2009年6月21日日曜日

聖書はイエス・キリストを指差している


ヨハネによる福音書5・41~47

「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

先週学びましたことは、イエス・キリストが救い主であることの証拠を示すものは四つあるということでした。そのように、イエス・キリスト御自身が説明しておられました。第一は父なる神による証し、第二は人間による証し、第三はイエスさま御自身が行われたみわざによる証し、第四は聖書による証しでした。

そして私は、これら四つの証拠がすべて揃っているのは教会だけであるとも申しました。この地上に教会が存在し続けるかぎり、まさに教会自身が「イエス・キリストは救い主である」ということを証言し続けるのです。

ただし、第二に挙げられている人間による証しという点については、いくらか消極的に取り上げられているとも申しました。そのことが今日の個所の冒頭に繰り返されています。「わたしは人からの誉れは受けない」。

ここで言われている「人」ないし「人間」とは、直接的にはイエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことを指しています。しかし、これをヨハネ一人だけのことにしてしまう必要はありません。わたしたち自身も含まれていると考えるべきです。その場合の「わたしたち」とは、イエス・キリストを真の救い主と信じて生きているわたしたちです。それはわたしたちキリスト者のことです。あるいは、キリスト者の集まりである教会のことです。

しかし、間違ってはなりません。人間による証しの意味そのものは否定することができません。わたしたち人間がイエス・キリストを証しするとは、わたしたちが「イエスさまは救い主である」ということを理論的または科学的に証明するという意味ではありません。イエス・キリストというお方は、わたしたちが証明しなくても救い主であられるのです。イエス・キリストは人間の誉れを受けられません。すなわち、イエスさまは、わたしたち人間によってほめたたえられなくても、真の救い主キリストなのです。

しかし、このことには別の見方がありえます。イエスさまが救い主であるということは、なるほどたしかに、人間が理論的に証明してみせることではありません。イエスさまは、誰が何と言おうと救い主なのです。しかし、それではわたしたち人間には果たすべき役割は何も無いのかと言えば、決してそうではありません。

わたしたちにも果たすべき役割があります。それはイエス・キリストの救いにあずかることです。すなわち、救い主であるイエス・キリストによって救われることです。そして救われた者としての人生を送ることです。感謝して、喜んで、イエスさまと共に生きることです。

そしてまた、同時にそれは、イエスさまの教えに従って生きることをも意味しています。イエスさまの教えに従うとは、神を愛し、隣人を愛することです。

そして、神への愛と隣人への愛とが同時に教えられているのは、旧約聖書の律法です。なかでもモーセの十戒です。ご承知のとおり、モーセの十戒の前半部分である第一戒から第四戒までに教えられているのが、神への愛です。また後半部分である第五戒から第十戒までに教えられているのが、隣人への愛です。イエスさまの教えに従うことと旧約聖書の律法、とくにモーセの十戒に従うことは、同じことなのです。

それはわたしたちにもできることです。しかし、今申し上げたその「できる」の意味は、完璧にできるということではありません。わたしたちは、神を愛することと隣人を愛することとを完璧に行うことができるわけではありません。けれども、とにかく愛し始めることはできます。あるいは、「愛します」と決心することはできます。愛そうと努力することもできます。

愛することの反対は、憎むことです。「憎みません」と決心することもできます。現実のわたしたちの心には繰り返し憎しみがよみがえって来ることばかりです。「ああ、また私の心に憎しみが湧いてきている」と気づくことができます。その憎しみの心を毎日のように打ち消しながら、あるいは打ち消そうと努力しながら生きることが、わたしたちにできるのです。

ですから、大切なことは、わたしたちがそういう人間になることです。神を愛することも、隣人を愛することも、全く考えたこともない。心の中に湧きあがってくる憎悪の念を燃えあがるままに放置し、自分の火に自分で油を注ぐ。そのような人間であることを意識的にやめること、やめようとすることが重要なのです。

わたしたちがそういう人間になること、あるいはそういう人間であろうとすることは、救い主イエス・キリストの教えに従って生きることと同じことです。すなわち、救い主によって救われた者として生きることと同じなのです。そして、それこそが、わたしたちが救い主を救い主として認めることであり、まさに証しすることです。イエス・キリストが救い主であるかどうかは理論的に証明されるべきことではなく、わたしたちの日々の実践によって示すべきことなのです。

ところが、今日の個所でイエスさまが鋭く指摘しておられることは、あなたたちはそれができていないということです。ここで「あなたたち」とは、直接的には当時のユダヤ人たちのことです。しかしまた、わたしたちはこの話を、ただ単に歴史的な視点に立って、当時のユダヤ人たちのことだけに当てはまるものであるというふうに限定してしまうべきではないでしょう。わたしたち自身、このわたし自身にも当てはめて考えるべきでしょう。それがこの個所の正しい読み方であると思われるのです。

「あなたたちの内には神への愛がない」。これは、モーセの十戒の前半部分の第一戒から第四戒までの教えをあなたがたは守っていないという意味になります。そしてそのことの証拠は、この続きに言われている点です。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」。

このわたしイエス・キリストは、父なる神の御子として、父なる神の名によって地上に遣わされてきた救い主であるにもかかわらず、あなたたちはこのわたしを受け入れない。わたしの教えを実践することもない。あなたたちはモーセの十戒を正しく守ろうともしていない。十戒の核心部分である「神への愛」を、あなたたちは実践していないではないか。それは、わたしの父である神と、この方の御心を受け入れていないのと同じことなのだと、イエスさまは鋭く指摘しておられるのです。

それではイエスさまの願いは何なのでしょうか。それは、すでに先ほどから何度も繰り返し申し上げていることです。イエスさまの願いは、わたしたちが神と隣人を愛する者になることです。モーセの十戒を実践する者になることです。それがキリスト教なのです。キリスト教的に生きること、あるいはキリスト者として生きることなのです。

しかし、この点は、必ずしもすべてのキリスト教会が一致して告白していることであるとは言えない部分であることも否定できません。わたしたち改革派教会は、この点を重んじてきました。キリスト教的に生きること、キリスト者として生きることとモーセの十戒を実践することとは、矛盾しないばかりか一致していることであり、あるいは事実上同じことであると、わたしたち改革派教会は、16世紀のカルヴァン以来、告白してきました。わたしたちは、そのように告白しつつ、まさにそのように実践することを重んじてきたのです。

たとえば、わたしたちは、神さまから愛されているということ、あるいは神さまに罪を赦していただいているということだけで満足しません。それは受け身の信仰です。神さまから貰うことばかりです。しかし、それは聖書の教えではありません。聖書が教えていることは、わたしたちもまた神を愛さなければならないということであり、隣人を愛さなければならないということです。恵みを受けた者は、それを与える者にもならねばならないということです。そして「受けるより与えるほうが幸いである」というイエスさまの教えを喜んで受け入れ、それを実践すること、それが重要なのです。

そして、そのように生きる人の姿、その存在がイエス・キリストを証ししていることになるのです。なぜならイエス・キリストは愛に満ちたお方だからです。

イエス・キリストの弟子たちは、イエス・キリストの愛の模範に習う必要があります。わたしたちに求められていることは、イエスさまが実践なさったように愛することです。イエスさまのお考えを聞いて記憶することだけではなく、イエスさまの生きざまを真似ることこそが求められているのです。重要なことは頭の中の思想ではなく、体を用いた行為です。目に見えない空想次元の事柄だけではなく、目に見える現実の姿が重要なのです。

ところが、このように教えるイエスさまのことをユダヤ人たちは迫害しました。ユダヤ人たちにとって、イエスさまは彼らの立場に反する存在であると感じられたからでしょう。しかし、それは何を意味することになるでしょうか。神を愛し、隣人を愛することを教えられたそのイエスさまの姿が、彼らの立場に反する。ということは、彼らは神を愛することも隣人を愛することもしていなかったし、する必要がないと考えていたし、そのように教えていたのではないかと考えざるをえないのです。

しかし、ここで単純な言い方をお許しいただきたいのですが、「神も隣人も愛さない宗教」とは一体何なのでしょうかと問わざるをえません。あまりにも悲しすぎます。宗教の風上にも置けない!存在の意義すらないものです。
わたしたちが知っていることは、愛されている人は喜んでいるということです。まともに愛されたことがない人は、必ずどこか憂鬱な顔をしています。「神さまに愛されれ

それでよい。人間などに愛してもらわなくても結構」と思っている人もいるかもしれません。そのようにおっしゃる方の立場は最大限に尊重しなければなりませんし、余計なお世話であると言われてしまうかもしれません。しかし、あえて言わせていただきますと、どこか寂しそうでもあります。「人からも愛されたい」。それがわたしたちの素朴で率直な思いではないでしょうか。

キリスト者になることと、愛する人になることとは、同じことなのです。それが聖書の教えであり、イエスさまの教えであり、わたしたち改革派教会が信じてきたことでもあるのです。

愛されたいのなら愛しましょう。「わたしは寂しい」と嘆く前に、愛を実践しましょう。それは大事なことなのです。

(2009年6月21日、松戸小金原教会主日礼拝)