2009年7月31日金曜日

FacebookとTwitterを始めました


友人に勧められて、Facebook(フェイスブック)とTwitter(ツィッター)を始めました。こればかりは全くもって時流に乗せられた格好です。「もうね、どうぞどこでも連れてってくださいな」という気持ちです。でも、しばらくは面白く使えそうだと予感しています。昨日だったか「ビル・ゲイツ氏がFacebook(フェイスブック)を退会した」というニュースが流れていましたので、ある人々にとってはすでに用済みのツールなのかもしれません。

Facebook(フェイスブック)
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Twitter(ツィッター)
http://twitter.com/ysekiguchi


2009年7月26日日曜日

わたしが命のパンである


ヨハネによる福音書6・30~40

「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。』すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」

今読みましたのは、ヨハネによる福音書に記された、イエス・キリストの御言葉です。これは弟子たちとの会話の中で語られたものです。弟子たちが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエスさまに願いました。「そのパン」とは、この直前に語られている「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)を指しています。つまり、弟子たちがイエスさまに願ったのは、天から降って来て世に命を与える神のパンです。しかも、ここで「パン」とは人間の食べ物の総称です。それは日々の糧であり、生活必需品です。またそれは、人間の命そのものと呼んでもよいものです。わたしたちの命を支える力と言い直しても構いません。

ここで考えさせられることは、わたしたちは毎日何を食べて生きているのだろうかということです。かつてイエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られたことがあります(マタイ4・4)。しかもそれは旧約聖書の申命記8・3からの引用でした。つまり、旧約聖書と新約聖書とに共通している教えは、人間はパンだけを食べて生きているのではないということです。言い方を換えれば、わたしたちの命を支える力としての食べ物は八百屋で材料を買ってきて台所で調理して食卓に並べられる、あの品々だけではないということです。

それならば、わたしたちに必要なものは何でしょうか。イエスさまは「神の口から出る一つ一つの言葉」の必要性を強調されました。そしてまた、今日の個所で語られていることは、さらに一歩踏み込まれています。それは「神の口から出る一つ一つの言葉」の具体的な内容であると言ってもよい。それこそがまさに「わたしが命のパンである」というイエスさまの御言葉に集約されている内容です。つまり、「神の口から出る一つ一つの言葉」とは「命のパン」そのものとしてのイエス・キリスト自身であるということです。

ここで少し整理しておく必要がありそうです。イエスさまが弟子たちに教えていることをまとめて言えば、要するに、あなたがたの食べ物はこのわたし自身であるということであることが分かります。「このわたしがあなたがたの食べ物である」と言っておられるのです。もっとはっきり言えば「このわたしを食べなさい」と言っておられるのです。

この件に関してイエスさまが明言しておられる最もはっきりした言葉が、6・55以下に出てきます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

これは少し冷静に考えれば、そんなことができるはずはないと、誰もが思うようなことです。弟子たちの目の前に立っておられたイエスさまの姿は、どこから見ても、一人の生きた人間でした。人間の姿をしたイエスさまが弟子たちに向かって「わたしの肉を食べなさい」とか「わたしの血を飲みなさい」などと言われている様子は、奇妙で不気味なものです。心の底からぞっとするという気持ちを持つ人がいてもおかしくないようなことを、イエスさまはおっしゃっています。

事実、この話をイエスさまがなさった直後に弟子の多くが感じたことは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」ということでした(6・60)。このような話をイエスさまがなさったばかりに弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、と記されています(6・66)。

しかし、ここでわたしたちは、イエスさまがこのことをいわゆるたとえ話としておっしゃったわけではないということも理解しておくべきです。たとえ話という言葉を聞いてわたしたちが通常思い浮かべることは、それは事実でも現実でもない空想であり、作り話(フィクション)であるということでしょう。ところが、イエスさまがおっしゃっていることは、その意味でのたとえ話ではありません。もっとリアルなことです。事実であり、現実です。わたしたち人間は本当にイエスさまを食べることを求められているのです。

しかし、もしそうであるならば、わたしたち人間が次に問題にしなければならないことは、わたしたちはイエスさまをどのような方法で食べればよいのだろうかということです。イエスさまの食べ方は何かと問わねばなりません。しかしこうなりますと、いよいよ不気味な話になっていくでしょう。イエスさまの体のどの部分は美味しいとか、どの部分は苦いとかいうようなことをまともな顔で語り合うことは、ほとんど不可能です。だからこそ、わたしたちはつい、このイエスさまのお話はたとえ話であると考えたくなるのです。

しかし、わたしたちはここでよく考えてみるべきです。たしかに「イエスさまを食べる方法は何か」と言われると、わたしたちはほとんどお手上げ状態です。しかしそれではわたしたちはイエスさまのおっしゃりたいことの結論部分まで全く分からないと感じるでしょうか。いや、そんなことはない、と言える要素も残っているのではないかと私には思われます。

答えを導き出すためのヒントは、先ほど引用した6・56の御言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここで教えられていることは、わたしたちがイエスさまを食べる方法ではなく、むしろイエスさまを食べた結果です。イエスさまを食べた人は「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

つまり、その結果として起こることは要するに、その人がイエスさまの所有物になり、かつイエスさまがその人の所有物になるということです。わたしがイエスさまのものとなり、かつイエスさまをわたしのものにすることです。それは、誤解を恐れずに言えば、イエスさまの私物化とさえ呼ぶことができることでもあります。もちろんそれはほとんど誤訳であるというべきです。しかし、たしかにそれは誤訳なのですが、しかし、限りなく真理に近い誤訳であるというべきです。

別の観点を持ちこんでおきます。私がいま語ろうとしていることは、わたしたち人間とイエスさまとの距離感に関することであると表現し直すことができます。わたしたちが私物化という言葉を使うときは99%悪い意味で使います。しかしそのようにでも言わないかぎり決して縮まらない距離があります。イエスさまを食べて私物化する。腹の中におさめてしまうことによってイエスさまとわたしが一体化する。そのとき初めてイエスさまとわたしたちの距離がゼロになるということが起こるのです。

そのときこのわたしとイエスさまはたしかに全く一体化しています。ここまではわたし、ここからはイエスさま、というふうに区別することができない状態にあるでしょう。食べるとはそういうことです。お腹の中に入ったもの、胃袋の中で消化されはじめたものをこのわたしと区別して考えることはできません。それはわたしです。大根であろうと人参であろうと、牛肉であろうと豚肉であろうと、いったんそれがお腹の中に入った時点でそれはわたし自身なのです。

イエスさまとわたしたちの関係においてもまさにそのような一体的な関係になることが求められています。今「わたしたち」と言いました。それは第一義的にはイエスさまの弟子である者たちです。イエスさまを救い主と信じる信仰を持って生きる者たちです。もし皆さんの中にイエスさまの存在に対していまだに赤の他人のような感覚しか持てないままでいる方々がおられるとしたら、その方々はまだイエスさまのことを食べておられないのです。その方々にとってのイエスさまは、食べる前の、口の中に入れる前の、大根や人参、牛肉や豚肉のままです。調理はすでになされているかもしれない。しかし、まだその料理を味わっておられないのです。

ところが、イエスさまは、わたしの肉を食べなさいと言われ、わたしの血を飲みなさいと言われています。つまり、イエスさまは弟子たちに対して、このわたしをあなたのものにしなさいと言われているのです。わたしがあなたになりますから、あなたはわたしになりなさいと言われているのです。

この個所を読む人々の中に、ここでイエスさまが「わたしが命のパンである」と言われているのは聖餐式のパンを指していると理解したがる人々がいます。しかしその理解に私は反対します。聖餐式は全く関係ないと申し上げたいわけではありません。しかしここで問題になっていることは聖餐式のことだけではありません。それは事柄の矮小化に通じます。聖餐式のあの小さなパンを食べさえすればイエスさまを食べたことになるでしょうか。私はそうは思いません。そのような理解をイエスさま御自身が否定しておられます。イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われているからです。

それでは、日曜日の礼拝に出席することだけで事が済むでしょうか。それもイエスさまが否定しておられます。「パン」とは毎日食べるものの総称だからです。その意味では「命のパン」と訳すことは誤訳とは言えないとしても、やはり事柄の矮小化に通じる要素を提供してしまっていると言わざるをえません。

「命」とはライフ、すなわち「生活」です。そして「パン」は食べ物全体、すなわち「糧」です。イエス・キリストは日常生活を支える糧です。わたしたちは毎日イエスさまを自分のものとする必要があり、日々一体化すべきです。そのようにしなさいと、イエスさま御自身がわたしたちイエスさまを信じて生きる弟子である者たちに命じておられるのです。

そのためにわたしたちにできることは何でしょうか。ここから先は月並みな言い方しかできません。聖書をとにかく毎日読むことです。あるいは毎日の祈りの中でイエスさまと交わり続けることです。そのときイエスさまとの距離がゼロになります。それこそが「イエスさまを食べること」なのです。

(2009年7月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月19日日曜日

神のみわざとしての信仰


ヨハネによる福音書6・22~29

「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」

今日の個所に記されていますことは、イエス・キリストと「群衆」との間で交わされた対話の前後の様子と、その対話の内容です。対話は25節から始まります。最初に見ておきたいのは、その対話の前後の様子です。

「その翌日」(22節)とあります。何の翌日であるかははっきりしています。その日はイエスさまが大人の男性だけで五千人、また女性と子どもたちを含めれば一万人とも思われる人々のお腹を満たすために、大麦のパン五つと魚二匹を取り分けてくださり、それによってすべての人が満腹したというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でした。

しかし、それだけではありません。湖の上に浮かぶ舟の中で激しい嵐に苦しんでいた弟子たちのもとにイエスさまが湖の上を歩いて助けに来てくださるというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でもありました。

これら二つの出来事は間違いなく非常に驚くべきものでした。また「ほとんど信じがたい」と多くの人が感じたであろう出来事であったということも否定できません。しかし、そのことは多くの人々の前で、目に見える事実としてなされたのです。だからこそ、このように聖書に記されているのです。

しかしまた、イエスさまがなさったことは確かに驚くべき出来事であり、かつほとんど信じがたい出来事でもありました。それは明らかに、当時の人々に非常に強いショックを与えたのです。我々の目の前で何かとんでもないことが起こった。人類はこれからどうなっていくのだろうかと思うほどの衝撃を感じ、事実上のパニックの状態が始まったのです。今申し上げたようなことが「湖の向こう岸に残っていた群衆」(22節)の状況であったと考えることができるでしょう。

わたしたちなら、どうなるでしょう。私でしたら、かなりびっくりすることは間違いありません。私はパン五つと二匹の魚だけで群衆を満足させた人を見たことがありません。また水の上を歩いたという人も一度も見たことがありません。皆さんは、そういう人を見たことがあるでしょうか。ご覧になった方は教えてください。私もそのような人にお会いしてみたい。できれば一緒に写真を撮らせてもらいたいです。

おそらくこのようなものではないかと思われるのです、二つの奇跡が行われた翌日の群衆が抱いていた気持ちは。彼らはイエスさまが行われた奇跡的なみわざを目の当たりにして驚き、パニック状態にあったのです。そして彼らは、イエスさまに何とかして近づきたいと考えました。できればお知り合いになりたいと願って。握手でもしてもらいたい。人気のある人を一目見たいと思う気持ちは昔も今も変わりません。イエスさまもそのような対象として見られたのです。

ところが、イエスさまは群衆の前から立ち去られました。なぜでしょうか。逃げられたのですというと語弊が出てきますが、おそらくそういう面もあったはずです。だってそこには五千人ないし一万人もいたのですから。かたや、イエスさまはおひとりだけ。イエスさまが「群衆から離れてひとりになりたい」とお感じになったとしても、おかしくはないでしょう。

しかし、イエスさまが群衆の前から立ち去られたことには、ただお逃げになったということだけではなく、もう一つの面があったと思われます。イエスさまはそのときの群衆が抱いた気持ちの中身に対する批判的な意図というべきものをお持ちであった。そのように説明できるでしょう。

イエスさまは御自分の意思や願いで人気者になろうとなさったことは一度もなく、むしろそのようなことを非常にお嫌いになったのです。イエスさまに「先生は何が苦手でしょうか」と質問したときに返ってきそうな答えは「人からチヤホヤされることです」ということです。「あなたは偉い人だ」と言われたり、誰かから褒めそやされたりすることをとにかく苦手とされていたのではないでしょうか。そのようなことを言われれば言われるほど苦痛を感じる。そのようなことを言われるたびに「わたしが偉いのではない。わたしの父なる神が偉いのである」と反論なさっていたであろうイエスさまの姿を思い起こすことができます。

ところが、イエスさまがひとりになることを群衆は許そうとしなかったのだということが、今日の個所から分かってきます。

彼らはイエスさまを捜し回っているうちに、小舟が一そうしかないこと、しかも、その舟にイエスさまは乗っておられなかったということに気づきました。ところがイエスさまは舟にお乗りになっていなかったにもかかわらず、彼らの村にも見当たらない。それではイエスさまはどこにおられるのかということが大きな騒ぎになったようです。イエスさまは、舟にお乗りにならなかった代わりに湖の上を歩いて行ってしまわれたのです。

ですから、「湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」(25節)とありますのは、これを書いているルカの気持ちを察すれば、人々の驚きの様子を描いたものでもあるように見えます。しかし、それと同時に、何となく呆れるというか、開いた口がふさがらないというか、そのとき何が起こったのかを理解できないというか、非常に疑わしいものと感じている人々の様子を描いたものでもあるように見えます。彼らがイエスさまに問うていることは「おやおや、今ここにおられるはずのない先生が、どうしておられるのですか。どのようにして来られたのですか。舟に乗ること以外の方法はありえないと思うのですが」ということです。驚いているというよりは、怪しんでいるのです。

しかし、イエスさまは彼らのこの問いには一言もお答えになりませんでした。そのときイエスさまがお語りになったのは、この人々に対する厳しい言葉でした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。要するに、あなたがたはわたしに興味があるのではなく、食い意地が張っているだけだと言っておられるのです。与えられたパンと魚を食べてから時間が経ち、お腹がすいたので、新しい何かを欲しがっているだけであると。しかし「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とイエスさまはお続けになりました。

ここではっきりと示されていることは、わたしたちの救い主イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださった目的です。それはあなたがたに朽ちる食べ物を与えるためではなく、朽ちない食べ物、すなわち永遠の命に至る食べ物を与えるためである。そのようにおっしゃっています。

しかし「永遠の命に至る食べ物」とは具体的に言えば何のことでしょうか。またそのために「働きなさい」と言われているその「働き」とは何をすることなのでしょうか。これについてイエスさまが教えてくださったことは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)ということでした。「神がお遣わしになった者」とはイエスさまのことです。イエスさまを信じること、すなわち、信仰というわざ(神のみわざ!)を行う人々に、父なる神が永遠の命というものを与えてくださるのだと、イエスさまはお語りになったのです。

ここで注目すべき点は、イエスさまが信仰を「神の業」と呼んでおられることです。しかし、信仰とは「わざ」でしょうか。つまり、それは「働き」でしょうか。「行い」でしょうか。わたしたちは、おそらくそのように考えてこなかったと思います。わたしたちが長く聞いてきたのは、人が救われるのは、わたしたち人間の側で行うわざによるのではなく、ただ神の恵みによるのであるというふうな言葉です。信仰を「わざ」とか「行い」というような言葉で説明することには、いろんな意味で躊躇を感じてきたはずです。

しかし、ここでイエスさまが語っておられるのは紛れもなく「行い」ないし「わざ」としての信仰です。信仰とは名詞ではなく動詞であると、説明することができるでしょう。つまり、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、「信じる」という人間の行為であるということです。あるいは「信仰者として生きること」、すなわち「信仰生活を送ること」という意味での人間の生きざまや生活態度を問うておられるのです。

このイエスさまの問いかけは、ここにいるわたしたち一人一人に対しても投げかけられています。わたしたちそれぞれに与えられている信仰というものは、絵に描いた餅のようなものにしてしまってはならず、わたしたちの生き方そのものでなければならないということです。信仰とは、その意味での行いなのです。しかも、信仰とは、神が与えてくださる恵みの賜物であるという意味での「神のみわざ」なのです。神の賜物としての信仰は、わたしたちの中で永遠に失われることはありません。わたしたちは、生涯、神を信じ続けることができるのです。

(2009年7月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月18日土曜日

ジュネーヴ礼拝式を再現 カルヴァン生誕500年で記念集会(キリスト新聞)

キリスト新聞 2009年7月18日号

ジュネーヴ礼拝式を再現 カルヴァン生誕500年で記念集会(キリスト新聞)

カルヴァン生誕500年を記念する集会が7月6日、東京神学大学(東京都三鷹市)で行われ、教派を超えて約240人が礼拝堂を埋め尽くした。同集会は「礼拝者カルヴァン」とのテーマを掲げ、アジア・カルヴァン学会日本支部と日本カルヴァン研究会を中心とする実行委員会(久米あつみ委員長)が主催して行われた。

初めに芳賀力(東京神学大学教授)、秋山徹(日本基督教団上尾合同教会牧師)、菊地純子(日本キリスト教会神学校講師)の各氏がそれぞれ、「讃美と応答――この世を神の栄光の舞台とするために」、「カルヴァンのジュネーヴ教会の礼拝」、「ジュネーヴ詩編歌という世界」との題で講演した。

芳賀氏は、カルヴァンの思想が世界を肯定する性格を秘めており、カルヴィニストたちが近代世界の形成と変革の担い手となったことを論証した上で、カルヴァンの霊性を段階ごとに整理した。

秋山氏は、カルヴァンの礼拝理解を実際の聖餐礼拝の順に即して解説し、当時の礼拝を「再現」することで今日の礼拝のあり方を再確認したいと強調した。

菊地氏は、今井奈緒子氏(東北学院大学教授)によるジュネーヴ詩篇歌の演奏を聴き、参加者と共に歌うことで、その歴史的背景と意義について共有した。

講演の後、ジュネーヴ教会の礼拝式、聖餐式が1562年版の式文に基づいて再現され、詩編46編によるカルヴァンの説教も全文が読み上げられた。

参加した神学生(32)は、「カルヴァンの世界肯定・否定両方の態度が、讃美・応答へと有機的に結びつくことを教えられた」と感想を語った。

全体の進行を務めた関口康氏(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)は、「盛会のうちに閉幕できたことを感謝したい。教団・教派を超えた協力体制は見事であった。100年前や50年前の日本で『カルヴァン生誕記念集会』が行われた形跡はない。日本史的な意義を持つ集会になったと思う」とふり返った。

(キリスト新聞、2009年7月18日号の切り抜き)

2009年7月5日日曜日

湖の上を歩く


ヨハネによる福音書6・16~21

「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」

今日の個所には、先週の個所に描かれている出来事に優るとも劣らない驚くべき出来事が紹介されています。ここに描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが行ってくださった奇跡的なみわざです。嵐の中の湖に浮かぶ舟に乗っていた弟子たちのもとに、イエスさまはその体をもって赴かれたのです。その方法は何と驚くべきことに、湖の上を歩いていくというものでした。そのようなことは人間には不可能です。しかし、神の御子なる救い主イエス・キリストにはそうすることが可能だったのです。そうであるということがはっきりと分かるように、今日の個所はその出来事を紹介しています。

しかし、ある意味で当然ともいえる疑問をこの個所を読む人々の多くが感じるであろうことも否定できません。先ほども申し上げましたとおり、水の上を歩くというようなことはわたしたち人間には不可能です。わたしたちの多くが持っていると思われる少し悪い癖は、自分にとって不可能なことは他の人にも不可能であると考えたくなることです。そのようなことは絶対にありえないと言いたくなります。

しかし、人間の可能性という点だけを考えてみても、少し前までは全く不可能であると思われていたことを可能にしていく人々がいるということをわたしたちは体験的に知っています。野球のピッチャーの投げる球の速さ、陸上競技のランナーの走る速さ、自動車や新幹線や飛行機やロケットの速度、その他いろいろな例を挙げることができるでしょう。この記録、この限界を超えることは人類にはもはや不可能であると思われていたようなことが可能になる。古い記録は塗り替えられ、新しい記録がうち立てられる。そういうことはありえないかといえば、あると言わなければなりません。

ところが、今日の個所に紹介されているイエス・キリストの奇跡的なみわざを、今申し上げたような意味での人間の可能性という観点から理解しようとすることは間違いです。イエスさまという方は他の人間とは異なり、水の上を歩くことができるという特殊な能力を持っておられた人間だったのです、というようなことで、今日の個所を説明することは私にはできません。なぜなら、この個所の話はどう見てもそのような話ではないからです。イエスさまは、水の上を歩くことができなかったかつての人類の限界を超えて新しい記録を打ち立てることができた記念すべき記録保持者であるというようなことではありません。今日の個所が明らかにしていることは、そのようなことではなく全く別のこと、すなわちわたしたちの救い主イエス・キリストは、人間の肉体をまとった真の神であるということです!

神についてわたしたちが考えなければならないことは、その方は人間の可能性の延長線上におられる方ではないということです。わたしたち人間が一生懸命に努力して、他の人にはできないことができるようになって、そのような特別な能力を身に付けた人間が「神」と呼ばれるようになる。それと同じような道筋で人間と神との関係を考えていくことは、聖書を読むかぎり、不可能です。神になれない人間は努力が足りないのであって、努力しさえすれば誰でも神になりうる、というような考え方は、聖書から出てくるものではありません。

イエス・キリストが神であるという場合も、わたしたち人間にできないことがおできになるから神であるというふうに考えると、間違いを犯します。また、湖の上を歩くというような人間にはできないことをイエスさまがなさったと聖書に書かれているのを読んで、これは作り話であるとか人間の思い込みであると言いだすことももっと間違いです。神と人間は全く別の存在であるとか、全く別次元の存在であると考えるほうが、事柄に対してはるかに忠実です。このような言い方で果たして納得していただけるかどうかは分かりませんが、何はともあれ、イエスさまとわたしたちを一緒くたにすることはできないのだということを、よくよく考える必要があるのだということを申し上げておきたいと思います。

しかしまた、これから申し上げることは、これまで申し上げたことを否定するつもりで言うことでは決してありませんが、何と言ったらよいのか、もしかしたらほんの少しだけ皆さんに安心していただけるようなことかもしれません。それは次のようなことです。

あらかじめ、念のため、声を大にして言っておきたいことは、この個所に書かれていることは、イエスさまが現実に行われた奇跡的なみわざであるということなのです。しかし、この個所の中でやや強調されているとも思われることは、イエスさまが行ってくださったみわざは、弟子たちの目に見える範囲内で起こったことであるということ、別の言い方をすれば、ある意味でこれは弟子たちにとっての主観的な出来事であったということです。私が何を言いたいのかをテキストからご説明いたします。

この個所でやや強調されているとも思われること、と申し上げましたのは、このみわざが行われた場面の薄暗さ、あるいは視界の不透明さです。「夕方になったので」(16節)とありますとおり、それは夕方の出来事でした。「既に暗くなっていた」(17節)とはっきり書かれてもいます。そして「強い風」が吹き、湖は荒れていました。そのような中で弟子たちは舟に乗っていました。当然、舟は大揺れに揺れていました。雨や水しぶきが顔や体にバサバサかかってくる。目をゴシゴシ吹いても、また風や水が吹き付けてくる。つまり、わたしたちが想像してもよさそうなことは、このときの弟子たちの視界は限りなくゼロに近かったであろうということです。

しかし、その続きに書かれていることは、そのような視界ゼロ状況の中で弟子たちの目に見えたのがイエスさまのお姿だったということです。「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」(19節)とあります中の「見て」という言葉が、とても重要な意味を持っています。この「見る」(テオレオー)には肉眼で見る、観察するなどの字義どおりの意味に加えて、心で感じるとか気づくという意味があります。このような説明をすることにおいて私が言いたいことは、このときイエスさまは実際には水の上を歩いてなどおられなかったのだが、弟子たちの目にはそう見えたのだとか、歩いてこられているような気がしたのだ、というようなことではありません。そういうふうに誤解されますと、本当に困ります。それは全くの誤解です。

しかし、それは誤解であるということをご理解いただいた上でなお申し上げたいことは、この個所で強調されていることは、イエスさまが実際に水の上を歩いておられたかどうかということ、すなわち、それが客観的な事実であったかどうかという側面よりも、むしろそのとき弟子たちの目にイエスさまのお姿が「見えた」という彼ら自身の内面的な感覚、すなわち、この出来事の主観的な側面のほうであるということです。

私は今、なんだかややこしいことを言っているという自覚があります。ですから分かりにくい点はお詫びしなければなりません。しかし、このようなことを丁寧に考えていくことが今日の個所を理解するために重要であると思うゆえに、申し上げているつもりです。どのような例を挙げれば、すっきり理解していただけるでしょうか。私に思いつくのは、親子の関係です。

私が二人の子どもの父親であるということは客観的な事実です。しかし、そのことと、二人の子どもたちが私を「父親である」と認めること、別の言い方をすれば、私が子どもたちにとって「父親らしくある」ということを子どもたちが受け入れてくれるということとは別問題であると言わねばならないはずです。

あるいは、牧師と教会の皆さんとの関係にも、それと似ている面があるでしょう。私が松戸小金原教会の牧師であるということは現時点での客観的な事実です。しかしそのことと、皆さんが私を「牧師である」と認めてくださること、すなわち皆さんにとって「牧師らしくある」かどうかは別問題であると、私は強い反省をこめて自覚しております。

それと同じように、と言うことをお許しいただけるでしょうか。イエスさまが水の上を歩かれたことは客観的な事実であるということをわたしたちが信じることは、重要です。しかし、ある意味でそれよりももっと重要なことがある、それは、その客観的事実を弟子たちが「見た」ということ、すなわち、わたしたちのためにイエスさまは嵐の中を歩いて来てくださっていると“信じることができた”ということなのだ、ということです!

つまり、私が申し上げたいことは、この個所で話題になっていることは、イエスさまが持っておられる特殊能力ということではなく、むしろイエスさまと弟子たちの“信頼関係”であるということです。

逆のことを考えてみると、ぴんと来るものを感じていただけるかもしれません。わたしたちはこんなに苦労しているのに、もしかしたら今にも死ぬかもしれないと感じるほどの危険にさらされているのに、イエスさまは、陸からわたしたちの姿を傍観しているだけ。かろうじて大きな声で「大丈夫か~」と呼びかけてくれているようではあるが、薄暗がりの中、暴風雨の中、揺れる舟の中で、その声は届かない。そのうち姿も見えなくなった。結局イエスさまは、わたしたちに何もしてくださらない。そのように感じるような状況に弟子たちが置かれていたならば、いくらイエスさまを救い主として信じなさいと言われても、信じようがないということになりはしないでしょうか。

しかし、イエスさまは、そのようなお方ではなかったというのが今日の個所の主張です。暗闇であろうと、底深い湖であろうと、嵐であろうと、そのようなものは、イエスさまと弟子たちの信頼関係を妨げるものではありえない。そんなものはイエスさまが乗り越えてくださる。水の上を踏みしめて、このわたし、わたしたちのもとまで一直線に助けに来てくださる。弟子たちの目にそのようなイエスさまの姿が「見えた」こと、それが何よりも彼らの救いだったのです。

そして、彼らはイエスさまの声を聞きました。「わたしだ。恐れることはない」(20節)。嵐の中で、人の声も鳥の鳴き声も聞こえないようなぐしゃぐしゃの雑音の中で、彼らの耳に、救い主の声がはっきりと聞こえたのです。

これと同じ出来事は、ヨハネによる福音書以外に、マタイによる福音書(14・22~27)やマルコによる福音書(6・45~52)にも紹介されています。しかし、ヨハネによる福音書に“書かれていないこと”が一つあります。それは、湖の上を歩いてこられたイエスさまが弟子たちの舟の上にお乗りになったかどうか、です。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)。彼らがイエスさまを舟に迎え入れる前に、陸に着いたかのように書かれています。つまり、ヨハネに従えば、イエスさまは、最初から最後まで、湖の上を歩きっぱなしだったのです!

これが何を意味するのかを私は答えることができませんが、非常に意味深長であることだけは間違いありません。

(2009年7月5日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月3日金曜日

『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』が発売されました

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『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』(アジア・カルヴァン学会日本支部編・久米あつみ監修、キリスト新聞社、2009年)が7月3日(金)に発売されました。



本書の英語タイトルは以下のとおりです。
Taking a New Step - Calvin Studies in the Quincentenary of his Birth.
 Japanese Association of Asian Congress on Calvin Research (Kirisuto Shimbun, 2009)



ここ(↓)から注文できます。
http://www.kirishin.com/2009/07/500-1.html



『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』目次



*アジア・カルヴァン学会の始まったころ (渡辺信夫)
*聖書解釈と説教-カルヴァンの聖書解釈論の考察 (野村 信)
*カルヴァンの聖餐論 (ヴィム・ヤンセ)
*カルヴァンのレクイエム(吉田 隆)
*カルヴァンにおける人間的なるものの評価 (関口 康)
*カルヴァンとロヨラ-二つの教育改革 (久米あつみ)
*16世紀後期のルター派、ツヴィングリ派、カルヴァン派における「獣」の解釈 (イレーナ・バッキュース)
*研究ノート/16世紀宗教論争の言語的脈絡 (竹下和亮)
*セバスティアン・カステリョによる異端迫害批判の神学的論拠について (鈴木昇司)



【A5判/ハードカバー/250頁/定価2625円】です。



また、今年は以下のようなカルヴァン関係の新刊が予定されています。「カルヴァン年」にふさわしい、怒涛の出版ラッシュです。自信をもってお勧めできる本ばかりです。



カルヴァン生誕500年記念出版物一覧



1月○『キリスト教綱要 改訳版』第4篇 カルヴァン著(渡辺信夫訳 新教出版社)
3月○『カルヴァン論争文書集』カルヴァン著(久米あつみ編訳 教文館)
4月○『リフォームド神学事典』ドナルド・K. マッキム編
     (石丸 新、村瀬俊夫、望月 明監修 いのちのことば社)
5月○『牧会者カルヴァン 教えと祈りと慰めの言葉』エルシー・A・マッキー著
      (出村 彰訳 新教出版社)
    ○『祈りについて 神との対話』カルヴァン著、I. J. ヘッセリンク編・解説
      (秋山 徹、渡辺信夫訳 新教出版社)
    ○『信じるということ 上 ハイデルベルク信仰問答を手がかりに』
     A. ラウハウス 著(菊地純子訳 教文館)
6月○『ジュネーブの議会と人びとに宛てたヤコポ・サドレート枢機卿の手紙×
      ジャン・カルヴァンの返答』ヤコポ・サドレート、ジャン・カルヴァン著
      (シリーズ「宗教改革の焦点」01 石引正志訳 一麦出版社)
    ○『出村彰宗教改革論集』全3巻(新教出版社)
    第1巻『カルヴァン 霊も魂も体も』 第2巻『改革派教会とその遺産』
     第3巻 未定
7月○『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』
      (アジア・カルヴァン学会日本支部編、久米あつみ監修、キリスト新聞社)
   ○『カルヴァンの生涯 上 西洋文化はいかにして作られたか』
      アリスター・E. マクグラス著(芳賀 力訳 キリスト新聞社)
   ○「カルヴァン特集」『礼拝と音楽』日本基督教団出版局
   ○『カルヴァンの教会論』増補改訂版 渡辺信夫著(一麦出版社)
   ○『「キリスト教鋼要」を読む人のために 7行で読むカルヴァン』フォード・ルイス・バトルズ著
      (金田幸男・高崎毅志訳 一麦出版社)
秋頃○『エフェソ書説教集(仮題)』カルヴァン著
          (アジア・カルヴァン学会編訳 キリスト新聞社)
      ○『改革派教会信仰告白集』全6巻 別巻1(大崎節郎編 一麦出版社)
11月○『カルヴァンの生涯 下』アリスター・E. マクグラス著
         (芳賀 力訳 キリスト新聞社)
12月○『カルヴァン書簡集』カルヴァン著(久米あつみ編訳 新教出版社)
冬頃○『カタリーナ・シュッツ・ツェル ある16世紀宗教改革者の生涯と思想』
      エルシー・アン・マッキー著(芳賀繁浩訳 一麦出版社)
    ○『信じるということ 下 ハイデルベルク信仰問答を手がかりに』
           A. ラウハウス 著(菊地純子訳 教文館)



(※タイトル・出版時期等は変更される可能性があります。)



2009年6月28日日曜日

イエス・キリストと共に生きる豊かさ


ヨハネによる福音書6・1~15

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」

今日の個所に紹介されている出来事は、新約聖書においては、このヨハネによる福音書以外の三つの福音書のすべてに出てくるものです。すなわち、それは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、御自身のもとに集まった大勢の群衆が満足することができた豊かな食べ物をふるまわれたという、とてもありがたい出来事です。

イエスさまは弟子たちの前ですでに、次のようにお語りになっていました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・32)。それを聞いた弟子たちが「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったところ、イエスさまは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とお話しになりました(4・33~34)。

これで分かる一つのことは、イエスさまにとっての「食べ物」とは何を意味するのかということです。神の御子なるイエス・キリストをこの地上の世界へとお遣わしになった方とは、イエス・キリストの父なる神のことです。「神の御心」とは、神がこの地上の世界に生きている人々を何とかして罪と悪と死の支配のもとから救い出してくださろうとする、強いご意志です。短く言い直せば、神の御心とはわたしたち人間を救うことです。その神の救いのみわざがこの地上で行われること、すなわち、その救いのみわざを神の御子なるイエス・キリストが父なる神の御心に従って成し遂げることこそが、イエス・キリストの食べ物であると言われたのです。

ここで考えさせられますことは、イエスさまという方はどんなものを食べて生きておられたのだろうかということです。わたしたちのキリスト教信仰に基づいて言いますならば、イエス・キリストという方は、まことの神であられると共に、まことの人間でもあられる方です。そうだとすれば、イエスさまがわたしたち(普通の)人間と同じものをお食べになっていたとわたしたちが語るとしても、それが間違っているというわけではありません。パンも魚も、もちろん野菜や肉も、きっとお食べになったでしょう。そのようなものを、イエスさまは全くお食べにならなかったというふうに考える必要はありませんし、また、わたしたちがそのようなものを食べながら生きていることは間違っていると考える理由も全くありません。

しかし、先ほど触れました「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・31)というイエスさまの御言葉を読みながら、またわたしたちが今日開いている聖書の個所を読みながら私が考えさせられることは、わたしたち自身もまた、パンや魚、野菜や肉だけを食べて生きているのかといえば、それだけであると語ることはできないだろうということに他なりません。

繰り返し申せば、イエスさまの食べ物とはこの地上の世界に生きている人々が救われることです。ここで地上の人々とは、わたしたちのことです。わたしたち人間のことです。わたしたち人間が救われるということが、なぜイエスさまの「食べ物」なのでしょうか。その意味は、おそらく、それがイエスさまの生きる喜びや楽しみという点と結びつく何かであると思われます。

あるいは、もっと突っ込んでいえば、生きる目的や目標という次元に触れることであるとも言えるでしょう。食べることが生きる目的であると私が申し上げますと、皆さんの中には抵抗を感じる方がおられるかもしれません。「わたしは食べるために生きているわけではない」と強く反論なさる方がおられるかもしれません。しかし、現実のわたしたちの姿は、人生のうちのかなりの時間、あるいはかなりの力を食べることのために注いでいると言わざるをえません。違うでしょうか。

もちろん、自分一人のことだけを考えれば、食べることなど人生の中で大した問題ではないと言いたくなる面もあることは、私にも理解できます。しかし、家族のこと、あるいはもう少し視野を広げて社会のことや世界全体のことを考え、その人々を食べさせること、すなわち、命を支え、育み、養うことを真剣に考えはじめるならば、食べることなどどうでもいいことであるというような突き放した考え方はできなくなるはずです。

少し厳しい言い方をお許しいただくならば、食べることなどどうでもいいことだと言いだす人々は、自分のことにしか関心がないのです。自分と共に生きているすべての人々のことに少しでも関心を持つ人々は、食べること、いえ、食べさせることは、わたしたちが生きているこの地上の世界において最も重要な事柄に属しているのだということに気づくのです。

しかしまた、ここでこそ問題になることは、わたしたちは何を食べるのか、あるいは何を食べさせるのかという点です。イエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃったその食べ物とは何なのかです。問い方を換えるなら、人を救うこと、助けること、すなわち、苦しみや悲しみの只中にいる人々に喜びや楽しみを与えるという目的のために必要なものは何なのかです。それはパンや魚、野菜や肉だけでしょうか。もちろんそれもものすごく大切な要素です。しかし、おそらくそれだけではないでしょうということをわたしたちは真剣に考える必要があるということを、私は今日の個所を読みながら深く思わされるのです。

イエスさまは大勢の群衆が御自身の方へ来るのをご覧になったとき、弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と言われましたが、この質問は「フィリポを試みるため」(6節)であったと、記されています。ここで注意しなければならないことは、聖書の中で「試みる」という字が用いられているとき、ほとんどの場合は悪い意味であるということです。有名なのは、サタンと呼ばれる悪魔がイエスさまを「試みた」というこの言葉の使い方です。その意味はもちろん「試す」ということです。テストすることです。しかしそこから派生して、罠にはめるとか、窮地に追い込むとか、落とし穴に陥れるというような意味を持ちはじめます。

イエスさまは御自分の弟子に罠を仕掛けて窮地に追い込む悪魔のような方なのでしょうか。もちろんそういう話ではありません。しかし重要なことは、イエスさまはフィリポにとっての教師であり、フィリポはイエスさまの生徒であるということです。教師が生徒に試験を課すこと、それはどこでも行われていることであり、しなければならないことです。それが教師の義務であり、責任です。わたしが教えてきたことをあなたがたが正しく理解しているかどうかを調べること、そしてわたしが教えたことをもしあなたがたが間違って理解していることが分かったときには正しく教え直すこと、それが教師の務めなのです。

このときフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金に相当します。二百デナリオンはその二百倍です。これをわたしたちの「二百円」と換算する人もいますし、「二百万円」と換算する人もいます。どちらが正しいかを判断するのは難しいことですが、フィリポの意図は明らかに少し多めに言っているはずです。そこにいた群衆は(大人の)男性だけで五千人もいたというのです。女性と子どもを合わせれば一万人はいたでしょう。こんなに人がいるのだから二百デナリオン分のパンでも足りないでしょうとフィリポは言っているのですから、いくらなんでも「二百円」ということはありえない。「たとえここに二百万円あっても、一万人の人々で分けると一人たったの二百円ですよね」と言っていると考えるほうが近いでしょう。

しかし、このフィリポの答えは、イエスさまの出されたテストには不合格のものでした。そのように言って間違いありません。なぜならイエスさまは、フィリポの提案に対しては何もお答えにならない仕方で、事実上無視される仕方で、もう一人の弟子であるアンデレが探してきた「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」のほうをご覧になり、その少年が持っていたものだけで、五千人とも一万人とも考えられる群衆を満足させるほどの食べ物をお与えになるという奇跡的なみわざを行われたからです。

このような話を読んだり聞いたりしますと、わたしたちは、必ず、このようなみわざをイエスさまはどのような方法でなさったのかということに関心を抱きます。そしてその次に考えることは、このようなことは現実には無理である、ということでしょう。しかし、ここでこそ気づく必要があることは、わたしたちがそのような考えを抱きながらこの個所を読んでいるときには、フィリポと同じように、イエスさまのテストに合格していないということです。すなわち、イエスさまがおっしゃる「食べ物」とは何のことなのかという点を正しく理解できていないということです。

イエスさまがどのような方法をお用いになったのかは、わたしたちには分かりません。わたしたちに分かることは、そこにいたすべての人々がイエスさまから確かにいただいた「食べ物」によって満足したという、その事実だけです。そのときイエスさまがなさったことは、イエスさま御自身の言葉を用いて言いますと、「わたし(イエス・キリスト!)をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」というイエスさま御自身の食べ物をそこにいた多くの人々に分け与えられるというみわざであったということです。つまり、そこにいた人々は、イエスさまによって、たしかに「救われた」のです!

もしそのとき弟子たちの手に二百デナリオンあり、一人二百円ほどのパンを群衆に配ることができたとしても、その食事会は一瞬のうちに終わります。二時間か三時間の後には忘れられてしまうような、まさに一瞬の楽しみです。

しかし、イエス・キリストが与えてくださる「食べ物」には、永遠の価値があります。イエスさまと共に生きる人生には、神の恵みが豊かにあふれているのです!

(2009年6月28日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年6月21日日曜日

聖書はイエス・キリストを指差している


ヨハネによる福音書5・41~47

「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

先週学びましたことは、イエス・キリストが救い主であることの証拠を示すものは四つあるということでした。そのように、イエス・キリスト御自身が説明しておられました。第一は父なる神による証し、第二は人間による証し、第三はイエスさま御自身が行われたみわざによる証し、第四は聖書による証しでした。

そして私は、これら四つの証拠がすべて揃っているのは教会だけであるとも申しました。この地上に教会が存在し続けるかぎり、まさに教会自身が「イエス・キリストは救い主である」ということを証言し続けるのです。

ただし、第二に挙げられている人間による証しという点については、いくらか消極的に取り上げられているとも申しました。そのことが今日の個所の冒頭に繰り返されています。「わたしは人からの誉れは受けない」。

ここで言われている「人」ないし「人間」とは、直接的にはイエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことを指しています。しかし、これをヨハネ一人だけのことにしてしまう必要はありません。わたしたち自身も含まれていると考えるべきです。その場合の「わたしたち」とは、イエス・キリストを真の救い主と信じて生きているわたしたちです。それはわたしたちキリスト者のことです。あるいは、キリスト者の集まりである教会のことです。

しかし、間違ってはなりません。人間による証しの意味そのものは否定することができません。わたしたち人間がイエス・キリストを証しするとは、わたしたちが「イエスさまは救い主である」ということを理論的または科学的に証明するという意味ではありません。イエス・キリストというお方は、わたしたちが証明しなくても救い主であられるのです。イエス・キリストは人間の誉れを受けられません。すなわち、イエスさまは、わたしたち人間によってほめたたえられなくても、真の救い主キリストなのです。

しかし、このことには別の見方がありえます。イエスさまが救い主であるということは、なるほどたしかに、人間が理論的に証明してみせることではありません。イエスさまは、誰が何と言おうと救い主なのです。しかし、それではわたしたち人間には果たすべき役割は何も無いのかと言えば、決してそうではありません。

わたしたちにも果たすべき役割があります。それはイエス・キリストの救いにあずかることです。すなわち、救い主であるイエス・キリストによって救われることです。そして救われた者としての人生を送ることです。感謝して、喜んで、イエスさまと共に生きることです。

そしてまた、同時にそれは、イエスさまの教えに従って生きることをも意味しています。イエスさまの教えに従うとは、神を愛し、隣人を愛することです。

そして、神への愛と隣人への愛とが同時に教えられているのは、旧約聖書の律法です。なかでもモーセの十戒です。ご承知のとおり、モーセの十戒の前半部分である第一戒から第四戒までに教えられているのが、神への愛です。また後半部分である第五戒から第十戒までに教えられているのが、隣人への愛です。イエスさまの教えに従うことと旧約聖書の律法、とくにモーセの十戒に従うことは、同じことなのです。

それはわたしたちにもできることです。しかし、今申し上げたその「できる」の意味は、完璧にできるということではありません。わたしたちは、神を愛することと隣人を愛することとを完璧に行うことができるわけではありません。けれども、とにかく愛し始めることはできます。あるいは、「愛します」と決心することはできます。愛そうと努力することもできます。

愛することの反対は、憎むことです。「憎みません」と決心することもできます。現実のわたしたちの心には繰り返し憎しみがよみがえって来ることばかりです。「ああ、また私の心に憎しみが湧いてきている」と気づくことができます。その憎しみの心を毎日のように打ち消しながら、あるいは打ち消そうと努力しながら生きることが、わたしたちにできるのです。

ですから、大切なことは、わたしたちがそういう人間になることです。神を愛することも、隣人を愛することも、全く考えたこともない。心の中に湧きあがってくる憎悪の念を燃えあがるままに放置し、自分の火に自分で油を注ぐ。そのような人間であることを意識的にやめること、やめようとすることが重要なのです。

わたしたちがそういう人間になること、あるいはそういう人間であろうとすることは、救い主イエス・キリストの教えに従って生きることと同じことです。すなわち、救い主によって救われた者として生きることと同じなのです。そして、それこそが、わたしたちが救い主を救い主として認めることであり、まさに証しすることです。イエス・キリストが救い主であるかどうかは理論的に証明されるべきことではなく、わたしたちの日々の実践によって示すべきことなのです。

ところが、今日の個所でイエスさまが鋭く指摘しておられることは、あなたたちはそれができていないということです。ここで「あなたたち」とは、直接的には当時のユダヤ人たちのことです。しかしまた、わたしたちはこの話を、ただ単に歴史的な視点に立って、当時のユダヤ人たちのことだけに当てはまるものであるというふうに限定してしまうべきではないでしょう。わたしたち自身、このわたし自身にも当てはめて考えるべきでしょう。それがこの個所の正しい読み方であると思われるのです。

「あなたたちの内には神への愛がない」。これは、モーセの十戒の前半部分の第一戒から第四戒までの教えをあなたがたは守っていないという意味になります。そしてそのことの証拠は、この続きに言われている点です。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」。

このわたしイエス・キリストは、父なる神の御子として、父なる神の名によって地上に遣わされてきた救い主であるにもかかわらず、あなたたちはこのわたしを受け入れない。わたしの教えを実践することもない。あなたたちはモーセの十戒を正しく守ろうともしていない。十戒の核心部分である「神への愛」を、あなたたちは実践していないではないか。それは、わたしの父である神と、この方の御心を受け入れていないのと同じことなのだと、イエスさまは鋭く指摘しておられるのです。

それではイエスさまの願いは何なのでしょうか。それは、すでに先ほどから何度も繰り返し申し上げていることです。イエスさまの願いは、わたしたちが神と隣人を愛する者になることです。モーセの十戒を実践する者になることです。それがキリスト教なのです。キリスト教的に生きること、あるいはキリスト者として生きることなのです。

しかし、この点は、必ずしもすべてのキリスト教会が一致して告白していることであるとは言えない部分であることも否定できません。わたしたち改革派教会は、この点を重んじてきました。キリスト教的に生きること、キリスト者として生きることとモーセの十戒を実践することとは、矛盾しないばかりか一致していることであり、あるいは事実上同じことであると、わたしたち改革派教会は、16世紀のカルヴァン以来、告白してきました。わたしたちは、そのように告白しつつ、まさにそのように実践することを重んじてきたのです。

たとえば、わたしたちは、神さまから愛されているということ、あるいは神さまに罪を赦していただいているということだけで満足しません。それは受け身の信仰です。神さまから貰うことばかりです。しかし、それは聖書の教えではありません。聖書が教えていることは、わたしたちもまた神を愛さなければならないということであり、隣人を愛さなければならないということです。恵みを受けた者は、それを与える者にもならねばならないということです。そして「受けるより与えるほうが幸いである」というイエスさまの教えを喜んで受け入れ、それを実践すること、それが重要なのです。

そして、そのように生きる人の姿、その存在がイエス・キリストを証ししていることになるのです。なぜならイエス・キリストは愛に満ちたお方だからです。

イエス・キリストの弟子たちは、イエス・キリストの愛の模範に習う必要があります。わたしたちに求められていることは、イエスさまが実践なさったように愛することです。イエスさまのお考えを聞いて記憶することだけではなく、イエスさまの生きざまを真似ることこそが求められているのです。重要なことは頭の中の思想ではなく、体を用いた行為です。目に見えない空想次元の事柄だけではなく、目に見える現実の姿が重要なのです。

ところが、このように教えるイエスさまのことをユダヤ人たちは迫害しました。ユダヤ人たちにとって、イエスさまは彼らの立場に反する存在であると感じられたからでしょう。しかし、それは何を意味することになるでしょうか。神を愛し、隣人を愛することを教えられたそのイエスさまの姿が、彼らの立場に反する。ということは、彼らは神を愛することも隣人を愛することもしていなかったし、する必要がないと考えていたし、そのように教えていたのではないかと考えざるをえないのです。

しかし、ここで単純な言い方をお許しいただきたいのですが、「神も隣人も愛さない宗教」とは一体何なのでしょうかと問わざるをえません。あまりにも悲しすぎます。宗教の風上にも置けない!存在の意義すらないものです。
わたしたちが知っていることは、愛されている人は喜んでいるということです。まともに愛されたことがない人は、必ずどこか憂鬱な顔をしています。「神さまに愛されれ

それでよい。人間などに愛してもらわなくても結構」と思っている人もいるかもしれません。そのようにおっしゃる方の立場は最大限に尊重しなければなりませんし、余計なお世話であると言われてしまうかもしれません。しかし、あえて言わせていただきますと、どこか寂しそうでもあります。「人からも愛されたい」。それがわたしたちの素朴で率直な思いではないでしょうか。

キリスト者になることと、愛する人になることとは、同じことなのです。それが聖書の教えであり、イエスさまの教えであり、わたしたち改革派教会が信じてきたことでもあるのです。

愛されたいのなら愛しましょう。「わたしは寂しい」と嘆く前に、愛を実践しましょう。それは大事なことなのです。

(2009年6月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年6月14日日曜日

教会はイエス・キリストを指差している


ヨハネによる福音書5・31~40

「『もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』」

今日の個所に何度も繰り返されている言葉があります。それは「証し」という言葉です。「証し」とは何のことでしょうか。この問いをまず最初に取り上げておきたいと思います。

それは要するに、わたしたちの救い主イエス・キリストがまさに「救い主」であることを示す証拠です。あるいは、そのことを証明するために持ち出されるものです。そのように説明することができるでしょう。

今申し上げました私の説明の前提にありますことは、イエスさまが果たして本当に救い主であるかどうかということは、少なくとも当時の人々の間では、必ずしも明らかなことではなかったということです。もっとはっきり言えば、そのことを信じる人々は少なく、むしろ疑う人々のほうが多かったということです。

ですから、証拠を示すこと、あるいは証明されることが、どうしても必要だったのです。信じることができない人々、疑うことしか知らないような人々を前にして、このイエス・キリストというお方は本当に救い主であるということを信じてもらうために何らかの証拠を示す必要がありました。その証拠ないし証明こそが「証し」なのです。

しかも、このようなことをここでイエスさま御自身が語っておられるという点がとても重要です。批判的な見方をする人々が感じることは、「わたしは救い主である」などとあのイエスという人がただ自分自身で言い張っているだけだというようなことでしょう。そのような自分自身で言い張っているだけのようなことを誰が信じることができようかと見るのだと思います。

そしてそのような批判的な見方があるということをイエスさまはご存じでした。だからこそ、そのことを次のように言っておられるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。

もしかしたらわたしたちも、今申し上げた批判的な見方の持ち主とほとんど同じような感覚を持っているかもしれません。たとえば、わたしたちの目の前にいる誰かが突然手を挙げて、「あのー、実は私が救い主です」と言いだしはじめたとしたら、どうでしょうか。おいそれと信じることはできず、反発ばかりを感じるのではないでしょうか。

しかし、ここでいちおう理屈の上で言っておきたいことがあります。それは、もしその人が本当に救い主である場合には、たとえその人自身がそのように言い張ったとしても、それは必ず間違いであるというふうには、だれも言えないはずだということです。

私は今、ややこしいことを言っているでしょうか。たとえば、私は日本人です。その私が皆さんの前で「私は日本人です」と自己紹介をすることが間違っているわけではありません。それと同じことを申し上げているだけです。

イエスさまは、わたしたちの救い主です。そのイエスさまが「私はあなたがたの救い主です」と御自分でおっしゃることが間違いであるということは、理屈としてはありえないことです。何一つ間違っていません。むしろ、全く正しいことです。

ところがイエスさまは、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」とおっしゃっているわけです。つまり、何一つ間違っておられないことを「真実ではない」とおっしゃっているわけです。ですから、そのようにおっしゃるイエスさまの意図を考えなければなりません。

考えられることは、イエスさまは、批判的な見方をする人々の見方を強く意識しておられるのだということです。イエスさまは、わたしがそれを自分で言ったとしても、あなたがたは、それを真実として受け入れることはないだろうと言っておられるのです。そして、あなたがたがそれを真実として受け入れることができないようなことは真実ではないのだと、イエスさまは、言っておられるのです。

この点は私にとってはたいへん興味深いものです。私の仕事は、聖書の御言葉を説教という手段を通して皆さんにお伝えすることです。説教者の務めは、「聖書に書かれていることは真実である」ということを、ただ一方的に言い張ることだけで終わってよいものではありません。説教の目標は、聖書に書かれていることは真実であるということを、皆さん自身が受け入れ、信じるところまでです。「客観的か主観的か」という概念を持ち込むことをお許しいただくなら、聖書に記されている客観的な言葉が、皆さんの心の中の主観的な言葉になるまでが、説教者の仕事なのです。

イエスさまがおっしゃっていることは、いわばそれと同じことです。イエスさま御自身の関心は、「このわたしが救い主である」といういわば客観的な事実が、どうしたらあなたがた自身の主観的な真実になるのか、という点にあります。つまり、イエスさま御自身の関心ないし目標は、「イエス・キリストはこのわたしの救い主である」とわたしたち自身が告白することができるようになるためにはどうしたらよいのか、という点にある。そして、そのために、このわたしはあなたがたに対して、どのような「証拠」(これが「証し」)を挙げれば、そのことをあなたがたに信じてもらえるのだろうかという話を、イエスさまはなさっているのです。

少しはお分かりいただけたでしょうか。ますますややこしくなったでしょうか。かなり心配しながらではありますが、ともかく話を先に進めていくことにします。

今日の個所に出てくる「証し」には、大きく分けると四種類の証しがあるということを申し上げなければなりません。

第一は、今まで申し上げてきた点に関連して言われていることです。「わたしについて証しをなさる方は別におられる」(32節a)というこの点です。イエス・キリストが救い主であるということの証明を、イエス・キリスト御自身ではなく別の方、すなわち、イエス・キリストの父なる神が示してくださるのだということです。つまり、第一の証しとは父なる神の証しです。「その方がわたしについてなさる証しは真実であるということを、わたしは知っている」(32節b)とイエスさまはおっしゃっています。

第二の証しは、ヨハネの証しです。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(33節)と言われているとおりです。

この「ヨハネ」とは、イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことです。そして、ここで重要なことはヨハネは人間であるという点です。つまり、ヨハネの証しとは人間の証しであるということです。そして人間の証しとは、誰か人間がイエス・キリストを指差して「この方は救い主である」と証明することです。ところが、イエスさまはこの意味での人間の証し、または新共同訳聖書の訳語を借りると「人間による証し」(34節)は「受けない」とおっしゃっています。イエスさまは御自分が救い主であるということを、誰か人間に証明してもらう必要はないとおっしゃっているのです。

この点も、わたしたちにとって、とても重要です。誤解を恐れず言えば、わたしたちもイエスさまが救い主であるかどうかを証明する必要は全くありません。そのような証明はイエスさまにとっては要らぬお世話なのです。

加えて言えば、たとえばイエスさまがそれをなさったと聖書に記されている奇跡的なみわざのすべて、あるいは、イエスさまが処女マリアからお生まれになったとか死者の中から復活なさったということのすべては歴史的で客観的な事実として本当に起こったことなのだというようなことを、わたしたちが現代の科学的な知識を用いて証明してみせるというようなことも不必要です。そのような証明を行うことができるのは人間ではなく、神だけであるというこの点が重要なのです。

しかしまた、それではヨハネの証しは全く意味がなかったのかと言うとそうでもなく、ある一定の役割を果たすものであったということを、イエスさまが評価しておられる言葉も加えられてはいます(34節b~35節)。しかし、そのヨハネの証しにまさる証しがわたしにはあると、明言しておられます(36節a)。

第三の証しとは、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」(36節b)です。これが「父がわたしをお遣わしになったこと」、すなわち、イエス・キリストは父なる神のもとから地上に遣わされた真の救い主であるということを証ししていると言われています。つまり、第三の証しとはイエスさまの地上におけるお働きのすべてです。

「実を見て木を知る」というイエスさまの有名な御言葉を思い起こすことができるでしょう。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ15・18)。イエスさまとしては、このわたしが多くの人々の前でその人々のために行っているわざを見てほしい、それを見ればこのわたしが救い主であるかどうかが分かるはずだ、それこそが「証明」であると、おっしゃっているのです。

最後となる第四の証しとは、聖書の証しです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)と言われているとおりです。ここでイエスさまがおっしゃっていることは、要するに、とにかく聖書を読んでくださいということです。そのことに尽きるのです。

ただし、先ほど申しましたとおり、聖書に書かれていることは真実かどうかということを、わたしたち人間が、たとえば科学的に証明してみせるというような必要はありません。そのようなやり方は聖書に対する要らぬお世話です。聖書の中に科学的な矛盾点や疑問点を見つけて一喜一憂する必要もありません。はっきり言えば、聖書に記されていることが真実であるかどうかは、科学的に矛盾がないかどうかという点とは全く関係ないのです。むしろ、聖書というこの書物は、イエス・キリストは救い主であるということを証明するものであるかどうかというその一点だけにかかっていると言っても過言ではないのです。

以上、四つの証しの内容を見てきました。第二に挙げられた「人間の証し」については消極的に扱われていました。しかし完全に否定されるべきものでもありません。ヨハネもまた一定の役割を果たしたのです。ですから、イエスさまが挙げておられるのは三つの証しではなく四つです。父なる神、人間、イエスさまのみわざ、そして聖書。この四つが「イエス・キリストは救い主である」ということを証明しているのだと言われているのです。

そして私が最後に申し上げたいことは、この四つすべてが揃っている場があるとしたら、それは「教会」だけである、ということです。「教会」の存在こそが、イエス・キリストが救い主であることを証明しているのです!

(2009年6月14日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年6月10日水曜日

贅沢な孤独

今週は、どうしてでしょうか、四分休符か八分休符くらいの小さな安堵感を得ています(かろうじて息継ぎができる程度です。ここしばらくは無酸素運動のような状態が続いていました)。



「カルヴァン生誕500年記念集会」(2009年7月6日、会場・東京神学大学)の開催まで残り一ヶ月を切りました。参加希望を申し込んでくださる方々からのメールの着信音と電話とファックスは今日も朝から鳴りっぱなしです。その対応に追われてはいます。もちろんこのことだけではなく、やらなければならないことが他にもたくさんあります。



しかしそれでも、心が穏やかです。ドーパミンがきちんと分泌されているようだとでも評すべきでしょうか、脳機能が比較的正常であると感じられます。「やる気」が新たに発生しています。ありがたいことだと感謝しています。



電話とファックスの音はともかく、メールの着信音は鳴らないように設定できます。そうしている時も多いのですが、まるで馬鹿みたいですが、着信音を聞きたくなることが時々あります。もしかしたら年齢のせいもあるのでしょうか、むしょうに「寂しい」と感じることがあるのです。



このところ、子どもたち(中3男、小6女)は学校と塾と習い事とに忙しくしていますし、妻はPTAの活動と県の民生委員(児童委員)の仕事、また保育園と児童福祉施設での保育士としての勤務で忙しくしていますので、私は昼も夜も一人でいることが多くなりました。妻子が必死で頑張っている最中に「寂しい」とか口走ることは不謹慎極まりないことですので、そういうことはなるべく考えないようにしていますが、家庭内の状況が大きく変わってきたことを実感しています。しかし、わたしたち家族はいつも励まし合って明るく生きています。



ついでに言えば、2006年7月に我々が日本キリスト改革派教会の第六の中会として「東関東中会」を設立した動機の中の最も大きな要素の一つが、牧師たちには各個教会での働きにもっと集中してもらおうではないかということでした。その意図は、「中会の仕事が忙しすぎる」というような(けしからん?)ことを理由にして牧師たちが自ら仕える各個教会での働きを疎かにすることがないように、中会の規模と機能を小さくしようではないかというものでした。



これが見事に実現しました。以前と比べれば、私は明らかにヒマになりました。中会のナントカ委員会でバタついていたかつての喧噪の日々が、遠い過去の記憶になりました。今年度は、中会の伝道委員長の仕事を一つ任されているだけです。



この面では「寂しい」と感じることが、実は時々あります。東関東中会設立に反対していた人々がおっしゃっていた「どんな組織にもスケールメリット(規模効果)というものが必要である。小さい中会など作ったところで、それにどんなメリットがあるのかが理解できない」という言葉を思い起こし、「たしかにそういうことも言えるなあ。あの人たちが言っていたことを、もっときちんと聞いておくべきだったかなあ」と自嘲の笑みを浮かべる日もあります。



しかし、決して忘れてはならないと思うことは、今の私が時々感じる「寂しさ」は、我々東関東中会の者たちが強く望んで獲得したものであるということです。もっとはっきり言えば、大げさでも何でもなく、我々が命がけで獲得した「価値ある寂しさ」であり、「贅沢な孤独」であるということです。



もちろん人には(牧師にも)いろんな生き方があるし、あってよいし、あるべきです。時間の用い方についても然り。問題は「贅沢な孤独」を得て、それを何のために用いるかです。



私が願ったことはひとえに、それを「神学する自由」(Freedom for doing Theology)のために用いることでした。神の言葉の説教を委ねられている者たちに求められていることは、昨年末に出版されたファン・ルーラーの小さな論文集のタイトルを借りて言えば「天地創造から神の国まで」(Van Schepping tot Koningrijk)、すなわち、創造論から終末論までの神の歴史における全事業を神学的に、とりわけ教義学的に考え抜くことです。これなしにどうして聖書の意図を正しく釈義し、噛み砕いた言葉で語ることができるでしょうか。私には不可能です。



「本を書くこと」自体は何ら目的ではなく単なる一手段にすぎません。目的は、ある人々からすれば他愛のないことと思われるでしょうけれど、キリスト者にとっての日曜日がハッピーなものでありうるために、少なくとも日曜日に教会に集まった人々がそこに来たことを後悔することがないように、「分かった」と思ってもらえる説教ができるようになること、それだけです。



そのような説教を語れるようになるために、人は多くの時間を費やさなければならないのではないでしょうか。



しかし、私は、「釈義」の次に「黙想」を置く、あのよく知られた説教理論に対しては少し距離をおいてきました。問題を感じ、批判的な思いさえ抱いてきました。



問題は「黙想」の内実です。それは純然たる教義学的な思索でなければならないというのが私の考えです。教義学とは代々の教会の歴史の中で引き渡されてきた(tra-ditio)言葉を扱う学です。その中にはすでに十分な仕方で、教会の中で、教会と共に生を営んできた人間のあらゆる声が絡み合っています。「釈義」の次は「教義学」であってよい。「教義学」が「黙想」のすべてを含んでいる。説教の準備としてはそれで十分であると、私には思われるのです。



そして、「教義学」にこそ時間がかかるのです。一人の人間の一生をささげても足りません。



「黙想」のどこに問題を感じるのか。この問いは今書いている「贅沢な孤独」というタイトルの範囲を大きく超えるものではあります。しかし、続けて考えておくべきこともあるように思われます。



私が考えていることは、まさに「黙想」というこの漢字二文字が示すものはあまりにも誤解されやすいということに尽きます。「黙って想うこと」が説教の準備でしょうか。ハア、まあ、それはそうですけど、と言いたくなります。そんなこと誰だって常にやっていることです。



「いやいや、黙想というのは、そこで何より教会員一人一人の姿を思い起こしながら祈ることが含まれているのだ」とか、「現代社会の諸問題を思いめぐらすことも含まれている」とか、「説教のテキストが言わんとしていることを一週間心にとめて、まずは説教者自身が生きてみることだ」など、黙想についてこれまでいろんな説明がなされてきたことも知っています。



しかし、そのようなこと一つ一つも、とくに何か取り立てて言わなければならないほどのことではなく、どんな人でもいつでもやっていることです。そのようなことを「黙って想うこと」ならば。



もちろん実際には、その説教理論においても、「黙想」が日本語の文字どおりの「黙って想うこと」を必ずしも意味していないことが明らかにされていることも知っています。少なくとも「黙想」という名の文章を書くことが求められています。「黙って想うこと」の結果を、文字として、文章として、アウトプットする必要がある。



「だが、それはまだ説教ではない」とも言われます。「釈義(の文章)も黙想(の文章)も、それ自体は説教(の文章)ではない」と。厳密ですねえとは思います。しかし、やりすぎですねえとも思います。「釈義」と「黙想」と「説教」を厳密に区分すること、それぞれの文章を毎週の説教のたびごとに書きおろし続けることは、ご立派なことであり、ある意味で賞賛に値します。ところが実際にはその区分はそれほど明瞭なものではなく、むしろ互いに混ざり合っているものであるし、混ざり合っていて困るようなものでもありません。



そして、私がいちばん言いたいのは、次のことです。「黙想」もまた、実際には文章化することが求められているかぎり、つまり、「黙って想うこと」だけで済まされるものではないことが暗黙のうちに(「知る人ぞ知る」という仕方で)了解されているものであるかぎり、その作業をいつまでも「黙想」という曖昧で誤解を生みやすい名称で呼び続けることは、自己欺瞞に通じます。私にはそのように思われてならないのです。



牧師の一週間の仕事は「黙想」(黙って考えごとをすること?)です、だなんて、うそくさい話です。ありえない。冗談も休み休みに言えと、腹が立ってきます。