2010年4月15日木曜日

説教における神と人間の関係をめぐる問題群

今から二十数年前のことです。それは私が東京神学大学で学んでいた時期から日本基督教団の教師として働いていた時期にかけての頃ですが、当時繰り返し耳にした言葉の一つが、次のような言葉でした。



「説教者よ、あなたがたは神の邪魔をしてはならない。説教者自身は、神の言葉を取り次ぐ者として、通りよき管(とおりよきくだ)となり、空の器(からのうつわ)にならねばならない。ともかく、説教の中から“人間的なるもの”を徹底的に取り除かなければならない」。



そして、「説教からの“人間的なるもの”の除去」の例として、



・説教の中で説教者は「思います」とか「感じます」などと決して言ってはならない、とか、



・そもそも説教の中で「私は」と言ってもならない、とか、



・自分の証しのような話を一切持ち込んではならない、とか、



・道徳的な話をすべきでない、とか、



・政治や社会の話も、文学の話も一切持ち込むべきではない、など。



私はそういう話を聞くたびに、非常に違和感を覚えたものでした。はっきり言えば馬鹿らしくて聞いていられませんでした。「神学教師たちよ、牧師たちよ、あなたたち自身は『人間』ではないのか」と、問い返したくなるばかりでした。



それ以来、私の問いはますます深まり、今日に至っています。



最近流行のツイッターも140字のコミュニケーションです。ツイッターは私も試してみていますので悪口を言うつもりはありませんが、キャッチーな短いフレーズが蔓延する「独り言ブツブツつぶやき社会」(※)になってきたようです。



(※)ただし、稿を改めて言いたいことですが、私は最近「独り言の積極的意義」(positive significance of monologizing)を強調して語ってみたいと思うようになりました。



その中で、説教は、説教者は、どうあるべきかと考えさせられています。



「聖書はこう言っている。私はこう思う。でも、別の人はこう考えている。結論は、こうかもしれないが、ああかもしれない」と、ああでもない、こうでもないと、いろいろ苦悩し、思索し続ける説教が、あってもよいのではないか。



「結論だけ聞きたい人」は、イマドキ、教会なんか来ませんよ、と思っています。