2011年5月5日木曜日

知らなかったことが恥ずかしい(解決篇)

昨日書いたことをFacebookに貼りつけたり、小分けにしてTwitterに流したり(回転寿司みたいでした)したところ、かなりの方々が関心を寄せてくださり、貴重なコメントをいただくことができた。その方々に心から感謝している(ありがとうございました)。以下は、コメントしてくださった方々への私からの返信内容を、ただし、書いたとおりではなくその主旨を、ざっとまとめたものである。

日本聖書協会ホームページの「新共同訳聖書 訂正箇所一覧」を見たのは、昨日が初めてだった。日本聖書協会が聖書を訂正していくプロセスそのものを批判するつもりは私にはないが、訂正箇所がこんなに多かったとは知らなかった。

多くの読者が知らないうちに「いつの間にか」すり替えられていくこの雰囲気は、あの茂木健一郎氏でおなじみの「アハ画像」のようで、若干のダマサレタ感は否めない。せめて理由を公示して訂正してもらいたいものだ。「聖書は世界のベストセラーである」という決めゼリフは日本聖書協会も言ってきたはずだ。この本の影響力の大きさを考えれば、一般の新聞で公示されてもよいのではないかと思うくらいである。

また私自身は、従前の解釈(聖霊に満たされた使徒たちが突然、習ったこともないはずの外国語を話しだした)が間違っていると言いたいのではない。私の問いは、日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を取り除いた理由は何かという点だけである。「使徒」を取り除いても従前の解釈は不動であると判断したからなのか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか、どちらだろうかと思っただけである。

訂正の理由として「原語により厳密に合わせた」という点がおそらく第一に挙げられることになるのは当然だろう。しかし、「使徒」を取り除くと、やはり文意が変わってしまわないだろうか。そこに若干の疑問はあった。「文意は変わっていない」というコメントをいただいた。それなら私は安心である。しかしまた、もし文意が変わらないのなら、日本語訳聖書の100年越しの伝統を忽然と棄てる理由が分からないとも思った。なぜ今さらなのか?学術的厳密性へのこだわりなのか?次の大改訂まで待てないほどのことなのか?

「新共同訳和英対照(1998年版)の英文では、all of them heard the believers talking in their own languagesで、believersは1節で『一同』と訳されている」という有難いコメントもいただいた。「信者」(believers)と「使徒」(Apostles)を、聖書はわりとはっきり区別する。やはり文意は変わったのだろうか。

文意は変わったのだと、言い切ってくださった方もおられた。「いろんな国の言葉を語り始めた」のは「(11人の)使徒たち」ではなく「(120人ほどの)兄弟たち」であるというふうに日本聖書協会側の解釈が変わったと受けとめてもよいかという私の質問に「そうだと思う」と答えてくださった。

もしそれが事実ならば、やはりかなり重大な訂正である。私に言わせていただくと、従来の教義学の「聖霊論」などは全面的な書き換えが求められるのではないかと思うほどの大改訂である。こういう箇所が「いつの間にか」すり替えられているようでは困る。

しかし、原典には「彼ら」と書いているだけである。「(120人ほどの)兄弟たち」と明確に特定できるほどの根拠のほうも見当たらない。もちろん、保守的(?)に考えれば、「(イスカリオテのユダを除く11人の)使徒たち」でなければ「(120人ほどの)兄弟たち」しか選択肢は残らないとは思う。

かくいう私は、それが「(120人ほどの)兄弟たち」である可能性を疑いたいのではなく、「彼ら」のすべてが7節の「人々」が言うとおり「皆ガリラヤの人」だったかどうか、また「皆ガリラヤの人」と呼ばれた「(120人ほどの)兄弟たち」の一人も外国語を学んでいなかったかどうかが怪しくなるのではないかと感じるのである。

そして、怪しくなったらなったで、私は構わない。より合理的な解釈の可能性が開けるだけである。「皆ガリラヤの人ではないか」は「人々」(7節)の台詞(カギカッコ内の発言)である。アホな言い方をお許しいただけば、「人々」が「(120人ほどの)兄弟たち」全員の出自を厳密にチェックしたわけではない(たぶん)。しかし私は、より奇跡性の強い従前の解釈を否定したいわけではなく、さりとて、より合理性の強い解釈を警戒しているわけでもなく、事実はどちらだろうと思っているだけである。

私はどっちでもいいとか言うと、無責任な感じになるだろう。しかし、私自身は「とにかくテキストに従うのみだ」と思っている。「テキスト」と言っても新約聖書の場合はギリシア語原典だけが唯一のテキストだと思っているわけではなく、たとえそれが(不完全な)日本語訳聖書であっても、それと自分自身(読者自身)が直接向き合っているかぎり、一つの決定的なテキストではあると、とらえている。

テキストに書いてあることに基づいて議論する、という姿勢を教わったのは左近淑先生(故人)だった。左近先生の旧約緒論の講義を受けたのは、クソがきだった、まだ19歳のときである。「旧約の学問というのは、テキストに縛られてやるものだというのが、わたくしの立場です。ですからテキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」(『左近淑著作集』「第三巻 旧約聖書緒論講義」、教文館、135ページ)という言葉は、今でも耳に焼き付いている。

少しまとめよう。

使徒言行録2・6の場合、昨日からの私自身の調べと何人かの方々からのコメントを集約すると、ギリシア語原典が「彼ら」と書いているだけのところを日本語訳聖書100年越しの伝統が「使徒」と断定してきたので、おそらく何らかのミスリードが起こってしまっていた。それを日本聖書協会がおそらく大きな決断をもって修正した、という筋書きのように思える。そして、私の感覚では、「使徒」と特定すると事の奇跡性・異常性は強化されるが、特定をやめて「彼ら」とすると奇跡性・異常性はやはり緩和されるものがある。

上にも書いたが(この読み方にこだわるつもりは全くない)、「彼ら」を誰であるとも特定しないことによって、「(11人の)使徒たち」である可能性が薄れるが、他方の「(120人ほどの)兄弟たち」は「皆ガリラヤの人」(2・7)と呼ばれてはいるが、その中に外国語を学んだことがある人や外国生活をしたことがある人が一人もいなかったのだろうかとか、そういう想像力(妄想?)を働かせる余地が出てくると思う。イマジネーションの遊びの余地があることは、我々の読書に楽しみを増やす。

何度も言うのは誤解されたくないからであるが、私自身が聖霊降臨(ペンテコステ)の奇跡性・異常性を否定したがっているわけではない。「テキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」という、今は亡き恩師の言葉を思い返しているだけである。

文語訳時代の訳者は、親切心のようなことから「解釈的な意訳」(真山光弥氏の表現だそうです)をしてくださったのかもしれないが、アリガタ迷惑だった可能性大のようだ。

2011年5月4日水曜日

知らなかったことが恥ずかしい(事件篇)

今日は、ちょっとショックなことがあった。私にとっては小さくない問題と感じられたので、忘れないうちに書きとめておくことにする。

今日の午前中の祈祷会で使徒言行録を学んだが、聖書を出席者全員で輪読した際、私の手元の聖書に書かれているのとは違うことを読んだ方がいたので、「おや?」と思った。その個所は、使徒言行録2・6である。

私の手元の聖書は、2006年版の新共同訳聖書である。こう書かれている。

「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」

しかし、さっき読んだ方は、これとは明らかに違うことを読んだ。そこで、その方にもう一度、同じ個所を読んでいただいたところ、事が明白になった。その方は次のようにお読みになった。

「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」

その方の持っておられる新共同訳聖書の出版年は、私が持っているのよりも古かった。ということは、ある時点で日本聖書協会がこの箇所を訂正したということだ。かつては「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて」と訳されていたところが、「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」と訂正されたのだ。

祈祷会終了後、いつこの訂正が行われたかを知りたくて、インターネットで調べてみたところ、日本聖書協会のホームページにちゃんと書いてあった。1992年10月20日だそうである(聖書「新共同訳」訂正箇所一覧)。

つまり、この訂正が反映されている新共同訳聖書は、1993年版以降のものであると思われる(松戸小金原教会の本棚には1992年版と1994年版はあるが、1993年版がないので、今のところ確認できない)。

しかし、とても恥ずかしいことに、この訂正がなされていたことを、私は今日まで知らなかった。1992年10月20日といえば、東京神学大学大学院を修了した二年後であり、結婚した翌年であり、高知県南国市の教会で働いていた頃である、ということくらいしか思い浮かばない。まだ子どもはいなかった。それこそインターネットなど見たこともない頃に行われた訂正でもあったようなので、まさに「地方と都会の情報格差」ゆえの無知だっただけだと思いたい。そういうことにしておいてもらえれば、私が知らなかったことの言い訳が立つので、ありがたい話でもある。

しかし、どうだろう。私の見るかぎりこの訂正は、上記の日本聖書協会ホームページの「聖書「新共同訳」訂正個所一覧」の中でも、神学的な意味で際立って重要な訂正であるように感じられる。些細な字句修正のレベルではない。我々が子供の頃から教えこまれてきたこととは全く異なるシナリオを、新たに書きなおさなければならないかもしれない、それくらいの訂正ではないかと思われるのである。

新共同訳聖書よりも前の日本語訳聖書も調べてみた。手元にあるかぎりのものであるが、いわゆる文語訳(改譯)、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳などを開いてみた。その結果、これらの聖書翻訳のすべてに「使徒たち」(新改訳「弟子たち」)という、ギリシア語原典には(いかなる写本にも)無い言葉が補われていたことを、今日初めて知った。

外国語訳の聖書も開いてみた。これも私の手元にあるかぎりのものであるが、KJV、RSV、NIV、REB、モファット訳などの英語版や、ルター訳、メンゲ訳、ヴィルケンス訳などのドイツ語版や、現代のオランダ語版などを調べてみた。その結果、外国語訳の(私が所有している)どの聖書にも、「使徒たち」と特定する言葉はなく、三人称複数を表わす「彼/彼女ら」と書かれているだけであることが分かった。

つまり、現時点で言えそうなことは、こうだ。使徒言行録2・6に記されている「自分の故郷の言葉」を話していた人々を「使徒たち」(または「弟子たち」)であると特定して訳すのは「日本語訳聖書の固有な伝統」であった。その伝統はおそらく100年以上続いた。ところが、その100年以上の歴史を、日本聖書協会はある日突然あっさり書き換えた。説明なしに。私が知らないだけかもしれないが、この歴史的訂正についての詳細な説明はいまだかつて聞いたことがない。

日本聖書協会を非難しようとしているのではない。事実を知りたいだけである。私自身は「使徒たち」という語が削除された訂正版のほうが、ギリシア語原典に忠実になった分、とても素晴らしいと感じている。しかし、こう言うだけで済むだろうか。なにかとても大きな、根本的な変化が生じていないだろうか。

コンテクストを見ると、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(2・5)が、物音に驚いた「大勢の人が集まって来た」(2・6)とある。そのようにして彼らが集まった場所で「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(現在の訳)というのと、「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(過去の訳)というのとでは、読者のイメージすべきことは全く変わってくるのではないか。

現在の訳では、「自分の故郷の言葉」を話しているのは、もしかしたら「使徒たち」ではなく、「あらゆる国から帰って来た(つまり、外国暮らしをしていた)信心深いユダヤ人たち」だったかもしれないという理解の仕方くらいまでが、この個所の解釈の許容範囲内に入ってくるはずだ。そして、そのような解釈は、合理性の観点から見て、我々にとってより受け容れやすいものとなる。

しかし、私の知るかぎり、少なくとも日本の教会の多くは、二千年前の聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を、そのようなものとしては教えてこなかったはずである。聖霊に満たされた使徒たちが、それまで習ったこともなかったようないろんな国の言葉を突然話しはじめた。それこそが聖霊の働きの特殊性であるというふうに、奇跡的な異常な話として教えてきたはずである。

そして、そういう話を聞く人々の中に、「聖霊の働きは素晴らしい」と感動する人もいれば、「こんな異常な話は聞いていられない」と落胆する人もいたに違いない。

まだつい三時間ほど前に気づいたばかりのことなので、結論を出せる段階にはない。そして、この問題が本当にショックを受けるほどの重要な問題なのかどうかも、今はまだ分からない。ただの過剰反応かもしれないし、私の読み間違いかもしれない。

知りたいのは事実だけである。だれを責めるつもりもない。責められなければならないのは、私のほうかもしれないのだ。

従前の解釈が間違っていると言いたいのではない。日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を削除した理由は何かを知りたいのである。削除しても従前の解釈は不動であると判断したからか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか。



2011年5月3日火曜日

「文系の人たち、立ちあがれ」への追記

哲学を学んでおられる方には教える立場になっていただきたいと願うのですが、教師になろうと必死にがんばっても報われない(または、報われなかった)方がおられることは、よく分かっているつもりです。

どれだけがんばっても、あるいは、がんばればがんばるほど、その努力の結果として与えれるべきものがない、すなわち、「就職先(大学のポストですよね)が無い」という話に、どうしてもなってしまうのでしょう。それで、「哲学では食えない」、「やっても意味がない」、「もっとお金になる実学を」といったような話になっていき、最終的には出資者(多くの場合、親)や自分自身も哲学を敬遠しはじめることになるのかもしれません。

この点で哲学の運命は神学の運命に似ています。しかし、神学の場合は良くも悪しくも「教会の学」(に過ぎないもの)なので、教会が存続するかぎりは有用性を失うことはありません。

神学と教会は一蓮托生の関係にあります。神学は教会と共に栄えます。論理的に言えば、逆もありえます。神学は教会の衰退と共に衰退もしうる。しかし、教会というところは、そう簡単には倒れないんです。だから神学もそう簡単には倒れない。

神学が教会を生み出すという理屈はありませんが(私がそういう理屈を認めません)、その逆ならばもちろんあります。教会は神学を生み出します。教会は神学の宝庫です。より正確に言えば、教会的実践(Ecclesiastical Practices)こそが神学の苗床であり、揺籃であり、宝庫です。この地上に教会が存続するかぎり、神学は話題に事欠くことがありません。

しかし、哲学の場はあくまでも大学でしょう。私は岡山朝日高校で「哲学のさわり」くらいは学びましたが、高校は哲学の土俵ではないでしょう。あくまでも仮定の話ですが、もし大学から哲学が完全に締め出される日が来たら、まさに哲学的な意味での「存在理由」についてはともかく、哲学を自分の仕事にする人は誰もいなくなってしまうのかもしれないというのは、言い過ぎでしょうか。

しかしそれでも、哲学を真剣に学んだ人は、たとえ食えなくても哲学し続けてほしいし、哲学を教えてほしい。大学のポストがないとか、どの大学も呼んでくれないとかなら教会の青年たちに教えてほしい。教会は十分な(いや全く)お支払いはできませんが。筋道のある論理に基づく正当な問いを不断に投げかけてほしい。

「そもそも本を買うお金が無い」、「論文を書いても載せてくれる紀要がない」、「翻訳しても本を書いても、私のような経歴では誰も信用してくれないし、買ってもくれないだろう」、「学会に入会したいけど、推薦してくれる先輩がいない」、などなど。

そんなのはすべて不勉強の言い訳です。発表の場は自分で作り出せます。ブログを立ちあげればいいだけです。ツイッターでもいい。どんなにむなしくても、誰からの返事もなくても、そこで真剣に哲学し続けてほしい。

ちなみに、この「関口 康日記」をどれくらいの方々が読んでくださっているかについては「企業秘密」なのですが、一日あたりでいえば、毎週日曜日の礼拝出席者の二倍から三倍くらいの人数の方々だと思っていただいて結構です。

1997年1月に私は友人すべてを失う覚悟をしました。いや、おそらくそのとき実際に失いました。それと共に、人間関係上の信頼も一度は完全に失ったはずです。道徳的な問題などはなく、所属を日本基督教団から日本キリスト改革派教会に変えただけですが、全く前触れなしに行動しましたので、以前から私を知っていてくださった方々の中に、ちょっとくらいは驚いてくださった方がおられたかもしれない、という程度の話なのですが。

その直後にインターネットを始めました。ですから私のインターネット生活は、ゼロスタートというよりマイナススタートでした。私にとってインターネットは「釈明の道具」でした。あれから14年半経ちました。その間、私がやってきたことと言えば、メールを書き続け、ホームページを立ち上げ、ブログを書くことでした。本当にただそれだけでした。

私の神学はいまだに物になっていませんので、何の参考にも励ましにもならないことも分かっています。しかし、上記のとおり、神学は哲学とは違うところがあります。大学や神学校の教授ポストに就いていないからといって、そのこと自体は「神学の成功者」でないことの証左ではないのです。悔し紛れに「私こそが神学の成功者だ」と言いたいのではありません(悔しがってもいませんしね)。「神学を営みうる場は、大学や神学校にもありますが、教会にもあります」と言いたいだけです。

私の場合は何の成功者でもありませんが、笑顔にあふれる松戸小金原教会と共にあり、美しく優しい妻と、二人の子どもと共に幸せな人生を送っていると、それだけは言える。

私は教会と家族を愛していますので、愛する人たちと共に喜んでいられることを「人生の成功」と呼んでよいなら、その意味でだけ、私は(今のところ)成功者です。

ブルーマウンテンとレーズンスコーン

日曜日がフル稼働の牧師たちの多くにとって、月曜日は一応、休みの日ということになっています。私もそうです。

しかし、実際には、「お、ヒマそうだね」と、いろんな予定を無理やり押し込んで来る人たちがいるので、休めたためしがありません。とくに牧師会とかするなよと思う。葬儀等の緊急事態は全く別の話です。

また、「休む」と言っても、何をしていいか分からない感じでもある。

私にはサーフィンの趣味があるわけではないし、山登りには耐えがたいものさえ感じます。海水浴はまあまあ好きですが、松戸は海が近いわけではないし(海の話はしにくくなりました)、山も近くない。もちろん好きな人は時間をかけてでも、どこにだって行くのでしょうけど。

何もすることがなくて、それで何をするかといえば、だから先週のように、ブログに毒舌を吐くくらいのことしかできない。ものすごく精神衛生上よろしくないことを、分かっていながら、あえてする。

吐き出して、それですっきりするわけではないのです。もやもや感はいくらか緩和され、言いたいことが論理的によりシャープになった分だけ、目つきは一層悪くなったんじゃないですかね。自分の目つきは、自分ではどうだか分かりませんが。

「休み」と言っても、家には誰もいないんです。今日は世間は平日ですしね。子どもたちは学校だし、妻(保育士)は児童養護施設と保育園の仕事です。

子どもたちも、高二(男)と中二(女)になって部活の忙しさが増し、帰宅時間が遅い、遅い。青春を満喫しているのでしょうが、そんなの知らん知らん。勝手にやってくれ。なんにも言いたくないです。楽しそうにしているのを叱りつけるほど野暮な親ではありません。黙って見守るしか、なすすべがないじゃありませんか。

ですからね、もうね、お父さんは、ひとりで寂しく楽しむのです。

先週は「ブルーマンデーのポイズンツイート(暗鬱月曜日の猛毒独白)」でしたが、今日は「ブルーマウンテンとレーズンスコーン」で行こうと思い立ちました。

でも、コーヒー豆ひくの面倒くさいし、レーズンスコーンって、どこに売ってんのか分かりません。

なので、妄想の世界だけのことにしておきます。コーヒーもスコーンも、飲んだこと食べたことにしておきます。

ああ、空しい。「一切は空である」。


2011年5月2日月曜日

文系の人たち、立ちあがれ

米・コロンビア大学の1-2年生必修コアカリキュラムは「西洋古典常識」徹底履修 毎週古典文学・思想の課題図書を読み、議論し、レポートを書く: 天漢日乗

年齢も関係あるのでしょうか、こういう記事に感動します。「哲学書なんてどこでも売ってるんだから、そんなもん自分で読めばいいだろ」と言われればそれまでですが、「本は本来読めないもの」(佐々木中氏)です。良い教師が必要です。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(新約聖書 使徒言行録8・31)。

岡山朝日高校の「倫理・社会」の影響は、かなり受けました。当時のノートは今でも宝物です。「西洋古典常識」の手がかりを得たことは間違いありません。

大学時代の哲学教師は近藤勝彦先生(現東京神学大学学長)でした。近藤先生は当時、一般教養ポストにおられました。カリキュラムの関係で、近藤先生から神学を教わったことはなく、哲学とドイツ語を教わりました。「洞窟のたとえ」や「窓のないモナド」の話は忘れられません。

東京にいた間、古書店という古書店をとにかく探し回ったのは、神学書ではなく、青帯の岩波文庫でした。プラトンからハイデガーまでは揃えました。

でも、あれが読めない。歯が立たない。翻訳のせいにしても仕方がありませんが、やはり翻訳が悪いんです。

山岡洋一氏出現以後の新しい翻訳理論に基づく、岩波文庫(青帯)の全面改訳を期待します。近代日本は「翻訳文化」なのですから、本気を出せば朝飯前のはずです。

日本をあきらめるつもりなどは、さらさらありません。しかし、そう遠くもない未来に「一家に一台、ガイガーカウンターを」と言われそうな時代の只中でこそ、「読みうる良い翻訳による西洋古典常識」が必要だと考えるのは、私だけでしょうか。

大節電時代にこそ、蛍の光・窓の雪を頼りに哲学書をひたすら読みふける。ロマンティックな発想だなどと思われたくないです。絶望の闇を打ち破るための苦闘です。

「牧師なら『聖書を読め』と言え」と言われそうですが、聖書も「西洋古典常識」です。哲学を読めば、聖書と神学を相対化できる。いま自分は何をどのように信じているかを客観視できる。それに、哲学の基礎も得られていない人に、神学の三位一体論やサクラメント論が理解できるとは考えにくいです。

それにつけても、欲しいのは良い教師です。文系の人たち、立ちあがれ。文学部、復活せよ。

2011年5月1日日曜日

存在そのものがマナー違反で悪かったね(笑)

ビジネスマナーの常識、「宗教・政治・野球の話題は避けること」は、幼少の頃から知っていましたが、宗教と政治は私には避けがたいものでしたので、黙っているのが心理的に辛かったことを忘れられません。

因果関係は不明ですが、小学生の頃から高校を卒業するまで、吃音に悩んでいました。「ひとまえで話す」などとんでもないことでした。しかし、牧師になると決めて神学校に入ったころから、ぴたりとおさまったのです。医師に診てもらったわけではありませんが、思いと言葉が一致したことで吃音から解放されたのではないかと、勝手に解釈しています。

宗教と政治の話ができない場所からは、私は退場しなければなりません。そのことは了解しています。自由に語りあえる場所を、常に新たに作り出していくだけです。「口封じには応じない」と思っているだけです。牧師の口を封じるのは至難の業だと思います。

2011年4月29日金曜日

「東日本大震災後の」神学を模索する(2)

今回の大震災における、互いに矛盾する側面をもつ「津波被災地」と「原発被災地」との関係をどのようにとらえるかで、日本の神学者たちもかなり苦労しておられることが分かった。身近な友人たちも悩んでいる。

どちらも「キリスト論的に」とらえることが悪いとは思わない。しかし、それで果たして問題が解けるかに疑問がある。私は所属教派の「緊急支援」のあり方を必死で考えているが、もっぱらキリスト論だけで考えていくと結局「現地で死ぬ」を帰結せざるをえない感じである。

「関口が逃げたがっている話」ではない。これは誤解されたくない。今回の放射能汚染を過小評価するつもりは全くないが、過大評価も危険である。千葉の松戸あたりにいて、逃げるだ何だとガタガタ言う段階ではない。しかし、逃げなければならない方々はすでに大勢おられる。福島の計画避難対象者の移住や「空き家探し」は、国民みんなで協力して、なんとしてでも実現しなければならないであろう。

キリスト教の神学が「キリスト論」を放棄することは自滅行為だ。わたしたちの目指す理想としては「キリスト論に根差しつつ、キリスト論から自由にされる」というくらいが、ちょうど良い塩梅であろう。1950年代から60年代にかけてのバルト批判の「隠れた」急先鋒であったファン・ルーラーは、まさにこの問いの中で三位一体論、そして聖霊論を志向した人である。

「キリスト論に根差しつつ、キリスト論から自由にされる」論理のために三位一体論が有効である理由は、三位一体論がキリスト論を含みつつキリスト論よりも大きな枠組みを提供することによって、キリストを(父・子・聖霊の一パートにすぎない存在とみなして)相対化するからである。

バルトも三位一体論を強調した。しかし、バルトの場合はキリストと聖霊の関係を「客観」と「主観」の関係でとらえたので、コインの表と裏の関係のような話になり、両者(キリストと聖霊)の違いを説明できなかった、というか、するつもりがなかった。

バルトを批判したファン・ルーラーにとって三位一体論を強調する意図は、キリスト論と聖霊論の「違い」を強調することであった。しかし、だからといって、ファン・ルーラーは「聖霊派」だったとか「聖霊主義者」だったとかいう話ではない。彼はキリスト論の限界を言いたかっただけである。

ファン・ルーラーが指摘したキリスト論と聖霊論の「違い」における重要な点は、キリストは「我々の身代わりに死んでくださった」が、聖霊には「身代わり」の論理はそぐわないということだった。

「聖霊なる神が我々の身代わりに十字架の上で死んでくださったゆえに、我々は救われた」と教えるキリスト教はない。聖霊とは我々の「身代わり」ではなく、我々に「内住し」(inhabitatio)、我々の中で、我々と共に、我々の体と心とを用いて、地上において現実的に働かれる神であると、ファン・ルーラーは教えた。

もう一つ重要な「違い」は、キリストの人間性(肉=σαρχ)には自立的な人格はないが(そうでなければキリストの二性一人格論は保持できないゆえに)、聖霊が内住している人間は「二性二人格」になっていることであると、ファン・ルーラーは教えた。それは、我々の存在の中に大文字のSpiritと小文字のspiritが共存している状態である。

いま書いたことはスコラ的な神学議論(またの名を屁理屈という)かもしれないが、そうであるということをファン・ルーラー自身も自覚していた。彼が言いたかったことは、キリスト論だけで神学のすべてを語り尽くすことには論理的な限界があるということだけであって、それ以上のことではなかった。

そしてファン・ルーラーは、ティリッヒのような人が「大文字のSpiritが人間の中に入ると小文字のspiritは人間の中から飛び出す。これを脱自(エクスタシー)と呼ぶ」と説明したような聖霊論に反対し(ティリッヒの聖霊論については彼の『組織神学』第三巻、土居真俊訳、新教出版社、1984年、142ページ以下参照)、両者(大文字のSpiritと小文字のspirit)の共存関係を主張した。

聖霊の内住(inhabitatio Spiritus sancti)によって大文字のSpiritと小文字のspiritが共存することで、どうなるか。我々は絶えず葛藤し、苦悩することになるのだと、ファン・ルーラーは諭した。彼の神学は少しもエクスタティックではない。「非陶酔的な」神学である。

ファン・ルーラーの神学は、単なる「喜びの神学」ではなかった。「苦しみの神学」でもあった。たとえば次の言葉を読めば、彼の心を理解していただけるはずである。

「我々は、真理が我々自身によって共に十分に完成することのために、存在し、働き、苦しまなければならないのである。」 
��A.A.ファン・ルーラー「真理は未だ已まず(1956年)」『著作集』(Verzameld Werk)第一巻収録)

キリスト論に固有な「身代わり」(代理贖罪)の思想は、殉教ならまだしも、殉職や殉国(戦死、特攻など)にも転用されやすく危険な面があるように思えてならない。高橋哲哉氏の問いかけは正当である(高橋哲也著『殉教と殉国と信仰と』白澤社、2010年)。

私自身は、「フクシマ50」の方々の勇敢さをたたえることに躊躇は無い。しかし、だからといって、彼らを「我々の身代わり」とみなして見殺しにしてはならないとも思う。線量計を離さず安全に作業してほしい。身の危険を感じたら躊躇なく交代してほしいと、願っている。

安全地帯で頭と指先だけを動かしてブログを書いているだけのヤツみたいに思われるのは、つらいものである。「そうではない!」と叫びたい思いだが、今は黙して、心で寄り添い、祈るばかりである。

��まだつづく)

2011年4月27日水曜日

「東日本大震災後の」神学を模索する(1)

大震災以降、ほとんど手をつけられずにいることがある。ファン・ルーラーの翻訳と研究である。12年以上も続けてきたのに。どうも気持ちがのらない。地震と津波と原発事故の悪連鎖、そして今も続く(大きな)余震。環境のせいにしたくないのだが、集中力が途切れる。意識が飛ぶ。困ったなあ、もう。

今の事態の中でこそファン・ルーラーの神学が有効性を発揮することは、分かっているのだ。

4月25日(月)の「東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会」でも議論になったことは、「近づくベクトル」と「遠ざかるベクトル」との関係である。前者は現地への訪問と支援、後者は放射能の影響圏外への避難である。

「遠ざかるベクトル」などと書くと、現地で苦しんでいる人々を見捨てて逃げるつもりかなどと噛みつかれかねないが、そういう意味じゃない。我々が遠ざかるべきは、人ではなく、(人命を危険にさらすレベルの)放射能だろう。論点をずらされると非常に困るし、話を先に進められない。

「遠ざかるベクトル」の中で教会が考えるべきことは、はっきりとは分からないが、もし可能ならば、計画避難の対象者のための「空き家探し」などのお手伝いをすることではないかと、そのようなことくらいしか思いつかないが、内容は要するにそういうことだ。現地の方々を見捨てるとかそういう話ではない。

今回、もし原発の問題が絡んでいなければ、「遠ざかるベクトル」などを念頭に置く必要は全く無かった。事柄は一つの方向だけで済んだ。神学的に言えば「キリスト論的集中の神学」をもって、迷いなく突き進むことができたであろう。「イエス・キリストは逃げない。我々も逃げない」と説教すればそれで済んだ。

「イエス・キリストは逃げない。我々も逃げない」と説教されれば、教会員は逃げられない。逃げたら裏切り者扱いになり、キリスト処刑前のシモン・ペトロやイスカリオテのユダと同列だ。あるいは、使徒パウロの第一次宣教旅行の同行者ヨハネ・マルコのように伝道をやめて逃げ帰った逃亡者と同じ扱いだ。

説教者は「そんなことを言った憶えは無い」としらばっくれるかもしれないが、教会員は説教者の思惑通りに説教を聞きはしない。言外の言葉を「聞いて」いる。「イエス・キリストは逃げない」と言われれば、あの十字架の場面以外の何を思い起こせばよいのか。「逃げた」のは誰かを教会員は知っているのだ。

しかし、放射能は、ペトロやユダや使徒たちが逃げ出した「十字架」と同じだろうか。放射能は、ヨハネ・マルコが放棄した「伝道の労苦」だろうか。なんでもかんでも一緒くたにされすぎていないだろうか。一か月前の大震災直後の現実の中で「イエス・キリストは逃げない」という言葉に接したとき、私は心底、愕然とした。

��つづく)


2011年4月21日木曜日

宮城県内の日本キリスト改革派教会を問安しました

20110419watari4月18日(月)から20日(水)までの三日間かけて、宮城県内の日本キリスト改革派教会を問安しました。

問安団メンバーは、4月16日(土)に行なわれた東関東中会2011年度第一回定期会において組織された「東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会」(委員長・三川栄二/日本キリスト改革派稲毛海岸教会牧師、東関東中会議長)の代表者4名と、北米キリスト改革派教会(CRC)日本伝道会の宣教師3名との、計7名でした。

今回我々が問安した教会は、到着した順に、白石契約教会、亘理教会、仙台教会、東仙台教会、仙台めぐみ教会、石巻教会、仙台カナン教会、北中山教会でした。仙台栄光教会は、残念ながらお訪ねできませんでした。

つい先ほど松戸に帰って来たばかりですので、今はまだ詳細な報告はできませんが、被害のあまりの大きさに言葉を失うばかりでした。

今回の問安の主な目的は教会を訪問することでしたが、それと同時に、教会の所在地域の被災状況を直接見る機会を与えられました。

この写真はほんの一例ですが、亘理教会に近い宮城県山元町で、4月19日(火)に撮影したものです。写っているのは、3月11日(金)の巨大地震の直後(15時50分頃)に発生した津波によって落下して「仰向け」になっている、家屋の二階部分(?)です。

今回の調査結果を東関東中会に持ち帰り、「わたしたちに何ができるのか」を特別委員会と共に一生懸命考えます。被災された方々の健康と安全と将来が守られるよう、お祈りしています。

2011年4月18日月曜日

「放射能がうつる」報道の基本性格

「放射能がうつる」報道は、

��1)誰かが現場を直接見てそうなったわけではなく

��2)「そういうことがあったらしい」という噂を

��3)「匿名の電話」で

��4)「名前が明らかになっていない市議」に伝え

��5)教育委員会が「事実関係は不明」としながら各学校に通知した。

��6)被害者は船橋の学校には入らず地元に帰ったので今は何も確認できない。

��7)市議が関わっているなら他の避難場所を紹介できたはずなのにしていない。

��8)来週の市議選に利用されているのではないかと地元の感想がある

と言われています。