2010年4月9日金曜日

牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ

牧師が交代するたびに教会の方針がすっかり変わってしまうというのは、本当に躓きに満ちたことであり、教会にとって有害無益であると、私は考えています。それは――途中の議論を省いて言えば――要するに「牧師による教会の私物化」を意味します。



牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ。



このことは私の「信仰告白」に属する事柄であり、自分自身が牧師であることの召命意識に直接かかわる問題でもあり、言葉にするまでもなく当たり前のことに属する内容でもあるのですが、黙っているだけでは理解されない場合がありますので、事あるごとに表明しておきます。



ごく最近のことですが、別の教会(どこの教会かは分かりません)の方から「私の教会では伝統的に、葬式の中で弔辞を行っていました。しかし、現在の牧師に交代して以来、弔辞が禁じられるようになりました。牧師は『葬式は礼拝なので弔辞を行ってはならない』と強引に自分の言い分を通すばかりです。どうしたらよいでしょうか」(大意)というお尋ねをいただきました。



この質問への答えとして、満足していただけるかどうかは分かりませんでしたが、私は次のようにお答えしました。



私は、自分が赴任した教会が伝統的に行ってきたやり方を、基本的に踏襲します。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていたとしたら、弔辞を行うことを妨げるように働きかけたりしません。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていなかったとしたら、弔辞を行うことを奨励したりはしません。



いずれにせよ、「強引に自分の言い分を通す」というような方法を決して採りません。



葬儀の中で弔辞を行うかどうかについての聖書的根拠があるかどうかについて、私は「無い」と見ています。



聖書の観点から言えば、それは「どちらでもよいこと」に属することです。



根拠がもしあるとしたら、聖書ではなく、むしろ伝統であり、慣習です。



ただ、私にとってけしからんと思うことは、上記のとおり「牧師が(教会の伝統や慣習に著しく反する仕方で)強引に自分の言い分を通すこと」です。



その牧師が主張していることは、おそらくは、その牧師自身の出身教会のやり方であるというだけのことであったり、神学生時代に影響を受けた教師の受け売りだったりするに過ぎません。



つまり、私の申し上げたいことは、その牧師の主張のほうにも、大した根拠など無いということです。



貴方様は教会の役員でいらっしゃるのでしょうか、違うでしょうか。



もし役員でいらっしゃる場合は、「牧師が強引に自分の言い分を通すこと」を阻止なさるべきです。徹底的に話し合って、一致点ないし妥協点を見出されるべきです。



もし役員ではないという場合は、役員会に相談なさってください。その際、私の名前を出してくださっても構いません。



重要なことは、教会は牧師の私物ではないということです。牧師たちは、自分の仕えている教会のことを「自分の思いのままになる」と思った瞬間に、失格者となります。