2011年4月29日金曜日

「東日本大震災後の」神学を模索する(2)

今回の大震災における、互いに矛盾する側面をもつ「津波被災地」と「原発被災地」との関係をどのようにとらえるかで、日本の神学者たちもかなり苦労しておられることが分かった。身近な友人たちも悩んでいる。

どちらも「キリスト論的に」とらえることが悪いとは思わない。しかし、それで果たして問題が解けるかに疑問がある。私は所属教派の「緊急支援」のあり方を必死で考えているが、もっぱらキリスト論だけで考えていくと結局「現地で死ぬ」を帰結せざるをえない感じである。

「関口が逃げたがっている話」ではない。これは誤解されたくない。今回の放射能汚染を過小評価するつもりは全くないが、過大評価も危険である。千葉の松戸あたりにいて、逃げるだ何だとガタガタ言う段階ではない。しかし、逃げなければならない方々はすでに大勢おられる。福島の計画避難対象者の移住や「空き家探し」は、国民みんなで協力して、なんとしてでも実現しなければならないであろう。

キリスト教の神学が「キリスト論」を放棄することは自滅行為だ。わたしたちの目指す理想としては「キリスト論に根差しつつ、キリスト論から自由にされる」というくらいが、ちょうど良い塩梅であろう。1950年代から60年代にかけてのバルト批判の「隠れた」急先鋒であったファン・ルーラーは、まさにこの問いの中で三位一体論、そして聖霊論を志向した人である。

「キリスト論に根差しつつ、キリスト論から自由にされる」論理のために三位一体論が有効である理由は、三位一体論がキリスト論を含みつつキリスト論よりも大きな枠組みを提供することによって、キリストを(父・子・聖霊の一パートにすぎない存在とみなして)相対化するからである。

バルトも三位一体論を強調した。しかし、バルトの場合はキリストと聖霊の関係を「客観」と「主観」の関係でとらえたので、コインの表と裏の関係のような話になり、両者(キリストと聖霊)の違いを説明できなかった、というか、するつもりがなかった。

バルトを批判したファン・ルーラーにとって三位一体論を強調する意図は、キリスト論と聖霊論の「違い」を強調することであった。しかし、だからといって、ファン・ルーラーは「聖霊派」だったとか「聖霊主義者」だったとかいう話ではない。彼はキリスト論の限界を言いたかっただけである。

ファン・ルーラーが指摘したキリスト論と聖霊論の「違い」における重要な点は、キリストは「我々の身代わりに死んでくださった」が、聖霊には「身代わり」の論理はそぐわないということだった。

「聖霊なる神が我々の身代わりに十字架の上で死んでくださったゆえに、我々は救われた」と教えるキリスト教はない。聖霊とは我々の「身代わり」ではなく、我々に「内住し」(inhabitatio)、我々の中で、我々と共に、我々の体と心とを用いて、地上において現実的に働かれる神であると、ファン・ルーラーは教えた。

もう一つ重要な「違い」は、キリストの人間性(肉=σαρχ)には自立的な人格はないが(そうでなければキリストの二性一人格論は保持できないゆえに)、聖霊が内住している人間は「二性二人格」になっていることであると、ファン・ルーラーは教えた。それは、我々の存在の中に大文字のSpiritと小文字のspiritが共存している状態である。

いま書いたことはスコラ的な神学議論(またの名を屁理屈という)かもしれないが、そうであるということをファン・ルーラー自身も自覚していた。彼が言いたかったことは、キリスト論だけで神学のすべてを語り尽くすことには論理的な限界があるということだけであって、それ以上のことではなかった。

そしてファン・ルーラーは、ティリッヒのような人が「大文字のSpiritが人間の中に入ると小文字のspiritは人間の中から飛び出す。これを脱自(エクスタシー)と呼ぶ」と説明したような聖霊論に反対し(ティリッヒの聖霊論については彼の『組織神学』第三巻、土居真俊訳、新教出版社、1984年、142ページ以下参照)、両者(大文字のSpiritと小文字のspirit)の共存関係を主張した。

聖霊の内住(inhabitatio Spiritus sancti)によって大文字のSpiritと小文字のspiritが共存することで、どうなるか。我々は絶えず葛藤し、苦悩することになるのだと、ファン・ルーラーは諭した。彼の神学は少しもエクスタティックではない。「非陶酔的な」神学である。

ファン・ルーラーの神学は、単なる「喜びの神学」ではなかった。「苦しみの神学」でもあった。たとえば次の言葉を読めば、彼の心を理解していただけるはずである。

「我々は、真理が我々自身によって共に十分に完成することのために、存在し、働き、苦しまなければならないのである。」 
��A.A.ファン・ルーラー「真理は未だ已まず(1956年)」『著作集』(Verzameld Werk)第一巻収録)

キリスト論に固有な「身代わり」(代理贖罪)の思想は、殉教ならまだしも、殉職や殉国(戦死、特攻など)にも転用されやすく危険な面があるように思えてならない。高橋哲哉氏の問いかけは正当である(高橋哲也著『殉教と殉国と信仰と』白澤社、2010年)。

私自身は、「フクシマ50」の方々の勇敢さをたたえることに躊躇は無い。しかし、だからといって、彼らを「我々の身代わり」とみなして見殺しにしてはならないとも思う。線量計を離さず安全に作業してほしい。身の危険を感じたら躊躇なく交代してほしいと、願っている。

安全地帯で頭と指先だけを動かしてブログを書いているだけのヤツみたいに思われるのは、つらいものである。「そうではない!」と叫びたい思いだが、今は黙して、心で寄り添い、祈るばかりである。

��まだつづく)