2009年7月19日日曜日
神のみわざとしての信仰
ヨハネによる福音書6・22~29
「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」
今日の個所に記されていますことは、イエス・キリストと「群衆」との間で交わされた対話の前後の様子と、その対話の内容です。対話は25節から始まります。最初に見ておきたいのは、その対話の前後の様子です。
「その翌日」(22節)とあります。何の翌日であるかははっきりしています。その日はイエスさまが大人の男性だけで五千人、また女性と子どもたちを含めれば一万人とも思われる人々のお腹を満たすために、大麦のパン五つと魚二匹を取り分けてくださり、それによってすべての人が満腹したというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でした。
しかし、それだけではありません。湖の上に浮かぶ舟の中で激しい嵐に苦しんでいた弟子たちのもとにイエスさまが湖の上を歩いて助けに来てくださるというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でもありました。
これら二つの出来事は間違いなく非常に驚くべきものでした。また「ほとんど信じがたい」と多くの人が感じたであろう出来事であったということも否定できません。しかし、そのことは多くの人々の前で、目に見える事実としてなされたのです。だからこそ、このように聖書に記されているのです。
しかしまた、イエスさまがなさったことは確かに驚くべき出来事であり、かつほとんど信じがたい出来事でもありました。それは明らかに、当時の人々に非常に強いショックを与えたのです。我々の目の前で何かとんでもないことが起こった。人類はこれからどうなっていくのだろうかと思うほどの衝撃を感じ、事実上のパニックの状態が始まったのです。今申し上げたようなことが「湖の向こう岸に残っていた群衆」(22節)の状況であったと考えることができるでしょう。
わたしたちなら、どうなるでしょう。私でしたら、かなりびっくりすることは間違いありません。私はパン五つと二匹の魚だけで群衆を満足させた人を見たことがありません。また水の上を歩いたという人も一度も見たことがありません。皆さんは、そういう人を見たことがあるでしょうか。ご覧になった方は教えてください。私もそのような人にお会いしてみたい。できれば一緒に写真を撮らせてもらいたいです。
おそらくこのようなものではないかと思われるのです、二つの奇跡が行われた翌日の群衆が抱いていた気持ちは。彼らはイエスさまが行われた奇跡的なみわざを目の当たりにして驚き、パニック状態にあったのです。そして彼らは、イエスさまに何とかして近づきたいと考えました。できればお知り合いになりたいと願って。握手でもしてもらいたい。人気のある人を一目見たいと思う気持ちは昔も今も変わりません。イエスさまもそのような対象として見られたのです。
ところが、イエスさまは群衆の前から立ち去られました。なぜでしょうか。逃げられたのですというと語弊が出てきますが、おそらくそういう面もあったはずです。だってそこには五千人ないし一万人もいたのですから。かたや、イエスさまはおひとりだけ。イエスさまが「群衆から離れてひとりになりたい」とお感じになったとしても、おかしくはないでしょう。
しかし、イエスさまが群衆の前から立ち去られたことには、ただお逃げになったということだけではなく、もう一つの面があったと思われます。イエスさまはそのときの群衆が抱いた気持ちの中身に対する批判的な意図というべきものをお持ちであった。そのように説明できるでしょう。
イエスさまは御自分の意思や願いで人気者になろうとなさったことは一度もなく、むしろそのようなことを非常にお嫌いになったのです。イエスさまに「先生は何が苦手でしょうか」と質問したときに返ってきそうな答えは「人からチヤホヤされることです」ということです。「あなたは偉い人だ」と言われたり、誰かから褒めそやされたりすることをとにかく苦手とされていたのではないでしょうか。そのようなことを言われれば言われるほど苦痛を感じる。そのようなことを言われるたびに「わたしが偉いのではない。わたしの父なる神が偉いのである」と反論なさっていたであろうイエスさまの姿を思い起こすことができます。
ところが、イエスさまがひとりになることを群衆は許そうとしなかったのだということが、今日の個所から分かってきます。
彼らはイエスさまを捜し回っているうちに、小舟が一そうしかないこと、しかも、その舟にイエスさまは乗っておられなかったということに気づきました。ところがイエスさまは舟にお乗りになっていなかったにもかかわらず、彼らの村にも見当たらない。それではイエスさまはどこにおられるのかということが大きな騒ぎになったようです。イエスさまは、舟にお乗りにならなかった代わりに湖の上を歩いて行ってしまわれたのです。
ですから、「湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」(25節)とありますのは、これを書いているルカの気持ちを察すれば、人々の驚きの様子を描いたものでもあるように見えます。しかし、それと同時に、何となく呆れるというか、開いた口がふさがらないというか、そのとき何が起こったのかを理解できないというか、非常に疑わしいものと感じている人々の様子を描いたものでもあるように見えます。彼らがイエスさまに問うていることは「おやおや、今ここにおられるはずのない先生が、どうしておられるのですか。どのようにして来られたのですか。舟に乗ること以外の方法はありえないと思うのですが」ということです。驚いているというよりは、怪しんでいるのです。
しかし、イエスさまは彼らのこの問いには一言もお答えになりませんでした。そのときイエスさまがお語りになったのは、この人々に対する厳しい言葉でした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。要するに、あなたがたはわたしに興味があるのではなく、食い意地が張っているだけだと言っておられるのです。与えられたパンと魚を食べてから時間が経ち、お腹がすいたので、新しい何かを欲しがっているだけであると。しかし「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とイエスさまはお続けになりました。
ここではっきりと示されていることは、わたしたちの救い主イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださった目的です。それはあなたがたに朽ちる食べ物を与えるためではなく、朽ちない食べ物、すなわち永遠の命に至る食べ物を与えるためである。そのようにおっしゃっています。
しかし「永遠の命に至る食べ物」とは具体的に言えば何のことでしょうか。またそのために「働きなさい」と言われているその「働き」とは何をすることなのでしょうか。これについてイエスさまが教えてくださったことは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)ということでした。「神がお遣わしになった者」とはイエスさまのことです。イエスさまを信じること、すなわち、信仰というわざ(神のみわざ!)を行う人々に、父なる神が永遠の命というものを与えてくださるのだと、イエスさまはお語りになったのです。
ここで注目すべき点は、イエスさまが信仰を「神の業」と呼んでおられることです。しかし、信仰とは「わざ」でしょうか。つまり、それは「働き」でしょうか。「行い」でしょうか。わたしたちは、おそらくそのように考えてこなかったと思います。わたしたちが長く聞いてきたのは、人が救われるのは、わたしたち人間の側で行うわざによるのではなく、ただ神の恵みによるのであるというふうな言葉です。信仰を「わざ」とか「行い」というような言葉で説明することには、いろんな意味で躊躇を感じてきたはずです。
しかし、ここでイエスさまが語っておられるのは紛れもなく「行い」ないし「わざ」としての信仰です。信仰とは名詞ではなく動詞であると、説明することができるでしょう。つまり、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、「信じる」という人間の行為であるということです。あるいは「信仰者として生きること」、すなわち「信仰生活を送ること」という意味での人間の生きざまや生活態度を問うておられるのです。
このイエスさまの問いかけは、ここにいるわたしたち一人一人に対しても投げかけられています。わたしたちそれぞれに与えられている信仰というものは、絵に描いた餅のようなものにしてしまってはならず、わたしたちの生き方そのものでなければならないということです。信仰とは、その意味での行いなのです。しかも、信仰とは、神が与えてくださる恵みの賜物であるという意味での「神のみわざ」なのです。神の賜物としての信仰は、わたしたちの中で永遠に失われることはありません。わたしたちは、生涯、神を信じ続けることができるのです。
(2009年7月19日、松戸小金原教会主日礼拝)