2012年12月30日日曜日

「アーメン」という言葉は何を意味していますか


テモテへの手紙二2・11~13

「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。』」

今日は2012年最後の礼拝です。今年一年間も、神の御手に守られて過ごすことができましたことを感謝しています。

さて、今日の説教のタイトルは、先ほどみんなで交読しましたハイデルベルク信仰問答の第52主日の問129の言葉をそのまま引用したものです。「『アーメン』という言葉は、何を意味していますか」。

ですから、今日の説教の結論は決まっています。ハイデルベルク信仰問答の問129の答えそのものです。それは次のとおりです。

「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」(吉田隆訳、新教出版社)。

これが今日の説教の結論です。これ以上に付け加えることはほとんどありません。私にできることがあるとしたら、ハイデルベルク信仰問答がこの問いの答えとして書いていることの意味をいくらか噛み砕いて説明することくらいです。

「アーメン」という言葉は、旧約聖書の時代から使われているヘブライ語が歴史的にいちばん古いと言われています。そして、この言葉の意味は、ハイデルベルク信仰問答がまさに書いているとおり、「真実である」とか「確実である」ということです。

また、他の人の意見に同意や賛成の意を表わすときに言う「そのとおり」という意味でもあります。願いや祈りの意味の「そうでありますように」という意味にもなります。ですから、いちばん短く言えば「アーメン」は「そうだ」という意味です。

そのような意味の言葉をわたしたちキリスト者は、すべての祈りの最後や、賛美歌の最後、そして日常会話の中でさえ繰り返し用いています。つまり、わたしたちは、ほとんど毎日のように「そうだ、そうだ」と言っているのです。

とにかくこれだけははっきり言えることは、「アーメン」とは、なにかを肯定する言葉であるということです。否定ではありません。他人の語る言葉のすべてをいちいち「そうではない、そうではない」と否定していくタイプの人が時々いますが、ちょうど正反対です。

「アーメン」は「そうではない」の正反対です。「そうだ」です。他人が語る言葉に同意することであり、賛成することです。否定することではなく、肯定することです。

しかも、祈りや賛美歌の場合を考えてみると、それは必ずだれか人間の祈りであり、だれか人間の賛美です。日曜日の礼拝の中で祈りをささげるのは司式の長老や牧師ですが、水曜日の祈祷会などでは、それぞれが個人的な願いごとをお祈りします。

その最後にみんなで「アーメン」と唱えることは、祈りそのものや賛美そのものへの肯定でもあるのですが、同時に、その祈りをささげた人やその賛美を歌った人への肯定でもあると考えることもできるでしょう。

その人の語る言葉を肯定するだけではなく、その言葉を語る人自身の存在そのものを肯定すること、受け容れることも、その「アーメン」の中に含まれているはずです。

言い方は明らかにおかしいわけですが、「あなたの祈りの内容は肯定しますが、あなたの存在は肯定できません」というような奇妙な使い分けを、わたしたちはしません。

「あなたのことは嫌いだけど、あなたの祈りにはアーメンと言ってあげます」というようなことは、教会の中では言ってはならないことです。

わたしがあなたの祈りに「アーメン」と言うときは、同時にあなた自身の存在に「アーメン」と言っているのです。わたしたちは、そのような意味でも「アーメン」と言うのです。

しかし、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えに書かれていることは、私がいま申し上げたことだけでは終わらない内容をもっています。

今まで申し上げてきたことも重要ですが、答えの後半部分に書かれていることが、ある意味でもっと重要です。「なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」と記されています。

ここに書かれていることをよく読みますと、その主旨は、先ほど申し上げたような、わたしたちのうちの誰かがささげた祈りそのものへの肯定であるとか、その祈りをささげている人への肯定であるというよりも、むしろ、わたしたちがささげる祈りを聞いてくださる神御自身への肯定であるということが分かってきます。

「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている」というのは、言い方を換えれば、わたしが心の中で感じていることは不確実である、ということです。そのような不確実なことよりも、わたしの祈りを聞いてくださっている神という方は確実な方であるということです。

確実な方というのは日本語としては適切ではないかもしれません。信頼できる方とか、安心できる方というほうがよいかもしれません。

なるほど、たしかにわたしたちの祈りは不確実なものです。祈っても聞かれないと感じることは、たくさんあります。あなたの信仰が足りないからだ、あなたの努力が足りないからだと言われると、わたしたちは言葉を失います。そのとおりであると認めざるをえませんが、それ以上どうすることもできないところまで追いつめられてしまいます。

信仰が足りない、努力が足りないと言われて「そんなことはありません」と反論できる人は教会にはいません。そもそも教会には、信仰においても努力においてもすっかり破れてしまった人たちが、神の助けを求めて集まってきているからです。

もしわたしたちが、自分の力で自分の生きるべき道のすべてを切り開いていけるなら、わたしたちは神に祈る必要はありません。祈りとは、自分の信仰や努力が不確実であることを実感し、かつ痛感しているからこそ、わたしたちの心の叫びのように湧き出してくるものなのです。

しかし、わたしたち自身は不確実でも、確実なものがあることをわたしたちは知っています。それは神さまです。世界のすべてが不確実であり、不安定であっても、神さまは確実であり、この世界を根底から支えてくださっています。その信頼と安心のうちに、わたしたちは神に祈りをささげることができ、「アーメン」と唱えることができるのです。

今日開いていただいたのは、テモテへの手紙二2・11以下のみことばです。なぜこの個所を選んだのかといいますと、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えの最後に「引証聖句」と呼ばれる聖書の御言葉が三か所指示されている中の一つが、テモテへの手紙二2・13だからです。

この個所が「引証聖句」であるということの意味は、ハイデルベルク信仰問答の問129の答えは、この聖書の御言葉を根拠にして書かれているということです。それは次の御言葉です。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテへの手紙二2・13)。

今日わたしたちが考えているのは「アーメン」という言葉の意味です。それは真実であり、確実であるという意味であると、すでにご説明しました。しかし、問題は何が真実であり確実なのかです。

その最も正しい答えとして考えられることは、ハイデルベルク信仰問答が指示しているこの御言葉に書かれていること、すなわち、「キリストは常に真実であられる」ということであり、さらにその根拠は「キリストは御自身を否むことができないからである」ということだ、ということです。

「キリストは御自身を否むことができない」とは言われていることは、非常に興味深いことです。どこが興味深いのかといえば、キリストにもできないことがあると言われているからです。全知全能の神の御子なるキリストにもできないことがあるのです。なんでもできる方(全能者)にもできないことがあるというのは論理的に矛盾しています。しかし、そのように聖書ははっきり書いています。

イエス・キリストにも、できないことがある。それは、御自身を否定することです。それができない。キリストは御自身の何を否定できないのかと言いますと、「御自身が常に真実であられること」を否定できないのです。

神の御子イエス・キリストは、神の御心を行うためにこの世界へと派遣された方です。キリストは父なる神の御心に忠実な方です。神の御心に対する忠誠心をもって、この世界において神のみわざを遂行するために来られた、と言ってもいいでしょう。

その御自身に託された使命をイエス・キリストは否定することができないのです。父なる神との約束を裏切ることができないのです。十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたし、世の終わりまでその従順さは変わらない、そういうお方なのです。

そのような父なる神に対するイエス・キリストの忠実さ、誠実さに対する肯定や信頼をわたしたちは「アーメン」という言葉で言い表すのです。「わたしたちは誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。

実際、わたしたちは誠実ではありません。裏表があります。あっちで言っていることと、こっちで言っていることが食い違っていたりします。嘘もつきます。でたらめなことも言います。

言葉だけではなく、おこないで人を裏切ります。人の信頼を失うような失敗や過失や罪をおかします。ほとんど毎日、そのようなことの繰り返しです。

叩けばほこりが出ます。掘り返せばぼろが出ます。私はそうではないと否定できる人は誰もいません。完璧な人はいません。罪の無い人は一人もいません。裁き合うのは簡単です。

しかし、イエス・キリストだけは常に真実な方です。そうであることをわたしたちは信じています。信じているからこそ、祈ることができるのです。「アーメン」と唱えることができるのです。

来年一年間の教会の歩みが守られるように、お祈りしましょう。

(2012年12月30日、松戸小金原教会主日礼拝)