キリストは御自身の何を否定できないのかと言いますと、「御自身が常に真実であられること」を否定できないのです。

神の御子イエス・キリストは、神の御心を行うためにこの世界へと派遣された方です。キリストは父なる神の御心に忠実な方です。神の御心に対する忠誠心をもって、この世界において神のみわざを遂行するために来られた、と言ってもいいでしょう。

その御自身に託された使命をイエス・キリストは否定することができないのです。父なる神との約束を裏切ることができないのです。十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたし、世の終わりまでその従順さは変わらない、そういうお方なのです。

そのような父なる神に対するイエス・キリストの忠実さ、誠実さに対する肯定や信頼をわたしたちは「アーメン」という言葉で言い表すのです。「わたしたちは誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。

実際、わたしたちは誠実ではありません。裏表があります。あっちで言っていることと、こっちで言っていることが食い違っていたりします。嘘もつきます。でたらめなことも言います。

言葉だけではなく、おこないで人を裏切ります。人の信頼を失うような失敗や過失や罪をおかします。ほとんど毎日、そのようなことの繰り返しです。

叩けばほこりが出ます。掘り返せばぼろが出ます。私はそうではないと否定できる人は誰もいません。完璧な人はいません。罪の無い人は一人もいません。裁き合うのは簡単です。

しかし、イエス・キリストだけは常に真実な方です。そうであることをわたしたちは信じています。信じているからこそ、祈ることができるのです。「アーメン」と唱えることができるのです。

来年一年間の教会の歩みが守られるように、お祈りしましょう。

(2012年12月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2012年12月25日火曜日

関口康が選ぶ(笑)今年最高の本 BOOK OF THE YEAR 2012 選考作業中!





ぼく的には珍しく、外国語の本を全く買わない一年を過ごしました。

2012年に出版されたもので、ぼくが入手した日本語の本は18冊でした(写真)。

月刊・週刊誌は除外しました。

ちなみに、この18冊のうちの8冊は、各書の著訳者や友人からプレゼントしていただいたものです。この場をお借りして、心から感謝いたします。

口幅ったい言い方ですが、今年はかなり豊作だったと思っています。

心躍らせながら読ませていただきました。著訳者の皆さま、ありがとうございました。

「2012年は出版界のV字回復が始まった年だった」と後代の歴史家が記すかもしれません。

「第1位」の発表は12月31日(月)です。

お楽しみに。

(炎上しそうだ...)

2012年12月24日月曜日

信仰・希望・愛、そして喜び


テサロニケの信徒への手紙一1・2~10

「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

わたしたちがいま行っているのはクリスマスイヴ礼拝です。昨日はクリスマス礼拝を行いましたので、教会員の方々にとっては二日間続いています。そろそろ疲れがたまっている頃でしょう。

しかし、「クリスマスおつかれさまです」と言うのは、いくらなんでもおかしいです。「クリスマスおめでとうございます」と言いたいところです。しかし年末でもあります。クリスマスはいつも年末です。今年一年間もいろいろありました。つらい一年間でした。いろんな意味で疲れている今日この頃のわたしたちです。

いまお読みしました聖書のみことばは、約二千年前の教会で活躍した使徒パウロが、テサロニケという町の教会の人たちに宛てて書いた手紙の冒頭部分です。その教会は、かつてパウロがその設立にかかわったところです。しかし、その後パウロは別の地に移動して、そこでまた新しい教会をつくる働きを始めましたので、この手紙を書いている時点では、パウロはテサロニケとは別の地にいます。

しかし、パウロはテサロニケ教会に属する人々のことを、心から愛していました。体は離れていても、心は一つに結びあっていると感じていました。それでパウロは、テサロニケ教会に対する自分の愛と思いを伝えるために、この手紙を書きました。

「わたしたち」(2節)と複数形で書かれているのは、この教会の設立にかかわった伝道者はパウロだけではなく、パウロに協力した何人かの伝道者がいたからです。しかし、その伝道者たちの中心にいたのはパウロでした。その意味では「わたしたち」と書いてはいますが、「私」と書いてもよかったくらいです。他ならぬパウロ自身の思いを伝えているからです。「私が」「あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と言っても同じです。

私はあなたがたのことを忘れたことはありません。いつも覚えて祈っています。いまは目で見ることができないほど離れた場所にいる。まして、別の教会の人たちの牧師である。わたしたちのことはもう忘れたのではないか。あれほど親しい関係だったのに、もう無関係になってしまったのであれば、こんなに寂しいことはない。そんなふうにあなたがたは思っているかもしれない。しかし、私の思いは決してそのようなものではない。あなたがたのことを心から愛しています。そのことをパウロは、何とかして伝えようとしています。

その続きに「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)と書かれています。

興味深いことは、ここに「信仰、愛、希望」という三つの言葉がセットになって出てくることです。この三つの言葉のセットは、パウロが書いた別の手紙であるコリントの信徒への手紙一13・13に出てきます。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。しかし、その中で最も大いなるものは、愛である」。

コリントの信徒への手紙一とテサロニケの信徒への手紙一とでは、「信仰、希望、愛」と「信仰、愛、希望」と、順序が違います。しかし、順序の問題はあまり重要ではないと思います。そのことよりも重要なことは、両者に共通していることがあるということです。どちらも、教会のことを語る文脈にこの三つの言葉が出てくることです。

教会が立つか倒れるかという危機にあるときに、倒れないように教会を支えるものは何なのか。教会が拠りどころにするものは何なのか。最終的にこの三つが残る。それは信仰と希望と愛である。その三つの中の最も偉大なものを一つ選ぶとしたら、愛である。そのようにパウロはコリントの信徒への手紙一13・13に書いています。そして、この三つの言葉がセットになっている表現が、いま見ていただいているテサロニケの信徒への手紙一にも出てくるのです。

ここでほんの少しだけややこしい話をさせていただきますと、テサロニケの信徒への手紙一は新約聖書の中に残されているパウロの手紙の中で最も古いものであると言われています。他方、コリントの信徒への手紙は、逆にパウロが晩年になって書いたものであると言われています。

このことから考えられることは、パウロはこの三つ、信仰・希望・愛こそが教会を支える力である。そして、その中で最も大いなるものは「愛」であるということを、伝道者人生の最初から最後まで、どの教会で働いているときも、繰り返し言い続けていたのではないか、ということです。

しかも、ここで言われている「愛」とは「神の愛」です。神の愛とは、神が独り子であるイエス・キリストを世に遣わしてくださったほどに、世を愛された、その愛であると、ヨハネによる福音書3・16に書かれています。それはクリスマスの出来事です。イエス・キリストがお生まれになったことは、神がこの世界とわたしたち人間を心から愛してくださっていることの証しなのです。

しかし、私はここで今夜の話を終わってよいとは思っていません。もう一歩先に進む必要があると思っています。先ほど読んでいただきました御言葉の中に「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)と書かれています。ここに「喜び」が語られています。このことが重要です。

なぜ「喜び」が重要なのでしょうか。わたしたちの体験に照らしていえば、「信仰」と「希望」と「愛」だけでは苦しい場合があるからです。苦しい信仰と、苦しい希望と、苦しい愛があるからです。

たとえば、家族が同じ信仰を持ってくれない、自分一人だけが神を信じ、教会に通っているようなときは、苦しい信仰になる場合があります。いろんなケースがありますので、一概には言えませんが。

また、希望についても、実際に目に見える、手でつかむことができる根拠がある場合はともかく、何一つ根拠がないことをただ望んでいるだけであれば、それは苦しい希望です。

そして、苦しい愛があるということは、多くの人が知っていることです。愛は多くの場合、苦しいものです。そのことをわたしたちはよく知っています。

しかし、だからこそ、わたしたちの信仰と希望と愛は、喜びをもって受け容れられる必要があるのです。ベツレヘムの羊飼いたちに主の天使たちが教えてくれたイエス・キリストのご降誕の知らせは「喜びのしらせ」でした。イエス・キリストをお与えになるほどにこの世を愛してくださった神の愛は、喜びに満ちているのです。

わたしたちの信仰は喜びに満ちた信仰です。わたしたちの希望は喜びに満ちた希望です。そして、わたしたちの愛は喜びに満ちた愛です。もしわたしたちの現実がそうなっていないときは、そのようなものを目指す必要があります。教会はそれを目指して歩んでいます。

クリスマスイヴだけではなく、毎週日曜日に、教会では礼拝がささげられています。一回、二回ではキリスト教は分からないと思われるかもしれません。「教会に一年くらい通いましたが全く分かりませんでした」とおっしゃる方もなかにはおられるかもしれません。そういう場合はぜひ質問に来てください。

ただし、メールだけではちょっと困ります。せめて顔を見せてください。どのような顔で、そのことをおっしゃっているのかが分かるようにしてください。そうしていただけるならば、どのような質問にもできるだけお答えいたします。

そして、わたしたち松戸小金原教会の礼拝に来てくださる場合は、牧師の説教を聞きに来るだけで終わりにしないでください。二千年前のテサロニケ教会の人々が信仰・希望・愛、そして喜びに満たされている姿が、マケドニア州とアカイア州のすべての教会にとっての模範であったように、わたしたちの喜んでいる姿をぜひ見てください。

(2012年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)

2012年12月23日日曜日

信仰は愛する人の名誉を守る



2012年 松戸小金原教会クリスマス礼拝説教

マタイによる福音書1・18~25

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」

みなさん、クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマス礼拝です。わたしたちの救い主、イエス・キリストのご降誕を喜び、お祝いする礼拝です。

今日はイエスさまがお生まれになる前、母マリアの胎にイエスさまが宿られたときのことについて書かれている聖書の個所を開いていただきました。この個所は、だいたい毎年開いて学んでいます。しかし、この個所には、お読みいただけばすぐにお分かりいただけるとおり、非常に驚くべき、また非常に恐るべきでもある、不思議なことが書かれています。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)と書かれています。これで分かることは、マリアの婚約者ヨセフはイエス・キリストの父親ではない、ということです。イエス・キリストには、血のつながった父親はいません。「聖霊によって」お生まれになったのです。

ここに書かれていることについて、私自身もいろんな人から繰り返し言われてきたことは、「申し訳ありませんが、このようなことは、私にはとても信じることができそうにありません」という率直な言葉です。しかし、このことをわたしたちは信じています。私も信じています。

いま開いていただいているマタイによる福音書を含む新約聖書の諸文書が書かれたのは約二千年前です。みなさんにはぜひ信頼していただきたいのですが、キリスト教の教会は嘘をつくことが大嫌いです。嘘をつくのが嫌いだし、苦手です。ですから、もしもこの個所に書かれていることは嘘であるということがはっきりと分かったときは、教会はこの個所を聖書の中から削除することができます。そうする権利が教会にはあるのです。

事情をご存じない方もおられると思いますので説明しておきます。二千年前の教会には今のわたしたちが手にしている新約聖書に収められている全部で二十七の文書だけではなく、もっとたくさんの文書がありました。しかし、教会はもっと多くの文書の中から二十七文書だけを選んで、新約聖書としてまとめたのです。決めるときには、もちろん教会会議を開きました。このことは、聖書と教会の歴史を知っている人であれば、誰でも知っている常識です。

ですから、もし聖書の中に間違ったことが書かれているということがだれの目にも明らかになった場合には、教会はもう一度会議を開いて、間違ったことが書かれている文書を聖書の中から取り除くことができます。あるいは、一つの文書から間違っている個所だけを取り除くこともできます。そのようなルールを、キリスト教のすべての教会が共有しています。

しかし、二千年の教会はマタイによる福音書を新約聖書の中から取り除くことはしませんでした。今日の個所だけを聖書の中から取り除いたこともありません。少なくとも正式な教会会議を開いて、そのようなことが決められたことは、いまだかつて一度もありません。これで分かることは、すべてのキリスト教会は、二千年の間、ここに書かれていることは事実であると信じ、公に告白してきたのだということです。

私自身も信じています。何を私は信じているのでしょうか。イエスさまには血のつながった父親はいない、ということを信じています。言い方を換えれば、マリアは婚約者ヨセフを裏切ったわけではない、ということを信じています。マリアは嘘つきではありませんでした。「あなたの子どもは聖霊によって宿った」という天使の言葉どおりのことがマリアの身に起こったので、そのことをマリア自身が信じて、イエスさまを産む決心をしたのです。そのマリアの証言には嘘がないということを、私は信じているのです。

マリアは嘘つきではありませんでした。そのことをわたしたちが信じるという場合と、わたしたちが「神を信じる」という場合とでは、「信じる」の意味が違ってくると言わなければならないかもしれません。わたしたちは「神を信じること」を「信仰」と呼びます。しかし、わたしたちは「マリアを信仰する」わけではありません。「神」は信仰の対象ですが、人間は信仰の対象ではありません。人間であるマリアについては「マリアを信頼する」という意味でなくてはならないでしょう。

しかし、その区別についてはともかく、わたしたちにとっても「マリアを信じること」は重要なことではあるのです。マリアは嘘つきではありません。マリアはヨセフを裏切ったわけではありません。マリアの子どもは「聖霊によって」宿った神の御子なのです。そのことを教会は、二千年間、信じてきました。少なくとも公の教会会議を開いて否定したことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、このようなことをあまり強く言いすぎますと、非常に大きな反発が返ってくることがあります。「そこまで言うのであれば、キリスト教の教会さんは、二千年も嘘をつき続けてきたことになりますね」というような反発です。こういう言葉を私に対して面と向かって言った人はまだいません。これから言われるかもしれませんが、それは分かりません。

しかし、わたしたちは、たとえどのようなことを言われようとも、このことについては譲ることができません。わたしたちはマリアが嘘つきでなかったことを信じます。マリアの身の潔白と、彼女の名誉を守ることを放棄することはできません。

ここで急に、生々しい現実の問題に、みなさんの心を引き戻してしまうことをお許しください。

わたしたちにとって夫婦の間にせよ、親子の間にせよ、友人関係にせよ、恋人同士にせよ、お互いを信頼し合い、「名誉」を守り合うことは非常に重要なことです。その点が崩れ、壊れてしまうときは、わたしたちは、もう生きていけないと思うほどの絶望を味わうものです。

実を言いますと、今日の個所に出てくる主人公であるヨセフは、とにかく一度は、いま申し上げた意味での絶望を味わったのだと思います。ヨセフの前に差し出された事実は、どういう事情であれ、マリアの胎に宿った子どもは自分の子どもではないということだったからです。マリアと自分は婚約していたにもかかわらず。

それで、ヨセフは「正しい人であった」ので、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと」(19節)しました。ヨセフはマリアが「聖霊によって」身ごもったから、縁を切ろうとしたわけではありません。マリアのことを信頼できなくなったから、縁を切ろうとしたのです。

しかし、そこに天使が現れました。天使の話は、先週も、先々週もしました。私自身は天使の姿を見たことがないので、どのようなお話をすればよいかはいつも迷います。しかし、天使は聖書の中では非常に重要な役割を果たす決定的な存在なのです。その重要さは、天使が登場しないかぎり聖書の教えのすべてが成り立たなくなるのではないかと思うくらいです。

絶望の淵に立っていたヨセフの夢の中に、天使が現れて告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。

この天使のお告げをヨセフは信じたのです。天使のお告げを信じることは、天使が告げる神の言葉を信じることと同じですので、それは神を信じることと同じです。しかし、ヨセフの場合はそれだけでは終わりません。彼は「神を信じた」のと同時に、「マリアを信じた」のです。この点が重要です。ヨセフの立場からすれば、マリアを信じることなしに、マリアを妻として迎え入れることは、ありえないことでした。

今日私が申し上げたいことは、わたしたちにとって「神を信じる」とは、そのようなことだということです。わたしたちの信仰は、神は信じるけれども人間は信じないというような話ではないのです。神は愛するけれども人間は愛さないという話でもありません。もちろんヨセフは神の後押しなしには、マリアを信頼することはできなかったかもしれません。ヨセフとマリアのあいだに神が割って入ってくださり、二人のあいだを取り持ってくださったからこそ、信頼関係を取り戻すことができました。

しかし、もしそうであるならば、わたしたちもみな同じです。教会、あるいは別の場所でキリスト教式の結婚式をなさった方々は覚えておられるはずです。結婚式の司式者である牧師が宣言するのは「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)という言葉です。神が合わせてくださったのです。そのことを信じ、互いに約束をかわすのが結婚です。家庭と家族は、そのようにして生まれ、築かれていくのです。

言い方は乱暴かもしれませんが、イエスさまにとっては父親がだれで、母親がだれであるかということは、実はあまり関係ないことでした。子どもは親の所有物ではありません。親の思いどおりにもなりません。子どもは親が作るものではない。親は子どもの創造者ではない。親にとって子どもは神から与えられ、あずかり、守り、育てることができるだけです。こういう子どもを産みたいと願ったところで、親の願いどおりの子どもになるわけではありません。そして子どもは親なしにも育ちます。そのうち手から離れて行きます。神からあずかった存在を、神にお返しするときが来ます。

イエス・キリストが「聖霊によって」お生まれになったという教えはもちろん驚くべきことであり、恐るべきことであり、不思議なことではあります。しかし、全く信じることができないと言わなくてはならないようなことではないと思うのです。わたしたち自身も、わたしたちの子どもたちも、神の力によって命を与えられ、今まで過ごしてくることができたという点では、同じだからです。

クリスマス礼拝は、救い主イエス・キリストの命を、わたしたちを救うためにわたしたちに与えてくださった神を喜び、礼拝する日です。今日の一日を神の祝福と平安のうちに過ごすことができますように祈りましょう。

(2012年12月23日、松戸小金原教会クリスマス礼拝)

2012年12月20日木曜日

もし入党するなら「キリスト教民主党」だなと思っているぼくです

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ...

(聴診器)「なんて言ったらいいのか、いばって言うわけでもなければ投げやりでもないんですが、ぼくが属している日本キリスト改革派教会のことを書きたいのですが、これはネットの話というよりもどちらかといえばリアルの話なのですが、ぼくの所属している教派名を口にするだけで改革派とは傲慢だ、おまえら何を改革したいんじゃヴォケ(ママ)とか、上から目線だとか怒りだす人がいたり。

改革派の中にもいろいろあるけど、その中のお前らはどれだとかマニアックに聞いてきたり、それでちゃんと答えたら10秒で関心を失っていたようでほとんど聞かれてなかったり。

そもそもキリスト教がカトリックとプロテスタントとオーソドックスに分かれているとか、プロテスタントの中にもいろいろあるとかいう話をちょっと出すだけで、口をひんまげて『ああ~(「え」に近い「あ」。ウムラウトついてる発音)教会さんも世と同じなんですね~はあ(ためいき)』みたいなことを言われたり。

『るせーよ』って内心思ってたりするんですけど、そういうときでも職業的に笑顔を作ったりすることがありますとか書くと、牧師のくせに職業スマイルとは何ごとだとか、そもそも牧師は職業じゃないとか、あーだこーだ言われてみたり。もうほんとにうるさいからねっ!(ブロック)」

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ...

と(↑)いうようなグチャグチャした心の中なんですが(笑)、意外に晴れやかな顔をしています。

キリスト教はブームで広がったらダメなんだと思います。ブームは去る。

ぼくの体感として言わせてもらえば、日本の教会に限っては、風なんか吹いて来たことは一度もないですから。

でも、着実な一歩を重ねてきてると思うんですよね、我々は。

自画自賛だとか言われてもいいや。もうすぐ年末だし。

70歳を越えて洗礼を受けてくださった男性(元中学校長)が、「ひとまえでお祈りするのが恥ずかしい」という理由で、水曜日の祈祷会に出席するのをためらっておられた。

「その方のために」と謳うとご本人が嫌がるだろうから、そうは言わないで、でも一年かけて教会全体でおこなう勉強会のテーマを「祈り」と定めた。

そして、「祈りのマニュアル」のようなものまで作って、「この○○の部分に自分の言葉を入れれば、だれでも祈れます」ということまで言って。

そしたら、「ひとまえでお祈りするのが恥ずかしい」と言っていたその男性が、次の年から水曜日の祈祷会に毎週出席してくださるようになった。

なんか、こういうのが、我々キリスト教が求める「着実な一歩」なんじゃないかな、と思ってるんですけどね、ぼくは。

ブームだとか、風だとか、そんなのは信用できないです。求めたこともないし。

そういうのだと、オセロのように、また全部ひっくり返される日が来ますよ。たぶんね。

ぼく47歳ですけど、47年間教会生活続けられたんで、たぶん死ぬまで続けられそうです。「来るな」と言われたらしょうがないですけどね。

で、クリスチャンて、ぼくらなりの政治思想もってるじゃないですか。この一線だけは譲れない、みたいなこと。

そういう人が増えていくしかないんだと思ってるんです、ぼくは。

いま教会に通っているすべての人がキリスト教を棄てたら、ぼくも棄てるかな。どうだろ。ぼくひとりだけで「改革派牧師」とか言ってそうな気もする。

英雄きどってるわけじゃないですよ。どのみちドン・キホーテだし。

マルティン・ニーメラーの有名な言葉(「ナチスは教会を弾圧した。ぼくは牧師だったので行動を起こした。だけどすべてが遅かった」)は、ぼくも知ってますし、愛してもいます。

だけど、ああいう言葉は、戦後(ナチス解体後)のドイツに「キリスト教民主同盟」(CDU)という公党が生まれ、政権担当者になり、首相を輩出することで、文字どおりの国家権力を掌握する立場に立てたからこそ、あの頃はああだった的に回顧され、重んじることができることでもある。

教会自身の政治的態度決定としてもてはやされる「バルメン神学宣言」も、政治的には完全に敗北に終わったものです。

ぼくはアタマに拳銃突きつけられても右翼にはなれませんが、宗教とか「キリスト」相手にやたら軽口を叩くタイプの左翼にもイライラしっぱなしです。

支持政党は皆無ですが、もし入党するなら「キリスト教民主党」だなと思っているぼくです。

教会自身に政治的態度決定ができるほどの力がないことくらい、そりゃ、どんなぼくでも分かります。

でも、「だから教会と牧師は政治的発言をすべきでない。そういうことすると教会が分裂するから」はありえない。

そういうことを言って教会と牧師の口封じをする向きがあっても、口封じには応じない。それも当たり前。

だけど、そういう線を貫こうとする牧師がいると、「出る」だ「抜ける」だ言って脅迫しはじめる人たちがいる。それにたいてい屈するんですよね、牧師たちは。

そういうことにならないために、教会自身が政治的態度決定しなくて済むように、教会の外に「キリスト教政党」を作るのがベストなんだと思うんです。

キリスト教主義学校があり、キリスト教主義福祉施設があるなら、キリスト教政党がなかったら、本当はつじつま合わないはずなんです、日本でも。

だけど、ない。作る気がない。動かない、動けない。事情はこんなところには書けませんけどね。

「教会と牧師は政治的発言をすべきでない」と言いながらキリスト教政党を作る努力をしようとしないキリスト教関係の思想家たちが支配的な立場にとどまるかぎり、日本においてキリスト者が政治的に無力であるばかりか、社会的に魅力がないのは、ある意味で当然のように、ぼくには見えています。

ジャストこの点が、ピンポイントでファン・ルーラーのバルト(主義者)批判の核心部分なんです。

カール・バルトは「キリスト教政党反対論」の急先鋒でしたから。

ドイツの隣国オランダには19世紀に歴史的淵源をもつキリスト教政党「反革命党」がありましたが、その党にオランダのバルト主義者は反対票を投じ、労働党(共産党に近い)支持を訴えました。

反革命党の「キリスト教哲学」などというマヤカシにごまかされないで、教会自身が「神学」をもって政治的態度決定をしなくてはならないとバルト主義者は主張しました。実際バルト自身は社会民主党に入党したし、自分の学生たちにキリスト教政党には反対票を投じるように働きかけたのでした。

バルト主義者たちの主張はある意味でよく分かるものです。キリスト教政党の保守性は、ヨーロッパの若い世代の人たちには目に余るものがあったに違いない。

教会の動きは遅いですからね。ぼくらだって、いまだに1890年訳(二世紀も前!)の「主の祈り」をいまだに唱えてたりしますでしょ。

2012年12月19日水曜日

AKBの魅力は「全体の部分となる勇気」のほうだと思う

ぼくはAKBのことは嫌いではなくて、ていうか、実はかなり好きなほうなんですけど、カメラをかなり引いて全員が写っていて、みんなのダンスが揃っているのを見るのが好きなんです。チアガールを見てる感じ、ですかね。

そのなかで見れば、たしかに前田さんはいつも笑顔でしたから光ってました。だけど、それは全体の中の一人だから光っていたのであって、単独でどアップで写しても、それは別に普通の女の子ですよね、とぼくは思っています。普通であることが悪いわけでもない。

AKBの魅力がもしあるとしたら、パウル・ティリッヒの『存在への勇気』の言葉をいきなり持ち出せば、「全体の部分となる勇気」(A courage to become a part)を一人一人がわりと強く持っていて、厳しい練習を耐え抜いて、ダンスをピタッと合わせる、みたいなことではないでしょうか。

その意味では、ぼくは前田さんを「尊敬」はしてます。「よくがんばったね」と言ってあげたくもなる。前田さんはぼくの子どもくらいの年齢なんでね、親心というやつです。

だけど「キリストを超えた」とは言わないし、思わないです。