2009年7月26日日曜日

わたしが命のパンである


ヨハネによる福音書6・30~40

「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。』すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」

今読みましたのは、ヨハネによる福音書に記された、イエス・キリストの御言葉です。これは弟子たちとの会話の中で語られたものです。弟子たちが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエスさまに願いました。「そのパン」とは、この直前に語られている「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)を指しています。つまり、弟子たちがイエスさまに願ったのは、天から降って来て世に命を与える神のパンです。しかも、ここで「パン」とは人間の食べ物の総称です。それは日々の糧であり、生活必需品です。またそれは、人間の命そのものと呼んでもよいものです。わたしたちの命を支える力と言い直しても構いません。

ここで考えさせられることは、わたしたちは毎日何を食べて生きているのだろうかということです。かつてイエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られたことがあります(マタイ4・4)。しかもそれは旧約聖書の申命記8・3からの引用でした。つまり、旧約聖書と新約聖書とに共通している教えは、人間はパンだけを食べて生きているのではないということです。言い方を換えれば、わたしたちの命を支える力としての食べ物は八百屋で材料を買ってきて台所で調理して食卓に並べられる、あの品々だけではないということです。

それならば、わたしたちに必要なものは何でしょうか。イエスさまは「神の口から出る一つ一つの言葉」の必要性を強調されました。そしてまた、今日の個所で語られていることは、さらに一歩踏み込まれています。それは「神の口から出る一つ一つの言葉」の具体的な内容であると言ってもよい。それこそがまさに「わたしが命のパンである」というイエスさまの御言葉に集約されている内容です。つまり、「神の口から出る一つ一つの言葉」とは「命のパン」そのものとしてのイエス・キリスト自身であるということです。

ここで少し整理しておく必要がありそうです。イエスさまが弟子たちに教えていることをまとめて言えば、要するに、あなたがたの食べ物はこのわたし自身であるということであることが分かります。「このわたしがあなたがたの食べ物である」と言っておられるのです。もっとはっきり言えば「このわたしを食べなさい」と言っておられるのです。

この件に関してイエスさまが明言しておられる最もはっきりした言葉が、6・55以下に出てきます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

これは少し冷静に考えれば、そんなことができるはずはないと、誰もが思うようなことです。弟子たちの目の前に立っておられたイエスさまの姿は、どこから見ても、一人の生きた人間でした。人間の姿をしたイエスさまが弟子たちに向かって「わたしの肉を食べなさい」とか「わたしの血を飲みなさい」などと言われている様子は、奇妙で不気味なものです。心の底からぞっとするという気持ちを持つ人がいてもおかしくないようなことを、イエスさまはおっしゃっています。

事実、この話をイエスさまがなさった直後に弟子の多くが感じたことは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」ということでした(6・60)。このような話をイエスさまがなさったばかりに弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、と記されています(6・66)。

しかし、ここでわたしたちは、イエスさまがこのことをいわゆるたとえ話としておっしゃったわけではないということも理解しておくべきです。たとえ話という言葉を聞いてわたしたちが通常思い浮かべることは、それは事実でも現実でもない空想であり、作り話(フィクション)であるということでしょう。ところが、イエスさまがおっしゃっていることは、その意味でのたとえ話ではありません。もっとリアルなことです。事実であり、現実です。わたしたち人間は本当にイエスさまを食べることを求められているのです。

しかし、もしそうであるならば、わたしたち人間が次に問題にしなければならないことは、わたしたちはイエスさまをどのような方法で食べればよいのだろうかということです。イエスさまの食べ方は何かと問わねばなりません。しかしこうなりますと、いよいよ不気味な話になっていくでしょう。イエスさまの体のどの部分は美味しいとか、どの部分は苦いとかいうようなことをまともな顔で語り合うことは、ほとんど不可能です。だからこそ、わたしたちはつい、このイエスさまのお話はたとえ話であると考えたくなるのです。

しかし、わたしたちはここでよく考えてみるべきです。たしかに「イエスさまを食べる方法は何か」と言われると、わたしたちはほとんどお手上げ状態です。しかしそれではわたしたちはイエスさまのおっしゃりたいことの結論部分まで全く分からないと感じるでしょうか。いや、そんなことはない、と言える要素も残っているのではないかと私には思われます。

答えを導き出すためのヒントは、先ほど引用した6・56の御言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここで教えられていることは、わたしたちがイエスさまを食べる方法ではなく、むしろイエスさまを食べた結果です。イエスさまを食べた人は「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

つまり、その結果として起こることは要するに、その人がイエスさまの所有物になり、かつイエスさまがその人の所有物になるということです。わたしがイエスさまのものとなり、かつイエスさまをわたしのものにすることです。それは、誤解を恐れずに言えば、イエスさまの私物化とさえ呼ぶことができることでもあります。もちろんそれはほとんど誤訳であるというべきです。しかし、たしかにそれは誤訳なのですが、しかし、限りなく真理に近い誤訳であるというべきです。

別の観点を持ちこんでおきます。私がいま語ろうとしていることは、わたしたち人間とイエスさまとの距離感に関することであると表現し直すことができます。わたしたちが私物化という言葉を使うときは99%悪い意味で使います。しかしそのようにでも言わないかぎり決して縮まらない距離があります。イエスさまを食べて私物化する。腹の中におさめてしまうことによってイエスさまとわたしが一体化する。そのとき初めてイエスさまとわたしたちの距離がゼロになるということが起こるのです。

そのときこのわたしとイエスさまはたしかに全く一体化しています。ここまではわたし、ここからはイエスさま、というふうに区別することができない状態にあるでしょう。食べるとはそういうことです。お腹の中に入ったもの、胃袋の中で消化されはじめたものをこのわたしと区別して考えることはできません。それはわたしです。大根であろうと人参であろうと、牛肉であろうと豚肉であろうと、いったんそれがお腹の中に入った時点でそれはわたし自身なのです。

イエスさまとわたしたちの関係においてもまさにそのような一体的な関係になることが求められています。今「わたしたち」と言いました。それは第一義的にはイエスさまの弟子である者たちです。イエスさまを救い主と信じる信仰を持って生きる者たちです。もし皆さんの中にイエスさまの存在に対していまだに赤の他人のような感覚しか持てないままでいる方々がおられるとしたら、その方々はまだイエスさまのことを食べておられないのです。その方々にとってのイエスさまは、食べる前の、口の中に入れる前の、大根や人参、牛肉や豚肉のままです。調理はすでになされているかもしれない。しかし、まだその料理を味わっておられないのです。

ところが、イエスさまは、わたしの肉を食べなさいと言われ、わたしの血を飲みなさいと言われています。つまり、イエスさまは弟子たちに対して、このわたしをあなたのものにしなさいと言われているのです。わたしがあなたになりますから、あなたはわたしになりなさいと言われているのです。

この個所を読む人々の中に、ここでイエスさまが「わたしが命のパンである」と言われているのは聖餐式のパンを指していると理解したがる人々がいます。しかしその理解に私は反対します。聖餐式は全く関係ないと申し上げたいわけではありません。しかしここで問題になっていることは聖餐式のことだけではありません。それは事柄の矮小化に通じます。聖餐式のあの小さなパンを食べさえすればイエスさまを食べたことになるでしょうか。私はそうは思いません。そのような理解をイエスさま御自身が否定しておられます。イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われているからです。

それでは、日曜日の礼拝に出席することだけで事が済むでしょうか。それもイエスさまが否定しておられます。「パン」とは毎日食べるものの総称だからです。その意味では「命のパン」と訳すことは誤訳とは言えないとしても、やはり事柄の矮小化に通じる要素を提供してしまっていると言わざるをえません。

「命」とはライフ、すなわち「生活」です。そして「パン」は食べ物全体、すなわち「糧」です。イエス・キリストは日常生活を支える糧です。わたしたちは毎日イエスさまを自分のものとする必要があり、日々一体化すべきです。そのようにしなさいと、イエスさま御自身がわたしたちイエスさまを信じて生きる弟子である者たちに命じておられるのです。

そのためにわたしたちにできることは何でしょうか。ここから先は月並みな言い方しかできません。聖書をとにかく毎日読むことです。あるいは毎日の祈りの中でイエスさまと交わり続けることです。そのときイエスさまとの距離がゼロになります。それこそが「イエスさまを食べること」なのです。

(2009年7月26日、松戸小金原教会主日礼拝)