2010年7月7日水曜日

カルヴァンからカントへ(3)

今週は久しぶりに驚きと感動の毎日を過ごしています。インマヌエル・カントに熱中するのは二年半ぶりのことです。



今日の最大の驚きは、カント『純粋理性批判』の古い英語版の訳者、ジョン・ミラー・ドウ・ミークルジョン(John Miller Dow Meiklejohn [1830-1902])に関することです。



ミークルジョンがその英語版を出版したのは、なんと彼が25歳のときだった!カルヴァンが『キリスト教綱要』の初版を出版した年齢(27歳)よりも若い!そのことが分かって、思わず「ひゃあ」と声を上げてしまいました。



探してみたら、ミークルジョンの伝記がすぐに見つかりました。その中に「1993年に出版された新しい英語版『純粋理性批判』は、なお基本的に〔1855年に出版された〕ミークルジョン版を土台にしている」と記されていることも、ミークルジョンがいかに若いうちから優れた人物であったかを示す一例といえるでしょう。



J. M. D. ミークルジョンの伝記(↓)http://www.ed.uiuc.edu/faculty/westbury/paradigm/vol2/Graves.doc



ところで、この際書きとめておきたいことは、私が「カルヴァンとカント」の「何」を知りたがっているのかということです。それは次の一言で表現できることです。私が知りたがっていることは、「カントがカルヴァンとカルヴァン主義者の何を、またはどこを嫌ったのか」です。「嫌う」の点を問うことがなぜ両者の「ポジティヴな」関係を探ることになるのかについては説明が必要ですが、それはそのうち書くことにします。



よく知られているとおり、幼少期のカントは、とくに母親の影響で「敬虔主義のキリスト教」の道を歩んでいました。ところが、学生時代に体験したらしき何らかの出来事を経て、カントは教会に通わなくなってしまいました。その後、彼の「啓蒙」の哲学は、教会と宗教の支配下からの解放を要求するものとなりました。



このようなカントのよく知られた伝記を聞く人たちの多くは、彼の母親の信仰が「敬虔主義的なるもの」であったと聞くとすぐに、ドイツのいわゆるルター派敬虔主義の神学者たちの名前だけを思い浮かべるでしょう。なぜなら、カントは確かにドイツ人であったし、彼の母親が通っていた教会はドイツのルター派の教会であったことも確かだからです。



しかし、事情はそれほど単純ではないのではないかと、私は非常に疑っているのです。たとえばカントは『純粋理性批判』においてライプニッツの合理主義とヒュームの経験主義を「綜合」(または「統合」)したと言われるわけですが、ここですでに、ライプニッツはドイツ人ですが、ヒュームはスコットランド人です。カントに影響を与えたのは、ドイツ人だけではなく国際的でした。しかも、ヒュームの時代のスコットランドは、17世紀のウェストミンスター神学者会議などから百年も後であり、とっくの昔にプロテスタント化されており、しかも、そのキリスト教は色濃くカルヴァン主義的なものであったと考えられます。



しかし、私は何も、カントはヒュームから初めてカルヴァン主義的なるものを教えられたのではないかと、そんなことを考えているわけではありません。そのようなルートを経なくても、カントの時代のドイツでカルヴァンやカルヴァン主義者の影響を受ける機会はいくらでもあったに違いないと推測しています。



17世紀のブリテン島で始まったピューリタニズム運動は、大陸へといわば逆輸入される仕方で、オランダやドイツにも大きな影響を与えました。ブリテン島のピューリタニズムのキリスト教の特質は、カルヴァン主義的な敬虔主義信仰、すなわち「改革派敬虔主義」(Reformed Pietism)というべきものであり、このタイプの敬虔主義が17世紀のオランダで大きく開花し、広く西ヨーロッパの教会と社会の再改革運動へと発展しました。この動きを現代の教会史家たちは「第二次宗教改革」(Second Reformation / Nadere Reformatie)と呼びます。



私が知りたいのは、たったいま記した意味での改革派敬虔主義の運動としての「第二次宗教改革」と、カントとその哲学との関係です。両者の関係があるか無いかという点を含めて知りたいと願っています。



この謎が解けると、非常に多くの問題が解けるようになります。