2012年12月24日月曜日

信仰・希望・愛、そして喜び


テサロニケの信徒への手紙一1・2~10

「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

わたしたちがいま行っているのはクリスマスイヴ礼拝です。昨日はクリスマス礼拝を行いましたので、教会員の方々にとっては二日間続いています。そろそろ疲れがたまっている頃でしょう。

しかし、「クリスマスおつかれさまです」と言うのは、いくらなんでもおかしいです。「クリスマスおめでとうございます」と言いたいところです。しかし年末でもあります。クリスマスはいつも年末です。今年一年間もいろいろありました。つらい一年間でした。いろんな意味で疲れている今日この頃のわたしたちです。

いまお読みしました聖書のみことばは、約二千年前の教会で活躍した使徒パウロが、テサロニケという町の教会の人たちに宛てて書いた手紙の冒頭部分です。その教会は、かつてパウロがその設立にかかわったところです。しかし、その後パウロは別の地に移動して、そこでまた新しい教会をつくる働きを始めましたので、この手紙を書いている時点では、パウロはテサロニケとは別の地にいます。

しかし、パウロはテサロニケ教会に属する人々のことを、心から愛していました。体は離れていても、心は一つに結びあっていると感じていました。それでパウロは、テサロニケ教会に対する自分の愛と思いを伝えるために、この手紙を書きました。

「わたしたち」(2節)と複数形で書かれているのは、この教会の設立にかかわった伝道者はパウロだけではなく、パウロに協力した何人かの伝道者がいたからです。しかし、その伝道者たちの中心にいたのはパウロでした。その意味では「わたしたち」と書いてはいますが、「私」と書いてもよかったくらいです。他ならぬパウロ自身の思いを伝えているからです。「私が」「あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と言っても同じです。

私はあなたがたのことを忘れたことはありません。いつも覚えて祈っています。いまは目で見ることができないほど離れた場所にいる。まして、別の教会の人たちの牧師である。わたしたちのことはもう忘れたのではないか。あれほど親しい関係だったのに、もう無関係になってしまったのであれば、こんなに寂しいことはない。そんなふうにあなたがたは思っているかもしれない。しかし、私の思いは決してそのようなものではない。あなたがたのことを心から愛しています。そのことをパウロは、何とかして伝えようとしています。

その続きに「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)と書かれています。

興味深いことは、ここに「信仰、愛、希望」という三つの言葉がセットになって出てくることです。この三つの言葉のセットは、パウロが書いた別の手紙であるコリントの信徒への手紙一13・13に出てきます。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。しかし、その中で最も大いなるものは、愛である」。

コリントの信徒への手紙一とテサロニケの信徒への手紙一とでは、「信仰、希望、愛」と「信仰、愛、希望」と、順序が違います。しかし、順序の問題はあまり重要ではないと思います。そのことよりも重要なことは、両者に共通していることがあるということです。どちらも、教会のことを語る文脈にこの三つの言葉が出てくることです。

教会が立つか倒れるかという危機にあるときに、倒れないように教会を支えるものは何なのか。教会が拠りどころにするものは何なのか。最終的にこの三つが残る。それは信仰と希望と愛である。その三つの中の最も偉大なものを一つ選ぶとしたら、愛である。そのようにパウロはコリントの信徒への手紙一13・13に書いています。そして、この三つの言葉がセットになっている表現が、いま見ていただいているテサロニケの信徒への手紙一にも出てくるのです。

ここでほんの少しだけややこしい話をさせていただきますと、テサロニケの信徒への手紙一は新約聖書の中に残されているパウロの手紙の中で最も古いものであると言われています。他方、コリントの信徒への手紙は、逆にパウロが晩年になって書いたものであると言われています。

このことから考えられることは、パウロはこの三つ、信仰・希望・愛こそが教会を支える力である。そして、その中で最も大いなるものは「愛」であるということを、伝道者人生の最初から最後まで、どの教会で働いているときも、繰り返し言い続けていたのではないか、ということです。

しかも、ここで言われている「愛」とは「神の愛」です。神の愛とは、神が独り子であるイエス・キリストを世に遣わしてくださったほどに、世を愛された、その愛であると、ヨハネによる福音書3・16に書かれています。それはクリスマスの出来事です。イエス・キリストがお生まれになったことは、神がこの世界とわたしたち人間を心から愛してくださっていることの証しなのです。

しかし、私はここで今夜の話を終わってよいとは思っていません。もう一歩先に進む必要があると思っています。先ほど読んでいただきました御言葉の中に「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(6節)と書かれています。ここに「喜び」が語られています。このことが重要です。

なぜ「喜び」が重要なのでしょうか。わたしたちの体験に照らしていえば、「信仰」と「希望」と「愛」だけでは苦しい場合があるからです。苦しい信仰と、苦しい希望と、苦しい愛があるからです。

たとえば、家族が同じ信仰を持ってくれない、自分一人だけが神を信じ、教会に通っているようなときは、苦しい信仰になる場合があります。いろんなケースがありますので、一概には言えませんが。

また、希望についても、実際に目に見える、手でつかむことができる根拠がある場合はともかく、何一つ根拠がないことをただ望んでいるだけであれば、それは苦しい希望です。

そして、苦しい愛があるということは、多くの人が知っていることです。愛は多くの場合、苦しいものです。そのことをわたしたちはよく知っています。

しかし、だからこそ、わたしたちの信仰と希望と愛は、喜びをもって受け容れられる必要があるのです。ベツレヘムの羊飼いたちに主の天使たちが教えてくれたイエス・キリストのご降誕の知らせは「喜びのしらせ」でした。イエス・キリストをお与えになるほどにこの世を愛してくださった神の愛は、喜びに満ちているのです。

わたしたちの信仰は喜びに満ちた信仰です。わたしたちの希望は喜びに満ちた希望です。そして、わたしたちの愛は喜びに満ちた愛です。もしわたしたちの現実がそうなっていないときは、そのようなものを目指す必要があります。教会はそれを目指して歩んでいます。

クリスマスイヴだけではなく、毎週日曜日に、教会では礼拝がささげられています。一回、二回ではキリスト教は分からないと思われるかもしれません。「教会に一年くらい通いましたが全く分かりませんでした」とおっしゃる方もなかにはおられるかもしれません。そういう場合はぜひ質問に来てください。

ただし、メールだけではちょっと困ります。せめて顔を見せてください。どのような顔で、そのことをおっしゃっているのかが分かるようにしてください。そうしていただけるならば、どのような質問にもできるだけお答えいたします。

そして、わたしたち松戸小金原教会の礼拝に来てくださる場合は、牧師の説教を聞きに来るだけで終わりにしないでください。二千年前のテサロニケ教会の人々が信仰・希望・愛、そして喜びに満たされている姿が、マケドニア州とアカイア州のすべての教会にとっての模範であったように、わたしたちの喜んでいる姿をぜひ見てください。

(2012年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)