2010年5月9日日曜日
わたしはまことのぶどうの木
ヨハネによる福音書15・1~10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
いまお読みしました個所に記されていますのは、もちろん一つの例え話です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、まず最初に御自分を指さして「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、「わたしの父は農夫である」と言われています(1節)。そして、イエスさまは、御自分と弟子たちとを指さして「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と言われています。
これで分かることは、この例え話が明らかにしていることは、父なる神とイエス・キリスト御自身とキリストの弟子たちとの三者の関係であるということです。イエス・キリストはぶどうの木であり、キリストの弟子たちはぶどうの木の枝なのです。父なる神は、それを手入れする農夫なのです。
しかし、ここでよく考えてみなければならないと思いましたことは、今日この礼拝に集まっているわたしたちは何なのかということです。
おそらく誰でも最初に考えることは、わたしたちもキリストの弟子の仲間なのだから、この中では当然「ぶどうの木の枝」がわたしたちのことだろうということでしょう。しかし、もう一つの見方が成り立つと思いました。「あなたがたはぶどうの木の枝である」と言われているのは、イエスさまの目の前に集まっている最初の弟子たちだけのことかもしれないと考えられるではありませんか。もしこの読み方が正しいとすれば、わたしたちはむしろ「実」である、つまり、ぶどうの木の枝である最初の弟子たちが結んだ「実」のほうであると考えることができるでしょう。私自身はこのように読むほうがこの個所の意図を正しく理解できるだろうと考えています。
この点にこだわることには、もちろん理由があります。私にとって非常に気がかりなことは、この個所に記されているイエスさまの御言葉は、読み方を間違えますと非常に危険な結果を招くであろうということです。この中で目立つのは、たとえば、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)という御言葉です。あるいは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分で実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4節)という御言葉です。さらに「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)という御言葉です。そして、極めつけは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)という御言葉です。
これらの御言葉に一貫しているのは、ぶどうの木につながっていないぶどうの木の枝には恐ろしい裁きがなされるということです。しかし、わたしたちは、この個所をできるだけ丁寧に読むべきです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」というわけです。つまり、この枝は、とにかく一度はぶどうの木につながっていたのです。しかし、それは実を結ばなかった。そのため、農夫である父がその枝を除かれたのです。これで分かることは、ここで例えられているのは、いまだかつて一度もぶどうの木につながったことがない枝、つまり、イエス・キリストの弟子になったことがない人々のことではないということです。この例えばなしの中の否定的な言葉が言おうとしていることは、とにかく一度はたしかにイエス・キリストの弟子仲間に加えられたが、その後でイエス・キリストから離れた人、のことを指しているということです。
しかしそうなりますと、かえってますますわたしたちが心配になるであろうことは、洗礼を受けたわたしたちはもう二度と逃げられないということなのか、もし逃げようとするとどこまでも追いかけられてきて捕まえられて、火あぶりの刑(?)に処せられるということなのか、というようなことかもしれません。もしわたしたちがこんなふうなことを少しでも考えているとしたら、そのわたしたちの様子を外側から意地悪な見方をする人々の目には「あそこに集まっている人々は、ただ逃げ遅れただけの人々なのだ」というふうに見えるかもしれないということになるわけですが、そのような目で見られることが本当によいことなのでしょうか。
あるいは、「実を結ばない枝は取り除かれる」という御言葉を読んで、おびえる。「実」というのは、たぶん伝道の成果のことだろう。つまり、何人を教会に誘い、何人を信者にしたかという、数字的な結果のことだろう。しかし、私は今まで一人も教会に誘ったことがない。あるいは、たくさん誘いはしたが、その人たちの誰も教会にとどまってくれなかった。ああ、私は「実を結ばない枝」である。私は枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、火に投げ入れられて焼かれてしまうのだ、と。
このような読み方が正しいでしょうか。「いや、正しくない!」と私自身は考えていますし、信じています。この例えばなしの中で、わたしたちは「実」です。「ぶどうの木の枝」は、今このときこの話をなさっているイエスさまの目の前に集まっている弟子たちのことです。それでは、「実を結ばない枝」とは誰のことでしょうか。それは、とにかく一度は間違いなくイエス・キリストの弟子になったが、その後でイエス・キリストから離れていった弟子のことです。それは誰でしょうか。もうお分かりでしょう。イスカリオテのユダです。
もちろん、教会の中にはとても優しい人がいて、ユダの話を読むと「ああ、ユダは私だ」とすぐに共感できるし、すぐに同情できるという人がいることを、私は知っています。そのような優しさには大切な面もありますが、危険な面もあります。ユダとは違うと思われるかもしれませんが、たとえば、どこかで起こった凶悪犯罪の話を聞くと、その犯罪によって傷を受けた人々のほうに同情するのではなく、犯罪をおかした人のほうに共感したり同情したりする人がいますが、そういう感情には非常に危険な面があります。それと同じようなことを申し上げる必要があります。
少し前の説教で私は、ユダがしたことは「イエス・キリストに対する裏切り」という点ではペトロがしたことと本質的に同じであると申し上げました。しかし、内容的には全く違うことをしたということも明言しておく必要があります。ペトロはイエス・キリストが逮捕された後、イエスさまのことを「知らない」と三度否定しました。それも裏切りといえば裏切りです。しかし、ユダは違います。ユダはイエスさまをユダヤ人たちに文字通りお金で売り渡したのです。そしてユダはユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしていることを知っていました。そのことを知りながら、ユダはイエスさまを売り渡したわけですから、事実上ユダはイエスさまを殺すことに加担したのです。
もちろんユダ自身はイエスさまに向かってつばを吐きかけたり、槍で刺したり、イエスさまの体を十字架の板の上に釘ではりつけたりはしていません。しかし、彼のしたことは、事実上の殺人です。少なくとも殺人の協力をしました。この点ではユダがしたこととペトロがしたことを一緒くたに扱うことはできません。ペトロのしたことにはかなりの面で同情の余地がありますが、ユダのしたことには同情の余地はありません。ユダは、厳しい裁きを受けなければなりません。しかし、ユダのことと、わたしたち自身のことは、区別して考えるべきであると申し上げたいのです。
「わたしはまことのぶどうの木である」(1節)という御言葉の中で強調されているのは、「まことの」という点であると説明する人がいます。「まことの」とは「本物の」という意味ですが、この言葉には裏があるというのです。つまり、ここでイエスさまがおっしゃっていることを噛み砕いて訳すとしたら、「ある人々は『わたしたちこそがまことのぶどうの木である』と言っているが、彼らは嘘をついている。彼らは偽物のぶどうの木であり、わたしこそが本物のぶどうの木である」というのです。
誰が嘘をついているのでしょうか。すぐ分かることは、イエスさまは明らかにユダヤ人たちを意識しておられるということです。たしかに旧約聖書の中でユダヤ人たちは「ぶどうの木」に例えられています(イザヤ書5章など)。それはそのとおりです。しかし、イエスさまは、彼らではなく、わたしこそが「まことのぶどうの木」であると言われているのです。「豊かな実を結ぶ枝」がつながるべきは、彼らではなく、このわたしであると。つまりこのときイエスさまは、わたしの弟子であるあなたがたの依って立つべきところは、このわたしであると、彼らの信仰の根拠をお示しになることによって、ユダヤ教団からの決別をうながしておられるのです。
それでは、イエスさまの弟子たちが結ぶ「豊かな実」とは何でしょうか。これが教会です。現時点で二千年に及ぶ歴史と伝統を築いてきた、世界中に広がるわたしたちのキリスト教会です。イエス・キリストの十字架を前にしたときには怯えたり、逃げたり、イエスさまを否定したりした弟子たちではありましたが、イエスさまの復活後、イエスさまの愛にとどまり、再び一つところに集まり、教会の礎を築くことができたので、彼らは「豊かな実」を結ぶ枝になることができました。
しかし、ユダはそうではありませんでした。ユダは、偽物のぶどうの木につながろうとし、本物のぶどうの木を殺すことに加担しました。彼は、しなければならないことをせず、してはならないことをして、自分の身に正しい裁きを招きました。
ここまで申し上げてもなお「ユダは私だ」とおっしゃりたい方々を責めようとは思いません。ある意味でユダを反面教師としながら自分の罪を強く意識し、悔い改めの心を忘れないようにすることは大切なことかもしれません。しかし、その方々にぜひお願いしたいことは、今日私がお話ししたことを憶えておいてくださいということです。イエスさまがおっしゃっていることは「信者を何人集めたかのノルマを果たせない教会員は火あぶりだ」という話ではありません。教会とは、脅迫や恐怖心にかられて集まるところではないのです。
(2010年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)