2010年5月13日木曜日

「今週の説教 メールマガジン」を再開しました

最近の礼拝説教をもって、「今週の説教 メールマガジン」の発行を再開しました。長く休んでしまい、各方面にご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。理由等は、そのうち明かします。



休んでいた間の説教は、時系列の順序をあまり考えずに今後の本誌に掲載させていただきます。ブログ版「今週の説教」のほうでは自動的に時系列順に並びますので、ブログ版もご利用ください。



ブログ版「今週の説教」
http://sermon.reformed.jp



本当にごめんなさい。これからも、どうかよろしくお願いいたします。



「今週の説教 メールマガジン」
http://groups.yahoo.co.jp/group/e-sermon/



2010年5月9日日曜日

わたしはまことのぶどうの木


ヨハネによる福音書15・1~10

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

いまお読みしました個所に記されていますのは、もちろん一つの例え話です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、まず最初に御自分を指さして「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、「わたしの父は農夫である」と言われています(1節)。そして、イエスさまは、御自分と弟子たちとを指さして「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と言われています。

これで分かることは、この例え話が明らかにしていることは、父なる神とイエス・キリスト御自身とキリストの弟子たちとの三者の関係であるということです。イエス・キリストはぶどうの木であり、キリストの弟子たちはぶどうの木の枝なのです。父なる神は、それを手入れする農夫なのです。

しかし、ここでよく考えてみなければならないと思いましたことは、今日この礼拝に集まっているわたしたちは何なのかということです。

おそらく誰でも最初に考えることは、わたしたちもキリストの弟子の仲間なのだから、この中では当然「ぶどうの木の枝」がわたしたちのことだろうということでしょう。しかし、もう一つの見方が成り立つと思いました。「あなたがたはぶどうの木の枝である」と言われているのは、イエスさまの目の前に集まっている最初の弟子たちだけのことかもしれないと考えられるではありませんか。もしこの読み方が正しいとすれば、わたしたちはむしろ「実」である、つまり、ぶどうの木の枝である最初の弟子たちが結んだ「実」のほうであると考えることができるでしょう。私自身はこのように読むほうがこの個所の意図を正しく理解できるだろうと考えています。

この点にこだわることには、もちろん理由があります。私にとって非常に気がかりなことは、この個所に記されているイエスさまの御言葉は、読み方を間違えますと非常に危険な結果を招くであろうということです。この中で目立つのは、たとえば、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)という御言葉です。あるいは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分で実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)という御言葉です。さらに「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)という御言葉です。そして、極めつけは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)という御言葉です。

これらの御言葉に一貫しているのは、ぶどうの木につながっていないぶどうの木の枝には恐ろしい裁きがなされるということです。しかし、わたしたちは、この個所をできるだけ丁寧に読むべきです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」というわけです。つまり、この枝は、とにかく一度はぶどうの木につながっていたのです。しかし、それは実を結ばなかった。そのため、農夫である父がその枝を除かれたのです。これで分かることは、ここで例えられているのは、いまだかつて一度もぶどうの木につながったことがない枝、つまり、イエス・キリストの弟子になったことがない人々のことではないということです。この例えばなしの中の否定的な言葉が言おうとしていることは、とにかく一度はたしかにイエス・キリストの弟子仲間に加えられたが、その後でイエス・キリストから離れた人、のことを指しているということです。

しかしそうなりますと、かえってますますわたしたちが心配になるであろうことは、洗礼を受けたわたしたちはもう二度と逃げられないということなのか、もし逃げようとするとどこまでも追いかけられてきて捕まえられて、火あぶりの刑(?)に処せられるということなのか、というようなことかもしれません。もしわたしたちがこんなふうなことを少しでも考えているとしたら、そのわたしたちの様子を外側から意地悪な見方をする人々の目には「あそこに集まっている人々は、ただ逃げ遅れただけの人々なのだ」というふうに見えるかもしれないということになるわけですが、そのような目で見られることが本当によいことなのでしょうか。

あるいは、「実を結ばない枝は取り除かれる」という御言葉を読んで、おびえる。「実」というのは、たぶん伝道の成果のことだろう。つまり、何人を教会に誘い、何人を信者にしたかという、数字的な結果のことだろう。しかし、私は今まで一人も教会に誘ったことがない。あるいは、たくさん誘いはしたが、その人たちの誰も教会にとどまってくれなかった。ああ、私は「実を結ばない枝」である。私は枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、火に投げ入れられて焼かれてしまうのだ、と。

このような読み方が正しいでしょうか。「いや、正しくない!」と私自身は考えていますし、信じています。この例えばなしの中で、わたしたちは「実」です。「ぶどうの木の枝」は、今このときこの話をなさっているイエスさまの目の前に集まっている弟子たちのことです。それでは、「実を結ばない枝」とは誰のことでしょうか。それは、とにかく一度は間違いなくイエス・キリストの弟子になったが、その後でイエス・キリストから離れていった弟子のことです。それは誰でしょうか。もうお分かりでしょう。イスカリオテのユダです。

もちろん、教会の中にはとても優しい人がいて、ユダの話を読むと「ああ、ユダは私だ」とすぐに共感できるし、すぐに同情できるという人がいることを、私は知っています。そのような優しさには大切な面もありますが、危険な面もあります。ユダとは違うと思われるかもしれませんが、たとえば、どこかで起こった凶悪犯罪の話を聞くと、その犯罪によって傷を受けた人々のほうに同情するのではなく、犯罪をおかした人のほうに共感したり同情したりする人がいますが、そういう感情には非常に危険な面があります。それと同じようなことを申し上げる必要があります。

少し前の説教で私は、ユダがしたことは「イエス・キリストに対する裏切り」という点ではペトロがしたことと本質的に同じであると申し上げました。しかし、内容的には全く違うことをしたということも明言しておく必要があります。ペトロはイエス・キリストが逮捕された後、イエスさまのことを「知らない」と三度否定しました。それも裏切りといえば裏切りです。しかし、ユダは違います。ユダはイエスさまをユダヤ人たちに文字通りお金で売り渡したのです。そしてユダはユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしていることを知っていました。そのことを知りながら、ユダはイエスさまを売り渡したわけですから、事実上ユダはイエスさまを殺すことに加担したのです。

もちろんユダ自身はイエスさまに向かってつばを吐きかけたり、槍で刺したり、イエスさまの体を十字架の板の上に釘ではりつけたりはしていません。しかし、彼のしたことは、事実上の殺人です。少なくとも殺人の協力をしました。この点ではユダがしたこととペトロがしたことを一緒くたに扱うことはできません。ペトロのしたことにはかなりの面で同情の余地がありますが、ユダのしたことには同情の余地はありません。ユダは、厳しい裁きを受けなければなりません。しかし、ユダのことと、わたしたち自身のことは、区別して考えるべきであると申し上げたいのです。

「わたしはまことのぶどうの木である」(1節)という御言葉の中で強調されているのは、「まことの」という点であると説明する人がいます。「まことの」とは「本物の」という意味ですが、この言葉には裏があるというのです。つまり、ここでイエスさまがおっしゃっていることを噛み砕いて訳すとしたら、「ある人々は『わたしたちこそがまことのぶどうの木である』と言っているが、彼らは嘘をついている。彼らは偽物のぶどうの木であり、わたしこそが本物のぶどうの木である」というのです。

誰が嘘をついているのでしょうか。すぐ分かることは、イエスさまは明らかにユダヤ人たちを意識しておられるということです。たしかに旧約聖書の中でユダヤ人たちは「ぶどうの木」に例えられています(イザヤ書5章など)。それはそのとおりです。しかし、イエスさまは、彼らではなく、わたしこそが「まことのぶどうの木」であると言われているのです。「豊かな実を結ぶ枝」がつながるべきは、彼らではなく、このわたしであると。つまりこのときイエスさまは、わたしの弟子であるあなたがたの依って立つべきところは、このわたしであると、彼らの信仰の根拠をお示しになることによって、ユダヤ教団からの決別をうながしておられるのです。

それでは、イエスさまの弟子たちが結ぶ「豊かな実」とは何でしょうか。これが教会です。現時点で二千年に及ぶ歴史と伝統を築いてきた、世界中に広がるわたしたちのキリスト教会です。イエス・キリストの十字架を前にしたときには怯えたり、逃げたり、イエスさまを否定したりした弟子たちではありましたが、イエスさまの復活後、イエスさまの愛にとどまり、再び一つところに集まり、教会の礎を築くことができたので、彼らは「豊かな実」を結ぶ枝になることができました。

しかし、ユダはそうではありませんでした。ユダは、偽物のぶどうの木につながろうとし、本物のぶどうの木を殺すことに加担しました。彼は、しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招きました。

ここまで申し上げてもなお「ユダは私だ」とおっしゃりたい方々を責めようとは思いません。ある意味でユダを反面教師としながら自分の罪を強く意識し、悔い改めの心を忘れないようにすることは大切なことかもしれません。しかし、その方々にぜひお願いしたいことは、今日私がお話ししたことを憶えておいてくださいということです。イエスさまがおっしゃっていることは「信者を何人集めたかのノルマを果たせない教会員は火あぶりだ」という話ではありません。教会とは、脅迫や恐怖心にかられて集まるところではないのです。

(2010年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)

2010年5月8日土曜日

海外と国内におけるカルヴァンと改革派神学に関する学会案内

今日は久しぶりに、海外と国内の動きをご紹介させていただきます(どれも松戸にいながらにして入手可能な情報です)。



(1) エディンバラ・バーフィンク国際学会



今秋、以下の日程で「エディンバラ・バーフィンク国際学会」(The Edinburgh Bavinck Conference)が開催されます。



日時 2010年9月1日(水)~2日(木)
会場 エディンバラ大学神学部



「エディンバラ・バーフィンク国際学会」は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アブラハム・カイパー(1837~1920年)と共に「新カルヴァン主義者」(Neo-Calvinist)と呼ばれ、オランダで活躍した改革派神学者ヘルマン・バーフィンク(1854~1921年)の生涯と神学についての討議の場です。エディンバラ大学とアムステルダム自由大学の共同企画として行われます。



バーフィンク自身の国際的影響力や彼の神学の永続的価値と魅力もさることながら、このたびエディンバラに集結する組織神学者たちの名前に大いに驚かされました。



デイヴィッド・ファーガソン (エディンバラ大学教授)
ジョン・ボルト        (カルヴァン神学校教授、オランダ改革派神学翻訳協会Dutch Reformed Translation Society顧問)
ジョージ・ハーリンク    (アムステルダム自由大学教授、同大学図書館オランダプロテスタンティズム歴史資料館長)
ディルク・ファン・ケウレン (プロテスタント神学大学研究員、『ファン・ルーラー著作集』編集主任)

といった方々が研究発表を行う予定です。



詳細は以下のサイトをご覧ください。私は「行きたいなあ」と“思って”いるだけです(思うだけならタダですから)。



エディンバラ・バーフィンク国際学会
http://bavinck.calvinseminary.edu/



(2) 第11回 アジア・カルヴァン学会 ソウル大会



昨年(2009年)開催を予定されていた「第11回 アジア・カルヴァン学会 ソウル大会」は、新型インフルエンザの影響で延期になっていましたが、2011年1月に開催されることになりました。前回(第10回)東京・代々木で開催したときは(私もスタッフの末席におりました)非常に大勢の日本人の出席者と協力者を得ることができました。ソウルと日本はずいぶん“近く”なりましたので、第11回もぜひ出席したいと願っている方は、多くおられるでしょうから、詳細が判明し次第、追ってお知らせいたします。



(3) 第20回 日本カルヴァン研究会



最後は、もう少し“近い”(距離的にも時間的にも)話です。今年も「日本カルヴァン研究会」が、以下の日程で行われます。私も研究会の末席に加えていただいている者ですので、講演と研究発表を行ってくださる三人の先生方を心から応援すると共に、皆様に謹んでご案内申し上げます。この会に私は「もちろん」出席いたします。



日時     2010年6月28日(月)午前10時~午後4時
会場     青山学院大学 総合研究所ビル3階 第11会議室
       渋谷区渋谷2-4-44 JR渋谷駅下車、徒歩15分
会費    一般1,500円、学生1,000円



講演   「聖書原典から説教へ」野村 信(東北学院大学教授)
         ※可能な方は『霊性の飢饉』と『命の登録台帳』をご持参ください。



研究発表「律法の第三用法についての一考察」
              西堀俊和(日本基督教団山梨教会牧師)
      「日本におけるカルヴァン遺産」
              斎藤美万子(日本キリスト教会古河伝道所牧師)



主催     日本カルヴァン研究会 野 村 信
        〒981-3622 宮城県黒川郡大和町もみじヶ丘3-33-1
        電話・FAX  022-358-0444 メール  Sno2999@aol.com



以上、よろしくお願いいたします。



ファン・ルーラーの神学は、決して偏狭な意味ではありませんが、広い意味で「カルヴァン」と「改革派教会」の神学的文脈の中に置いて理解することが、最も近道・早道です。



2010年4月16日金曜日

説教は説教者の意見表明の場でもある

誤解を避けるために付言しますと、私が二十数年来反発してきたことは「説教からの“人間的なるもの”の強制排除ないし禁止」という点だけです。

世代の問題がかかわるのかどうかは分かりませんが、ある人々は「私は・・・と思います」という言い回しを説教の中から一切締め出そうとし、常に「です」と言い切るべきであると主張してきました。「説教とは説教者の意見表明の場ではない」とか何とか言って、です。

しかし、それはとても不自然なことであり、無理があります。説教の根拠である聖書テキストは「我々にとっては」(pro nobis)何ら一義的ではないからです。

何ら一義的でない聖書テキストを解釈しながら、それがあたかも一義的に理解しうるものであるかのように自信たっぷりに「です」とだけ言い切る説教者たちは、私に言わせていただくと、要するにハッタリをきかせているだけなのです。

私は(かつても今も)この種のハッタリオヤジたちに嫌気がさした(または「さしている」)だけのことであり、それ以外の何も意図していません。

2010年4月15日木曜日

説教における神と人間の関係をめぐる問題群

今から二十数年前のことです。それは私が東京神学大学で学んでいた時期から日本基督教団の教師として働いていた時期にかけての頃ですが、当時繰り返し耳にした言葉の一つが、次のような言葉でした。



「説教者よ、あなたがたは神の邪魔をしてはならない。説教者自身は、神の言葉を取り次ぐ者として、通りよき管(とおりよきくだ)となり、空の器(からのうつわ)にならねばならない。ともかく、説教の中から“人間的なるもの”を徹底的に取り除かなければならない」。



そして、「説教からの“人間的なるもの”の除去」の例として、



・説教の中で説教者は「思います」とか「感じます」などと決して言ってはならない、とか、



・そもそも説教の中で「私は」と言ってもならない、とか、



・自分の証しのような話を一切持ち込んではならない、とか、



・道徳的な話をすべきでない、とか、



・政治や社会の話も、文学の話も一切持ち込むべきではない、など。



私はそういう話を聞くたびに、非常に違和感を覚えたものでした。はっきり言えば馬鹿らしくて聞いていられませんでした。「神学教師たちよ、牧師たちよ、あなたたち自身は『人間』ではないのか」と、問い返したくなるばかりでした。



それ以来、私の問いはますます深まり、今日に至っています。



最近流行のツイッターも140字のコミュニケーションです。ツイッターは私も試してみていますので悪口を言うつもりはありませんが、キャッチーな短いフレーズが蔓延する「独り言ブツブツつぶやき社会」(※)になってきたようです。



(※)ただし、稿を改めて言いたいことですが、私は最近「独り言の積極的意義」(positive significance of monologizing)を強調して語ってみたいと思うようになりました。



その中で、説教は、説教者は、どうあるべきかと考えさせられています。



「聖書はこう言っている。私はこう思う。でも、別の人はこう考えている。結論は、こうかもしれないが、ああかもしれない」と、ああでもない、こうでもないと、いろいろ苦悩し、思索し続ける説教が、あってもよいのではないか。



「結論だけ聞きたい人」は、イマドキ、教会なんか来ませんよ、と思っています。



2010年4月12日月曜日

批判のルール

他人を批判することについては、私なりのルールのようなものを持っています。こういうルールを持っている人間がいるというのは、特に珍しいことではないと思っています。多くの人が考えていそうことを、私も考えているだけです。

第一は、もし私が批判する相手がいるとしたら、それは常に「男性」であるということです。

第二は、必ず「何らかの責任的な職務に就いている人」であるということです。

第三は、(書き直しや言い直しが容易でない)紙媒体の文筆活動によって自分の思想内容を広く公表しており、その面で一定の評価を得ている、いわゆる(広義の)「公人」であるということです。

他方、

私は、「女性」と、「職に就いていない人」と、「私人」と、「(紙媒体に書かない)ブロガー氏たち」のことは、決して批判しません。

これらの人々を差別しているつもりはありませんが、批判はしません。無視しているわけでも読んでいないわけでもありませんが、どれほど違和感を抱いても、黙って読みます。何も言いません。


2010年4月9日金曜日

牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ

牧師が交代するたびに教会の方針がすっかり変わってしまうというのは、本当に躓きに満ちたことであり、教会にとって有害無益であると、私は考えています。それは――途中の議論を省いて言えば――要するに「牧師による教会の私物化」を意味します。



牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ。



このことは私の「信仰告白」に属する事柄であり、自分自身が牧師であることの召命意識に直接かかわる問題でもあり、言葉にするまでもなく当たり前のことに属する内容でもあるのですが、黙っているだけでは理解されない場合がありますので、事あるごとに表明しておきます。



ごく最近のことですが、別の教会(どこの教会かは分かりません)の方から「私の教会では伝統的に、葬式の中で弔辞を行っていました。しかし、現在の牧師に交代して以来、弔辞が禁じられるようになりました。牧師は『葬式は礼拝なので弔辞を行ってはならない』と強引に自分の言い分を通すばかりです。どうしたらよいでしょうか」(大意)というお尋ねをいただきました。



この質問への答えとして、満足していただけるかどうかは分かりませんでしたが、私は次のようにお答えしました。



私は、自分が赴任した教会が伝統的に行ってきたやり方を、基本的に踏襲します。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていたとしたら、弔辞を行うことを妨げるように働きかけたりしません。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていなかったとしたら、弔辞を行うことを奨励したりはしません。



いずれにせよ、「強引に自分の言い分を通す」というような方法を決して採りません。



葬儀の中で弔辞を行うかどうかについての聖書的根拠があるかどうかについて、私は「無い」と見ています。



聖書の観点から言えば、それは「どちらでもよいこと」に属することです。



根拠がもしあるとしたら、聖書ではなく、むしろ伝統であり、慣習です。



ただ、私にとってけしからんと思うことは、上記のとおり「牧師が(教会の伝統や慣習に著しく反する仕方で)強引に自分の言い分を通すこと」です。



その牧師が主張していることは、おそらくは、その牧師自身の出身教会のやり方であるというだけのことであったり、神学生時代に影響を受けた教師の受け売りだったりするに過ぎません。



つまり、私の申し上げたいことは、その牧師の主張のほうにも、大した根拠など無いということです。



貴方様は教会の役員でいらっしゃるのでしょうか、違うでしょうか。



もし役員でいらっしゃる場合は、「牧師が強引に自分の言い分を通すこと」を阻止なさるべきです。徹底的に話し合って、一致点ないし妥協点を見出されるべきです。



もし役員ではないという場合は、役員会に相談なさってください。その際、私の名前を出してくださっても構いません。



重要なことは、教会は牧師の私物ではないということです。牧師たちは、自分の仕えている教会のことを「自分の思いのままになる」と思った瞬間に、失格者となります。



2010年4月7日水曜日

『超訳 ニーチェの言葉』について

長男の高校の入学式がいよいよ明日に迫りました。この期に及んで親として最後に(?)何かしてやれることはないかと考えた結果、一冊の国語辞典を買ってやることにしました。それで、つい先ほどまで近所の書店まで出かけていたのですが、いろんな種類があって迷ったものの、まずはオーソドックスなもののほうが良いだろうと、『岩波 国語辞典 第七版』(岩波書店)に決めました。辞書の数は多ければ多いだけ言葉の微妙なニュアンスを読み分けられる根拠を得られるに違いないということは私なりに理解しているつもりですが、他の出版社のものは彼自身が苦労して買えばよいわけで、親が何から何までお膳立てすべきではないだろうと、ぐっと我慢した次第です。



辞書が決まったことで当初の目的は果たしたのですが、ついでにもう一冊と(これが誘惑なんだ)何かを買おうと見回したところ、書店入口に近い位置の平積みコーナーに、勝間和代さんたちの自己啓発系の本の隣に、『超訳 ニーチェの言葉』というタイトルの、黒光りする装丁の本が積み上げられていました。「へえ、面白そうだ」と数秒立ち読みした後、あまり迷うことなく、これを買うことにしました。



帰宅後、1時間ほどで全部読みました。何か書きたくなりましたので、Amazonのカスタマーレビューに以下の一文を載せておきました。タイトルは「わが子に読ませます」です。



『超訳 ニーチェの言葉』フリードリヒ・ニーチェ著、白取春彦編訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年



わが子に読ませます



By 関口 康



カバーフラップにも書いてあったが、ニーチェは「牧師の子」である。だからどうしたと、取り立てて何かを言いたいわけではないが、わたし評者が牧師なので、うちの息子はニーチェと立場的に同じということになる。本書を初めて手にとり数ページをめくったとき、「ああ、これを息子に読ませよう」と思った。ヘイセイ生まれの長男とニーチェは150歳も離れているし、日本人とドイツ人の違いもあるが、牧師館(Pastorat)の中で生まれ育った先輩の言葉を、後輩がどう読むかを知りたいと思う。たぶんかなり共感しながら読むだろう。いや何、わたし自身がすっかり魅了されてしまった。白取氏の「超訳」にすっかり幻惑されているだけかもしれないが、とにかく本書(白取超訳)は名著だと思った。聖書の隣に並べて置くのは(いろいろ言われそうで)マズいかもしれないが、せめてルターやカルヴァンの本よりも目立つ所に置いておきたい本ではある。



2010年4月1日木曜日

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

関口 康

「これこそが神学だ。」読了直後そう思った。晒す必要もない恥ではあるが、評者は大した読書家でも蔵書家でもない。渡辺信夫氏については、カルヴァン『キリスト教綱要』とニーゼル『カルヴァンの神学』の各日本語版訳者であられる他、数点の「小さな」著訳書を物してこられた方であると思い込んできた。『カルヴァンの教会論』(改革社、初版1976年)が渡辺氏の「主著」であるということを、このたび「増補改訂版」の帯を見て初めて知った。これほど分厚い書物とは全く知らなかった。初版には触ったこともない(ある古書店ではかなり高額で取り引きされているようだ)。しかし開き直ったことを言わせていただけば、評者とよく似た思いを抱いた方々は少なくないのではないか。非礼をお詫びしつつあえて字にすれば「埋もれた名著」。それが本書だと思う。

翻訳ではなく初めから日本語で考え抜いて書かれたものゆえに読みやすく筋が通っている。評者などが断片的に学んできたような知識が見事なまでに美しく整理されている。硬質の語調には半可通な読者を寄せつけない凄味がないわけではないが、学術的には国際水準を保ちつつ日本の信徒に語りかける努力をしておられるところは絶賛に値する。「『カルヴァンの教会論』と題しているが、これは私の教会論でもある」(325ページ)と明言しておられるように、著者のスタンスには確固たるものがある。この価値ある一書を21世紀の日本の教会と神学の真ん中に復活させてくださった渡辺氏と一麦出版社に感謝する。

ところで、評者はどこに「これこそが神学だ」と感じたかを申し上げたい。この思いは(必要以上の)称賛ではなかったし批判でもなかった。「神学とはかくあるべし」ではなかったし、「神学とは所詮このようなものだ」でもなかった。この微妙なニュアンスには説明が必要である。

言いにくいことであるが、おそらく著者はこの「増補改訂版」をもってしても本書に満足しておられないはずだ。その思いが端々から伝わってくる。本論は全20章で構成されているが、第2章から第6章までと第8章はいずれも梗概のみで終わっている。もっと詳論なさりたかったのではないか。増補改訂版のあとがきに「初版を書き始める際の最も強い動機」として武藤一雄氏や久山康氏から学位論文を書くようにとの懇篤な勧めをお受けになったときの思い出が縷々つづられている。渡辺氏は「自分は牧師のつとめに召された者である。学位はこのつとめにとって無関係と思う」という意味の返事をなさったが、熱心な勧めは已まなかったため、「その勧めに従うことになった」とある。このような経緯で書き始められたのが本書であるというわけだ。ところが本書のどこにも「これは学位論文である」とは記されていない。口幅ったい言い方であるが、要するにこれは「未完成の学位論文」ではないか。そのように明言されてはいないが、「察して頂けると思う」(331ページ)とある。

この場面で「神学の途上性」とか「断片性」とか「旅人性」というような議論を持ち出すのは、かえって失礼だろう。再録された第一版あとがきに正直な思いが吐露されている。「牧師が研究をすることには社会的には何の評価も援助もないから、心ある牧師たちは自己の生活を切り詰めることによって辛うじて研究費を捻出する。私もそのような牧師の一人であった。このことを今では幸いであると思う。なぜなら、教会に密着して生きることによって、教会というものが深く理解できたし、民間の研究者として、権力や時流から自由な立場でものを考えることができたからである」(324ページ)。

「これこそが神学だ」と私は思った。牧師でなくても神学はできる。牧師でないほうが完成できそうな作品も確かにある。しかし「教会に密着して生きること」なしに「教会を神学的に論じること」が可能だろうか。答えは否である。「神学すること」自体が不可能である。この事実を教えていただける本書を多くの人々に推薦したい。渡辺氏が据えた土台の上にレンガを積み上げて巨大なゴシック建築を完成させるのは誰なのか。それを知りたくて、うずうずしている。

(一麦出版社)

(書評、『本のひろば』2010年4月号、財団法人キリスト教文書センター、28-29頁)

2010年3月21日日曜日

松戸小金原教会の新しい宣教方針について

教会設立30周年以後の展望と課題を踏まえて



関口 康



PDF版はここをクリックしてください



はじめに



わたしたちは、2002年1月に小会で採択した「松戸小金原教会 21世紀初頭の宣教方針」を毎年の定期会員総会のたびに確認してきました。しかし8年前と現在とでは教会内外の状況が変わってきており、方針のより現状に適った軌道への修正が求められてきていること、また何よりも21世紀になって既に10年が経過し、「21世紀初頭」と呼びうる時期が終わりを迎えようとしていることなどから、わたしたちは新しい宣教方針の必要性を感じるようになりました。



そこで今年度内に三回予定している教会勉強会の共通テーマを「松戸小金原教会の新しい宣教方針について」に決めさせていただきました。私が願っていることは、三回の教会勉強会での学びや協議を経たうえで来年1月に開催する定期会員総会までに新しい宣教方針の原案を確定したいということです。そのために皆様にご協力いただきたく願っております。



とはいえ、私は、8年前に採択された現行の宣教方針には何一つ誤りはなく、ほとんど修正の余地がないほどの完璧さをもっていると考えています。ですから、「新しい」宣教方針を考えましょうと言いましても、実際には言葉遣いが変わっただけで、ほとんど同じことを繰り返しているにすぎないものになるだろうと予想しています。革命的な変化などは全く考えていません。わたしたちの教派の名称に革命(revolution)ではなく改革(reformation)という字があることは重要です。変えていくべき点があるとしても、革命的に根こそぎ変えてしまうのではなくて、従来の慣習を重んじつつ、徐々に改革していきます。それがわたしたちの教会の基本姿勢なのです。



さて最初にお願いしたいことがあります。副題を「教会設立30周年以後の展望と課題を踏まえて」としましたとおり、今日の話は未来志向で進めていきたいと願っております。しかし皆さんの中には「自分の10年後のことなど考えることができません。元気でいられるかどうかさえ」とおっしゃる方がきっとおられるであろうということは、私にはよく分かっています。しかし今日だけはそのような(暗い)話は、どうかお控えいただき、松戸小金原教会の将来についての夢を共に描いていただきたいです。そして、逆の言い方をお許しいただくと、松戸小金原教会を10年後にも、20年後、30年後、100年後にも「のこす」ためにはどうしたらよいのかについて知恵をお借りしたいと願ってもいます。



1、「教会形成の理念」の見直しについて



現行の宣教方針の「1、教会形成の理念」には次のように書かれています。



「(1)聖書に基づく正統的な信仰告白に立ち、宗教改革の歴史を正しく継承する改革派教会の形成と進展を目指す。
(2)主として北千葉地域に宣教の使命を覚え、近隣改革派教会と密接な連携のもとに伝道の責任を果たす。
(3)時が良くても悪くても、一貫した宣教の姿勢をとり、改革派教会として旗幟を鮮明にする。
(4)カルビニズムの諸原理に則り、社会的・文化的分野にも正しく適応し、キリスト教的土壌を豊かにする。」



ほとんど完璧です。私にはこれ以上のことは書けそうもありません。強いて付け加えることがあるとしたら、これらの理念が持っている言葉の響きはやや抽象的であるということくらいでしょうか。具体性に乏しいとまでは申しませんが、具体性の度合いと抽象性の度合いとを比較してみると、後者のほうが若干強く出ているというくらいです。



しかしまた、改めて読み返してみますと意外なことにも気付かされます。それは(1)から(4)までに繰り返されている言葉があるということです。それは「改革派教会」です。(4)に「改革派教会」という字は出てきませんが、「カルビニズムの諸原理」は事実上同じ意味です。この同じ言葉の反復の意味内容は明らかです。現行の教会形成の理念は、最初から最後まで、結局のところ、「改革派教会になること」という一点をひたすら目指すものだったということです。



しかし、どうでしょうか、この点は現時点においては十分に達成されていると私は信じています。現在の松戸小金原教会は「改革派教会」以外の何かでありうるでしょうか。だれがどこから見ても、わたしたちは「改革派教会」ではないでしょうか。



実際、現行の宣教方針の「1、教会形成の理念」の(1)から(4)までは成就しています。項目ごとに見ていきますと、(1)については礼拝や祈祷会や諸集会における改革派信仰の学びや長老制度の実践等において、(2)については2006年7月の東関東中会設立において、(3)については毎年の特別伝道集会の実施等において、(4)については各自の日常的実践において、わたしたちが「改革派教会になること」は成就しています。その意味では、「改革派教会」以外の何ものでもないわたしたちがこれからも「改革派教会になること」という一点を繰り返して言うだけでは、物足りないでしょう。見直す余地はこのあたりにあると言えそうです。



2、「目標」の見直しについて



現行の宣教方針の「2、目標」には「100人教会を目指して」とあり、その説明は次のとおりです。



「教会が自立し、対外的にも貢献し得る教会として発展すること。そのための目途として現住陪餐会員100人程度の教会を目指し、礼拝・教育・伝道・奉仕の各分野で教会員の成長をはかり、新会堂を宣教の拠点として十分に活用する。」



ひょっとしたら、ここに掲げられた会員数についての具体的な数値目標こそが、わたしたちを大いに悩ませ、一喜一憂の原因になってきたかもしれません。志を高く持つことは決して間違ってはいませんが、目標を達成できないことにただ苦しみ、「なぜ達成できないのか」についての原因究明や責任追究ばかりを考え始めてしまうとしたら、数値目標を立てること自体を断念するか、あるいは数値の下方修正を行う必要があるかもしれません。



この件に関しては2007年11月定期小会・執事会で一度、検討したことがあります。そのとき申し上げたことは、「百名教会になること」と「アットホームな教会であること」とは反比例するところがあるということでした。しかし、そうなりますと松戸小金原教会がこれまで持っていた魅力を失ってしまう危険があるため、もし目指すとしたら「アットホームな百人教会」であるということでした。またもう一つ述べた点は、私の知るかぎり、日本キリスト改革派教会においても、他の教団・教派においても、「百人教会」を実現しているところはほとんどの場合、歴代牧師のうちどなたかの在任期間が長かった(20年または30年以上に及ぶ)ということであり、頻繁に牧師が交代する教会が100人を超えている例は皆無に等しいということでした。つまり、この目標の実現には(あまり使いたくない表現ですが)「牧師のカリスマ性」に頼るところが大きいと言わざるをえないということでした。



このことについて私は澤谷牧師とかつて個人的に語り合ったことがあります。そしてそのとき苦笑しながら一致した意見は「わたしたち(澤谷牧師と私)には、そういうもの(カリスマ性なるもの)はないよねえ」という点でした。もちろん、このことは「ないよねえ」で済ましてよいものなのか、これから努力して(?)その種のものを身につけていくべきなのかは、判断に迷うところです。



3、「目標達成の方策」の見直しについて



現行の宣教方針の「3、目標達成の方策」には次のように書かれています。



「(1)上記の理念・目標は中期計画(20世紀内)に引き続いてそのまま踏襲する。
(2)中期計画(20世紀内)の総括を入念に行い、達成できなかったものについて、その要因を検討し、今後の達成を目指す。
(3)教会形成理念の(2)は、東関東中会と連携を密にして、協力することを当面の目標とする。
(4)教会形成理念の(4)は、新会堂を活用して地域に開かれた活動、特に日曜学校や週日の利用(例:おはなしのへやや、各種サークル活動)を積極的に推進する。
(5)今までの会堂委員会は、教会運営組織に位置づけられた委員会(部)とし、その業務は教会施設全般を統括するものとする。
(6)教会の伝道の主要な窓口は日曜の礼拝である。伝道委員会は、特に主の日の活動に力を入れるようにする。
(7)教会運営組織は、とりあえず次の概念で実施し、今後更に改善を加えていく。(以下略)
(8)教会員の教会活動への積極的参加。(以下略)」



このうち(1)と(3)と(5)と(6)と(7)と(8)に関しては、すでに実施済みの項目であると思います。また(4)についても、「おはなしのへや」は休止中ながら、「チャペルコンサート」や「教会バザー」などを挙げることができます。つまり現時点で未着手の課題は(2)の「中期計画(20世紀内)の総括と未達成目標の要因検討」だけであるというのが私の見方です。



しかし、繰り返しますが、教会形成の理念としての「改革派教会になること」については、すでに十分に達成していると思います。そのため現時点で達成していないのは「(現住陪餐会員)100人教会になること」だけです。



とはいえ上記のとおり、私自身にも、また小会・執事会の内部にも、この数値目標を維持し続けるべきかどうかという点に、いくらか迷いや戸惑いがあります。未達成目標の要因を検討していくことは重要です。また「教会が自立し、対外的にも貢献し得る教会として発展すること」については全く異論の余地がありません。しかしどうしても考慮せざるをえないのは、日本社会全体の「少子高齢化」(いわゆる逆ピラミッド型社会)の傾向と、一昨年に起こった「百年に一度」と言われる世界不況が、わたしたちの教会にも確実に影響しているということです。そのことを勘案することなく、具体的な数値目標を掲げ続けることが、結果的に、未達成の犯人探しのようなことになってしまうとしたら、有害無益であるとさえ言わざるをえません。



しかしまた、わたしたちにとって譲ることができないのは「改革派教会になること」です。この点の大幅な路線変更をすることによって会員数を増やし、経済力をつけていくという道を選ぶことは、わたしたちにはできません。そういうことをしますと、わたしたちの教会本来の魅力を失うばかりか、教会存立の理由そのものを揺るがせにしてしまいかねません。



4、教会設立30周年以後の展望と課題



さて、そろそろ「新しい宣教方針」の具体像を描いていかなくてはなりません。その場合踏まえるべきことは「教会設立30周年以後の展望と課題」です。以下の諸点を挙げることができます。



いわゆる“うつわ”(建物)の問題としては、2000年に建設した現在の会堂を維持・管理すること、そして(私からは言いにくいことですが)築40年を超えている牧師館をどうするかが今後の課題です。



しかし、もっと重要な問題は、言うまでもなく“なかみ”(人間)の問題です。わたしたちは現在の「少子高齢化」と「世界不況」の中で「改革派教会になること」と「100人教会になること」を同時に実現していくという課題に、どのように取り組んでいくべきでしょうか。当然「世代交代」ということも視野に入ってくるでしょう。



前者(改革派教会になること)は譲ることができませんが、後者(100人教会になること)については再検討の余地がありそうです。「現在の牧師がカリスマ性を体得するか、それともカリスマ性をもつ牧師を新たに迎えさえすれば、すべて解決する問題である」ということであれば、この話は最初から考え直さなければなりません。



5、新しい宣教方針の骨子(試案)



最後に、私が思い描いている新しい宣教方針の骨子を提示しておきます。



Ⅰ 人が育つ教会
(主日礼拝を中心とする信徒教育の充実、年齢や性別を越えた交わりの確立)



Ⅱ 喜び歌う教会
(礼拝賛美を中心とする教会音楽の充実、聖歌隊、チャペルコンサートなど)



Ⅲ 助け合う教会
(少子高齢化と世界不況の中でお互いの弱さを理解し、担い合えるようになる)



Ⅳ 世にある教会
(会堂を用いての地域活動に加え、地域社会の中に積極的に入っていくこと)



(松戸小金原教会2010年第一回教会勉強会、2010年3月21日)