2011年3月22日火曜日

苛立つ日々です

仙台や福島への物資の輸送に奔走してくださっているアメリカ人宣教師たちの腰の軽さにはもちろん感謝もしていますが、本国教会から退避命令が出たため帰国せざるをえなかった宣教師もいます。ただちに現地に駆けつけた人たちは勇敢で、行かない者たちは臆病、という図式が描かれることを私は恐れています。

民放各局が「東日本大震災」と括って事実上もっぱら東北地方に視聴者の目を向けようとしている中で、ひとりNHKだけは「東北関東大震災」と括ることで「関東」も十分な意味で被災地であることを訴え続けてくれているのは有難いことです。

関心や実際の支援に優先順位が生じることは致し方ないとしても、そもそも関心そのものが向けられないとか、「あの大変な方々と比べたらお前らは大したことないだろ」的に扱われたりするのは、とても寂しいことです。

泉谷しげる氏が「報道は映像災害コンテストをやるな!」と吠えたことを知りました。毒ありすぎとは思いましたが、この方の炯眼にちょっと感動しました。

実際、関東全域はいつ停電になるか分からないし、東京湾岸地区は液状化や地盤沈下がひどいし、茨城は断水が続いているし、松戸あたりまでガソリンは無いし、交通機関は麻痺し、日用品や日常食(パン、牛乳など)さえ入手困難です。弱音など吐きたくありませんが、動きたくてもまともに動けないんです。

うちの場合、教会と牧師館が別々で(向かい合っていますが)、教会のほうにはテレビが無いので、余震と原発事故と放射線量の情報を得るために、ほとんど牧師館に引きこもり、テレビとパソコンを睨んでいるしかない状況で、ひたすら歯がゆいかぎりです。イライライライライライラ(激怒)。

ちばテレビで連日のように新浦安や稲毛周辺の「銭湯情報」が流れている状況なんですよ、今まさに。ACの「ポポポポーン」も発狂しそうなくらい聞いたので(集中豪雨と呼ばれているそうですね)、ここ数日はなるべくNHKかちばテレビを見ることにしています。

というわけで、ここ数日ほど愛する妻子から冷たい目で見られたことは、いまだかつてないと思うくらいの悲惨な状況です。「牧師って、こういうときに、家に引きこもってテレビとパソコン見る仕事なの?」とか言われ。「ち、ちがうんだよー!」と叫べば叫ぶほど泥沼にはまり。

原発の心配があったので後ろ向きのことばかり書いてしまったことを、お許しください。東北地方の教会と地域社会が一日も早く復興しますように、そのためにボランティアの方々の働きが祝福されますように、お祈りしています。

状況がなかなか整わず自分の持ち場を離れることができないゆえに現地に行けずにいることを苦にしている人は(私を含めて)たくさんいると思いますが、それぞれが「今、自分にできることは何か」を考えていますので、その気持ちは分かってほしいと願っています。

2011年3月21日月曜日

自称「専門家」の耐えがたい軽さ

福島原発の情報の中に、自分は専門的研究をし、専門的仕事に就いていたという観点から「素人による憶測」を揶揄する思い上がった文章を見かけます。見れば、たかだか16年の経験知。牧師の中にもたまにいますが、神学校に6年在学し牧師を10年したくらいで「専門家」を名乗れば失笑を買うだけです。

それに、往々にして、自称「専門家」こそ、あるいは「メーカー(のメンバーだった人)」こそが、同業者庇い合いをしますし、事実の隠ぺいや火消しに躍起になるものです。自称「専門家」だからこそ信用できない、という見方はできませんか。

マスコミの言うことを鵜呑みにするのは間違いだくらい素人でも知っていることです。しかし、マスコミが突っ込まなければ逃げ切りを図ろうとする東電幹部や政治家もいるでしょう。マスコミを小馬鹿にする人にはマスコミの追及を恐れている人も多い。べつにマスコミの肩を持ちたいわけではありませんが。

今の福島原発を怖ろしいと感じている人の中には、マスコミが煽っているから、ではなく、何が起こっているかが分からないから気色悪いと感じている人は多い。どういう研究をなさった方か知らないが、専門家でない連中は常にマスコミに踊らされているだけだと言いたげな上から目線が恐ろしく耐えがたい。

それに、なんだかこの人が書いていることを読むと、今の福島原発はオートマティックに大丈夫だと言っているかのようですが、ふざけるなと言いたい。まさに今、死の覚悟をして復旧作業や放水作業に当たっている人たちの努力なしにも、大丈夫なんですか。

こういう人の書いていることをそれこそ鵜呑みにして、「ほら、もうすっかり大丈夫だ。放射能など恐くない。こんなに大丈夫なのに、どうしてクリスチャンのボランティアはどんどん福島や仙台に入らないのか。我々はとっくに入ったよ。臆病だなあ」と言いたげな人の怖ろしいほどの軽さが耐えがたいです。

ボランティアの足を引っ張りたいわけではありませんので、念のため。復興を願う思いは多くの人と同じです。私の言葉を冷静に読んでいただけば、真意を理解していただけると信じています。

2011年3月20日日曜日

神のために共に働く


コリントの信徒への手紙一3・1~9

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

今日の個所にパウロが書いていることはずいぶん厳しいことだ、と言わざるをえません。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができなかった」(1節a)と書いています。「できなかった」とありますのは、しようとしたが不可能だったという意味になるでしょう。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節b)。「キリストとの関係では乳飲み子」とは、言い方を換えれば「まるで赤ちゃんのようなキリスト者」ということです。

このこと自体は批判的な意味であるとは限りません。わたしたちがキリスト教信仰を学び、体得し、自分のものにするために時間がかかります。そのこと自体は責められるべきことではないからです。もしそのこと自体が責められねばならないことであるならば、教会に通い始めたばかり、聖書を学び始めたばかりの人たちは、年がら年中、先輩たちから責められ続けなければならないことになりますが、そのような教会に通いたいと思う人はいないでしょう。

パウロ自身も、責めるつもりで、こういうことを書いているとは限りません。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(2節a)とあります。これは明らかに、パウロがかつてコリントの町で初めて伝道したときの様子を描いています。早い話、まだキリスト教信仰について初心者であったあなたがたに初心者向けの話をしたと言っているだけです。赤ちゃんには赤ちゃん向けの食べ物をたべさせたと言っているだけです。それはいわば当然のことです。逆に、もしそうしなかったとしたら、初心者に対して難しい話をするだけだったとしたら、パウロは伝道者として失格です。難しいことを難しく語るのは簡単なことです。難しいことを噛み砕いて易しく語ることが難しいのです。

しかし、ここから先にパウロが書いていることの中には批判的な内容が含まれていると言わざるをえません。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです」(2節b~3節)。なぜこれが批判的な内容なのか。あなたがたはちっとも成長していないではないかと言っているのと同じだからです。あなたがたは相変わらず赤ちゃんのままである。年齢や体格の話ではありません。あなたがたの信仰が成長していない。キリスト教信仰を体得するために時間がかかるということなら分かる。しかし、時間はずいぶん経っているではないか。それなのに、なぜあなたがたの信仰は成長していないのか。ここから先は責めているのです。

しかし、たしかにパウロはコリントの教会の人たちを責めてはいますけれども、嫌っているわけでも憎んでいるわけでもありません。むしろ心から愛しています。彼らを心から愛しているからこそ、彼らの信仰がちっとも成長しないことが歯がゆいのです。今まで、あなたがたは何年教会に通ったのですか。あなたがたは教会で何を聞いてきたのですか。何を学んできたのですか。

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)とパウロは書いています。「肉の人」とは、パウロ自身の言葉で言い換えれば「自然の人」(2・14)です。つまり、それは「世の知恵」(1・20)や「自分の知恵」(1・21)や「人の知恵」(2・13)、あるいは「人の内にある霊」(2・11)で神を知ろうとする人のことです。しかし、そうすることはできないとパウロは考えています。神を知るために必要なのは「神の知恵」(1・21)であり、「宣教という愚かな手段」(1・21)であり、「神からの霊」(2・12)であり、「神の霊」(2・14)です。つまりそれは聖霊のことです。ここで先週私が申し上げたことを思い起こしていただけば、わたしたち人間、しかも信仰をもって生きている信仰者としての人間存在の中には「神の霊」と「人の霊」とが共存しているとパウロは考えています。しかし、共存してはいても、一方の力が他方の力よりも勝っているという状態があると言えます。いわば両者が天秤にかけられた状態です。これでお分かりいただけることは、パウロの言う「肉の人」とは、その人の中に共存している「神の霊」と「人の霊」のうちの後者としての「人の霊」のほうが「神の霊」よりも勝っている状態の人を指しているということです。

それはどういうことでしょうか。理屈っぽく説明すればいま申し上げたようなことになりますが、わたしたち自身の体験に基づいていえば、さほど難しいことではありません。わたしたちは、今日もそうであるように、とにかく毎週日曜日に教会に集まって聖書を学び、キリスト教を学んでいます。しかしこのあと、わたしたちは自分の家に帰っていきます。そして、日曜日の午後から土曜日までは、それぞれの家や職場や地域社会の中で生活します。もちろんわたしたちは教会にいないときも聖書や信仰を学ぶかもしれません。しかし、ある意味でそれ以上に「世の知恵」や「自分の知恵」や「人の知恵」を学んだり、身につけたりします。そのこと自体もわたしたちにとっては当然のことであり、誰かから責められなければならないことではありません。しかし問題は、そのようにしてわたしたちの心の中に、ある意味で共存してはいますが、別の言い方をすればごちゃ混ぜになっている、二つの知恵の関係はどうなっているのかということです。

たとえば、わたしたちの多くは毎日、新聞を読み、テレビを見るでしょう。とくに先週あたりは、夜遅くまでテレビを見ていたという人は少なくないでしょう。とくにテレビの場合は、何度も何度も同じ場面を映し、何度も何度も同じことを語ります。いつの間にかわたしたちは、テレビに映される場面やテレビの人が言っていることが真実そのもの、事実そのもののように教え込まれていくものがあります。しかし、これはあえて言わなくてもいいことかもしれませんが、テレビの人がわたしたちに聖書の教えとは何か、キリスト教信仰とは何かを教えてくれるわけではありません。しかし、そのようなことをわたしたちはほとんど気にすることもなく、特にそういうことを期待もせず、テレビを見続け、新聞を読み続けるでしょう。

それで、わたしたちは日曜日を迎え、このように教会に集まってきます。そして、はっと思い出すように聖書を開き、その中に書いてあることを読む。しかし、いま聖書を読んでいるわたしたちの心の中には、先週見たテレビの場面や人の声、新聞記事や読んだ本の内容がはっきりと残っています。おそらくこのような状態を、パウロならば「神の霊」と「人の霊」がわたしたちの中に共存している状態だと呼ぶでしょう。しかしそれは、ごちゃ混ぜの状態でもあるのです。

ですから問題は、わたしたち自身の、このごちゃ混ぜ状態の心の中で、「神の霊」が勝っているか、それとも「人の霊」が勝っているか、どちらなのだ、ということになるのです。ここで皆さんにぜひ安心していただきたいことは、ごちゃ混ぜ状態であること自体は問題ではないということです。もし今、皆さんが私の話を聞いてくださりながら別のことを考えておられるとしても、それは当然のことであり、仕方がないことです。わたしたちは絶えず、気が散った状態なのです。

昨日もこの説教を準備している最中に地震が起こりました。ぐらぐらっと揺れるたびに、気が散ります。あるいはまた、聖書をじっくり読まなければと机の前に座っている間に、何通メールが届き、何度携帯電話が鳴ったことでしょう。数えきれないほどでした。こういうときは開き直るしかないのです。わたしたちの心の中は、聖書のみことばと信仰の教えだけで埋め尽くされているわけではありません。ありとあらゆることが、ごちゃ混ぜになっています。そのことをわたしたちは、自分自身で受け入れ、認めるしかないのです。

しかし、そのことを受け入れ、認めたうえで、なおかつわたしたちが目指さなければならないことがあるとしたら、パウロから「キリストとの関係では乳飲み子」と言われなければならない状態から一歩でも二歩でも前進することです。キリスト者として成熟することです。「神の霊」と「神の知恵」が、わたしたちの心の中で、百パーセントにはならなくても大きな位置を占めるようになることです。

コリントの教会は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言っては、内部で分裂していました。パウロはコリント教会の初代牧師、アポロは二代目の牧師でした。松戸小金原教会の澤谷牧師と私との関係だと言えば、もっとはっきり分かるでしょう。幸いなことに、「わたしは澤谷先生に」「わたしは関口に」という話を私は一度も聞いたことがありません。どちらもつくべき人間ではないからですが、それは、この教会が信仰的に成熟している証拠でもあるのです。そのようなことを言う教会は、パウロから「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)と責められなければなりません。そのような人が一人もおられないことを、私は主に感謝しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)とパウロは書いています。これはもう、ほとんど説明の必要がないほど分かりやすい言葉でしょう。それでもあえて付け加えるとしたら、教師たちにも得意分野と不得意分野があるということです。植えるのが得意な人と、水を注ぐのが得意な人がいます。これは特に宣教師たちからよく聞く話です。宣教師の中には、人集めは得意だが、教会の組織や制度を整えていくのは苦手だと言う人がいます。そちらは日本人の牧師に任せます、と。それぞれの得意分野を生かして役割分担するしかないでしょう。そうすることこそが、「神のために力を合わせて働くこと」(9節)です。

しかし、教会では、誰が集めたとか、誰が育てたとか、誰が組織や制度を整えたかは問題ではないのです。だれの手柄だとか、そういう話はうんざりなのです。すべては神御自身のみわざなのです。そのことがはっきり分かるようになるために、信仰の成熟が必要なのです。

(2011年3月20日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年3月17日木曜日

心よりお見舞い申し上げます

ファン・ルーラー研究会各位

先週金曜日から始まった東北関東大震災、津波被害、原子力発電所事故という最悪の連鎖に直面し、大きな被害を受けた東北地方と関東地方の方々のために主にある慰めをお祈りすると共に、現在皆さまが安全なところで元気にしておられることを願っております。

震災発生後から各方面への安否確認や連絡を取る仕事が増え、みなさまへの連絡が遅くなってしまいました。そのことを、心からお詫びいたします。

本研究会の方々のなかで、あるいは関係者の方々のなかで、東北関東大震災で被害を受けられた方はおられませんでしょうか。研究会として何かできそうなことがあるようでしたら、お知らせいただけますとうれしいです。

私の教会や家族は無事でしたが、東京湾岸地区にある日本キリスト改革派教会の諸教会(新浦安教会、稲毛海岸教会)の周辺は、液状化現象で酷いことになっています。皆さまのお祈りに加えていただけますとうれしいです。

もう二日前になりますが、アメリカのファン・ルーラー研究者ポール・フリーズ先生(dr. Paul Roy Fries)から私宛に、安否を気遣ってくださるメールが届きました(以下引用)。

2011/3/14 :
> I have been concerned for you. If you are able please send a brief message
> concerning your wellbeing. Paul R. Fries

これは私信として頂きましたが、ファン・ルーラー研究会代表としての私に送っていただいたものですので(それ以外の可能性はありません)、研究会の皆さまに謹んでご紹介いたします。

まだ余震が続いています。震源の違う地震も多発しています。原子力発電所事故の状況も緊迫しています。そのような中ですので、皆さまどうかくれぐれもご自愛くださいますようお願いいたします。

研究会の皆さまのうえに、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが豊かにありますように。

2011年3月16日

関口 康

2011年3月15日火曜日

被災地にボランティアに行こうとしている方々へ

ことさらに不安を煽る意図などは一切ありませんが、やや批判を恐れながら申せば、今回の事態は、阪神大震災のときとは性質が違うものがある、と感じています。

大きな違いは、第一に、阪神のときにはほとんどの人が使っていなかったインターネット(携帯電話、スマートフォン含む)が今は多くの人に使われていること、そして第二に、今回は原子力発電所がすでに「爆発」(首相発言)している、ということです。

私は、阪神大震災の反省と教訓は最大限に生かされなければならないと確信している一人ですが、当時の経験に基づく判断をはるかに上回るものが今回求められているのではないかと愚考いたします。いま書いたことをもっとはっきり言い直せば、「阪神大震災のときはこうだったから、今回もきっとこうだ」という判断だけでは済まないものがあるのではないかということです。

今はインターネットがあるということは、誤った情報だけでなくさまざまな情報を選ぶことができるという意味では大きな利点であると思います。いま首都圏(私が住んでいる地域も含む)で起こっている物資の買い占めは、言ってみれば小さなパニックの一種と言えなくもありませんが、ガソリンスタンドの前に長蛇であっても整然と並んで、自分の給油の順番を待っている人たちの表情は比較的落ち着いていますので、「パニック」とまでは言えないのではないか。

それより心配なのは、やはり原発事故です。首相が言っていることは、20キロ圏内は全面退避、30キロ圏内は自宅待機ですが、それは、31キロくらいまでなら東京方面から自動車を走らせて近づいても大丈夫だ、という意味ではないと思います。30キロ圏内の人々が今すぐ自動車に乗って逃げなければならないほどの影響は今のところ無いので、どうか落ち着いてください、パニックを起こさないでくださいという意味だと思います。つまりそれは、直接の被災地におられる方々への「落ち着いて行動してください」という呼びかけなのであって、直接の被災地にいない者たちへの「近づいてもゼンゼン平気だよ」というメッセージではないのだと思います。

そして、言うまでも無いことですが、放射性物質というものは、空気や風で拡散されるものです。それは、おそらく同心円的に、不可逆的に「広がって行く」ものです。被災地にボランティアに行きたい気持ちは私にも強くありますが、一人でできることは少ない(ほとんどない)わけですから、行くなら一人ではなく、おそらく必ず多くの人と共に行く。その際、私は牧師なので、何らかの責任者となって行く。しかしその結果、その人たちを放射性物質にさらす危険度の高い地域にあえて近づけることになる。それはできないと、私は考えています。

せめて原発事故が完全に鎮静化し、首相による「安全宣言」がなされるまで、外部から(不用意に)近づかないほうがよいのではないでしょうか。しかし、「それこそがイエスさまの示された愛なのだ」ということであれば、黙って見守るしかありません。それはそれで尊重します。

2011年3月14日月曜日

できることを、できるうちに!

直接の被災地に近ければ近いほど、ネットも電話も通じず、通信手段がない現状です。

松戸でさえ、金曜日から土曜日にかけては電話が使えませんでした。今日も計画停電の実施が二転三転し(これを書いている時点ではまだ実施されていない)、いつなんどき電気が(つまり、このパソコンが)閉ざされるかが分からない状況です。

通信手段を確保できている者たちが、それを確保できているうちに、自分たちになしうるあらゆる手段を講じることが重要だと、自分に言い聞かせているところです。

その意味では、直接の被災地から遠ければ遠いほど通信手段の遮断の危険性が少ないわけですから、その方々の役割は十分あるということです。だれ一人、被災地から遠くにいるからといって「何かしたいが、何もできない」と苦にすることは、もはや無いのだと思います。

本日は、日本キリスト改革派教会の国内教会関係委員会から、本教会の被災状況を、友好関係にある日本キリスト教会、日本長老教会、北米改革派教会日本中会にお知らせしました。

また、先ほどは、大会常任書記長の風間義信先生から、ハンガリー改革派教会から支援の打診があり、同教会の代表者が現地視察のために来日してくださる意思があると、教えていただきました。明日は、執事活動委員会と議長書記団の一部が対策委員会を開くことになりました。

具体的な支援体制が確立しつつあります。

今のところ元気な者たちまでが病んでしまっては、助けを求めている人たちを助けることもできなくなるのだと思っています。

そればかりか、自分までが病んでしまっては自分まで誰かの助けが必要になってしまい、助ける役目の人たちの負担をますます増やすことになってしまいます。

昨日の夜あたりから、テレビが(明らかに視聴率競争を背景にして)これでもかこれでもかと深刻な映像を繰り返し流し始めていることを、とても深刻に受け止めています。

「テレビのスイッチを切る勇気を持とう」などと書くと怒られるかもしれませんが、これから本格的に始まる復興支援のためにこそ、体力を十分に蓄えようではありませんか。


2011年3月13日日曜日

神の恵みを知る


コリントの信徒への手紙一2・10~16

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

わたしたちはいま、大きな悲しみと不安を抱いています。大きな地震で多くの犠牲者が出ました。事態はまだ流動的です。今日は予定していた小会・執事会をとりやめることにしました。それぞれの家庭に帰り、ご家族と共に今の事態を見守り、互いに励まし合っていただきたく願っています。

こういう日、こういうときに、私は何を語ればよいのでしょうか。今日開いていただいている個所にパウロが書いていることは、こうです。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかにしてくださいました」(10節)。ここで「そのこと」とは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であり、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」(7節)のことです。それは何なのかといえば、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(2節)のことです。つまりそれは、救い主イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架につけられて死んでくださることによって、わたしたちの罪が赦され、救われたこと、つまり、世界の始まる前から神御自身がわたしたちを罪の中から救い出すために計画してくださっていた、救いのみわざのことです。そのようなことを、神はわたしたちに「“霊”によって」、つまり、聖霊をわたしたちの心の中に豊かに注いでくださることによって明らかにしてくださったのだと、パウロは書いています。

ここでパウロが教えていることは、やや否定的な言い方をお許しいただけば、神の御心というものは、神御自身がわたしたちの心を開いてくださるまではわたしたちには隠されているということです。もっとはっきり言えば、そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだということです。神が何を考えておられるかは人間には分からないものだということです。もっと分かればよいのに、と思わなくはありません。神はなぜわたしたちにさまざまな試練を与えられるのでしょうか。わたしたちはなぜ、これほどまでに辛い思いを味わわなければならないのでしょうか。神がおられるはずなのに。そうであるということをわたしたちは信じているのに。それなのにどうしてと問わない日は無いと思うほど、わたしたちの現実は厳しく険しいものです。

わたしたちにとって、神の御心というものがもっと分かりやすいものであり、だれでも受け入れることができるようなものであるならもっとよいはずなのに、現実はそうではない。そのことをパウロも知っています。パウロは単なる楽観主義者ではありません。この世の現実の厳しさや険しさを熟知している人でもあります。しかしパウロは単なる悲観主義者でもありません。なぜそのことが分かるのか。先ほどは否定的な言い方をしましたが、同じことを肯定的に言いなおせばお分かりいただけることです。そもそも神の御心というものはわたしたちには分からないものだ。神の御心とは、わたしたちに隠されている神の神秘である。それはそのとおりです。神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださることがわたしたちの救いであるとか言われても、そういうことは誰にでもすぐに納得できる話であるわけではない。百歩譲ってそのようなこと(イエス・キリストの十字架がわたしたちの救いであること)が事実であるとしても、そのようなことがわたしたちの直面している現実とどういう関係にあるのだろうか。そのように問うたことがない人など一人もいないのだと思います。

しかし、パウロが言おうとしていることは、否定的なことではなく、肯定的なことです。そのようなさっぱり分からないことを、神という方はわたしたちの心の中に聖霊を豊かに注いでくださることによって、なんとかして分からせてくださろうとする方でもあるということです。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(10~12節)と書かれているとおりです。

しかしそれでは、わたしたちの心の中に聖霊が豊かに注がれるとはもっと具体的に言えばどういうことでしょうか。今お読みした個所に書かれている言葉でいいなおせば、聖霊とは「神の霊」であり、「神からの霊」です。そのような霊を、わたしたちは「人の内にある霊」、あるいは「世の霊」とは別のものとして神から与えられているのだとパウロは書いています。それは、神を信じる者たちの心の中には「神の霊」ないし「神からの霊」と「人の霊」ないし「世の霊」とが共存しているということです。わたしたちの心の中には、神が豊かに注いでくださった「神の霊」としての聖霊があるのです。しかし、それと同時に、神を信じる前から持っていたさまざまな考えや感情や判断としての「人の霊」ないし「世の霊」もあるのです。

それでどうなるのかというと、要するにわたしたちは悩むということです。わたしたちの心の中で「神の霊」と「人の霊」がけんかするのです。両者はたえず葛藤するのです。どれほど厳しく険しい現実を前にしても、わたしたちはその現実を単純な見方や単純な言葉でとらえることでは納得も満足もできない。悩みながら。苦しみながら。しかしそれでもわたしたちは、その現実へときちんと向き合い、とことんまで悩みぬき、苦しみぬくのです。

厳しく険しい出来事が起こったとき、それについて悩むことも葛藤することもなく、単純な見方や単純な言葉でとらえるとは、どういうことか。それはたとえば、乱暴で一方的で一面的な結論を出すことです。「神がおられるのに、なぜこのようなことが起こったのか」と問うことは無い。単純な結論の出し方の一つは「神はいない。この世界に神の救いなどありえない。だからこのような悲惨なことが起こった」というものです。このような貫き方で満足できる人がいるのかどうかは分かりません。しかし、実際には多くの人が神に救いを求めています。それがどのような神なのかは、多くの人々にとっては問題ではないのかもしれません。しかし、それでも、多くの人は祈るはずです。思わず手をあわせ、思わず目をつぶり、「助けてください、お願いします」と祈るのです。神も救いも、そのようなものはどこにも見当たらないではないかと思わず叫びたくなるような悲惨な現実を前にしても、そのときなお人は祈るのです。「神はいない」という単純で乱暴な結論では、人は満足できないのです。

しかしまた、ここで私は考え込んでしまいます。「神はいない」という結論で満足できる人はいないと、いま言ったばかりです。しかしその一方でわたしたちがよく知っているもう一つの事実があるということについても申し上げざるをえません。それは、悲惨な出来事を前にして祈る多くの人たちが、だからといって、その祈りをどなたにささげているのか、どのような方に向かって祈っているのかということまで知りたいということまでは、必ずしも願っているわけではないということです。「助けてください、お願いします」と多くの人は祈ります。その意味で祈りとは普遍的なものです。しかし、その多くの人が、必ずしも「神」の存在そのものに関心があるわけではないのです。今の苦しみから逃れたい、絶望の淵から遠ざかりたいと願う気持ちは真実です。しかし、だれがこのわたしを助けてくださるのか、その「だれ」が神なのか人なのか、あるいは神である場合はどういう神なのかということについてまでは、それほど深く知りたいと願っているわけではないのです。

今申し上げていることを、私はだれかを責めたり批判したりするつもりで言っているのではありません。私自身の心の中にもパウロが書いている意味での「人の内にある霊」ないし「世の霊」があるからです。そういう思いは私にもある。ですから深く共感することができます。よいたとえではないことを知りつつ申せば、お腹がすいている人に必要なものは食事なのだと思います。あるいは、お金に困っている人に必要なものはお金。いまお腹がすいている人を前にして、ごはんをたべていただくことを後回しにして、ただ聖書の教えだけをこんこんと説教することで良い結果を生みだすことは、ほとんどないでしょう。「助けてください、お願いします」と祈っている人を前にして、その人を具体的に助けることをほとんどしないでおいて、「助けてくださるのは神なのだから、まずはその神を勉強してください。まずは聖書とキリスト教を勉強してください。そうすれば、その中で教えられている神があなたを助けてくださるでしょう」と言い出す牧師がいたら、その牧師はおそらく失格者です。助けを求めているその人は「もう結構です。別のところで助けてもらいます」と、必ず言うでしょう。どう考えてもそういうのは順序が逆なのです。

しかし、今日の話も、ここで終わってはならないと思っています。今すぐに具体的な助けを必要としている人を前にして、その人の必要をただちに満たすことが重要であるということに深く共感することが間違いであるとは思いません。しかし、そこでなお、もう一歩先に進んでほしいと願うこと、あなたが思わず手を合わせ、目をつぶって祈りはじめるその方は「神」という方であり、「神」というその方は憐み深い方であり、かつ愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために十字架につけてくださったほどにわたしたちとこの世界を心から愛してくださっている方であるということを知っていただきたいと願うことを、躊躇したり遠慮したりすることも、わたしたちには不可能な話であるということを、申し上げなければなりません。

それが信仰なのだと思います。わたしたちはイエスさまが十字架のうえで叫ばれた言葉を知っています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」。神の御子が、父なる神の前で、ほとんど絶望に近い言葉を叫ぶ。しかしこれは不信仰ではありません。イエスさまは不信仰の極みに立たれたわけではありません。むしろこれこそ最大の信頼の表現です。イエス・キリストは御自身の体と心に、世界のすべての人々が究極的に悩み問いを引き受けてくださいました。神を信じる者だからこそ問う問いを自ら問うてくださったのです(神を信じない人は「なぜ神は?」とは問いません)。イエスさまがこのように問うてくださったからこそ、わたしたちにはなお生きていく希望があります。このイエスさまがわたしたちと共にいてくださるからです。

(2011年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)

2011年3月12日土曜日

「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名されたようですね

東日本の皆様、大丈夫ですか?松戸はとりあえず大丈夫ですが、地震のあまりの大きさにびっくりしました。まだちょっと揺れています。期末試験の最中の高1の長男が早く帰って来たので、妻と長男と私の三人で、遅い昼食をたべていた最中の地震でした(長女はつい先ほど中学校から帰ってきました)。まだ余震が続いています。状況は流動的です。被害が最小限に食い止められるよう祈るばかりです。(16:40)

2011年3月8日火曜日

Ustream「ファン・ルーラーについて(5)」



主著『説教学』(原著1971年、日本語版1977年)で知られるドイツの実践神学者ルードルフ・ボーレンに決定的な影響を与えたファン・ルーラーの論文「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」(1961年)の解説を始めました。(55分00秒)

2011年2月27日日曜日

カール・バルトの予定論の勘所

カール・バルトの予定論の勘所はどこにあるのか、というご質問をいただきました。

バルトの予定論は、一言でなど決して語り尽くせない、きわめて複合的な要素をもっています。しかしそれでもあえて一言でまとめるとしたら、バルトの予定論は、父なる神がイエス・キリストを十字架上での「滅び」へと定めることによってすべての人間を「救い」へと定めたとするものです。これをバルトは初めから、ウェストミンスター信仰告白の予定論、あるいはローレン・ボエトナーの予定論に対抗する意図をもって考案しました。

バルトのこの教説に立って実際に説教として語ると「感動させられる」要素がありますので、20世紀の多くの人を魅了してきました。ウェストミンスター信仰告白の擁護者側からは、バルトの予定論には普遍救済説(万人救済説)への傾斜があると(当然ながら)指摘されてきました。

福音派の人々のうち特にアルミニウス主義的な人々は、バルトの予定論を批判することができないかもしれません。また、アルミニウス主義的でない福音派の人であっても、たとえばエドウィン・パーマーの本などを持ち出されて、「改革派予定論の立場から言わせていただけば、伝道説教の中で『イエス・キリストはすべての人のために十字架についてくださったのです』と語ることは不可能なことなのです」などと諭された日には、ほとんど絶望的な思いになるはずです。

事実、私の知るかぎり、日本でも多くの福音派の人やホーリネス系の人が「予定論の素晴らしさゆえに」バルトの支持者になりました。それほどに、バルトの予定論は独特の魅力を持っています。今の私はバルトの予定論には一ミリも賛成できません。ウェストミンスター信仰告白の予定論に全く立っています。しかし、だからといってローレン・ボエトナーの『改革派教会の予定論』やエドウィン・パーマーの『カルヴィニズムの五特質』のような説明でよいとは思っていません。パーマーの本などは、予定論の解説としては現時点で最悪の本であると思っています。

過去の改革派神学における予定論の抱えていた多くの問題点は、日本キリスト改革派教会創立50周年宣言「予定についての信仰の宣言」によって克服されたと私自身は考えています。しかし、50周年宣言で予定論の真理をくみ尽くせているとは思っていません。永遠の謎の教理であることには変わりありません。

50周年宣言の「予定論」の勘所は、キリスト論的視点を中心にして考え抜いた「慰めと希望に満ちた予定論」です。それはそれでものすごく大切なことであり、今日的に説得力のある、完成度の高い予定論に仕上がっていると思っています。しかし、強いていえば「慰め」の(やや過度の)強調が、若干のセンチメンタリズムを招き入れ過ぎているかもしれません。これからの我々の教派の課題であると、私一人で考えています。