2010年7月22日木曜日

カルヴァンからカントへ(5)

「カルヴァンとカント」あるいは「カルヴァンからカントへ」という問題の究明作業は資料不足のため頓挫しました。何か新しい情報が加われば何とかなりそうですが、今のところ手も足も出ません。



私が知りたいのは「カントの視点から見たカルヴァンとカルヴァン主義者のイメージ」です。直接的な言及でも見つかればいちばんはっきりするだろうと思い、とりあえず探してみましたが、三つの批判書(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)の中にカルヴァンの名前は見つかりません。カントの宗教論の一つである『たんなる理性の限界内の宗教』の英語版(ケンブリッジ版、1998年)に目を通してみましたが、やはりカルヴァンは登場しませんでした。



私は理想社版や岩波書店版の『カント全集』を持っていません。あれを用いることができないのを悔しく思っています。岩波文庫や中央公論社「世界の名著」のカントなどはすべて学生時代に買い、いまでも持っています。それらすべてに目を通しても、今のところカルヴァンの名前は見つかりません。『カント全集』にはカルヴァンが登場するのでしょうか。私には分かりません。



そもそも――これはカントの文体を研究している方々にご教示いただきたい点なのですが――カントの文章には人名への言及そのものが少ないようにも見えました。直接言及されている人名といえば、聖書に登場する人物(アブラハム、ダビデ、イエス、パウロなど)と、あとはセネカ、ルソー、スピノザ、デカルト、ヒューム、ニュートンくらいです。



「○○氏はこう言った。△△氏はこう書いている」とひたすら際限なく他者からの引用文で埋め尽くされているようなたぐいの書物よりははるかに好感が持てますが、いま私が抱いているような関心事を解明したい人々にとっては人名や引用元が明示されているほうが好都合です。



この点――カントの文章に人名への言及が少ないと思われる点――は多くのカント研究者たちを泣かしてきたのではないだろうかと勝手に空想してみましたが、真相はいかがでしょうか。



ともかく現況は以上のとおりです。ほとんど進展はありません。恥ずかしい報告しかできません。



しかし、まだ一箇所ですが、ほのかな光の窓を見つけました。それは『たんなる理性の限界内の宗教』の第7章です。この章のタイトルを英語版から直訳調で引き写しますと、「《教会的な》信仰から純粋に《宗教的な》信仰の独占的支配への漸進的移行こそが神の国の到来である」(The gradual transition of ecclesiastical faith toward the exclusive dominion of pure religious faith is the coming of the Kingdom of God)となります。



この章が扱っている問題はタイトルどおり「神の国」に関することですが、これはきわめて神学的、教義学的なテーマです。とてもうれしいことに、カントはこの文脈でいわゆる「予定論」(praedestinatio)に関する諸課題を取り上げています。



英語版をじっくり読み込む時間がないのが残念です。しかし、もしそれがカルヴァンとカルヴァン主義者の予定論を(ほんの少しでも)意識した上で書かれた部分であることが立証できた場合には、「カルヴァンとカント」を論じるための足がかりになるでしょう。