2012年12月20日木曜日

もし入党するなら「キリスト教民主党」だなと思っているぼくです

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ...

(聴診器)「なんて言ったらいいのか、いばって言うわけでもなければ投げやりでもないんですが、ぼくが属している日本キリスト改革派教会のことを書きたいのですが、これはネットの話というよりもどちらかといえばリアルの話なのですが、ぼくの所属している教派名を口にするだけで改革派とは傲慢だ、おまえら何を改革したいんじゃヴォケ(ママ)とか、上から目線だとか怒りだす人がいたり。改革派の中にもいろいろあるけど、その中のお前らはどれだとかマニアックに聞いてきたり、それでちゃんと答えたら10秒で関心を失っていたようでほとんど聞かれてなかったり。そもそもキリスト教がカトリックとプロテスタントとオーソドックスに分かれているとか、プロテスタントの中にもいろいろあるとかいう話をちょっと出すだけで、口をひんまげて『ああ~(「え」に近い「あ」。ウムラウトついてる発音)教会さんも世と同じなんですね~はあ(ためいき)』みたいなことを言われたり。『るせーよ』って内心思ってたりするんですけど、そういうときでも職業的に笑顔を作ったりすることがありますとか書くと、牧師のくせに職業スマイルとは何ごとだとか、そもそも牧師は職業じゃないとか、あーだこーだ言われてみたり。もうほんとにうるさいからねっ!(ブロック)」

ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ...

と(↑)いうようなグチャグチャした心の中なんですが(笑)、意外に晴れやかな顔をしています。

キリスト教はブームで広がったらダメなんだと思います。ブームは去る。

ぼくの体感として言わせてもらえば、日本の教会に限っては、風なんか吹いて来たことは一度もないですから。

でも、着実な一歩を重ねてきてると思うんですよね、我々は。

自画自賛だとか言われてもいいや。もうすぐ年末だし。

70歳を越えて洗礼を受けてくださった男性(元中学校長)が、「ひとまえでお祈りするのが恥ずかしい」という理由で、水曜日の祈祷会に出席するのをためらっておられた。

「その方のために」と謳うとご本人が嫌がるだろうから、そうは言わないで、でも一年かけて教会全体でおこなう勉強会のテーマを「祈り」と定めた。

そして、「祈りのマニュアル」のようなものまで作って、「この○○の部分に自分の言葉を入れれば、だれでも祈れます」ということまで言って。

そしたら、「ひとまえでお祈りするのが恥ずかしい」と言っていたその男性が、次の年から水曜日の祈祷会に毎週出席してくださるようになった。

なんか、こういうのが、我々キリスト教が求める「着実な一歩」なんじゃないかな、と思ってるんですけどね、ぼくは。

ブームだとか、風だとか、そんなのは信用できないです。求めたこともないし。

そういうのだと、オセロのように、また全部ひっくり返される日が来ますよ。たぶんね。

ぼく47歳ですけど、47年間教会生活続けられたんで、たぶん死ぬまで続けられそうです。「来るな」と言われたらしょうがないですけどね。

で、クリスチャンて、ぼくらなりの政治思想もってるじゃないですか。この一線だけは譲れない、みたいなこと。

そういう人が増えていくしかないんだと思ってるんです、ぼくは。

いま教会に通っているすべての人がキリスト教を棄てたら、ぼくも棄てるかな。どうだろ。ぼくひとりだけで「改革派牧師」とか言ってそうな気もする。

英雄きどってるわけじゃないですよ。どのみちドン・キホーテだし。

マルティン・ニーメラーの有名な言葉(「ナチスは教会を弾圧した。ぼくは牧師だったので行動を起こした。だけどすべてが遅かった」)は、ぼくも知ってますし、愛してもいます。

だけど、ああいう言葉は、戦後(ナチス解体後)のドイツに「キリスト教民主同盟」(CDU)という公党が生まれ、政権担当者になり、首相を輩出することで、文字どおりの国家権力を掌握する立場に立てたからこそ、あの頃はああだった的に回顧され、重んじることができることでもある。

教会自身の政治的態度決定としてもてはやされる「バルメン神学宣言」も、政治的には完全に敗北に終わったものです。

ぼくはアタマに拳銃突きつけられても右翼にはなれませんが、宗教とか「キリスト」相手にやたら軽口を叩くタイプの左翼にもイライラしっぱなしです。

支持政党は皆無ですが、もし入党するなら「キリスト教民主党」だなと思っているぼくです。

教会自身に政治的態度決定ができるほどの力がないことくらい、そりゃ、どんなぼくでも分かります。

でも、「だから教会と牧師は政治的発言をすべきでない。そういうことすると教会が分裂するから」はありえない。

そういうことを言って教会と牧師の口封じをする向きがあっても、口封じには応じない。それも当たり前。

だけど、そういう線を貫こうとする牧師がいると、「出る」だ「抜ける」だ言って脅迫しはじめる人たちがいる。それにたいてい屈するんですよね、牧師たちは。

そういうことにならないために、教会自身が政治的態度決定しなくて済むように、教会の外に「キリスト教政党」を作るのがベストなんだと思うんです。

キリスト教主義学校があり、キリスト教主義福祉施設があるなら、キリスト教政党がなかったら、本当はつじつま合わないはずなんです、日本でも。

だけど、ない。作る気がない。動かない、動けない。事情はこんなところには書けませんけどね。

「教会と牧師は政治的発言をすべきでない」と言いながらキリスト教政党を作る努力をしようとしないキリスト教関係の思想家たちが支配的な立場にとどまるかぎり、日本においてキリスト者が政治的に無力であるばかりか、社会的に魅力がないのは、ある意味で当然のように、ぼくには見えています。

ジャストこの点が、ピンポイントでファン・ルーラーのバルト(主義者)批判の核心部分なんです。

カール・バルトは「キリスト教政党反対論」の急先鋒でしたから。

ドイツの隣国オランダには19世紀に歴史的淵源をもつキリスト教政党「反革命党」がありましたが、その党にオランダのバルト主義者は反対票を投じ、労働党(共産党に近い)支持を訴えました。

反革命党の「キリスト教哲学」などというマヤカシにごまかされないで、教会自身が「神学」をもって政治的態度決定をしなくてはならないとバルト主義者は主張しました。実際バルト自身は社会民主党に入党したし、自分の学生たちにキリスト教政党には反対票を投じるように働きかけたのでした。

バルト主義者たちの主張はある意味でよく分かるものです。キリスト教政党の保守性は、ヨーロッパの若い世代の人たちには目に余るものがあったに違いない。

教会の動きは遅いですからね。ぼくらだって、いまだに1890年訳(二世紀も前!)の「主の祈り」をいまだに唱えてたりしますでしょ。