2009年6月14日日曜日

教会はイエス・キリストを指差している


ヨハネによる福音書5・31~40

「『もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』」

今日の個所に何度も繰り返されている言葉があります。それは「証し」という言葉です。「証し」とは何のことでしょうか。この問いをまず最初に取り上げておきたいと思います。

それは要するに、わたしたちの救い主イエス・キリストがまさに「救い主」であることを示す証拠です。あるいは、そのことを証明するために持ち出されるものです。そのように説明することができるでしょう。

今申し上げました私の説明の前提にありますことは、イエスさまが果たして本当に救い主であるかどうかということは、少なくとも当時の人々の間では、必ずしも明らかなことではなかったということです。もっとはっきり言えば、そのことを信じる人々は少なく、むしろ疑う人々のほうが多かったということです。

ですから、証拠を示すこと、あるいは証明されることが、どうしても必要だったのです。信じることができない人々、疑うことしか知らないような人々を前にして、このイエス・キリストというお方は本当に救い主であるということを信じてもらうために何らかの証拠を示す必要がありました。その証拠ないし証明こそが「証し」なのです。

しかも、このようなことをここでイエスさま御自身が語っておられるという点がとても重要です。批判的な見方をする人々が感じることは、「わたしは救い主である」などとあのイエスという人がただ自分自身で言い張っているだけだというようなことでしょう。そのような自分自身で言い張っているだけのようなことを誰が信じることができようかと見るのだと思います。

そしてそのような批判的な見方があるということをイエスさまはご存じでした。だからこそ、そのことを次のように言っておられるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。

もしかしたらわたしたちも、今申し上げた批判的な見方の持ち主とほとんど同じような感覚を持っているかもしれません。たとえば、わたしたちの目の前にいる誰かが突然手を挙げて、「あのー、実は私が救い主です」と言いだしはじめたとしたら、どうでしょうか。おいそれと信じることはできず、反発ばかりを感じるのではないでしょうか。

しかし、ここでいちおう理屈の上で言っておきたいことがあります。それは、もしその人が本当に救い主である場合には、たとえその人自身がそのように言い張ったとしても、それは必ず間違いであるというふうには、だれも言えないはずだということです。

私は今、ややこしいことを言っているでしょうか。たとえば、私は日本人です。その私が皆さんの前で「私は日本人です」と自己紹介をすることが間違っているわけではありません。それと同じことを申し上げているだけです。

イエスさまは、わたしたちの救い主です。そのイエスさまが「私はあなたがたの救い主です」と御自分でおっしゃることが間違いであるということは、理屈としてはありえないことです。何一つ間違っていません。むしろ、全く正しいことです。

ところがイエスさまは、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」とおっしゃっているわけです。つまり、何一つ間違っておられないことを「真実ではない」とおっしゃっているわけです。ですから、そのようにおっしゃるイエスさまの意図を考えなければなりません。

考えられることは、イエスさまは、批判的な見方をする人々の見方を強く意識しておられるのだということです。イエスさまは、わたしがそれを自分で言ったとしても、あなたがたは、それを真実として受け入れることはないだろうと言っておられるのです。そして、あなたがたがそれを真実として受け入れることができないようなことは真実ではないのだと、イエスさまは、言っておられるのです。

この点は私にとってはたいへん興味深いものです。私の仕事は、聖書の御言葉を説教という手段を通して皆さんにお伝えすることです。説教者の務めは、「聖書に書かれていることは真実である」ということを、ただ一方的に言い張ることだけで終わってよいものではありません。説教の目標は、聖書に書かれていることは真実であるということを、皆さん自身が受け入れ、信じるところまでです。「客観的か主観的か」という概念を持ち込むことをお許しいただくなら、聖書に記されている客観的な言葉が、皆さんの心の中の主観的な言葉になるまでが、説教者の仕事なのです。

イエスさまがおっしゃっていることは、いわばそれと同じことです。イエスさま御自身の関心は、「このわたしが救い主である」といういわば客観的な事実が、どうしたらあなたがた自身の主観的な真実になるのか、という点にあります。つまり、イエスさま御自身の関心ないし目標は、「イエス・キリストはこのわたしの救い主である」とわたしたち自身が告白することができるようになるためにはどうしたらよいのか、という点にある。そして、そのために、このわたしはあなたがたに対して、どのような「証拠」(これが「証し」)を挙げれば、そのことをあなたがたに信じてもらえるのだろうかという話を、イエスさまはなさっているのです。

少しはお分かりいただけたでしょうか。ますますややこしくなったでしょうか。かなり心配しながらではありますが、ともかく話を先に進めていくことにします。

今日の個所に出てくる「証し」には、大きく分けると四種類の証しがあるということを申し上げなければなりません。

第一は、今まで申し上げてきた点に関連して言われていることです。「わたしについて証しをなさる方は別におられる」(32節a)というこの点です。イエス・キリストが救い主であるということの証明を、イエス・キリスト御自身ではなく別の方、すなわち、イエス・キリストの父なる神が示してくださるのだということです。つまり、第一の証しとは父なる神の証しです。「その方がわたしについてなさる証しは真実であるということを、わたしは知っている」(32節b)とイエスさまはおっしゃっています。

第二の証しは、ヨハネの証しです。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(33節)と言われているとおりです。

この「ヨハネ」とは、イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことです。そして、ここで重要なことはヨハネは人間であるという点です。つまり、ヨハネの証しとは人間の証しであるということです。そして人間の証しとは、誰か人間がイエス・キリストを指差して「この方は救い主である」と証明することです。ところが、イエスさまはこの意味での人間の証し、または新共同訳聖書の訳語を借りると「人間による証し」(34節)は「受けない」とおっしゃっています。イエスさまは御自分が救い主であるということを、誰か人間に証明してもらう必要はないとおっしゃっているのです。

この点も、わたしたちにとって、とても重要です。誤解を恐れず言えば、わたしたちもイエスさまが救い主であるかどうかを証明する必要は全くありません。そのような証明はイエスさまにとっては要らぬお世話なのです。

加えて言えば、たとえばイエスさまがそれをなさったと聖書に記されている奇跡的なみわざのすべて、あるいは、イエスさまが処女マリアからお生まれになったとか死者の中から復活なさったということのすべては歴史的で客観的な事実として本当に起こったことなのだというようなことを、わたしたちが現代の科学的な知識を用いて証明してみせるというようなことも不必要です。そのような証明を行うことができるのは人間ではなく、神だけであるというこの点が重要なのです。

しかしまた、それではヨハネの証しは全く意味がなかったのかと言うとそうでもなく、ある一定の役割を果たすものであったということを、イエスさまが評価しておられる言葉も加えられてはいます(34節b~35節)。しかし、そのヨハネの証しにまさる証しがわたしにはあると、明言しておられます(36節a)。

第三の証しとは、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」(36節b)です。これが「父がわたしをお遣わしになったこと」、すなわち、イエス・キリストは父なる神のもとから地上に遣わされた真の救い主であるということを証ししていると言われています。つまり、第三の証しとはイエスさまの地上におけるお働きのすべてです。

「実を見て木を知る」というイエスさまの有名な御言葉を思い起こすことができるでしょう。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ15・18)。イエスさまとしては、このわたしが多くの人々の前でその人々のために行っているわざを見てほしい、それを見ればこのわたしが救い主であるかどうかが分かるはずだ、それこそが「証明」であると、おっしゃっているのです。

最後となる第四の証しとは、聖書の証しです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)と言われているとおりです。ここでイエスさまがおっしゃっていることは、要するに、とにかく聖書を読んでくださいということです。そのことに尽きるのです。

ただし、先ほど申しましたとおり、聖書に書かれていることは真実かどうかということを、わたしたち人間が、たとえば科学的に証明してみせるというような必要はありません。そのようなやり方は聖書に対する要らぬお世話です。聖書の中に科学的な矛盾点や疑問点を見つけて一喜一憂する必要もありません。はっきり言えば、聖書に記されていることが真実であるかどうかは、科学的に矛盾がないかどうかという点とは全く関係ないのです。むしろ、聖書というこの書物は、イエス・キリストは救い主であるということを証明するものであるかどうかというその一点だけにかかっていると言っても過言ではないのです。

以上、四つの証しの内容を見てきました。第二に挙げられた「人間の証し」については消極的に扱われていました。しかし完全に否定されるべきものでもありません。ヨハネもまた一定の役割を果たしたのです。ですから、イエスさまが挙げておられるのは三つの証しではなく四つです。父なる神、人間、イエスさまのみわざ、そして聖書。この四つが「イエス・キリストは救い主である」ということを証明しているのだと言われているのです。

そして私が最後に申し上げたいことは、この四つすべてが揃っている場があるとしたら、それは「教会」だけである、ということです。「教会」の存在こそが、イエス・キリストが救い主であることを証明しているのです!

(2009年6月14日、松戸小金原教会主日礼拝)