2009年6月28日日曜日

イエス・キリストと共に生きる豊かさ


ヨハネによる福音書6・1~15

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」

今日の個所に紹介されている出来事は、新約聖書においては、このヨハネによる福音書以外の三つの福音書のすべてに出てくるものです。すなわち、それは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、御自身のもとに集まった大勢の群衆が満足することができた豊かな食べ物をふるまわれたという、とてもありがたい出来事です。

イエスさまは弟子たちの前ですでに、次のようにお語りになっていました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・32)。それを聞いた弟子たちが「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったところ、イエスさまは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とお話しになりました(4・33~34)。

これで分かる一つのことは、イエスさまにとっての「食べ物」とは何を意味するのかということです。神の御子なるイエス・キリストをこの地上の世界へとお遣わしになった方とは、イエス・キリストの父なる神のことです。「神の御心」とは、神がこの地上の世界に生きている人々を何とかして罪と悪と死の支配のもとから救い出してくださろうとする、強いご意志です。短く言い直せば、神の御心とはわたしたち人間を救うことです。その神の救いのみわざがこの地上で行われること、すなわち、その救いのみわざを神の御子なるイエス・キリストが父なる神の御心に従って成し遂げることこそが、イエス・キリストの食べ物であると言われたのです。

ここで考えさせられますことは、イエスさまという方はどんなものを食べて生きておられたのだろうかということです。わたしたちのキリスト教信仰に基づいて言いますならば、イエス・キリストという方は、まことの神であられると共に、まことの人間でもあられる方です。そうだとすれば、イエスさまがわたしたち(普通の)人間と同じものをお食べになっていたとわたしたちが語るとしても、それが間違っているというわけではありません。パンも魚も、もちろん野菜や肉も、きっとお食べになったでしょう。そのようなものを、イエスさまは全くお食べにならなかったというふうに考える必要はありませんし、また、わたしたちがそのようなものを食べながら生きていることは間違っていると考える理由も全くありません。

しかし、先ほど触れました「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・31)というイエスさまの御言葉を読みながら、またわたしたちが今日開いている聖書の個所を読みながら私が考えさせられることは、わたしたち自身もまた、パンや魚、野菜や肉だけを食べて生きているのかといえば、それだけであると語ることはできないだろうということに他なりません。

繰り返し申せば、イエスさまの食べ物とはこの地上の世界に生きている人々が救われることです。ここで地上の人々とは、わたしたちのことです。わたしたち人間のことです。わたしたち人間が救われるということが、なぜイエスさまの「食べ物」なのでしょうか。その意味は、おそらく、それがイエスさまの生きる喜びや楽しみという点と結びつく何かであると思われます。

あるいは、もっと突っ込んでいえば、生きる目的や目標という次元に触れることであるとも言えるでしょう。食べることが生きる目的であると私が申し上げますと、皆さんの中には抵抗を感じる方がおられるかもしれません。「わたしは食べるために生きているわけではない」と強く反論なさる方がおられるかもしれません。しかし、現実のわたしたちの姿は、人生のうちのかなりの時間、あるいはかなりの力を食べることのために注いでいると言わざるをえません。違うでしょうか。

もちろん、自分一人のことだけを考えれば、食べることなど人生の中で大した問題ではないと言いたくなる面もあることは、私にも理解できます。しかし、家族のこと、あるいはもう少し視野を広げて社会のことや世界全体のことを考え、その人々を食べさせること、すなわち、命を支え、育み、養うことを真剣に考えはじめるならば、食べることなどどうでもいいことであるというような突き放した考え方はできなくなるはずです。

少し厳しい言い方をお許しいただくならば、食べることなどどうでもいいことだと言いだす人々は、自分のことにしか関心がないのです。自分と共に生きているすべての人々のことに少しでも関心を持つ人々は、食べること、いえ、食べさせることは、わたしたちが生きているこの地上の世界において最も重要な事柄に属しているのだということに気づくのです。

しかしまた、ここでこそ問題になることは、わたしたちは何を食べるのか、あるいは何を食べさせるのかという点です。イエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃったその食べ物とは何なのかです。問い方を換えるなら、人を救うこと、助けること、すなわち、苦しみや悲しみの只中にいる人々に喜びや楽しみを与えるという目的のために必要なものは何なのかです。それはパンや魚、野菜や肉だけでしょうか。もちろんそれもものすごく大切な要素です。しかし、おそらくそれだけではないでしょうということをわたしたちは真剣に考える必要があるということを、私は今日の個所を読みながら深く思わされるのです。

イエスさまは大勢の群衆が御自身の方へ来るのをご覧になったとき、弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と言われましたが、この質問は「フィリポを試みるため」(6節)であったと、記されています。ここで注意しなければならないことは、聖書の中で「試みる」という字が用いられているとき、ほとんどの場合は悪い意味であるということです。有名なのは、サタンと呼ばれる悪魔がイエスさまを「試みた」というこの言葉の使い方です。その意味はもちろん「試す」ということです。テストすることです。しかしそこから派生して、罠にはめるとか、窮地に追い込むとか、落とし穴に陥れるというような意味を持ちはじめます。

イエスさまは御自分の弟子に罠を仕掛けて窮地に追い込む悪魔のような方なのでしょうか。もちろんそういう話ではありません。しかし重要なことは、イエスさまはフィリポにとっての教師であり、フィリポはイエスさまの生徒であるということです。教師が生徒に試験を課すこと、それはどこでも行われていることであり、しなければならないことです。それが教師の義務であり、責任です。わたしが教えてきたことをあなたがたが正しく理解しているかどうかを調べること、そしてわたしが教えたことをもしあなたがたが間違って理解していることが分かったときには正しく教え直すこと、それが教師の務めなのです。

このときフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金に相当します。二百デナリオンはその二百倍です。これをわたしたちの「二百円」と換算する人もいますし、「二百万円」と換算する人もいます。どちらが正しいかを判断するのは難しいことですが、フィリポの意図は明らかに少し多めに言っているはずです。そこにいた群衆は(大人の)男性だけで五千人もいたというのです。女性と子どもを合わせれば一万人はいたでしょう。こんなに人がいるのだから二百デナリオン分のパンでも足りないでしょうとフィリポは言っているのですから、いくらなんでも「二百円」ということはありえない。「たとえここに二百万円あっても、一万人の人々で分けると一人たったの二百円ですよね」と言っていると考えるほうが近いでしょう。

しかし、このフィリポの答えは、イエスさまの出されたテストには不合格のものでした。そのように言って間違いありません。なぜならイエスさまは、フィリポの提案に対しては何もお答えにならない仕方で、事実上無視される仕方で、もう一人の弟子であるアンデレが探してきた「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」のほうをご覧になり、その少年が持っていたものだけで、五千人とも一万人とも考えられる群衆を満足させるほどの食べ物をお与えになるという奇跡的なみわざを行われたからです。

このような話を読んだり聞いたりしますと、わたしたちは、必ず、このようなみわざをイエスさまはどのような方法でなさったのかということに関心を抱きます。そしてその次に考えることは、このようなことは現実には無理である、ということでしょう。しかし、ここでこそ気づく必要があることは、わたしたちがそのような考えを抱きながらこの個所を読んでいるときには、フィリポと同じように、イエスさまのテストに合格していないということです。すなわち、イエスさまがおっしゃる「食べ物」とは何のことなのかという点を正しく理解できていないということです。

イエスさまがどのような方法をお用いになったのかは、わたしたちには分かりません。わたしたちに分かることは、そこにいたすべての人々がイエスさまから確かにいただいた「食べ物」によって満足したという、その事実だけです。そのときイエスさまがなさったことは、イエスさま御自身の言葉を用いて言いますと、「わたし(イエス・キリスト!)をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」というイエスさま御自身の食べ物をそこにいた多くの人々に分け与えられるというみわざであったということです。つまり、そこにいた人々は、イエスさまによって、たしかに「救われた」のです!

もしそのとき弟子たちの手に二百デナリオンあり、一人二百円ほどのパンを群衆に配ることができたとしても、その食事会は一瞬のうちに終わります。二時間か三時間の後には忘れられてしまうような、まさに一瞬の楽しみです。

しかし、イエス・キリストが与えてくださる「食べ物」には、永遠の価値があります。イエスさまと共に生きる人生には、神の恵みが豊かにあふれているのです!

(2009年6月28日、松戸小金原教会主日礼拝)