2011年7月9日土曜日

「創造論VS進化論」というクマンバチの巣についての雑感

このところ「創造論VS進化論」という、聞くたびにうんざりしてきた話題に関するツイート​がやたら来るなあと思っていたら、どうやらこれですね。埼玉医科大学の准教授氏が言い放ったという 「聖書は正しく、進化論は間違い。日本人は騙されている」が、クマンバチの巣をつついてしまったようです。

この件について議論したい気持ちなどは私には全くありません。しかし、今の原発問題(特に​利権問題)と絡めて考えると、さかのぼれば19世紀から懲りずに続けられてきた「創造論VS進化論」という議​論の本質が見えてくるような気がするのは私だけだろうかと考えな​くもありません。

いま書いたことをもう少しだけ説​明しておきます。今は「聖書利権」(?)というような​ものは、世界のどこを見回しても、もはや死滅しているというか、ほとんど皆無の状態なので​、「創造論叩き」は「マルクス主義叩き」同様、一種の弱い​者いじめみたいなものです。

他方、「進化論利権」(?)は​まだあるというか、この理屈で世界が回っている感が無きにし​もあらずです。世界はいかようにも多様に解釈しうるはず​なのに。この既定路線に立たなければ学界から締め出されるとか、そう​いうのは科学的でも学問的でもないと思わなくもない。

私​は、創造論は「詩」(ポエム)みたいなものだととらえています。しかし、「だからそれは非科学的なのだ」と責め立てられるのはあんまり​ですよねとも思う。進化論そのものというより「進化論​利権」のようなものとしては、とくに新薬の開発とかの場​合、「モルモットに効くのだから人間にも効く(はずだ)」という​ような、まるで人間と他の動物との間の区別は全く無いかのような、あまりにもシームレスすぎる関係性の論じ方とかね。

あ​とは「ウルトラマンガイア」の中心テーマのように扱われた「​環境破壊をするような人間は環境によって滅ぼされて淘​汰されるほうがよい」というウルトラマンアグルの考​え方も、人間と他のあらゆるものとの関係をあまりにも連​続的に考えすぎる思想傾向の産物であるといえなくもない。人間​と他者との関係には「連続性」も、限りなく100%に近​いと思うほどある。しかし、「非連続性」もあるの​だと言えないといけない。人間が「獣化」しすぎることを、科学ないし​学問の名のもとに援護・補強するのは、それはそれで危​険です。

うちの長男は、幼稚園くらいの頃に教会の本棚から​手に取った「子ども聖書物語」のようなもので「世界は神​が創造された」という話を素朴に受けとめていましたが、​小学校の高学年か中学に入った頃かに「これまで考えてきたことが一気に崩れ去った」と初めて自分から口を開いて言いました。その​とき「で、お前はどっちなの?」と私が尋ねると、「う~​ん、『両方言える』でいんじゃね?」と答えました。こい​つは大物になりそうだと、バカ親の親バカ心が発動しまし​た。

もうひとつ加えるとしたら、改革派教義学の伝統的な議論の中では、「創造​」(Creation)の概念は「摂理」(Provid​ence)の概念と一対の関係にあるものとして扱われな​ければ意味をなさないものだとみなされてきました。「創造」​とは最初の瞬間の出来事としての「つくること」。他方の「摂理」​は最初の「創造」が行なわれた後の全時間における出来事としての「まもり、ささえ、そ​だてること」。

たとえば、我々にとっての出産ないし誕生​は、神学的にいえば「創造」というカテゴリーで説明されては​ならず、「摂理」というカテゴリーで説明されなければならない。なぜなら​、もし我々が「創造」というカテゴリーで出産ないし誕生を説明してしまうと、事実上「我​々の両親は神である」と言っているのと同じことになってしまう。しか​し、我々はどう間違っても「子どもを創造した(つくった)」わけではない​し、あるいは「両親がおれ/あたしを創造した(つくった)​」わけではない。

自分の赤ちゃんを前にして「おれが/あたしが、こいつをつくった」とでも思っているから、虐​待しようが何しようが、創造者なるおれ/あたしの思いのま​まだと考えている(ごめんなさいね、ちょっと言わせてもらいますが​)バカ親が少なくないのではないかと感じられる昨今。あ​るいは、自分のペットにもつけないような(これも言わせてもらえば)恥ずかしい名前を、自分の子どもにつける親もい​る。

「人間よ、なんじはいかなる意味でも創造者ではありえない​し、なんじの子どもはなんじのペットではありえない」ということ​をトコトン言い続けるためにこそ、「創造」と「摂理」の​区別、あるいは「創造」と「出産」(ないし「誕生」)との​概念上の区別を厳密にする必要がある。つまり、今日において​こそ創造論を欠くことはできないと思われてならない。

「創造」​というカテゴリーは、思春期の子どもたちが親に向かって​よく言う(ことになっている)「おれをつくってくれと​頼んだ憶えはネエ!」という言い分を一部理解しつつ、「​おれ/あたしが、お前をつくったわけじゃネエ!」という​親側からの反論に微妙な根拠を提供するためのマクラコ​トバとして意味をもちうる、と言いたいだけです。

ちなみに、いま書いた、「おれ/あたしが、お前をつくったわけじ​ゃネエ!」という親側のセリフに続く言葉は、「お前をつくったのは神さまだか​らね」ではありませんからね。「おれ/あたしはお前を​産んだだけだ。産むことと造ることとは全く違うことなんだよ。文​句あるか?」ですからね。

19世紀から前世紀にかけての​「創造論VS進化論」という押し問答は、まさに利権問題としてとらえれば、​よく分かる。各国の文科省(に相当する公的機関)と学校教​育における「キリスト教利権」と「非キリスト教利権」の​ヘゲモニー争いでした。この論争の当事者たちにと​って「聖書の解釈」という点こそマクラコトバにすぎませんでした。

本当に議論はしたくありません。しかし、「創造論は詩(ポエム)で​ある」と書いたことについてだけは、異論が吹き出す可能性​が高いので、先回りして書いておきます。

私の意図は「それは詩​にすぎない」(It's only a poem)というふうに、それを低く評価することではあ​りません。それは詩をバカにしすぎています。そういうのは全世界の全​歴史における歌や音楽を全否定するのと同じ態度を意味し​ているわけですから、とんでもないことです。私に言わせてもらえば、創造論の詩を、ジミー・ペイジの奏でるダブルネックのイバニーズに合わせて、ロバート・プラントにシャウトしてもらいたい。それくらいの思いです​。

しかしまた、「創造論は詩(ポエム)である」と私が受​けとるもう一つの意味として言っておきたいことは、やはり、時と場所と状況​をわきまえた語り方というのがある、ということです。

あく​までもたとえばの話ですが、我々の住んでいる国(まあ​日本ですが)のプリンスとプリンセスが初​めての子どもを産んだとき、マスコミの前で言った言葉は​「コウノトリが来てくれた」でしたよね。「聖書とキリス​ト教の創造論は非科学的である」とか言ってつっこむ人たちには、あ​のプリンスの言葉にもつっこめよと言いたいですね。詩歌(しいか)の表現を用いて語るほうが適切な場面というのが、我々の人生にはあるのです、明らかにね。

でも、逆の言い方をすれば(逆かどうかは微妙ですが​)、もしあの場面、あの状況でわが国のプリンスが「い​やー、じつは、おれとこいつ(隣に座っていた人)があれ​をしたら、これができちゃったんですよ」と言えたか(Could he say that?)。そういう言葉づかいが「科学的」なのか。そ​うとは言えないと思うのですよ。

改革派神学の筋道の中で「進化」(evolut​ion)というカテゴリーをどこに位置づけられるかといえば、おそらく「摂理」のとこ​ろでしょうね。「摂理」は「創造」と共に「聖定」の枠組​みの中に置かれます。創造は「第一の聖定」、摂理は「第​二の聖定」ですから。

しかし、某准教授氏が言い放った「人​間優越論」のような考え方は、改革派神学には全くそぐわないですね。改革派神学は、人間に対して全被造性(whol​e creativity)の一要素というく​らいの位置づけしか与えて来なかったと思います。しかし、そうは言っても「上か下か」(優位か劣位か)という区​別ではなく、両者(人間と世界)の非連続性(disco​ntinuity)については、改革派神学はむしろ強調し​てきたはずです。

繰り返しますと、改革派神学の筋道からいえば​「創造」が第一の聖定で、「摂理」が第二の聖定なのですが、後​者「摂理」の中に「進化」を位置づけることは、それほど​問題ではないはずです。しかし問題は、「創造」のほうは否定し​て「摂理」だけを残し、その上で「摂理」の中に「進化」を位​置づけてしまうとどうなるかです。そのとき我々は、誰によっても(または何によっても)造られなかった世​界が過去・現在・未来を通じて永久に存在し続けている状態、ということを想定せざるをえま​せん。

その場合には、この世界には「はじまり」(beginn​ing)が無いし、するとまた当然「おわり」(end)も無い。そうなると、すぐさま「終わりなき日常を生きろ」みた​いな話になっていくのかどうかは分かりませんが、途方もない気持​ちにさせられることは確かですね。私は某准教授氏がいうような意味での進化論否定論の立場にはいま​せんが、「詩(ポエム)としての創造論」まで否定されると、​私などは「終わりなき日常」のプレッシャーに耐えかねて世界の外側へと飛び出していきたくなるような気がします(「死にたくなる」という意味です)。

というわけで、私自身はアメリカなどの福音派の事情は(そういう教会に通ったことがないので体験的知識がゼロであるという意味で)全く知らないのですが、相手を組み伏せるような議論を好まない福音派の人たちがいるなら、その人たちとだけは仲良くできそうです。

「創造​論」の基本命題は「世界を創造したのは神である」という​ものであることは間違いありませんが、逆命題的に言い直​せば、「もし世界が永遠に存在しているのではなく、何か​あるいは誰か(どなたか)によって『はじめられた』ものであるならば​、この世界を『はじめた』存在を『神』と呼ぶことにしよ​う」というあたりのことでもあるわけなので、「この世界​にははじまりも終りもない」と言い張る科学者でもないかぎ​り、いま書いた意味での「創造論」を否定するほどの理由​はないはずなのです。

しかし、そうは言っても、感覚的にいえば、カトリックや福音派の​立場に全く同意できるとは思えない。彼らがとにかく嫌うのは、医学​などの生命科学や物理学などが絶対的な自立性を持って優​位性を主張しはじめ、神学部の営みを「非学問的」などと決めつけて罵倒してくるような場面でしょう。神学部の側も適当にスルーしておけばいいのに​、売られたケンカを買おうとする。こうした彼らの神学的な勇ましさは「諸学は神学の婢(ancilla theologiae)である」と言えていた数百年前の時代の名残かも​しれませんね。

2011年7月5日火曜日

新しい復興相は「癒し系」でお願いします

復興相には羽田雄一郎さんのような人がいいなあと、昨夜からしきりと考えていました。

羽田さんはクリスチャンですから贔屓目もあることを否定しませんが、表情といい、体型といい、「ちょっぴり癒し系のリーダー」として、復興相のイメージにぴったりです。

民主党様、どうかよろしくお願いいたします。

「  」しかないんですけどね

まあ、だから、あれじゃないですかね、恫喝・横柄・傲岸のやからは、どの社会にもどの団体にもいる。どの政党にも、どの会社にも、どの学校にも、どのチームにも、どの教会にも、ね。

そして、各団体に属している人々は、実をいうと、そういうやからが全体を管理していることを苦にしている。だって、根拠も能力も無いのに、ただ威張ってるだけ。やたら要求がましい。それでいて他人に対しては常に上から目線。ごねる、どなる、すねる。だから多くの人は「嫌だなあ。いなくなってもらいたいなあ」と心底から願ってもいる。

しかし、その一方で人々は、そういうやからの持っている独特の「人を従わせてしまう魔性の力」のようなものの一部は、あわよくば利用できそうだと、どこかで期待していたりもする。

「まあ、あれだ。ああいうのも一種の必要悪ってやつだな。あんなのに自分が直接支配されることを想像するとぞっとして鳥肌がたつが、まあ、おれ/あたし以外の人たちが被害を受けてる分には別にいいや。対岸の火事はどこかしら観ていてオモロイところもあるし」というあたりで自分を言い聞かせながら許容しているところがある。

でも、やっぱりだめなんですよね、理性を用いて誠実な情熱をもって謙遜でも常に力強く肯定的に語る「革命気質の」人たちの口を封じんとするために恫喝・横柄・傲岸をもってへばり付いて来る腐りきったやからに、いったん支配権を譲ってしまった社会や団体は。その時点・その瞬間が、その社会・その団体の「死」を意味します。

でも、「残念!」(もはや古いがギター侍)。その「死」は避けがたい。

なぜならば、そういうやからに運営を任さざるを得なくなっている状況にまで追い込まれているのは、その社会・その団体が「行き詰っている」ことの何よりの証左。要するに人材難です。もっといい人(適任者)がいるなら、そんなやからに運営を任す必要は全くないのだが、いないから(適任者がね)仕方がない。

ほんと、どうしたらいいんでしょうかね。

まあ、答えはひとつ、「  」しかないんですけどね。任侠党の恫喝大臣だらけになったときにはね(今の日本が完全にそういう状態になっていると私が思っている、という意味ではありませんよ)。それにしても「  」以外にどんな選択肢があるでしょうかね。

この文章を書いている最中に「復興相、引責辞任」のニュースが、ツイッターで飛び込んできました。よし!

同じ言葉をそのまま返したい

昨日の私は、自分が住ませてもらっている家をバッラバラに破壊したい衝動にかられるほど、激怒していました。

なにが「長幼の序」だ。あなた自身の、その幼稚な態度のほうが、よっぽど「幼」だろ、とね。

「最初にバーンと格の差を見せつけてやりゃあいいんだよ」みたいな入れ知恵でもあったのか、それともこの人に長年染み付いてきた何かなのかは、知る由もありませんですけどね。

恫喝やこけおどし(ググったら「虚仮威し」と書くらしいと分かりました。またひとつ勉強になりました)のことを「政治主導」だとか「真のリーダーシップ」だとか本気で思ってるんだとしたら、もうダメですね。

もう言い古された表現なのかもしれませんが、政治家さんたちにも必要なことは「サーバント・リーダーシップ」ってやつですよ。

人はしもべのごとく謙遜に仕えることにおいてこそ、全体を率いるリーダーでありうる。震災後の日本と世界には「ちょっぴり癒し系のリーダー」が求められていると思うんですけどね~、甘いですかね。

でも、また今、ふと思った。

この人って、こういうことをとにかく一度やりたかったんだろうなあってね。

子どもの頃から夢見てきたのかどうかは知りませんが、「国家権力の椅子」みたいものにずっと憧れてきて、その椅子に座るために頑張り、やっと座ることができた。

「じゃじゃ~ん、おれって国家権力だぜ。どうだマイッタか、ちゃんちゃん」みたいな気分を、しばし味わった。

でも、「お、おれさまが来てやったのに、ち、遅刻しやがった」(ジャイアンの声)。

ていうか、たぶん、あいつは、おれのことをなめている。

「くしょ~、あいつ、ぜったい仕返ししてやる~」(スネオの声)。

「えっと、あれ、なんだっけ、こういうときに使う言葉――そうそう、『長幼の序』。いまどき携帯でもググれるぜ。これ言ってやろう。マスコミの前で、わざとね。そうすりゃマスコミはぜったいオレに食いついてくるから、テレビに出られるぜ」。

じゃじゃ~ん、ピース、ピース。田舎のかあちゃん、おれ、テレビに出てるじぇ~。

『改革派教会信仰告白集』を購入することにしました

みんな気づいているのに言わずに我慢しているんだろうと思うので、口火を切ります。一麦出版社(北海道札幌市)が、同社の「創立20周年記念出版」として今年9月から刊行を始めようとしておられる『改革派教会信仰告白集』(全六巻・別巻一、大崎節郎編集、一麦出版社)を盛り立てる翻訳者陣の中に、日本キリスト改革派教会のメンバーが一人も選ばれていない。これはけっこう、いろんな意味で深刻なことであると自覚する必要がありそうです。

しかし、いま書いたことは『改革派教会信仰告白集』に対する批判ではありません。批判どころか、とても素晴らしい企画ですねと心から絶賛します。これは私の本心です。実際問題として、『改革派教会信仰告白集』の訳者の中に日本キリスト改革派教会のメンバーが一人も加わっていないことに、日本キリスト改革派教会のメンバーがふて腐れる必要も理由も全くないと思っています。

カタログの文章の中に「本信仰告白集の発刊によって偏狭な信条主義が刺激されることではなく」とか「狭義の改革派教会に止まらず」とか、まるで仮想敵(?)を強く意識したような言葉が目につくのは若干気にはなります。しかし、その感覚自体は完全に時代遅れのものですので、「はいはい分かりました」とでも言って受け流しておけば済むでしょう。

彼らが「偏狭な」とか「狭義の」という形容詞をもって、何を言おうとしているのかは何となく分かります。しかし、疑問に思うことは、そういうものを排したところに生まれる『改革派教会信仰告白集』とはどういう性格のものなのだろうかということです。

「偏狭な信条主義」に立つ「狭義の改革派教会」がその教派の《標準訳》のようなものを作ろうとする場合、一教派の大会の憲法委員会の発案であるとか、大会での議論といったような、しちめんどくさいけれども不可避的な手続きを踏んでいきます。しかし《個人訳》にはそのような手続きはありません。その意味で『改革派教会信仰告白集』は「気楽な個人訳」であるということです。ですから、仮想敵(?)に対するチクチク攻撃を前にしても「はいはい分かりました」で済みます。

その種の枝葉末節よりはるかに重要なことは、彼らの言うところの「偏狭な信条主義」に立っているらしい「狭義の改革派教会」のメンバーたちが「また信条の話ですか」とそろそろうんざりしてきているときに(実際そんなふうな顔をされるときがあります)、「派」のついた「改革派教会」を名乗らない人たちが、「派」のついた「改革派教会信仰告白」についての研究活動を、ようやく本腰をあげて始めてくださったということです。

これは諸手をあげて感謝すべきことです。翻訳のヴァージョンはいくらあっても構わないわけですし。そして、この世には絶対に壊れない「完璧な機械」などは存在しない。それと同じように、この世には「完璧な翻訳」も存在しない。いろいろ読み比べることができる、大規模な学習教材を提供していただけることがうれしいです。

ちなみに、昨日のことですが、松戸小金原教会の定期小会において、『改革派教会信仰告白集』全巻を予約購入することを全会一致で決議しました。

一麦出版社様、どうかよろしくお願いいたします。

ウェストミンスター信仰告白はルネ・デカルトを知っている

ウェストミンスター信仰告白のことを高く肯定的に評価してくれている話を耳にすると、自分の頭を優しく撫でてもらっているような気持ちになる改革派教会のメンバーは少なくないんじゃないかなと思います。

ウェストミンスター信仰告白の面白さの一つであると私が考えていることは、「ウ告白は近代哲学の父、ルネ・デカルトを知っている」という点です。16世紀のハイデルベルク信仰問答はデカルト(1596年3月31日〜1650年2月11日)の出現をまだ知りません。しかし、17世紀のウェストミンスター信仰告白はデカルトを知っています。それが意味することは、「ウェストミンスター信仰告白は近代哲学を知っている」ということです。換言すれば、「ウェストミンスター信仰告白は現代人の感性を知っている」ということです。

ウェストミンスター信仰告白とデカルト哲学との歴史的関係というテーマについては、日本では研究がほとんど全くなされていない状態ですので、修士論文や博士論文で取り上げる人が出て来てほしいところですが、私見によれば、歴史的にはほぼ確実に証明しうることです。

デカルト哲学が流行しはじめたことを懸念して猛烈な反対運動をおこした(「デカルトを弾圧した」と評されても仕方がないほど)急先鋒の神学者は、オランダのユトレヒト大学神学部の開設者として知られるヒスベルトゥス・フーティウス(Gisbertus Voetius、「ヴォエティウス」とも)(1589年〜1676年)です。フーティウスを中心とするデカルト哲学排斥運動は、ウェストミンスター神学者会議(1643〜1649年)より少し前から始まっていたことですが、この運動を知らないようなヨーロッパの改革派神学者はいませんでした。また、ウェストミンスター神学者会議に参加した議員の中にはブリテン島からヨーロッパ大陸に、なかでも特にオランダに留学した人が何人かいることが知られていますので、彼ら経由でフーティウスから直接情報を得ていたことも十分考えられます。

先週末ここに書きましたように、このたびの大震災を「神の御心」と信じるべきかどうかという問いに対して、もしハイデルベルク信仰問答の線に立とうとするならば、「天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができない」(問1の答え)のですから、そうであるということ(「大震災は神の御心である」ということ)を躊躇なく全面的に肯定することからすべての思索を開始する道以外ありえない。

しかし、ウェストミンスター信仰告白の線に立つならば、「第二原因の自由や偶然性(the liberty or contingency of second causes)は奪い去られない」(3・1)と書かれていることに基づいて、「大震災は偶然である」と受けとめる余地が与えられる。

この違いがヨーロッパ大陸の改革派神学とデカルト哲学との大論争とどのように関係しているかはまだ分かりません。しかし、16世紀のハイデルベルク信仰問答と17世紀のウェストミンスター信仰告白との間に起こったと思われる神学的・教義学的な発展は、現代社会に生を得ている我々にとっては決して小さくない、軽んじられてもならない要素であると、私には思われてならないのです。

いま書いたことの主旨は、ウェストミンスター神学者会議の中にデカルト主義者が紛れ込んでいたというようなことではありません。私が考えていることは、彼ら神学者たちの視野の中にデカルトの問題提起が含まれていて、16世紀までほどのストレートさをもって「神の御心」を語ることに一種の躊躇があったと言えるのではないかということであり、その躊躇は「現代人の感性」に対する配慮や目配せというべきものであり、21世紀の我々にも通じるものではないかということです。

ところで、ウェストミンスター神学者会議のような会議は、現代においては、どのようにすれば実現可能でしょうか。それは、「顔ぶれだけ見れば全くまとまりようのない会議」と評されるような会議です。

現時点で考えられることは、インターネットしかありませんよね。たとえばフェイスブックのようなコミュニケーションツールを活用するならば、21世紀の我々が17世紀のウェストミンスター神学者会議の続きのようなことをやっていくことができるかもしれません。

インターネット上の会議であれば開催のための費用(交通費や会場費や宿泊費といったもの)は一切かかりませんし、17世紀のそれよりもはるかに大規模に、そして徹底的にデータに基づいた緻密な議論を行なうことができるでしょう。

2011年7月2日土曜日

「意味を問うてはならない」と言いたいのではない

「これは神の御心なのか」。この問いを避け通す説教者は、不誠実だと言われても仕方がないかもしれない。

なぜなら、「牧師ならば、説教者ならば、この問いには当然答えてくれるだろう」と答えを待っている(と思われる)人がいる。また、「これには意味がある」と言って無理やりこじつけた「意味」を語る説教者の言葉に傷ついたり悩んだりしている人がいることも、分かっていた。だから、いつかきちんと決着をつける必要があるとは思っていた。

「これは偶然である」と考えるからといって、「意味を問うてはならない」と言いたいのではない。そんなふうに禁じられても、問う人は問うし、答えが欲しい人は答えが欲しいのだ。その気持ちを理解することが必要だ、という話ならばよく分かる。その問い方は、生きている場所や位置にも当然関係しているだろう。

いま気になっていることは、直接被災地にいない人々のこと、あるいは事実上何の対応もできない(または「できなかった」)人たちのことだったりする。被災地で苦しんでいる人のことを気にしていないという意味ではないが、被災地のために何もできない(または「できなかった」)ということを気に病んでいる人たちのこと、あるいは、早くも記憶から消えそうになっていることを気に病んでいる人たちのことが気がかりなのだ。

かなり自戒をこめていえば、こういうときに「行動あるのみ。現地に行くのみ。現場にこそイエスは赴かれる」という信仰に突き動かされて「動ける」人と、必ずしもそうでない人がいる。 私は4月18日から20日まで宮城県内の被災地・被災教会のお見舞いに行くことができたが、委員会活動であるという「意味づけ」があったからだということを否定できない。

生まれ故郷であるとか、親戚や友人がいるとか、一度でも行ったことがあるとか、なんらかの思い出があるとか、その他どんなことでもいいから自分自身との関連性ないし連関が見出せることであるならともかく、そうでない場合は「意味」を持続しにくいと感じる人は少なくないと思うのだ(いま書いたことは私自身のことではない)。

あとはやや言いにくいことだが、「毎月11日に祈ろう」、「半年後の9月11日が日曜日なので何かしよう」、「毎年3月11日に何かしよう」というふうに、「11日」ということに意味づけを図ろうとする人たちがいる。「そういうのが全部駄目とは申しませんが、教会のやり方としてはあまりにも俗っぽ過ぎませんか」と、私はある委員会で発言した。そのことも公開しておくことにしよう。

私がつい「あちらも、こちらも」両方立てようとするのは、なんだかドラマのセリフみたいだが、「もうだれも教会からいなくなって欲しくない!」と、いつも思っているからだろう。20年も牧師やっていると、いろんな人を傷つけ、失ってきた。反省、反省。

牧師や長老や教会全体に文句があって、なんだかんだ、いろいろと噛みついてきても構わないから(「構わない」は「スルーする」の意味ではない)、とにかく教会にとどまってほしいのだ。

しかし、「教会にとどまる」は「毎週日曜日の礼拝に出てこい。出てこない奴は去れ」という意味ではない。「教会の礼拝や諸集会のアタマ数や献金の口数や金額が少なくなってもらっては困る」という意味でもない。私に限っては、それはありえない。そんな要求をするくらいなら、パウロの言葉を借りれば「死んだ方がまし」(新約聖書 コリントの信徒への手紙一9・15)だと本気で思う。

そんなことではなくて、表現するのが難しいのだが、「あなたには教会が必要です」という感じのことが言いたいのだ。

そう、古いネタで申し訳ないが、むかし中村雅俊さんが歌っていた「人はみな、ひとりでは生きてゆけないものだから」みたいなことだと思う。いまググったら、あの歌のタイトル、「ふれあい」というそうだ、初めて知った。

「ひとりで信仰を保つのは無理ですよ」みたいなことが言いたい。「信仰者には信仰共同体が必要です」と言いたいんだと思う、たぶん私はね。

ちなみに、こんなことを書きながら思い出していることは、もう完全にうろ覚えの状態だが、美少女戦士セーラームーン(古いね)の最終話みたいな状況の中で主人公の月野うさぎが「もうだれも死なせない。私が世界を守る!」みたいなことを言ったセリフだったりする。

私はね、上手な言い方をすれば「守備範囲が広い」人間なのだ。セーラームーンは、子どもたちと一緒に観た。おじゃ魔女ドレミとかもね。「オタク目線」ではなくて「親目線」でね。

と書いているうちに、もう見つかってしまった。インターネット恐るべし。 子どもたちと一緒に観たのは、どうやらこれだ。土曜日なのに、久しぶりに見入ってしまった。正確に書けば、「劇場版 美少女戦士セーラームーンR」のラスト10分間くらいのクライマックスシーンだ。

主人公が言ったのは、「みんなは私が守ってみせる!」(1:05)、「お願い、銀水晶!もっと私に力を貸して!みんなを守れる力を!だれもひとりにしない力!」(1:22)、「もう、だれもひとりにしない!」(3:48)だった。

これ、何度観ても泣けますね。いやマジで。

私はあえて「偶然」と呼びたい

3月11日以来、意図的に避けてきた話題がある。「これは神の御心なのか」という、だれもが問う問いへの答えである。

もちろん私も自分なりに「意味」を考えてきた。しかし公言しないできた。ブログでも、説教でも、この一点に関しては沈黙してきた。

しかし、そろそろ言ってもいいだろう。現時点での結論は「偶然」である。

私は、改革派教会が歴史の中で教え続けてきたところの「予定論」ないし「聖定論」を心から確信している者であるが、だからこそ、結論は「偶然」である。

周知のとおりハイデルベルク信仰問答(16世紀)には「天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます」(問1の答え)と書かれている。この線で考えていけば、あらゆる出来事は「神の御心」なのであって、例外はない。

しかし、ウェストミンスター信仰告白(17世紀)には、明らかに異なるニュアンスが加えられている。

ウェストミンスター信仰告白3・1には、「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自分にしかも不変的に定められたが」と言いつつ(ここまではハイデルベルク信仰問答と同一線上に立っている)、間髪いれず、「それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪い去られないで、むしろ確立されるように、定められたのである」と書かれている。

これで分かることは、改革派教会の信仰と神学は「神の永遠の聖定」(God's eternal decree)を主張してきたからといって「第二原因」(second causes)としての「自由」(liberty)や「偶然性」(contingency)を否定してきたわけではないということである。

教会の教えは歴史の中で発展していくものである。その発展を「変化」と呼ぶことに私は躊躇がない。

我々にとってこのたびの地震と津波と原発事故と近隣住民の被ばくは、「神の御心」という言葉をもって何が何でも無理やり甘受しなければならないものではない。

そして、「神」(God)は「罪の作者」(author of sin)ではない。

この国、この時代、この状況、この地域に我々が立ち会ったことは「たまたま」であり、つまり、あくまでも「偶然」なのであって、このこと自体には何の意味も必然性もないのだと我々自身が告白することは、反キリスト教的な考えではないし、非改革派的な教えでもないのである。

私が岡山に生まれ育ったことは、全くの「偶然」である。東京と神戸で勉強したことも、高知と福岡と山梨の教会をめぐり歩いてきたことも、そしていま松戸に住んでいることも「偶然」である。そうであるならば、いま松戸がホットスポットになっているらしいことも「偶然」なのであって、そのこと自体は何の意味もないし、必然性もない。

だから、言い方は乱暴かもしれないが、逃げたい人は逃げてもいいし、とどまりたい人はとどまってもよい。どちらを選択するにせよ、そのこと自体は(たとえそれが「信仰に基づく」忠告であっても)誰から責められるべきことでもない。

我々は「偶然」から「偶然」へと、飛び石をまたぎ続けることが許されるのだ。

2011年6月30日木曜日

これでもあなたはファン・ルーラーをイロモノ扱いするか

もうそろそろ、いいだろう。ひとことだけ言わせてほしいことがある。

物心つく頃からずっと探して来たのは、尊敬できる教師だ。「真の権威者」と言ってもいい。「絶対的な」服従などは、もし求められても、決してやらない。この私にそのような態度は似合わないし、いまだかつてやったことがない。隷属などは、相手が誰であれ真っ平だ。そういうのが嫌だからこそ、このご時世の中で(このご時世にもかかわらず)「神」なるものを信じてきたし、神が人に与える「自由」を信じてきた。

しかし、私が長年苦悩してきたことは、「神」は私の教師ではない、ということだ。「教師は神ではない」は正しい命題であるが、「神は教師ではない」も正しい。言葉にすれば陳腐になるが、究極的な(≠絶対的な)真理をその根拠と共に適切に提示し、納得させてもらえる教師が欲しかった。

「金八先生」とか「ごくせん」の話をしたいのではない。私がまさに物心つく頃から一度も切れ目なく関わり続けてきた「キリスト教」の話であり、「教会」の話だ。「説教」の話と言ってもいい。やや傍観者的な言い方をすれば「ぼくの日曜日をハッピーにしてくれる人」だ。「来るんじゃなかった」という暗澹たる気分ではなく、「今日はここに来ることができて、本当によかった」と感謝しながら帰宅することができる、そのような礼拝を作り上げることができる説教者だ。

こういう話をしなければならないときは、自分のことを棚に上げることが許されなければならない。「自分がそういう説教ができるようになってから言え」という弾圧に屈するつもりはない。

私には尊敬できる説教者がいなかった。「真似したい」と思える人がいなかった。何度礼拝に出席しても、言われていることに納得できなかった。それは地獄の日々だった。

何度も書いてきたつもりだが、生まれてこのかた、日曜日の礼拝を病気以外の理由で欠席したことはない。日曜日に礼拝を欠席するほどの病気にかかった正確な回数などは分からないが、ほぼ間違いなく、両手の指で数えられるくらいしかないはずだ。そういう人生を45年も続けてきたことが、ただそれだけが、私の矜持なのだ。

しかし、納得できない、分からない。論理的な筋道を追いながら聞いていると、ところどころ、耐えがたくおぞましい矛盾があり、ごまかしがあり、隠蔽があり、行きすぎた美化があり、「丸めこみ」がある。そのうち聞いていられなくなる。眠たくなってしまうのだ。

説教で重要なことは「論理」だ。笑顔でなくても、美声でなくても、原稿から目を上げて礼拝出席者の顔を見ながら語ることができなくても、そんなことはどうでもいい。論理が破綻している説教は聞けない。座っている椅子を蹴っ飛ばして退室したくなる。あの説教を聞くための時間は無駄だと、あらかじめ分かっている礼拝には、なるべく行きたくない。

愚痴が長くなった。ここから先は明るい話だ。尊敬できる教師が「見つかった」話だ。

それは、私にとってはファン・ルーラーである。やっと巡りあえた。だから、今の私は安堵している。

しかし、これまでは、オランダ国内はともかく、国際的に見れば、ファン・ルーラーの知名度は低かった。それにはさまざまな事情が絡んでいることも分かっている。多くの嫉妬を買い、妨害されてきた人でもある。その理由も、今の私なら分かる。彼の「論理」が、あまりにも魅力的だからだ。こういうふうに言えたらどんなに胸がすくかと多くの人がもどかしく感じてきたことを、躊躇なく明快に語る。こういう説教者に、私は出会ったことがなかった。しかし、その人がいた。ファン・ルーラーだ。

悔しいことが二つある。一つは、これまでの神学の多くの村民たちが、ファン・ルーラーを「イロモノ」扱いしてきたことだ。「ファンタスティックな神学者だ」などという。しかし、ファン・ルーラーの神学はとりたててファンタスティックなわけではない。彼はただ、彼の教会と彼の社会を念頭に置きながら、冷静にコツコツと学問をしているだけだ。

もう一つある。言うまでもなくファン・ルーラーのテキストは「オランダ語」なのだが、それを読みもしないで彼を批判しようとする神学者がいまだに少なくないということだ。テキストを読まずに論評するというのは、風評のようなものを根拠にして学問する態度に等しいわけだから言語道断だろう。そういうことをファン・ルーラーに関しては「してもよい」と思っているのは、彼を「イロモノ」扱いしている証拠だろうし、要するになめているのだ。

なめたければ、なめても構わない。ファン・ルーラーをこれからも「イロモノ」扱いし続けたければ、それも構わない。しかし、その態度はこれからは、その人自身の恥となるだけだ。そのうち身にしみて分かる日が来るだろう。

このような私の考えを「ファナティック」と呼びたければ、それもどうぞご自由に。尊敬できる権威者のもとに立つとは、しばしばそのようなものだ。

「あなたには尊敬できる人はいないのか」と、聞き返したい。いるんだよ。うじゃうじゃと。ヒトのことだけ言えないはずだ。

もう少しだけ核心に踏み込んでおこう。私のほうが遠慮する理由は、もはや何もない。

権威の座にある(と周囲から見られている)人が根拠薄弱なことを書き散らすとき、後進の者たちがどれくらい迷惑するかということを、丸十年以上痛感し、苦汁を飲んできた。

ただ、こちら側の根拠も薄かった。それはまるで死海文書の発見にも近いありさまで、ファン・ルーラーの「膨大な量の」未公開テキストが、宝の山のように眠っている、という話だけを聞かされていた。

だから、それらのテキストの公開を待つべきだ、ファン・ルーラーについて「本を書く」ことができるのはテキスト公開の後だ、そうでなければ学問的に無責任の謗りを免れない、ということは、我々(あえて「有識者」と自称させていただく)の間では分かっていたことであった。

ところが、つい最近も、ファン・ルーラー(彼らは「ファン・リューラー」と表記する)を大々的に取り上げた章を含む「本」を出版なさった方がいる。そこで、またしても彼は、自分自身はファン・ルーラーのオランダ語のテキストは読んでいないと断りつつ、(なんと尊大にも)“一定の評価”をした上で、批判する。

もうダメだろう。この恥知らずな態度はいつか厳しく断罪されるべきだと、私は考えている。

2011年6月28日火曜日

鼻血が出そうです

ああ、ちょっと興奮しすぎて鼻血が出そうだ。

ついさっきのこと、ドアチャイムが鳴り、戸を開けたら「ゆうパックです」と郵便配達員。「え?何か注文したっけ。お金あるかな」と不安になりながら受けとった小包にオランダ語の文字が!

待ちに待った『A. A. ファン・ルーラー著作集』(オランダ語版)第四巻の「上」と「下」が、やっと届きました。タイトルは「キリスト、聖霊、救済」です。

内容はスゴイ、ひたすらスゴイ。筆舌に尽くしがたいものがあります。魅力的なテーマ、圧倒的な筆致。翻訳を志す者の腕が鳴る、と言いたいところですが、今度こそ心折られそうです。

敵う相手ではありえないと最初から分かっていましたが、それでも何とか数ミリでも近づきたい、ものにしたいと食らいついてきたつもりなのですが、これほどのレベルの差を見せつけられると、どうしようもない。

でもね、こうなったら、まあ、私なりの草野球を楽しむことにしますよ。そして、最後までゼッタイにあきらめない。私があきらめないことが誰かの励ましになるかもしれない。今の日本に私のような馬鹿が一人くらいいても許されるだろう。そう思うことにします。

はいはい分かりましたよ、訳しますよ。

待ってろよ、日本。見てろよ、ファン・ルーラー。