2009年1月11日日曜日

世を照らす神の光


ヨハネによる福音書1・6~13

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

先週からヨハネによる福音書を学びはじめています。何とも言えないとっつきにくさがある書物です。しかしとても興味深いものです。じっくり味わいながら学んでいきたいと願っています。

今日の個所にはヨハネという人物のことが紹介されています。このヨハネはこの福音書を書いたヨハネではありません。イエスさまに洗礼を授けたことで知られるバプテスマのヨハネです。しかしこの点はあまりすんなりとは行きません。二人が同じ名前であることには、やはり何らかの意味があると言わざるをえないのです。

この福音書を書いたヨハネが、バプテスマのヨハネの話をしながら自分自身の姿を重ね合わせていると考えている人々がいます。その見方は正しいと思います。先週私は、この福音書には著者の思想的立場が前面に現われていると申しました。明らかにヨハネがこの福音書を書いた時代の教会の戦いが背景にあります。しかし今日の個所に出てくるヨハネは、直接的にはバプテスマのヨハネです。そのことを無視してはいけません。

バプテスマのヨハネは神から遣わされたと記されています。「光について証しをするため、またすべての人が彼によって(ヨハネによって!)信じるようになる(光を信じるようになる!)ために」、ヨハネは神から遣わされたのです。

「光を信じる」とは、どういうことでしょうか。

先週の個所に「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と書かれていました。そして「人間を照らす光」としての「命」が「言(ことば)の内にある」とも書かれていました。この「言」がイエス・キリストです。イエス・キリストの内に、命の光があるのです。その命の光が人間を照らしているのです。そして、その光が暗闇の中で輝いています。

「暗闇」とはわたしたち人間が生きているこの世界に重くのしかかっている闇です。隣人の姿が見えなくなり、自分のことしか考えられなくなる闇です。しかしヨハネは(この福音書を書いたヨハネは、です!)、世界の暗闇の中で絶望していません。暗闇はイエス・キリストの内に輝いている命の光によって、取り払われつつあるからです。

イエス・キリストが来てくださったことによって、地上の世界に生きているわたしたち人間は誰一人、暗闇の中で絶望しなくてもよいのです。そのことを「すべての人が信じるようになるために」、二人のヨハネ(!)は神から遣わされたのです。バプテスマのヨハネが、そしてこの福音書を書いたヨハネが、多くの人々の前で証言したのです。

別の言い方をしておきます。二人のヨハネが神から遣わされたことの目的は、救い主が来てくださったということを世のすべての人に伝えることでした。逆の言い方をすれば、それは彼らの人生にはある一つの目的があったということであり、もしその目的を果たすことができさえすれば、彼らの人生はいわばゴールを迎えたと信じてよいものであったということでもあります。

どういうことかお分かりでしょうか。わたしたちの人生にも、おそらく何らかの目的があります。もちろんそんなものは持っていないと思っておられる方もおられるでしょう。そのように感じることが悪いことだと言いたいわけでもありません。

「人生の目的が一つだなんてことがあるはずはない。人生はそんなに単純ではありません。いろんな仕事があり、いろんな楽しみがあります。一つに絞ることなんてできません」。そのように言いたい人もおられるでしょう。「一つの目的を果たしさえすれば、私の人生は終わっても構いません」という言い方は傲慢であると感じる方もおられるかもしれません。人生の目的が神であるとか信仰であるとか、そんなのは御免ですと言いたい方もおられるでしょう。私自身は、そのようにおっしゃる方々の気持ちを理解できてしまう一面をもっています。

しかしまた、その一方で私が考え込んでしまうこと、それはやや言いにくいことですが、わたしたちの人生はそれほど長くないということです。一つのことのためだけに生きることでも精一杯です。

「あれもしたい、これもしたい。」もちろんそのとおりです!しかし、おそらくだいたい人生の半分くらい生きてきた頃にわたしたちが痛感させられることは、「あれもできなかった、これもできなかった」ということではないかとも思わされます。人生の目的が多ければ多いほど絶望感にさいなまれます。逆に言いますと、わたしの人生の目的はこれだと絞ることができるなら、心が楽になる面もあるような気がするのです。

バプテスマのヨハネの人生の目的は、これから来てくださる救い主をお迎えにするためにわたしたちは準備しなければならないということを、多くの人に知らせることでした。そして、そのことを知らせた後、彼は殺されたのです。

このヨハネにとって、イエス・キリストは永遠の主人公でした。彼自身は永遠の脇役でした。人間関係的に言えば、ヨハネのほうが年上で、イエスさまは年下でした。しかし、ヨハネは自分自身をイエス・キリストに従う者の位置に置いたのです。

自分の人生を永遠の脇役として理解し、位置づけ、覚悟を決めて生きること、それは決して容易いことではないかもしれません。わたしの人生はわたしのものだ。主人公の椅子は誰にも渡さない。そのように考える人々にとってバプテスマのヨハネの生き方は、共感どころか理解すらできないものかもしれません。ところがヨハネは、「わたしの人生はそうではない!」ということを確信し、心定めたのです。

そのことにこの福音書を書いたヨハネは、自分自身の姿を重ね合わせていると思われるのです。後者のヨハネの場合は、西暦一世紀の終わり頃、まさに存亡の危機の中にあった教会の正しい信仰を守りぬくための熾烈な戦いに自分の人生のすべてを賭けたのです。

イエス・キリストをこのわたしの救い主として信じること、そしてまた自ら信じた方の救いを広くこの世界の人々に宣べ伝えることは、少なくとも二人のヨハネにとって、自分の人生すべてをそこに賭けてしまう意義と価値があると信じることができるものでした。だからこそ彼らは確信をもって自分を脇役の位置に置くことができました。

「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とヨハネは書いています。先週の個所には「暗闇は光を理解しなかった」と書かれていました。ヨハネが「世」とか「自分の民」とか「暗闇」と呼んでいるのは、みな同じものであると考えることができるでしょう。それはもちろん、イエス・キリストを受け入れない人々と、その人々が生きているこの世界です。イエス・キリストの前には、この方を受け入れる人々もいれば、受け入れない人々もいるのです。

しかし、ここでわたしたちは読み間違えてはなりません。ヨハネは、イエス・キリストを受け入れない人々のことを冷たく裁くためにこのように書いているのではありません。「あの連中はダメな奴らだ」というようなことを言いたいわけではありません。彼の意図は正反対です。

ヨハネが言おうとしていることを短く言えば、イエス・キリストを通して現わされた神の恵みであり、神の愛です。救い主は、世界に暗闇があることを十分ご存じでありながら、御自分のことを理解せず、受け入れず、認めることさえしようとしない人々のところにも、いえ、そのような人々のところにこそ来てくださったのです。たとえ人々に嫌がられようと、罵られようと、です。

救い主は、世界が暗闇のままであることが我慢できないのです。あなたの心が暗い闇に覆われ、どんよりとした憂鬱な気分のままであることを放っておかれないのです。

その意味で言えば、イエス・キリストという方は、感覚的にはお節介焼きな面をもっておられる方です。「どうぞわたしのことはもう放っておいてください」と言って他者の干渉や介入をシャットアウトしたい人々にとっては、圧力を感じるかもしれないほどの、「もう勘弁してほしいです」と感じるかもしれないほどのお節介焼きです。

私にはイエスさまのこの点がなかなか真似できません。そのことを気に病んでいます。「わたしのことは放っておいてください」と言われたが最後、「ハイ分かりました」とそれ以上近づくことができなくなります。御本人の意思を尊重して、つい本当に放っておいてしまうところが私にはあります。そのような姿勢が牧師としてどうなのかという点を反省しなければなりません。イエス・キリストは、「わたしは救いというものなど必要ない」と思っているような人々をこそ、お救いになろうとされたのです。

ヨハネは続けて「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と書いています。これについても、たった今申し上げたこととほとんど同じことを申し上げなければなりません。

ここでもヨハネは、「その名」、つまりイエス・キリストの名を信じる人々に「神の子となる資格」をお与えになる方はイエス・キリストを信じない人々にはその資格を与えないという点ばかりを強調したいわけではありません。論理的にはそのようなことが言えるかもしれませんが、ヨハネの意図がその点にあるわけではありません。

ここでわたしたちが考えるべきことは、生まれたときから先天的に信仰をもって生まれた人は誰一人いないということです。信仰は血によって遺伝するようなものではないということです。そのことを、ヨハネは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」という言葉で表現しています。

ヨハネの意図は、すべての人は「神の子となる資格」などは持たずに生まれてきたのだということです。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは、すべての人がその資格を得ることを望んでおられ、何とかして救いたいと願っておられます。「わたしは神の子となる資格など無い人間である」と自覚しているあなたのところ、このわたしのところにこそ、イエス・キリストは来てくださったのです。

ヨハネはイエス・キリストを「人間」を照らす、または「世」を照らす命の光をもつ方であると信じました。「世を照らす神の光」という今日の説教のタイトルを教会の前の看板に書いていただいている字を見ながら先週一週間を過ごしておりましたとき、不謹慎かもしれませんが、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」という字を思い出してしまいました。

字面だけ取り上げてあれこれ言うことは控えなければなりませんが、毎日看板を見ながら私がますます確信を得たことは、わたしたちの神の光、救い主イエス・キリストの光は「天」だけを照らしているものではないということです!

イエス・キリストの光が「天」を照らしているということを否定する意図はありません。しかしそれは天国だけを、教会だけを、信仰をもって生きている人々だけを照らしているのではありません。地上の世界全体を、地上に生きているわたしたち自身を、そして未だに信仰に至っていない人々を照らしているのです。

伝道に命を賭けた人々は、世界と自分の人生の暗闇の中でその光を見た人々です。絶望したままで生きていける人は、どこにもいない。すべての人に「救い」と「希望」が必要である。「わたしたちはまだ生きていける!」そのことを知っている人々です。

(2009年1月11日、松戸小金原教会主日礼拝)