2013年1月3日木曜日

ティリッヒの「受容の受容」は改革派神学においてどのように評価しうるか

なんだかもう、ひたすら脱力した正月を過ごしています。

二度と立ち上がることができないのではないかと思うほどの、腰抜けチャーリー・ブラウンです。

しかし、今日は一通だけ返信メールを書くことができました。ちょうど一週間前の12月27日(木)に受けとったメールのお返事を、今ごろ送っています。遅筆、遅配、お詫びのしようもありません。

メールの送り先がどなたであるかは伏せますが、分かる人には分かってしまうかもしれません。

「パウル・ティリッヒの『受容された受容』という概念は改革派教会の教える予定論とは相容れないのではないか」という旨が書かれていましたので、ぼくなりの意見を述べました。

新年早々「なんじゃこりゃ」な神学議論で申し訳ないのですが、もしかしたら興味を持っていただける方がおられるかもしれませんので、必要な修正を施して公開させていただきます。

---------------------------------------------------------------

ほにゃらら先生

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

メールをいただき、ありがとうございました。返事を書くよりも、電話でお話しするほうがいいような気がして何度か掛けたのですが、お留守のようでしたので、簡単に書いておきます。微妙なニュアンスは電話のほうが伝わると思うので、また電話します。

パウル・ティリッヒは、ぼくの東京神学大学(学部)の卒業論文のテーマでしたので、わりと読んだほうです。ティリッヒはニューヨーク・ユニオン神学校やハーヴァード大学で教えましたが、元来はドイツ人で、ナチスから逃れてアメリカに亡命した人です。

ティリッヒの本はとても難しくて歯が立たないところが多いのですが、ある視点を持てば「なるほど」と納得できるものがありました。ある視点とは、ティリッヒ自身が明言していることですが、ティリッヒの父親がドイツのルーテル教会の牧師であったことが決定的に影響し、ティリッヒ自身も明確にルター派の信仰を意識した神学を営んでいるということです。

ですから、ティリッヒの「受容の受容」(accept acceptance)は、「このわたしが神に受け容れられているということを、このわたし自身が受け容れること」を意味する言葉ですが、これはルターが強調した信仰義認の教理を哲学的な概念を用いて言い直した言葉であると理解することができます。

もしそうであれば、改革派教会の予定論とも矛盾しないはずです。ルターの信仰義認の教理とカルヴァンの二重予定の教理は、矛盾しないどころか、ルターの教えをカルヴァンが継承発展させたと考えるほうが正しいわけです。

なぜなら、カルヴァンの二重予定の教理は、ルターの「人が救われるのは、行いによってではなく、信仰による」という線を継承しながら、「人がそれによって救われる信仰そのものもまた、神の恩恵である」というアウグスティヌスの線を強化した結果として生まれたものであるととらえることができるからです。

しかし、我々の体験に照らし合わせると、神の恩恵としての信仰を(神から与えられて)持っている人と、持っていない人がいることは明白である。もしそうだとすれば、神はある人々に対しては信仰を与えて救ってくださるが、他の人々に対してはそうではないと考える他はない。そこに「予定の二重性」(praedestinatio gemina)があるとカルヴァンはとらえたわけです。

このように「信仰」という観点から見ると、カルヴァンの二重予定の教理はルターの信仰義認の教理の発展型であると考えることができます。

そして、ティリッヒの「受容の受容」という概念は、ルターの信仰義認の教理の哲学的解釈であると見ることができます。

もしそうであれば、ティリッヒの「受容の受容」は改革派教会の予定論とは矛盾しないと言ってもよいのではないでしょうか。

しかし、問題は、我々はそれをどのようにとらえればよいか、です。

繰り返し言えば、ティリッヒの「受容の受容」は、「このわたしが神に受け容れられているということを、このわたし自身が受け容れること」を意味しています。

これを神学的概念で言い換えると、どうなるか。ぼくなりに言い換えてみますと、こうなります。

「このわたしが依然として罪深い人間であるにもかかわらず、あたかも罪がない者であるかのように神がみなしてくださり、神の子として受け容れてくださっているということを、このわたし自身が受け容れ、同意すること」です。

つまり、それは「信仰告白」です。

改革派神学の古い概念でいえば、「受動的義認」(iustificatio Dei passiva)との対比で語られる「能動的義認」(iustificatio Dei activa)です。

「受動的義認」は、ルターが強調した「神がこのわたしを義と認めてくださる」という、人間側の受動性の観点から見た義認の教理です。

これに対して「能動的義認」の意味は、「このわたしが神を義とする」ということです。

不遜なことを言っているような気がするかもしれませんが、このような概念を改革派神学は昔から用いてきました。その意味は、「神は義なる方であるという信仰を告白すること」です。

「受動的義認」(passive justification)と「能動的義認」(active justification)の区別と関係については、ハインリヒ・ヘッペ『改革派教義学』英語版(Heinrich Heppe, Reformed Dogmatics)555~559ページに記されていますので、ご参照ください。

電話でお伝えしたかったことは、とりあえず以上です。字で書くだけでは分かりにくい内容を含んでいると思いますので、もし分からない点がありましたら、電話でお話ししましょう。

ほにゃらら先生から再三言われてきたことは、「どうしてもファン・ルーラーでなければダメなんですか」という問いかけでしたね。

ぼくは何もファン・ルーラーにこだわっているわけではありません。

実をいえば、ぼくが日本基督教団の教師だった頃からずっと抱いてきた夢は、このハインリヒ・ヘッペの『改革派教義学』を日本語で読めるようにしたいということでした。

ヘッペの『改革派教義学』は、17世紀を中心とするヨーロッパの改革派神学者の著書からの「抜粋集」のような本ですので、資料集に近いものです。ウェストミンスター信仰規準の神学の歴史的背景を知ることができる本でもあります。

このヘッペの本は、カール・バルトが「再発見」したことで現代神学のコンテキストに登場するに至りました。バルトの『教会教義学』の中で、ヘッペは大活躍しています。

そして、ぼくが日本基督教団の教師だった頃には知る由もなかったことですが、なんと、このヘッペの本を、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部で教義学講義の際に、教科書として使用していたのです。

ヘッペには英語版があります。ぼくはドイツ語版原著を持っています。

そのうち、これの読書会しませんか。仲間が見つからなくて困っていました。

2013年1月3日

関口 康