2010年9月6日月曜日

ドイツ人の「フォン」とオランダ人の「ファン」

神学者ファン・ルーラーのことを「ルーラー」とか「リューラー」とだけ呼ぶ方がおられますが、おそらくドイツの神学が得意な方ではないかと推察します。ドイツ人名の場合には、たとえばAdolf von Harnack(アドルフ・フォン・ハルナック)が「フォン」抜きの「ハルナック」と表記されるといった例は珍しくないからです。もっとも私は、旧約学者フォン・ラートのことを「ラート」とだけ記している例を、まだ見たことがありませんけれども。



しかし、私の知るかぎり、オランダ語で書かれたどの論文を見ても、「ファン」(van)抜きの「ルーラー」(Ruler)だけでこの神学者の名前を記している例は見当たりません。必ず、Van Rulerまたはvan Rulerと記されています。



これはもちろんファン・ルーラーだけの話ではありません。先日南アフリカで行われたFIFAワールドカップサッカーのテレビ中継は私も食い入るように見ましたが、オランダチームの中に「ファン」さんがたくさんいたことを憶えておられる方は多いでしょう。ファン・デル・ファールト、ファン・ペルシー、ファン・ボンメル、ファン・ブロンクホルスト・・・。アナウンサーたちは彼らの「ファン」を省略しませんでした。また、新聞等での表記においては、「ファン」のあとに必ず「・」(中黒)がついていました。



なぜドイツ人は「フォン」を略すことが多いのにオランダ人は「ファン」を略さないのか、その理由を私は知りませんが、ともかくこのような事情であることは事実のようです。



とはいえ、オランダの有名な画家Vincent van Goghのことだけは、オランダ語の発音どおりに「フィンセント・ファン・ホッホ」と書いても、日本では、誰のことだか分かってもらえないでしょう。数年前、インターネットでオランダ語のラジオ放送を聞いていたとき、繰り返し「ファン・ホッホ」という言葉が聞きとれるのですが、「あ、ゴッホか!」と気づくまでに、しばらくの時間が必要でした。



2010年8月27日金曜日

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』についての新しい情報

残暑お見舞い申し上げます。皆様、酷暑の中、いかがお過ごしでしょうか。

さて、かき氷の代わりにはなりませんが、「たまには神学の話題もいかがですか」という感じで、少しだけお付き合いいただけるとうれしいです。

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』がこれまで第1巻から第3巻まで刊行されましたが、第4巻がなかなか出ないので、どうしたことかと思っていました。

第1巻のタイトルが『神学の本質』、第2巻は『啓示と聖書』、第3巻は『神、創造、人間、罪』と続き、第4巻はいよいよ神学の本丸としての『キリスト、聖霊、救済』に突入することになっていましたので、今か今かと心待ちにしていました。

ところが、このたび発表されたことは、な、なんと、第4巻は「二分冊」(IVA/IVB)になり、今年2010年12月に刊行予定であるとのこと。そのことが出版社の公式ホームページで明らかにされました。

そのことは、ここ(↓)に書いています。
http://www.boekencentrum.nl/shop_details.php?productId=23198

もっとも、そのあとに続く第5巻も第6巻も、それぞれ「二分冊」にするという計画を、出版社はかなり前から発表していました。ちなみに、第5巻のタイトルは『神の国、宣教、教会』、第6巻は『政治、国家とセオクラシー、教会職制とエキュメニズム』です。

さらに計画では、著作集全体は全9巻で構成されることになっており、第7巻は『対話集(カトリックとプロテスタント、など)』、第8巻は『説教と黙想』、第9巻は『索引と文庫目録』になるとのこと。とくに注目すべきことは、計画の出発の段階では「本著作集には説教や黙想は含めない」と発表されていた説教や黙想が収録されることになったことです。読者としてはうれしい話ですが、編集者たちとしては出版計画の二転三転で大変な状態だろうと想像できます。

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』(Dr. A. A. van Ruler Verzameld Werk)の新しい構成

 第一巻 神学の本質*
 第二巻 啓示と聖書*
 第三巻 神、創造、人間、罪*
 第四巻 キリスト、聖霊、救済(上・下)
 第五巻 神の国、宣教、教会(上・下)
 第六巻 政治、国家とセオクラシー、教会職制とエキュメニズム(上・下)
 第七巻 対話集(カトリックとプロテスタント、など)
 第八巻 説教と黙想
 第九巻 索引と文庫目録         (
*既刊)

以上の動きに関して総じて言えることは、出版計画の最初の段階よりも巻数がだんだん増えてきているということです。

そのことを(いくらか期待値を含めて)別の言葉で言い直せば、この著作集の出版事業そのものが順調に進展しており、売れ行きなども(おそらく)好調であり、出版資金的にも潤沢になってきたために、計画当初は「今どきこんなものが売れるのかい?」と半信半疑であった著作集刊行会の人々の心も改められ、収録論文の数を増やすことができそうなので、これも入れよう、あれも入れようと、先行きの見通しが開けてきたからに違いないということです。

だからこそ巻数そのものが増え、全9巻の予定ながら、そのうち3巻もが「二分冊化」され、すべての冊数は12冊にも膨れ上がってきたわけです。しかも、各冊のページ数の平均は約500ページ強ですから、ごく大雑把に数えても500×12=6000ページ強の「巨大な著作集」(!)が数年後には完成することになるということです。

もっともオランダには、20世紀のプロテスタント神学者の「巨大な著作集」としてウプケ・ノールトマンス著作集(Oepke Noordmans Verzamelde Werken)とミスコッテ著作集(Verzameld Werk van K. H. Miskotte)という二大著作集がありましたので、ファン・ルーラーのそれは「遅刻してきた」ものです。しかし、質的・内容的に言っても、量的・規模的に見ても、話題性・国際性から言っても、ファン・ルーラーの著作集が三つの巨大著作集の中では最大級のものになるであろうことは、今からはっきりと断言できます。

さて、このようにオランダの状況が相当流動的な様相であることが分かりましたので、わたしたち日本のファン・ルーラー研究会としてもかなりしっかりと腰をすえて、じっくり取り組む他は無いだろうと私自身は考えている次第です。

しかしまた、オランダ語版著作集がすべて刊行され終わったときが、わたしたちが翻訳のために動き出すときであると考えるとしたら、それはいくらなんでも遅すぎるわけですから、現時点で我々が手にしている文献に基づいての翻訳を可能なかぎり進めておく必要があると思っています。

この記事の趣旨は、短く言えば「ファン・ルーラー著作集がオランダで売れているようですよ!わたしたちもがんばりましょうね!」ということです。

私も少しずつですが、とにかくコツコツ続けています。先日『季刊 教会』誌に前半部分を掲載していただいたファン・ケウレン博士の論文(ファン・ルーラーとカール・バルトの神学との関係について)の後半部分の翻訳が完了し、その原稿を10日ほど前に編集部に送りました。後半部分もお読みいただけますとうれしいです。

かなりのギャンブル性を感じるが、やるかぎりは正々堂々と

「あなたは牧師なのだから、みんなが読んでいるブログで政治の話は控えるように」と実家の母から釘を刺されたことがありますので、“控えめに”書きます。



民主党の代表選にO氏が出馬することにしたとのこと。現首相のK氏が「それは良かった」とコメントしたようですが、私も今のところ同感です。



私の予想では、代表選にはO氏が勝ってしまうのではないか、従って、どのみち短期間でしょうけれども、我が国の歴史に「O首相時代」なるものが発生してしまうことになるのではないかと感じていますが、そのときには「民主党支持」の旗をすみやかに降ろし、強く抵抗するのみです。抵抗の理由はいろいろありますが、最も大きなことは、カネと政治の問題が全く解決していないことです。



しかし、もし「O首相時代」が少しでも長く続いてしまうことになるようでしたら、そのときには、現民主党の「反O氏グループ」は大挙して民主党を出て真の新党を結成すべきです。本来、「古いぶどう酒」と「新しいぶどう酒」は混ぜないほうがよかったのです。古いぶどう酒を入れる「古い革袋」と新しいぶどう酒を入れる「新しい革袋」は、それぞれ分けるべきだったのです。おそらく間違いなく、H前首相の人間的弱さがO氏の強さへの依存を求め、今の政局の混乱の原因となったのでしょう。H前首相の弱さは理解できないものではありませんが、ため息ばかりが出てきます。



しかしまた、以上の予想は外れることを願っています。民主党の現体制が維持されることを期待しています。ともかく、この道は、民主党が、いや日本政治が、遅かれ早かれ、どのみち通らなければならない道だったようですから、やるかぎりは正々堂々とした戦いがなされることを求めます。



2010年8月10日火曜日

心からお願いいたします

実は皆様にお願いがあります。恥をしのんで書きます。



昨年(2009年)5月14日の日記に書きましたとおり、その前日に大事なノートパソコンを落として壊してしまいました。



その事故によって、そのノートパソコンの中だけに入っていた2007年10月から2008年12月までの一年三ヶ月間のメールがバックアップできておらず、その期間中に私からどなたかに送信したものも、また私宛にどなたかから送っていただいたものも、完全に消滅しました。



今の状態は、私にとって「大変危険」です。その期間の「記憶」が私の脳内から消滅している状態にほぼ等しいと感じています。つまり、その部分だけ「記憶喪失」に陥っているということです。ちなみに、それ以前のメールと、それ以後のメールについては、すべて保管しております。



しかし、何をどうあがいても、もはやどうすることもできないと諦めていました。が、先ほど一つの名案を思いつきました。



その名案とは上記期間中に私からメールを受け取ってくださった方々には「私のメールを送り返してくださいませんか」と、また、同じ期間中に私にメールを送ってくださった方には「もう一度送っていただけませんでしょうか」と、それぞれお願いしてみましょうということです。



これを読んでくださった方のうち、上記に該当する方、ぜひご協力くださいますようお願いいたします。



その際、できましたら、該当メールのタイムスタンプ(パソコンが自動的に付ける日付や時刻)が変わらないように送っていただけますと助かります。



当方のミスによる失態をどうかお許しください。本当に申し訳ございません。



2010年8月9日



関口 康



メールアドレス: ysekiguchi@nifty.com



2010年7月24日土曜日

これは「無題」にしておきます

わりと最近、複数の人から「森永卓郎さんに似ている」と言われて、「ついに来たか」と、なんとなくショックを受けました。



とはいえ、早晩そういう話になるだろうといくらか予測してはいましたし、たしかによく似ているようですので、「ショックを受けた」は冗談が過ぎるかもしれません。



二年くらい前には、「カンニングの竹山(さん)に似ている」と、ある人から言われました。そのときは「似てないよっ!」と即座に反論しましたが、あとでよく見ると、なるほどよく似ているらしいことが分かりました。



お二人と私のあいだに共通点があるとしたら、肥っていること、眼鏡をかけていること、年の割に髪の毛が黒くてフサフサしていること、語り口がどこかしら皮肉っぽいこと、いつも何か企んでいるような(欲が深そうな)目をしていること、くらいでしょうか。日本の道を歩けばどこでも出会うタイプの、普通の中年おじさんです。



話はそれだけ。オチの無い話、でした。おしまい!



2010年7月23日金曜日

カルヴァンからカントへ(6)

ところで、カントの『たんなる理性の限界内の宗教』(原題Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)の英語版のタイトルはReligion within the Boundaries of Mere Reasonとなっていますが、従来「たんなる理性」などと訳されてきたところは、できれば「裸の理性」(blossen Vernunft)と呼びたいところです(「裸の理性の行方」参照)。



一方、Grenzeをboundaryと訳した英語版の訳者は卓見の持ち主だと思いました。これは「限界」という何処となくネガティヴな響きを持つ表現よりもむしろ「境界」もしくは「境界線」ではないでしょうか。



こうしてみると、本書のタイトルは「裸の理性の境界線の枠内で了解される宗教」ではないだろうかと考えてみました。あるいは、もっと短くして「裸の理性が及ぶかぎりの宗教」とか「裸の理性でとらえうるかぎりの宗教」でもよいかもしれない。



「裸の理性」とは、純粋理論理性でも純粋実践理性でもない、まさに「たんなる」理性であり、それはただの理性、普通の理性、通常の理性のことを指しているわけですから、そのとおり訳せば「普通の理性の範囲内の宗教」でもよいかもしれない。



このあたりのことも、いつかカント研究の専門家にお伺いしてみたいところです。



このカント的な意味での「普通の理性の範囲内の宗教」(Die Religion innnerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)を構築していくことの積極的な意義については、今日では多くの言葉を必要としていないように思われます。



「宗教には理性を越える要素がある」というのは、なるほど我々にとって当然すぎる言い分ではあります。しかしまた、それと同時に、「我々が生まれつき持っている通常の理性で判断しうる範囲をあまりにも越えすぎないように、多少なりとも抑制すること」は、教会の者たちにとっても必要なことであり、大切なことでもあると、私には思われるのです。



たとえば、神学をあまりにも過度に「グノーシス化」させないために、普通の理性(blossen Vernunft)を十分に機能させることが必要です。宗教家たちが、自分自身はまだ実際に行ったことも見たこともあるわけではない「死後の世界」やら「霊の世界」やらについて、生きている間にあまりにも多くのことを語りすぎるペテンに陥らないようにするために、ある程度の理性的な自己規制を行うことは、決して間違っていません。



2010年7月22日木曜日

カルヴァンからカントへ(5)

「カルヴァンとカント」あるいは「カルヴァンからカントへ」という問題の究明作業は資料不足のため頓挫しました。何か新しい情報が加われば何とかなりそうですが、今のところ手も足も出ません。



私が知りたいのは「カントの視点から見たカルヴァンとカルヴァン主義者のイメージ」です。直接的な言及でも見つかればいちばんはっきりするだろうと思い、とりあえず探してみましたが、三つの批判書(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)の中にカルヴァンの名前は見つかりません。カントの宗教論の一つである『たんなる理性の限界内の宗教』の英語版(ケンブリッジ版、1998年)に目を通してみましたが、やはりカルヴァンは登場しませんでした。



私は理想社版や岩波書店版の『カント全集』を持っていません。あれを用いることができないのを悔しく思っています。岩波文庫や中央公論社「世界の名著」のカントなどはすべて学生時代に買い、いまでも持っています。それらすべてに目を通しても、今のところカルヴァンの名前は見つかりません。『カント全集』にはカルヴァンが登場するのでしょうか。私には分かりません。



そもそも――これはカントの文体を研究している方々にご教示いただきたい点なのですが――カントの文章には人名への言及そのものが少ないようにも見えました。直接言及されている人名といえば、聖書に登場する人物(アブラハム、ダビデ、イエス、パウロなど)と、あとはセネカ、ルソー、スピノザ、デカルト、ヒューム、ニュートンくらいです。



「○○氏はこう言った。△△氏はこう書いている」とひたすら際限なく他者からの引用文で埋め尽くされているようなたぐいの書物よりははるかに好感が持てますが、いま私が抱いているような関心事を解明したい人々にとっては人名や引用元が明示されているほうが好都合です。



この点――カントの文章に人名への言及が少ないと思われる点――は多くのカント研究者たちを泣かしてきたのではないだろうかと勝手に空想してみましたが、真相はいかがでしょうか。



ともかく現況は以上のとおりです。ほとんど進展はありません。恥ずかしい報告しかできません。



しかし、まだ一箇所ですが、ほのかな光の窓を見つけました。それは『たんなる理性の限界内の宗教』の第7章です。この章のタイトルを英語版から直訳調で引き写しますと、「《教会的な》信仰から純粋に《宗教的な》信仰の独占的支配への漸進的移行こそが神の国の到来である」(The gradual transition of ecclesiastical faith toward the exclusive dominion of pure religious faith is the coming of the Kingdom of God)となります。



この章が扱っている問題はタイトルどおり「神の国」に関することですが、これはきわめて神学的、教義学的なテーマです。とてもうれしいことに、カントはこの文脈でいわゆる「予定論」(praedestinatio)に関する諸課題を取り上げています。



英語版をじっくり読み込む時間がないのが残念です。しかし、もしそれがカルヴァンとカルヴァン主義者の予定論を(ほんの少しでも)意識した上で書かれた部分であることが立証できた場合には、「カルヴァンとカント」を論じるための足がかりになるでしょう。



2010年7月7日水曜日

カルヴァンからカントへ(4)

「カルヴァンとデカルト」あるいは「カルヴァンからデカルトへ」というテーマであれば、歴史的・文献的に明確に立証しうる道筋がありますので、カルヴァンとカントの関係よりも、はるかに論じやすいものがあります。



もちろんそれは、カルヴァン(Jean Calvin [1509-1564])自身とデカルト(René Descartes [1596-1650])自身との間に直接的な対面や交流の接点があったという意味ではありません。そういう事実はありません。しかし、16世紀後半に生まれ、17世紀の主にオランダで活躍した改革派神学者ヒスベルトゥス・フーティウス(ヴォエティウス)(Gisbertus Voetius [1589-1676])と彼の神学的同僚たちは、カルヴァンの予定論の解釈をめぐってアルミニウス主義者たちと対決する一方で、当時の西ヨーロッパの流行思想であったデカルト哲学とその追従者との対決を余儀なくされていたということが歴史的に知られています。17世紀の(とりわけオランダの)カルヴァン主義者たちがデカルト排斥のために尽力したことは歴史的に明白な事実です。そのことを今日のオランダのキリスト者たちは記憶しており、反省もしており、デカルトの名誉回復をはかったりもしています。今のヨーロッパは、いつまでも17世紀のままではないのです。



ですから、私の問いにも今まさに書いたことの応用編である面があります。今の問題意識の中に「カントと同時代に生きた18世紀のカルヴァン主義者たちが、カントをどう見ていたか」という点が含まれていないわけではありません。しかし、私の主たる関心はそちらのほうではなく、むしろそれとは正反対の問い、すなわち「カントが彼の同時代のカルヴァン主義者たちをどう見ていたか」です。



カントがカルヴァンとカルヴァン主義者の著作を全く読まなかったとか、少しも影響を受けなかったということは、状況的には考えにくいことです。当然読んだでしょう。知ってもいたでしょう。ポジティヴな意味でかネガティヴな意味でかはともかく、影響も当然受けたでしょう。しかし、そのことを我々はカント自身が書いたものに基づいて文献的に実証しないかぎり、憶測以上のことを語ることができません。



「カントがカルヴァンとカルヴァン主義者のことをどう見ていたか」。この問いの背後で私が抱いている思いや動機や目的については、まだはっきりとは書かないでおきますが、私にとっては今日的に非常に深刻なものと感じられることです。



カルヴァンからカントへ(3)

今週は久しぶりに驚きと感動の毎日を過ごしています。インマヌエル・カントに熱中するのは二年半ぶりのことです。



今日の最大の驚きは、カント『純粋理性批判』の古い英語版の訳者、ジョン・ミラー・ドウ・ミークルジョン(John Miller Dow Meiklejohn [1830-1902])に関することです。



ミークルジョンがその英語版を出版したのは、なんと彼が25歳のときだった!カルヴァンが『キリスト教綱要』の初版を出版した年齢(27歳)よりも若い!そのことが分かって、思わず「ひゃあ」と声を上げてしまいました。



探してみたら、ミークルジョンの伝記がすぐに見つかりました。その中に「1993年に出版された新しい英語版『純粋理性批判』は、なお基本的に〔1855年に出版された〕ミークルジョン版を土台にしている」と記されていることも、ミークルジョンがいかに若いうちから優れた人物であったかを示す一例といえるでしょう。



J. M. D. ミークルジョンの伝記(↓)http://www.ed.uiuc.edu/faculty/westbury/paradigm/vol2/Graves.doc



ところで、この際書きとめておきたいことは、私が「カルヴァンとカント」の「何」を知りたがっているのかということです。それは次の一言で表現できることです。私が知りたがっていることは、「カントがカルヴァンとカルヴァン主義者の何を、またはどこを嫌ったのか」です。「嫌う」の点を問うことがなぜ両者の「ポジティヴな」関係を探ることになるのかについては説明が必要ですが、それはそのうち書くことにします。



よく知られているとおり、幼少期のカントは、とくに母親の影響で「敬虔主義のキリスト教」の道を歩んでいました。ところが、学生時代に体験したらしき何らかの出来事を経て、カントは教会に通わなくなってしまいました。その後、彼の「啓蒙」の哲学は、教会と宗教の支配下からの解放を要求するものとなりました。



このようなカントのよく知られた伝記を聞く人たちの多くは、彼の母親の信仰が「敬虔主義的なるもの」であったと聞くとすぐに、ドイツのいわゆるルター派敬虔主義の神学者たちの名前だけを思い浮かべるでしょう。なぜなら、カントは確かにドイツ人であったし、彼の母親が通っていた教会はドイツのルター派の教会であったことも確かだからです。



しかし、事情はそれほど単純ではないのではないかと、私は非常に疑っているのです。たとえばカントは『純粋理性批判』においてライプニッツの合理主義とヒュームの経験主義を「綜合」(または「統合」)したと言われるわけですが、ここですでに、ライプニッツはドイツ人ですが、ヒュームはスコットランド人です。カントに影響を与えたのは、ドイツ人だけではなく国際的でした。しかも、ヒュームの時代のスコットランドは、17世紀のウェストミンスター神学者会議などから百年も後であり、とっくの昔にプロテスタント化されており、しかも、そのキリスト教は色濃くカルヴァン主義的なものであったと考えられます。



しかし、私は何も、カントはヒュームから初めてカルヴァン主義的なるものを教えられたのではないかと、そんなことを考えているわけではありません。そのようなルートを経なくても、カントの時代のドイツでカルヴァンやカルヴァン主義者の影響を受ける機会はいくらでもあったに違いないと推測しています。



17世紀のブリテン島で始まったピューリタニズム運動は、大陸へといわば逆輸入される仕方で、オランダやドイツにも大きな影響を与えました。ブリテン島のピューリタニズムのキリスト教の特質は、カルヴァン主義的な敬虔主義信仰、すなわち「改革派敬虔主義」(Reformed Pietism)というべきものであり、このタイプの敬虔主義が17世紀のオランダで大きく開花し、広く西ヨーロッパの教会と社会の再改革運動へと発展しました。この動きを現代の教会史家たちは「第二次宗教改革」(Second Reformation / Nadere Reformatie)と呼びます。



私が知りたいのは、たったいま記した意味での改革派敬虔主義の運動としての「第二次宗教改革」と、カントとその哲学との関係です。両者の関係があるか無いかという点を含めて知りたいと願っています。



この謎が解けると、非常に多くの問題が解けるようになります。



2010年7月6日火曜日

カルヴァンからカントへ(2)

アマゾンから荷物が届きました。このたび購入したのは、以下の五冊です。



(1) Kant, Immanuel, Critique of Pure Reason(『純粋理性批判』), Trans. by J. M. D. Meiklejohn, Dover, 2003
(2) Kant, Immanuel, Critique of Practical Reason(『実践理性批判』), Trans. by T. K. Abbott, Dover, 2004
(3) Kant, Immanuel, Critique of Judgment(『判断力批判』), Trans. by J. H. Bernard, Dover, 2005
(4) Kant, Immanuel, Religion within the Boundaries of Mere Reason And Other Writings(『たんなる理性の限界内の宗教、その他』), Trans. by A. Wood and G. D. Giovanni, Cambridge University Press, 1998
(5) ヒューム『政治論集』(Political Discourses)、田中秀夫訳、京都大学学術出版会、2010年



実際に手に取ってみて初めて分かったことが、いくつかあります。



第一に、五冊とも非常に近年の出版物であったということが分かりました。最も古いのは(4)ですが、今からわずか十二年前の1998年の出版物です。ヒュームの『政治論集』に至っては先月、いや先々週(2010年6月25日!)出版されたばかりです。このヒュームの著作は、岩波文庫では『市民の国について 上・下』(小松茂夫訳)というタイトルがつけられているものと同じです。



第二に、批判書三部作の英語版が非常に安価であった理由が分かりました。要するに、これらは「復刻版」でした。(1)の初版出版年は1900年、(2)は1909年、(3)は1914年と記されていました。つまり、いずれも百年前の翻訳であり、版権切れとなっているものでした。だから安かったのです。謎が解けました。検索してみましたら、これら英語版のテキストはネット上に無料で誰でも読める状態で公開されていました。しかし私はパソコンの画面上で長たらしい文章を読むのが苦手ですし、自分でプリントするとかさばるし、あまり美しくありませんので、ペーパーバックながらきちんと製本されているDoverの復刻版はとても有難いです。