誤解を避けるために付言しますと、私が二十数年来反発してきたことは「説教からの“人間的なるもの”の強制排除ないし禁止」という点だけです。
世代の問題がかかわるのかどうかは分かりませんが、ある人々は「私は・・・と思います」という言い回しを説教の中から一切締め出そうとし、常に「です」と言い切るべきであると主張してきました。「説教とは説教者の意見表明の場ではない」とか何とか言って、です。
しかし、それはとても不自然なことであり、無理があります。説教の根拠である聖書テキストは「我々にとっては」(pro nobis)何ら一義的ではないからです。
何ら一義的でない聖書テキストを解釈しながら、それがあたかも一義的に理解しうるものであるかのように自信たっぷりに「です」とだけ言い切る説教者たちは、私に言わせていただくと、要するにハッタリをきかせているだけなのです。
私は(かつても今も)この種のハッタリオヤジたちに嫌気がさした(または「さしている」)だけのことであり、それ以外の何も意図していません。