2009年7月5日日曜日
湖の上を歩く
ヨハネによる福音書6・16~21
「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」
今日の個所には、先週の個所に描かれている出来事に優るとも劣らない驚くべき出来事が紹介されています。ここに描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが行ってくださった奇跡的なみわざです。嵐の中の湖に浮かぶ舟に乗っていた弟子たちのもとに、イエスさまはその体をもって赴かれたのです。その方法は何と驚くべきことに、湖の上を歩いていくというものでした。そのようなことは人間には不可能です。しかし、神の御子なる救い主イエス・キリストにはそうすることが可能だったのです。そうであるということがはっきりと分かるように、今日の個所はその出来事を紹介しています。
しかし、ある意味で当然ともいえる疑問をこの個所を読む人々の多くが感じるであろうことも否定できません。先ほども申し上げましたとおり、水の上を歩くというようなことはわたしたち人間には不可能です。わたしたちの多くが持っていると思われる少し悪い癖は、自分にとって不可能なことは他の人にも不可能であると考えたくなることです。そのようなことは絶対にありえないと言いたくなります。
しかし、人間の可能性という点だけを考えてみても、少し前までは全く不可能であると思われていたことを可能にしていく人々がいるということをわたしたちは体験的に知っています。野球のピッチャーの投げる球の速さ、陸上競技のランナーの走る速さ、自動車や新幹線や飛行機やロケットの速度、その他いろいろな例を挙げることができるでしょう。この記録、この限界を超えることは人類にはもはや不可能であると思われていたようなことが可能になる。古い記録は塗り替えられ、新しい記録がうち立てられる。そういうことはありえないかといえば、あると言わなければなりません。
ところが、今日の個所に紹介されているイエス・キリストの奇跡的なみわざを、今申し上げたような意味での人間の可能性という観点から理解しようとすることは間違いです。イエスさまという方は他の人間とは異なり、水の上を歩くことができるという特殊な能力を持っておられた人間だったのです、というようなことで、今日の個所を説明することは私にはできません。なぜなら、この個所の話はどう見てもそのような話ではないからです。イエスさまは、水の上を歩くことができなかったかつての人類の限界を超えて新しい記録を打ち立てることができた記念すべき記録保持者であるというようなことではありません。今日の個所が明らかにしていることは、そのようなことではなく全く別のこと、すなわちわたしたちの救い主イエス・キリストは、人間の肉体をまとった真の神であるということです!
神についてわたしたちが考えなければならないことは、その方は人間の可能性の延長線上におられる方ではないということです。わたしたち人間が一生懸命に努力して、他の人にはできないことができるようになって、そのような特別な能力を身に付けた人間が「神」と呼ばれるようになる。それと同じような道筋で人間と神との関係を考えていくことは、聖書を読むかぎり、不可能です。神になれない人間は努力が足りないのであって、努力しさえすれば誰でも神になりうる、というような考え方は、聖書から出てくるものではありません。
イエス・キリストが神であるという場合も、わたしたち人間にできないことがおできになるから神であるというふうに考えると、間違いを犯します。また、湖の上を歩くというような人間にはできないことをイエスさまがなさったと聖書に書かれているのを読んで、これは作り話であるとか人間の思い込みであると言いだすことももっと間違いです。神と人間は全く別の存在であるとか、全く別次元の存在であると考えるほうが、事柄に対してはるかに忠実です。このような言い方で果たして納得していただけるかどうかは分かりませんが、何はともあれ、イエスさまとわたしたちを一緒くたにすることはできないのだということを、よくよく考える必要があるのだということを申し上げておきたいと思います。
しかしまた、これから申し上げることは、これまで申し上げたことを否定するつもりで言うことでは決してありませんが、何と言ったらよいのか、もしかしたらほんの少しだけ皆さんに安心していただけるようなことかもしれません。それは次のようなことです。
あらかじめ、念のため、声を大にして言っておきたいことは、この個所に書かれていることは、イエスさまが現実に行われた奇跡的なみわざであるということなのです。しかし、この個所の中でやや強調されているとも思われることは、イエスさまが行ってくださったみわざは、弟子たちの目に見える範囲内で起こったことであるということ、別の言い方をすれば、ある意味でこれは弟子たちにとっての主観的な出来事であったということです。私が何を言いたいのかをテキストからご説明いたします。
この個所でやや強調されているとも思われること、と申し上げましたのは、このみわざが行われた場面の薄暗さ、あるいは視界の不透明さです。「夕方になったので」(16節)とありますとおり、それは夕方の出来事でした。「既に暗くなっていた」(17節)とはっきり書かれてもいます。そして「強い風」が吹き、湖は荒れていました。そのような中で弟子たちは舟に乗っていました。当然、舟は大揺れに揺れていました。雨や水しぶきが顔や体にバサバサかかってくる。目をゴシゴシ吹いても、また風や水が吹き付けてくる。つまり、わたしたちが想像してもよさそうなことは、このときの弟子たちの視界は限りなくゼロに近かったであろうということです。
しかし、その続きに書かれていることは、そのような視界ゼロ状況の中で弟子たちの目に見えたのがイエスさまのお姿だったということです。「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」(19節)とあります中の「見て」という言葉が、とても重要な意味を持っています。この「見る」(テオレオー)には肉眼で見る、観察するなどの字義どおりの意味に加えて、心で感じるとか気づくという意味があります。このような説明をすることにおいて私が言いたいことは、このときイエスさまは実際には水の上を歩いてなどおられなかったのだが、弟子たちの目にはそう見えたのだとか、歩いてこられているような気がしたのだ、というようなことではありません。そういうふうに誤解されますと、本当に困ります。それは全くの誤解です。
しかし、それは誤解であるということをご理解いただいた上でなお申し上げたいことは、この個所で強調されていることは、イエスさまが実際に水の上を歩いておられたかどうかということ、すなわち、それが客観的な事実であったかどうかという側面よりも、むしろそのとき弟子たちの目にイエスさまのお姿が「見えた」という彼ら自身の内面的な感覚、すなわち、この出来事の主観的な側面のほうであるということです。
私は今、なんだかややこしいことを言っているという自覚があります。ですから分かりにくい点はお詫びしなければなりません。しかし、このようなことを丁寧に考えていくことが今日の個所を理解するために重要であると思うゆえに、申し上げているつもりです。どのような例を挙げれば、すっきり理解していただけるでしょうか。私に思いつくのは、親子の関係です。
私が二人の子どもの父親であるということは客観的な事実です。しかし、そのことと、二人の子どもたちが私を「父親である」と認めること、別の言い方をすれば、私が子どもたちにとって「父親らしくある」ということを子どもたちが受け入れてくれるということとは別問題であると言わねばならないはずです。
あるいは、牧師と教会の皆さんとの関係にも、それと似ている面があるでしょう。私が松戸小金原教会の牧師であるということは現時点での客観的な事実です。しかしそのことと、皆さんが私を「牧師である」と認めてくださること、すなわち皆さんにとって「牧師らしくある」かどうかは別問題であると、私は強い反省をこめて自覚しております。
それと同じように、と言うことをお許しいただけるでしょうか。イエスさまが水の上を歩かれたことは客観的な事実であるということをわたしたちが信じることは、重要です。しかし、ある意味でそれよりももっと重要なことがある、それは、その客観的事実を弟子たちが「見た」ということ、すなわち、わたしたちのためにイエスさまは嵐の中を歩いて来てくださっていると“信じることができた”ということなのだ、ということです!
つまり、私が申し上げたいことは、この個所で話題になっていることは、イエスさまが持っておられる特殊能力ということではなく、むしろイエスさまと弟子たちの“信頼関係”であるということです。
逆のことを考えてみると、ぴんと来るものを感じていただけるかもしれません。わたしたちはこんなに苦労しているのに、もしかしたら今にも死ぬかもしれないと感じるほどの危険にさらされているのに、イエスさまは、陸からわたしたちの姿を傍観しているだけ。かろうじて大きな声で「大丈夫か~」と呼びかけてくれているようではあるが、薄暗がりの中、暴風雨の中、揺れる舟の中で、その声は届かない。そのうち姿も見えなくなった。結局イエスさまは、わたしたちに何もしてくださらない。そのように感じるような状況に弟子たちが置かれていたならば、いくらイエスさまを救い主として信じなさいと言われても、信じようがないということになりはしないでしょうか。
しかし、イエスさまは、そのようなお方ではなかったというのが今日の個所の主張です。暗闇であろうと、底深い湖であろうと、嵐であろうと、そのようなものは、イエスさまと弟子たちの信頼関係を妨げるものではありえない。そんなものはイエスさまが乗り越えてくださる。水の上を踏みしめて、このわたし、わたしたちのもとまで一直線に助けに来てくださる。弟子たちの目にそのようなイエスさまの姿が「見えた」こと、それが何よりも彼らの救いだったのです。
そして、彼らはイエスさまの声を聞きました。「わたしだ。恐れることはない」(20節)。嵐の中で、人の声も鳥の鳴き声も聞こえないようなぐしゃぐしゃの雑音の中で、彼らの耳に、救い主の声がはっきりと聞こえたのです。
これと同じ出来事は、ヨハネによる福音書以外に、マタイによる福音書(14・22~27)やマルコによる福音書(6・45~52)にも紹介されています。しかし、ヨハネによる福音書に“書かれていないこと”が一つあります。それは、湖の上を歩いてこられたイエスさまが弟子たちの舟の上にお乗りになったかどうか、です。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)。彼らがイエスさまを舟に迎え入れる前に、陸に着いたかのように書かれています。つまり、ヨハネに従えば、イエスさまは、最初から最後まで、湖の上を歩きっぱなしだったのです!
これが何を意味するのかを私は答えることができませんが、非常に意味深長であることだけは間違いありません。
(2009年7月5日、松戸小金原教会主日礼拝)