「これこそが神学だ。」読了直後そう思った。晒す必要もない恥ではあるが、評者は大した読書家でも蔵書家でもない。渡辺信夫氏については、カルヴァン『キリスト教綱要』とニーゼル『カルヴァンの神学』の各日本語版訳者であられる他、数点の「小さな」著訳書を物してこられた方であると思い込んできた。『カルヴァンの教会論』(改革社、初版1976年)が渡辺氏の「主著」であるということを、このたび「増補改訂版」の帯を見て初めて知った。これほど分厚い書物とは全く知らなかった。初版には触ったこともない(ある古書店ではかなり高額で取り引きされているようだ)。しかし開き直ったことを言わせていただけば、評者とよく似た思いを抱いた方々は少なくないのではないか。非礼をお詫びしつつあえて字にすれば「埋もれた名著」。それが本書だと思う。
翻訳ではなく初めから日本語で考え抜いて書かれたものゆえに読みやすく筋が通っている。評者などが断片的に学んできたような知識が見事なまでに美しく整理されている。硬質の語調には半可通な読者を寄せつけない凄味がないわけではないが、学術的には国際水準を保ちつつ日本の信徒に語りかける努力をしておられるところは絶賛に値する。「『カルヴァンの教会論』と題しているが、これは私の教会論でもある」(325ページ)と明言しておられるように、著者のスタンスには確固たるものがある。この価値ある一書を21世紀の日本の教会と神学の真ん中に復活させてくださった渡辺氏と一麦出版社に感謝する。
ところで、評者はどこに「これこそが神学だ」と感じたかを申し上げたい。この思いは(必要以上の)称賛ではなかったし批判でもなかった。「神学とはかくあるべし」ではなかったし、「神学とは所詮このようなものだ」でもなかった。この微妙なニュアンスには説明が必要である。
言いにくいことであるが、おそらく著者はこの「増補改訂版」をもってしても本書に満足しておられないはずだ。その思いが端々から伝わってくる。本論は全20章で構成されているが、第2章から第6章までと第8章はいずれも梗概のみで終わっている。もっと詳論なさりたかったのではないか。増補改訂版のあとがきに「初版を書き始める際の最も強い動機」として武藤一雄氏や久山康氏から学位論文を書くようにとの懇篤な勧めをお受けになったときの思い出が縷々つづられている。渡辺氏は「自分は牧師のつとめに召された者である。学位はこのつとめにとって無関係と思う」という意味の返事をなさったが、熱心な勧めは已まなかったため、「その勧めに従うことになった」とある。このような経緯で書き始められたのが本書であるというわけだ。ところが本書のどこにも「これは学位論文である」とは記されていない。口幅ったい言い方であるが、要するにこれは「未完成の学位論文」ではないか。そのように明言されてはいないが、「察して頂けると思う」(331ページ)とある。
この場面で「神学の途上性」とか「断片性」とか「旅人性」というような議論を持ち出すのは、かえって失礼だろう。再録された第一版あとがきに正直な思いが吐露されている。「牧師が研究をすることには社会的には何の評価も援助もないから、心ある牧師たちは自己の生活を切り詰めることによって辛うじて研究費を捻出する。私もそのような牧師の一人であった。このことを今では幸いであると思う。なぜなら、教会に密着して生きることによって、教会というものが深く理解できたし、民間の研究者として、権力や時流から自由な立場でものを考えることができたからである」(324ページ)。
「これこそが神学だ」と私は思った。牧師でなくても神学はできる。牧師でないほうが完成できそうな作品も確かにある。しかし「教会に密着して生きること」なしに「教会を神学的に論じること」が可能だろうか。答えは否である。「神学すること」自体が不可能である。この事実を教えていただける本書を多くの人々に推薦したい。渡辺氏が据えた土台の上にレンガを積み上げて巨大なゴシック建築を完成させるのは誰なのか。それを知りたくて、うずうずしている。
(一麦出版社)
(書評、『本のひろば』2010年4月号、財団法人キリスト教文書センター、28-29頁)