2009年6月10日水曜日

贅沢な孤独

今週は、どうしてでしょうか、四分休符か八分休符くらいの小さな安堵感を得ています(かろうじて息継ぎができる程度です。ここしばらくは無酸素運動のような状態が続いていました)。



「カルヴァン生誕500年記念集会」(2009年7月6日、会場・東京神学大学)の開催まで残り一ヶ月を切りました。参加希望を申し込んでくださる方々からのメールの着信音と電話とファックスは今日も朝から鳴りっぱなしです。その対応に追われてはいます。もちろんこのことだけではなく、やらなければならないことが他にもたくさんあります。



しかしそれでも、心が穏やかです。ドーパミンがきちんと分泌されているようだとでも評すべきでしょうか、脳機能が比較的正常であると感じられます。「やる気」が新たに発生しています。ありがたいことだと感謝しています。



電話とファックスの音はともかく、メールの着信音は鳴らないように設定できます。そうしている時も多いのですが、まるで馬鹿みたいですが、着信音を聞きたくなることが時々あります。もしかしたら年齢のせいもあるのでしょうか、むしょうに「寂しい」と感じることがあるのです。



このところ、子どもたち(中3男、小6女)は学校と塾と習い事とに忙しくしていますし、妻はPTAの活動と県の民生委員(児童委員)の仕事、また保育園と児童福祉施設での保育士としての勤務で忙しくしていますので、私は昼も夜も一人でいることが多くなりました。妻子が必死で頑張っている最中に「寂しい」とか口走ることは不謹慎極まりないことですので、そういうことはなるべく考えないようにしていますが、家庭内の状況が大きく変わってきたことを実感しています。しかし、わたしたち家族はいつも励まし合って明るく生きています。



ついでに言えば、2006年7月に我々が日本キリスト改革派教会の第六の中会として「東関東中会」を設立した動機の中の最も大きな要素の一つが、牧師たちには各個教会での働きにもっと集中してもらおうではないかということでした。その意図は、「中会の仕事が忙しすぎる」というような(けしからん?)ことを理由にして牧師たちが自ら仕える各個教会での働きを疎かにすることがないように、中会の規模と機能を小さくしようではないかというものでした。



これが見事に実現しました。以前と比べれば、私は明らかにヒマになりました。中会のナントカ委員会でバタついていたかつての喧噪の日々が、遠い過去の記憶になりました。今年度は、中会の伝道委員長の仕事を一つ任されているだけです。



この面では「寂しい」と感じることが、実は時々あります。東関東中会設立に反対していた人々がおっしゃっていた「どんな組織にもスケールメリット(規模効果)というものが必要である。小さい中会など作ったところで、それにどんなメリットがあるのかが理解できない」という言葉を思い起こし、「たしかにそういうことも言えるなあ。あの人たちが言っていたことを、もっときちんと聞いておくべきだったかなあ」と自嘲の笑みを浮かべる日もあります。



しかし、決して忘れてはならないと思うことは、今の私が時々感じる「寂しさ」は、我々東関東中会の者たちが強く望んで獲得したものであるということです。もっとはっきり言えば、大げさでも何でもなく、我々が命がけで獲得した「価値ある寂しさ」であり、「贅沢な孤独」であるということです。



もちろん人には(牧師にも)いろんな生き方があるし、あってよいし、あるべきです。時間の用い方についても然り。問題は「贅沢な孤独」を得て、それを何のために用いるかです。



私が願ったことはひとえに、それを「神学する自由」(Freedom for doing Theology)のために用いることでした。神の言葉の説教を委ねられている者たちに求められていることは、昨年末に出版されたファン・ルーラーの小さな論文集のタイトルを借りて言えば「天地創造から神の国まで」(Van Schepping tot Koningrijk)、すなわち、創造論から終末論までの神の歴史における全事業を神学的に、とりわけ教義学的に考え抜くことです。これなしにどうして聖書の意図を正しく釈義し、噛み砕いた言葉で語ることができるでしょうか。私には不可能です。



「本を書くこと」自体は何ら目的ではなく単なる一手段にすぎません。目的は、ある人々からすれば他愛のないことと思われるでしょうけれど、キリスト者にとっての日曜日がハッピーなものでありうるために、少なくとも日曜日に教会に集まった人々がそこに来たことを後悔することがないように、「分かった」と思ってもらえる説教ができるようになること、それだけです。



そのような説教を語れるようになるために、人は多くの時間を費やさなければならないのではないでしょうか。



しかし、私は、「釈義」の次に「黙想」を置く、あのよく知られた説教理論に対しては少し距離をおいてきました。問題を感じ、批判的な思いさえ抱いてきました。



問題は「黙想」の内実です。それは純然たる教義学的な思索でなければならないというのが私の考えです。教義学とは代々の教会の歴史の中で引き渡されてきた(tra-ditio)言葉を扱う学です。その中にはすでに十分な仕方で、教会の中で、教会と共に生を営んできた人間のあらゆる声が絡み合っています。「釈義」の次は「教義学」であってよい。「教義学」が「黙想」のすべてを含んでいる。説教の準備としてはそれで十分であると、私には思われるのです。



そして、「教義学」にこそ時間がかかるのです。一人の人間の一生をささげても足りません。



「黙想」のどこに問題を感じるのか。この問いは今書いている「贅沢な孤独」というタイトルの範囲を大きく超えるものではあります。しかし、続けて考えておくべきこともあるように思われます。



私が考えていることは、まさに「黙想」というこの漢字二文字が示すものはあまりにも誤解されやすいということに尽きます。「黙って想うこと」が説教の準備でしょうか。ハア、まあ、それはそうですけど、と言いたくなります。そんなこと誰だって常にやっていることです。



「いやいや、黙想というのは、そこで何より教会員一人一人の姿を思い起こしながら祈ることが含まれているのだ」とか、「現代社会の諸問題を思いめぐらすことも含まれている」とか、「説教のテキストが言わんとしていることを一週間心にとめて、まずは説教者自身が生きてみることだ」など、黙想についてこれまでいろんな説明がなされてきたことも知っています。



しかし、そのようなこと一つ一つも、とくに何か取り立てて言わなければならないほどのことではなく、どんな人でもいつでもやっていることです。そのようなことを「黙って想うこと」ならば。



もちろん実際には、その説教理論においても、「黙想」が日本語の文字どおりの「黙って想うこと」を必ずしも意味していないことが明らかにされていることも知っています。少なくとも「黙想」という名の文章を書くことが求められています。「黙って想うこと」の結果を、文字として、文章として、アウトプットする必要がある。



「だが、それはまだ説教ではない」とも言われます。「釈義(の文章)も黙想(の文章)も、それ自体は説教(の文章)ではない」と。厳密ですねえとは思います。しかし、やりすぎですねえとも思います。「釈義」と「黙想」と「説教」を厳密に区分すること、それぞれの文章を毎週の説教のたびごとに書きおろし続けることは、ご立派なことであり、ある意味で賞賛に値します。ところが実際にはその区分はそれほど明瞭なものではなく、むしろ互いに混ざり合っているものであるし、混ざり合っていて困るようなものでもありません。



そして、私がいちばん言いたいのは、次のことです。「黙想」もまた、実際には文章化することが求められているかぎり、つまり、「黙って想うこと」だけで済まされるものではないことが暗黙のうちに(「知る人ぞ知る」という仕方で)了解されているものであるかぎり、その作業をいつまでも「黙想」という曖昧で誤解を生みやすい名称で呼び続けることは、自己欺瞞に通じます。私にはそのように思われてならないのです。



牧師の一週間の仕事は「黙想」(黙って考えごとをすること?)です、だなんて、うそくさい話です。ありえない。冗談も休み休みに言えと、腹が立ってきます。