このたび「改革派神学研修所 東関東教室」(世話人 安田恵嗣、三川栄二、持田浩次、小林義信、関口 康)は、東関東教室のホームページを立ち上げましたので、謹んでご連絡申し上げます。
改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/
このホームページアドレス(URL)を教会の皆様にお知らせいただけますと助かります。また各教会のホームページにリンクしていただきたく、よろしくお願いいたします。
このたび「改革派神学研修所 東関東教室」(世話人 安田恵嗣、三川栄二、持田浩次、小林義信、関口 康)は、東関東教室のホームページを立ち上げましたので、謹んでご連絡申し上げます。
改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/
このホームページアドレス(URL)を教会の皆様にお知らせいただけますと助かります。また各教会のホームページにリンクしていただきたく、よろしくお願いいたします。
礼拝出席者数の落ち込みを気にする教会員は少なくないと思います。その声を聞いて牧師や教会役員たちは、責任を痛感して落ち込むばかりです。しかしみんなの話をよく聞くと、30年から40年くらい前との比較だったりします。「時代は変わったんだ!」と少し大きめの声で言いたくなりますが、ぐっとこらえます。別に教会員のみんなも牧師や教会役員たちのことを責めたい・攻めたいわけではなく、ただ先行きに不安を感じているだけだからです。
“わたしの教会”が将来消滅してしまうかもしれないとほんの少しでも予感できてしまう要素を感じとることは、だれにとっても嫌なことです。「たとえ各個教会は滅びようとも、日本キリスト改革派教会が存続するなら、いやいや、“改革派神学”さえ生き残ることができるなら、永遠の真理は保たれるゆえに、すべては安泰である」というようなクレージーな論理は徹底的に超克されるべきであると私は確信しています。事情はちょうど正反対でなければならない。「神学栄えて教会滅ぶ」などというのは本末転倒の極みです。神学は(カール・バルトが主張したのとは異なる意味で)「教会の学」でないならば、ほとんど無意味なのです。
この「関口 康 日記」を書きはじめて一年が経過しました。子どもの頃から飽き性でして、とくに日記は完全に三日坊主でした。しかし「ブログなら書ける」。そのことをはからずも証明してしまった格好です。二年目になりましたので、気持ちを切り替える意味でデザインを変更しました。加えて、過去のホームページ上にあった「関口 康 著作目録」(「「著作」だとか「目録」だとか、自分でこんなふうに書くと尊大な奴だと想像されるのでしょうねえ。やれやれ)をブログ版として再構築中です。
関口 康 著作目録(1988年~2009年)
http://ysekiguchi.reformed.jp/inventory.html
『中会ヤスクニ』(日本キリスト改革派教会東部中会社会問題委員会・東関東中会伝道委員会共同発行)の最新号(第 号、2008年12月発行)の巻頭言を書きました。
■ 「伝道」が「平和集会」を必然化する
関口 康
再び東関東中会の話をさせていただきます。2009年2月11日(水)に「第一回東関東中会平和の集い」を行います。2006年7月に日本キリスト改革派教会の第六の中会として誕生したわたしたちの中会が初めて独自で企画する、画期的で記念すべき平和集会です。講師は袴田康裕先生、主題は「平和についての教会的一致のために~ウェストミンスター信条をもつ教会として~」です。会場は船橋高根教会、主催は東関東中会伝道委員会です。
中会伝道委員会が平和集会を企画すること。このことは東関東中会の中では当然のこととして受けとめられています。しかし、読者各位の中には、いまだに(「いまだに」です)このこと――中会の「伝道」委員会が「平和集会」というような社会的な問題に主体的・積極的に取り組むこと――に違和感を覚える方がおられるかもしれません。消極的な意見に接するたびに少なからず残念に思います。とはいえ、物事のイロハから説明することも「伝道」には避けがたいことですので、ため息をつくばかりで沈黙をもって受け流すような態度は、わたしたちには相応しくないでしょう。
単純なところから申せば、「わたしたちは誰に伝道しているのでしょうか」という問いをお考えいただけば自ずから答えが見えてくるでしょう。通常の理解では、すでにキリスト者である人々に対してわたしたちは「伝道」はしません。それはいまだにキリスト者ではない人々に対して行うことです。そう、教会の伝道の目的は(やや大上段にふりかぶって言えば)「人類と国家をキリスト教化すること」です。
「伝道」を使命とする教会の存在理由もまた然りです。わたしたちが願っていることは、今まで一度も教会の建物や交わりの中に足を踏み入れたことがなかったような人々を教会の中に招き、教会の教えや雰囲気、さらに伝統や文化の内容を理解していただき、それらに良い意味で「馴染んでいただくこと」です。小池正良引退教師のお言葉をお借りすれば「伝道とは異文化間コミュニケーションでもある」のです。
別の文化からわたしたちの文化(改革派的キリスト教文化)へと入ってくる人々がある種の違和感を覚えるのは、当然のことです。しかし、だからこそ、時間をかけて馴染んでいただく必要があります。教会の役割は、その人々の前で言葉を尽くして説明し、理解を求めることです。
しかし、そうは言いましても、この「馴染んでいただくこと」や「理解を求めること」が決して簡単なことでも単純なことでもないということを、わたしたちは体験的に知っています。もしそれが簡単で単純なことであるならば、日本伝道はもっとスムーズに進んできたでしょうし、今のような沈滞ムードに悩むこともなかったでしょう。そこで生まれてくる問いが「教会はもっと敷居を低くすべきではないか。社会問題などを持ち出してその判断を迫るようなことをするから教会に人が集まらないのではないか」というものであることも、わたしたちは知っています。ジレンマがあることは否定できません。
たしかに言えることは、人々が教会に求めるものは多様であるということです。ある人は教会に「地上の現実を越えた安らぎ」を求めますし、他の人は「地上の現実を生き抜く勇気」を求めます。しかし、です。ここから先がわたしたちの真骨頂です。問うべきことは「改革派教会」の選択肢は何かです。
それは、疑いなく後者です。わたしたちが教会に求めるべきは「地上の現実を生き抜く勇気」です。わたしたちは、天地万物を「はなはだ良きもの」(創世記1・13)として創造された神と、わたしたちを罪の中から救い出してくださる神は、同一の方であると信じています。その意味は、わたしたちをとりまく地上の現実がたとえ罪と悪に染まりきったものであると感じるものだとしても、「この世界は神が創造されたものである」という一点の真理ゆえに、神を信じる者たちは地上の世界に固く留まり続けるべきであり、かつこの世の中に満ち満ちている罪と悪の問題に正面から真剣に向き合うべきであるということです。創造者なる神への信仰が、わたしたちにこの世の中で生き抜くこと(地上の現実から逃避しないこと!)を強く要請すると共に、わたしたちのなすべきことを自覚させるのです。
「平和の問題」(そしてその裏側にある「戦争の問題」)は、この世界における罪や悪の問題のうちでも最も典型的で顕著なものです。この問題を扱うことが「伝道」に直結するのです。逆から言い直せば、「伝道」が「平和集会」を必然化するのだということです。
なるほど、ある国は「偽証してはならない」という神の戒めに逆らって立っているかもしれませんが、だからといって、神を信じる者たちがその国を徹底的に打ちたたくことにおいて「殺してはならない」という神の戒めに逆らうことが単純に許されてよいわけではありません。また、新約聖書の真理に立つ人々は「殺人を犯した人は必ず殺されなければならない」というようなことをストレートに語ることはできません。すべては複雑怪奇な問題です。しかし難しいことには近寄らないというのでは「それは逃避ではないのか」とのそしりを免れないでしょう。わたしたちが選ぶべきは判断中止による逃避でしょうか、それとも・・・どうすべきでしょうか。
もちろん、教会になしうることは、ごく僅かです。日本の教会は国民の少数派であり、その中の「改革派教会」はなおさらです。わたしたちの命すべてを投げ出したところで、大きなアクションを起こす力にはならないかもしれません。しかし、それが何でしょう。あきらめること、絶望することこそ、わたしたちが犯しうる大罪です。「できやしない」という声を聞いて立ち止まるくらいならば、わたしたちは、どんなに小さくても何かを行い続けるべきです。
私はつい最近、中部中会の『日曜学校教案誌』の小学生向け教案例に、「戦争しなければならない理由」を主張する人々の言葉に説得されそうになったときには「戦争してはならない理由」を一生懸命探して、それを大きな声で伝えましょうねと書きました。「みんなが賛成してくれるかどうかは分かりません。でも、皆さんの言葉に賛成してくれる人たちは必ず見つかります。その人々とぜひ協力してください」とも書きました。
これは、子どもたちだけに言いたいことではなく、すべての人に言わなければならないことです。勇気をもって、声を大にして!
(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師、東関東中会伝道委員会書記)
ブログ「今週の説教」の説教は、現在245件です。今の松戸小金原教会に来て半年後の2004年9月から、説教のブログ掲載とメールマガジン配信を始めました(夕拝説教はあまり載せられていません)。
やり方は、東神大同級生の清弘剛生先生が大阪のぞみ教会時代にしておられたことを受け継いだというか、真似しました(ご本人の了解を得ました)。
清弘先生のメールマガジンはかなりの購読者数を得ておられたようですが、私のメールマガジンの購読者は礼拝出席者よりも少ないです。教会員の方々からは「耳で聞くだけでは分からなかったことがメールマガジンを読んで分かりました」と言っていただけることがあります。メールマガジンのほうはそれくらいの用途でしかありません。
でも、自分の説教をすべてブログにさらすこと(勝間和代氏の表現を借りれば「自分をグーグル化すること」)は、説教集を書店の本棚に並べて印税収入を得ているような人々とは違って一円の収入にもならないし、有料のブログシステム「ココログ」や独自ドメイン「reformed.jp」などを利用していますので持ち出すもののほうが多いのですが、「読みました」と言っていただける方々の数が多く、範囲が広いことを実感しています。
自慢するわけではありませんが、「今週の説教」という検索語でサーチしていただくとgoogleとyahooとMSNでは第1位から第3位くらいの間で私のブログに到達するようです。他の検索エンジンもそのうち調べてみたいです。
まあ、でも、うちの子どもたちも大きくなってきて、塾だの習い事だの出費が家計に重くのしかかるようになりましたので、持ち出しの多いことを続けていくのはそろそろ潮時かな、と感じています。ブログに「献金お願いします」の広告を出さねばならない日が来るかもしれません(わりと真剣な話です)。
ブログ掲載を始めようと思った理由は、いろいろありますが、いちばん単純な理由は、われわれの説教の「一回性」です。
我々の説教原稿は、どれだけ苦労して書いたものでもたった一回読むだけですべて用済みです。私は整理とか苦手なので、書類の山の中に埋もれ、そのうちゴミ箱行きです。そうなることが分かっているので、いっそ全部をブログに置いておけば、自分の整理にもなるし、誰かの役に立つものもあるかもしれないと思ったまでです。
これから牧師になる人たちに勧めたいことは、ぜひ私と同じようにしてほしいということです。人目にさらすつもりで原稿を書こうとすれば、「てにおは」レベルの言葉遣いにも真剣にならざるをえませんし、盗作・剽窃のたぐいなどもすぐにバレてしまいます。ただし、「多くの人に読んでもらおう」という思いでブログに書くと、閲覧者数の少なさにがっかりすることになるでしょうから、あくまでも自分の修行のためにする。
前にも書きましたが、「説教の塾」にお通いになって高名な大先生の指導を仰ぐ時間と元気があるくらいなら(そうなさることが悪いと言っているわけではありませんが)、自分の説教をブログでさらし、もっと多くの人々の講評(ないし審判)を仰いだらよいと本気で思っています。
説教のオーディエンスは、まさか「塾長」や「塾生」だけであるはずはなく、教会員だけでもなく、それよりもはるかに広い世界に生きている人々であるはずです。どんなことであれ、それに習熟することのためには、一度は狭いゲットーの中に閉じこもることも必要であることは認めますが、いつまでも(免許皆伝されてから何年たっても)同じところに閉じこもり続けるというのでは、基本姿勢としてどこか変です。
http://ysekiguchi.reformed.jp/2009/01/post-7208.html?cid=34906152#comment-34906152
アメリカの波勢様、うれしいコメントありがとうございました!
「無神論牧師」のことは、私もオランダで知りました。問題の書は以下のURLで紹介されています。
http://www.nieuwamsterdam.nl/gelovenineengoddienietbestaat
日本の『キリスト新聞』も大きく取り上げています。
http://www.kirishin.com/2009/01/2009131-2.html
著者はオランダプロテスタント教会(Protestantse Kerk in Nederland)の牧師であるクラース・ヘンドリクセ(Klaas Hendrikse)氏。書名は『存在しない神を信じること―無神論牧師のマニフェスト―』(Geloven in een God die niet bestaat. Manifest van een atheïstische dominee)です。たしかアムステルダム自由大学の書店コーナーだったか、ユトレヒト大学近くの一般書店のキリスト教書コーナーだったかにたくさん平積みされていたはずです。表紙だけ見て「へえ、オランダではこんなのが流行ってるのか」と思ったことを憶えています。
私はまだこの本を買ってもいないし、読んでもいませんが、タイトルだけ見るかぎり、おそらく全く同意できない(あるいは「決して同意すべきでない」)ものだろうと想像しています。しかし、興味はあります。とくに気になっていることは、オランダ語のbestaan(存在)の意味です。
もしそれが「目で見ることができ、手で触ることができる地上的な事物としての何ものかが存在すること」を意味しているとしたら、「わたしたちの神はそういうモノではありません」と言わなければならないかもしれません。「神を見た者はいない」というヨハネによる福音書1章に表明されている真理との関係が気になっています。あるいはまた、「無神論はキリスト教の敵である」と単純に語ることができるかどうかという点が、とても気になっています。ユダヤ教も、イスラム教も、そして日本の神道なども(「無神論」の対立概念としての)「有神論」なのですから。
オランダの人々にとってはなるほど日本は「地の果て」でしょうけれど、私にとってはオランダこそが「地の果て」でした。私は海外旅行はもうたくさんです。勝手は分からないし、言葉は通じないし。観光とかそういうことにはまるで関心がないし。言語能力の面はもちろんのこと、美的感性の面に何か根本的な欠落があるようだと、改めて自覚させられるばかりでした。毎日どんより曇っている季節の「美しくない」オランダに(事実、連日ほぼ雨天でした)わざわざ行く私も私ですが。
ちなみに、アムステルダムで四泊した「ホテルアクロ」(Hotel Acro)の最寄りトラムステーションの目の前が、かの有名な「国立美術館」(Rijksmuseum)でした。フェルメール作品が数点あるそうで、普通の日本人観光客ならば、ほぼ確実に立ち寄るところ。ところが、私ったら、四泊「も」しながら、その前を素通りでしたヨ。「あほか!」と罵られますね、きっと。
ですから、あとのことは波勢さんにすべてお任せいたします。翻訳だけなら、日本で十分できます。それ以上の何かを望んだことは、いまだかつて一度もありません。「私の」神学の場は「日本の」教会であると信じています。また、「日本語で神学すること」(doing Theology in Japanese)の意義を、オランダに行ってみてますます確信させられました。しかし、「海外の」教会を場とする日本の神学者がいることを否定するつもりはありません。
以上、まとまりませんが、お礼のつもりで書きました。どうかこれからも元気にがんばってください。心から応援しております。