2010年7月23日金曜日

カルヴァンからカントへ(6)

ところで、カントの『たんなる理性の限界内の宗教』(原題Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)の英語版のタイトルはReligion within the Boundaries of Mere Reasonとなっていますが、従来「たんなる理性」などと訳されてきたところは、できれば「裸の理性」(blossen Vernunft)と呼びたいところです(「裸の理性の行方」参照)。



一方、Grenzeをboundaryと訳した英語版の訳者は卓見の持ち主だと思いました。これは「限界」という何処となくネガティヴな響きを持つ表現よりもむしろ「境界」もしくは「境界線」ではないでしょうか。



こうしてみると、本書のタイトルは「裸の理性の境界線の枠内で了解される宗教」ではないだろうかと考えてみました。あるいは、もっと短くして「裸の理性が及ぶかぎりの宗教」とか「裸の理性でとらえうるかぎりの宗教」でもよいかもしれない。



「裸の理性」とは、純粋理論理性でも純粋実践理性でもない、まさに「たんなる」理性であり、それはただの理性、普通の理性、通常の理性のことを指しているわけですから、そのとおり訳せば「普通の理性の範囲内の宗教」でもよいかもしれない。



このあたりのことも、いつかカント研究の専門家にお伺いしてみたいところです。



このカント的な意味での「普通の理性の範囲内の宗教」(Die Religion innnerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)を構築していくことの積極的な意義については、今日では多くの言葉を必要としていないように思われます。



「宗教には理性を越える要素がある」というのは、なるほど我々にとって当然すぎる言い分ではあります。しかしまた、それと同時に、「我々が生まれつき持っている通常の理性で判断しうる範囲をあまりにも越えすぎないように、多少なりとも抑制すること」は、教会の者たちにとっても必要なことであり、大切なことでもあると、私には思われるのです。



たとえば、神学をあまりにも過度に「グノーシス化」させないために、普通の理性(blossen Vernunft)を十分に機能させることが必要です。宗教家たちが、自分自身はまだ実際に行ったことも見たこともあるわけではない「死後の世界」やら「霊の世界」やらについて、生きている間にあまりにも多くのことを語りすぎるペテンに陥らないようにするために、ある程度の理性的な自己規制を行うことは、決して間違っていません。