2008年12月11日木曜日

アペルドールン Apeldoorn

11日(木)は午前6時起床。朝食バイキングが始まる7時よりも前にホテルを出、トラムに飛び乗りました。そして7時半頃にはアムステルダム中央駅から電車に乗り、一路アペルドールンへ。アペルドールン駅前で石原知弘先生と待ち合わせ。石原先生が運転する自動車に乗せていただいて、オランダの東北地方に向かうためです。



■ アペルドールン



アペルドールン市(Gemeente Apeldoorn)は、神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が、生まれてから大学に入学する直前まで住んでいた、まさにこの神学者ゆかりの地です。現在石原先生が学んでおられるアペルドールン神学大学がある市でもあります。



駅から直行したのは、アペルドールン神学大学(Theologische Universiteit Apeldoorn)です。我々が訪ねたときは学生会の設立記念日のパーティーが行われている最中でした。来日講演をしてくださったことがある旧約聖書学者H. G. L. ペールス教授が我々を歓迎してくださり、神学生や近隣の教会の牧師たちと共に、30分くらい親しくお話しすることができました。



ペールス先生はファン・ルーラーがアペルドールン出身であることをご存知なかったらしく、我々の調査に深い関心を寄せてくださり、喜んでくださいました。神学生の一人は私の顔を見るなり、ニヤニヤ笑いながら「昨日アムステルダム自由大学でスピーチした人でしょ?」。私のことを覚えていてくださり、「出席しておられたのですか?」「ええ、行ってましたよ」という話から始まって、いろいろと盛り上がり、意気投合しました。別れ際、ペールス先生は御自身の最新著をプレゼントしてくださいました。最後の最後に「韓国(Korea)の(?)教会の皆様には、くれぐれもよろしくお伝えください!」とおっしゃいました。とても優しい先生でした。



国際カルヴァン学会のH. J. セルダーハイス会長も、この神学大学の教授です。セルダーハイス教授の姿を窓越しにちらっと見かけたので御挨拶したかったのですが、日が暮れるまでに計画したすべてを実行するためには時間が足りそうもないことが判明しましたので、先を急ぐことにしました。



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その後、神学大学の裏というかすぐ隣にあるアペルドールン・ヒムナシウム(Apeldoorn Gymnasium)を見学しました。ヒムナシウム(ギムナジウム)は、大学入学前の準備教育を行う超難関校です。ファン・ルーラーはこのヒムナシウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学しました。ヒムナシウム時代のファン・ルーラーは数学、とくに「立体幾何学」が得意であったと伝えられています。校門の柱にAnno 1813(西暦1813年)と刻まれている歴史的建造物は、今も現役で用いられています。学校の前をうろつく二人の東洋人がよほど珍しかったようで、ヒムナシウムの生徒たち(とくに女の子たち)が窓の中から我々に笑顔を向け、手を振ってくれました。



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次に向かったのはアペルドールンの「大教会」(Apeldoorn Grote Kerk)です。アペルドールン教会は、ファン・ルーラーが両親や兄弟と共に(彼は長男でした)幼い頃から通っていた教会です。彼の小児洗礼式と信仰告白式は、この教会で行われました。信仰告白に際しての教理問答教育(catechisatie)は、当時この教会の牧師であったTh. L. ハイチェマが行いました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師を辞任後、フローニンゲン大学神学部の教授になりました。アーノルト少年への教理問答教育には、オランダ改革派教会の伝統に則ってハイデルベルク信仰問答が用いられました。



ただし、今書いた説明は、これまで日本で読んできた書物から得たものです。ところが、今回の調査で、いくらか複雑な事情がありそうだと分かりました。



ペールス先生が、次のように教えてくださいました。ハイチェマが牧師をしていたとき(1918年~1923年)のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、略称NHK)は、アペルドールンに二つあったそうです。「大教会」(Grote Kerk) と「ヨハネス教会」(Johannes Kerk)です。しかし、後者「ヨハネス教会」は今から数年前に取り壊されました。また、1970年代ないし80年代頃までのNHKの牧師は、個別の教会に赴任するのではなく、複数の牧師で複数の教会を担当していたそうです。そのため、ファン・ルーラーとその家族が「大教会」のほうに通っていたか、それとも「ヨハネス教会」のほうに通っていたかを特定することは、「ハイチェマが牧していた教会である」という情報だけでは無理だということです。別の情報を得られるまでは、それは「大教会」(Grote Kerk)のほうであった「可能性がある」と書くのがより正確だということです。



やはり現地に行かねば分からないことがたくさんあるなあと思わされました。



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2008年12月10日水曜日

国際ファン・ルーラー学会でのスピーチ全文

パネラー席の右端がヘリット・イミンク先生です
後ろの時計の針は「午後4時50分」を指していました

「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、オランダ・アムステルダム自由大学講堂)で行った私の英文スピーチの内容は、以下のとおりです。

原稿にありませんでしたが、冒頭にアドリブで「現在日本は午前1時50分です。私の就寝時刻です」というジョークを加えました。どっと受けました。時差ネタはハズレません。

最後の「国際ファン・ルーラー学会極東支部のつもりで」というくだりも計算どおり爆笑をいただきました。「国際ファン・ルーラー学会」というのはこの日限りのもので永続性のないものだと、もちろん分かっていましたので、あえて言いました。「極東」(Far East)という言葉は、欧米の方々への敬意です。

人生初のオランダで、2度も爆笑いただけて、本当にうれしかったです。

スピーチ冒頭の動画(You Tube)
オランダ日報Nederlands Dagbladの記事

■ 日本からのメッセージ/関口 康

このたびは、日本におけるファン・ルーラー研究の様子をお知らせする機会を与えていただきましたことを、心より感謝申し上げます。

私は関口康と申します。日本のファン・ルーラー研究会の代表者であり、日本キリスト改革派教会の牧師です。

感謝すべきことはたくさんあります。なかでもたいへん光栄に思っておりますことは、新しい『A. A. ファン・ルーラー著作集』の第一巻の「序」の中で(53ページ)、ディルク・ファン・ケウレン先生がわたしたちのグループの存在を国際的に紹介してくださったことです。

わたしたちはまさに小さなグループです。設立は1999年2月です。現在のメンバーは100名強です。わたしたちは「大学を場とする神学者」ではなく、「教会を場とする神学者」です。

わたしたちのやり方は、メーリングリスト上のやりとりで翻訳を進めることです。また1、2年に一度のペースで神学セミナーを行い、互いに励まし合ってきました。この秋から日本の有力な季刊誌(季刊『教会』)にわたしたちの翻訳の連載が開始されました。最初の論文は「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」です。

研究会設立当初から立ててきた目標は、日本語版『ファン・ルーラー著作集』を出版することです。もちろんわたしたちは欧米やアフリカその他の教会とはコンテキストにおいて大きな違いがあることを知っています。しかし、わたしたちなりのコンテキストの中でファン・ルーラーを読むことの意義を感じています。

2009年に日本のプロテスタンティズムは宣教150周年を迎えます 。しかし、現在の日本のキリスト教人口は国民の1パーセントを超えていません。

そのような状況の中でファン・ルーラーの神学は、世界と向き合う勇気をわたしたちに与えてくれます。ファン・ルーラーは、キリスト者が社会性を欠く宗教マニアのようなものであることを許してくれないでしょう。彼は教会と社会との両方にバランスよくかかわることの必要性を強く主張しました。

「教会の信頼回復」と「キリスト教宣教の進展」は、表裏一体です。「教会を場とする神学」において、この問題は重要な意義をもっています。

わたしたちは「国際ファン・ルーラー学会極東支部」のつもりで、これからもファン・ルーラーのテキストに取り組んでまいります。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

■ MESSAGE FROM JAPAN/ Yasushi Sekiguchi

Greetings! Thank you for giving me this opportunity to introduce the research about Van Ruler that we are doing in Japan.  My name is Yasushi Sekiguchi. I am the chairperson of the Japanese Van Ruler Translation Society and a pastor of the Reformed Church in Japan. There are many things for which I am grateful. For one thing, we were very honored that Dr. Dirk van Keulen introduced our group, the Van Ruler Translation Society, to the international community in de Inleiding van de Verzameld Werk van prof. dr. A. A. van Ruler (deel 1, p. 53) !

Our very small group was established in February 1999. We have grown to over 100 members. We do not do our theological research in an academic setting, but we are theologians who work in local churches.

We operate by sharing our Japanese translations of Van Ruler’s texts with those on our mailing list. In addition to this, we encourage each other by sponsoring symposia and conferences every one or two years. Beginning this fall, our translations will start to be published serially in a well-known quarterly journal in Japan. The first translation is “Structure differences between Christological and Pneumatological perspectives.”

From the beginning, the goal of our society is to publish a Japanese version of the collected writings of Van Ruler. Of course we realize that there are great differences in the context of the churches in Europe, America and Africa, and so forth, but we think there will be great significance to read his texts in our Japanese context.

In 2009, we will mark the 150th anniversary of the arrival of Protestant Christianity in Japan.  But even now, Christians in Japan number less than 1% of the population. In this situation, Van Ruler's theology gives us courage to face the world. He would not allow us Christians to become religious maniacs obsessed with the other world and who forget their place in society. I believe his theology is so significant because he maintained this balance and taught the need for Christians to be engaged in both religious and secular environments. Restored trust in the church and increased impetus to mission endeavors go together. For those of us doing theology in the local churches, this teaching is highly significant.

We who consider ourselves the Far East Branch of the International Society of Van Ruler Research desire to continue to wrestle with Van Ruler’s writings. We are grateful for your help and encouragement. Thank you very much!


国際ファン・ルーラー学会 Internationaal Van Ruler congres




国際ファン・ルーラー学会が無事終了しました。出席者は約200名(オランダ日報Nederlands Dagblad誌の発表)。アムステルダム自由大学の講堂(auditorium)がほぼ満席でした。ファン・ルーラーへの関心の高さをはっきりと知ることができました。

日本人の出席者は石原知弘先生(アペルドールン神学大学修士課程)、青木義紀先生(オランダプロテスタント神学大学修士課程)、私の三人でした。私のスピーチは最後の最後でした。

スピーチの前にイミンク先生(オランダプロテスタント神学大学総長)が私のことを紹介してくださいましたので、和やかな雰囲気の中で落ち着いて話すことができました。

応援してくださった皆様に心より感謝いたします。

学会終了後、メインスピーカーのユルゲン・モルトマン先生と午前の部の全体講演(plenair)の進行役のM. E. ブリンクマン先生(アムステルダム自由大学神学部教授、組織神学者)が記念撮影に快く応じてくださいました。

特設サイト
フォトアルバム
スピーチ冒頭の動画(You Tube)
スピーチ全体の音声
スピーチ全文

2008年12月9日火曜日

アムステルダム中央駅 Amsterdam Centraal

■ アムステルダム



アムステルダム中央駅に戻り、駅前からトラムに乗ってホテルに帰ろうとしましたが、そこでトラブル発生。乗るべきトラムの路線を間違えてしまったようでした。来た道とは異なる風景が見えはじめ、これはヤバいと、とにかく降りました。全く未知の外国で迷子になるところでした。ガイドブックの地図を見ても、よく分かりません。そこからうろうろ歩くこと約一時間。やっと見つけたのが、昨日最初に訪ねたアムステルダム自由大学の看板でした。「これでホテルに帰れる!」と、ほっとしました。



うろうろ歩いている最中に、Sushi Kingsという店を見つけて驚きました。「寿司屋」でした。ガラス越しに中を見るかぎり、店員に日本人は一人もおらず、全員オランダ人らしき若い男女が寿司を握ったり、包丁を洗ったりしていました。



「日本の寿司と味が違うのではないかなあ。東京で『広島お好み焼き』とか『沖縄ソウキそば』とか言って売っているのは現地の味と全然違うのと同じように」というなんとも微妙な興味を抱いてしまったので、夕食はすでに済んでいたのですが(石原先生のおくさまが作ってくださったおいしいサンドイッチでした)、ついお持ち帰り用のを一つ買ってしまいました。しかも値段は、日本の「小僧寿し」なら500円くらいで買えそうなのが、なんと18.5ユーロ(約2,300円)。「これだけ払って味が全く違っていたら怒るからね」とブツブツ言いながら、sushiをぶらさげてホテルに帰り着きました。



そして最初の一つを口に入れたところ、「おお、なんと、これは『寿司』だ!」と、そのおいしさに感動しました。その店は宅配(デリバリー)もしているとのこと。店には日本酒なども売っていました(買いませんでしたが)。



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以上、親友の石原先生と共にユトレヒトにもヒルファーサムにも行くことができ、親切な牧師と教会が大好きな子どもたちに出会うことができ、おいしい寿司まで食べることができた一日でした。明日は「国際ファン・ルーラー学会」本番です。



ヒルファーサム Hilversum

■ ヒルファーサム



ヒルファーサムは、ファン・ルーラーが牧師として働いた教会がある町です。しかし我々は、それがヒルファーサムのどの教会なのかを特定できずにいました。それでとりあえず、その町で最も古く最も大きな教会である「大教会」(Grote Kerk)に行きました。



しかしそれが本当にファン・ルーラーが牧会した教会であるかどうかに確信が持てませんでした。「これかなあ?たぶんこれだよねえ。でも、分からないねえ。これだってことにしておこうか?(苦笑)」とか言いながら建物の周囲を二人でうろついていたところ、教会前に駐車していた自動車から出てきた若い男性が我々に気づいて声をかけてくださいました。それがなんと「大教会」の牧師でした!(ただし「パートタイムの」牧師であるとのこと。その方曰く、現在「大教会」は主任牧師がおらず、探しているとのことでした。)



これはラッキーと、その先生にこの教会とファン・ルーラーの関係を質問したところ、「それはこの教会ではなく、別の教会です」と教えてくださいました。そして「じつは今から30分くらい子どもたちにカテキズムを教えなければならないので、もし終わるまで待ってくださるなら、自動車でその教会まで連れて行ってあげますよ。ちょっと遠いので、徒歩で行くのは無理だと思いますので」と言ってくださいました。驚くやら喜ぶやら。二人で小躍りしました。



教会の一室に通していただいて待つこと30分。その先生が我々のところに戻ってこられ、「子どもたちが日本からのお客さんに興味を持っているので、会ってもらえませんでしょうか」とのこと。これまた大喜びで了解しました。カテキズム教室に集まっていたのは10名ほどの中学生でした。男の子も女の子もいました。我々を興味津々の目で見つめ、「日本にはどれくらいクリスチャンがいるのか。多いのか少ないのか」とか「あなたたちはこれから牧師になるのか、それともすでに牧師なのか」など質問攻めに会いました。



子どもたちと別れる前に、その牧師がオランダ語でお祈りしてくださいました。最後に私が「皆さんは教会が好きですか」と尋ねたところ、一人の女の子がニコニコしながら「ハイ!」と大きな声で答えてくれました。



その後、先生の自動車で目的の教会(Hilversum Diependaarse Kerk)に移動しました。移動中も突然の訪問客に対してとにかく親切に何でも教えてくださいました。曰く、「大教会」(Grote Kerk)とファン・ルーラーが働いていた「ディーペンダール教会」は、同じオランダプロテスタント教会(Protestantse Kerk in Nederlands)に属しているものの、前者がConfesioneel(信仰告白派)という正統的なグループに属しているのに対して、後者はリベラルである。しかし、ファン・ルーラーは「大教会」のほうでも説教していた。ファン・ルーラーは、教会員から「説教が難しすぎてついて行けない」と批判されていた。私(その先生)はファン・ルーラーを偉大な神学者であると思っている、などなど。「現在ヒルファーサムには、いくつくらいの教会(プロテスタントとカトリックとを合わせて)がありますか?」という私の質問に対しては、少し考えて「20くらいですね」と答えてくださいました。その後、その先生はヒルファーサム駅まで我々を送ってくださいました。



石原先生とも明日に備えてヒルファーサム駅でお別れ。時刻はすでに午後6時。あたりは真っ暗でした。



ユトレヒト Utrecht

今朝は7時に起床。8時にホテルで朝食を食べました。一応セルフバイキング形式でしたが、予想どおり、パン、ハム、チーズ、コーヒーのみの(あとは何もない)朝食でした。その後一時間ほどかけてメールの返事を何通か書き、10時にホテルを出発。雨が降っていたのでホテルのフロントで傘を借りました。



■ ユトレヒト



トラムに乗って約15分でアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal)に着き、そこからユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)まで約30分。そこから徒歩で10分のところにあるドム教会(Dom Kerk)に行きました。ドム教会の前で、9月から留学中の石原知弘先生が待っていてくださいました。石原先生は午前中ユトレヒトの語学学校で勉強。午後から私に付き合ってくださいました。



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最初にドム教会の内部を見学。ドム教会は、とにかく巨大で荘厳な建物でした。なかでもとくに驚いたことは、説教壇(Kansel)と聖餐卓(Abondmaal tafel)とが会衆席をはさんで対極の位置に置かれていたことです。両者は20メートルほど離れており、そのような贅沢というか優雅な建物の使い方をしていることに驚き、また羨ましく思いました。



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その後、ドム教会の隣にあるユトレヒト大学(Universiteit Utrecht)の旧校舎に行きました。ファン・ルーラーが講義を行っていた場所です。古い建物の中には似つかわしくない感じの電光掲示板があり、今日の予定が映し出されていました。三名の博士号授与式(promotie)と授与者祝賀会(receptie)が行なわれる予定だったようで、我々が訪ねたときはそのうち一名の祝賀会が行われている最中でたいへん賑やかでした。白い蝶ネクタイをしたにこやかな若い男性と廊下ですれ違いましたので、たぶんその人が今日まさに「博士」(doctor)になられたのでしょう。



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ドム教会の次は、徒歩7分くらいのところにあるヤンス教会(Jans Kerk)に行きました。大学教授時代のファン・ルーラーが家族揃って通っていた教会です。昨年9月に『ファン・ルーラー著作集』第一巻の出版感謝祝賀会が行われたのもヤンス教会でした。ヤンス教会の中に、1980年代に考古学者によって発掘された昔の墓がガラスのケースに入れられて飾られていました。ヤンス教会を出たところ、興味深いことに、教会のすぐ前にアンネ・フランクの像が立っていました。「なぜユトレヒトにアンネさん?どういう関係なんだろうねえ」と石原先生と顔を見合わせて考え込みましたが、彼女のことをよく知らないので分かりませんでした。『アンネの日記』を読み直してみたくなりました。



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その後、ユトレヒトの繁華街を散歩しました。昼食はフライドポテト(だけ)で済ませました。それからユトレヒト中央駅に戻り、そこから電車でヒルファーサム(Hilversum)に向かいました。014 



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アムステルダム Amsterdam

8日(月)7時30分に小田雅也長老が牧師館まで迎えに来てくださり、八柱駅まで送ってくださいました。八柱駅から新京成線に乗り、京成津田沼駅で成田空港まで行く特急に乗り換えました(京成の「成」は成田の「成」だったのかと初めて知りました)。成田空港には10時に到着。千葉銀行成田空港支店で円をユーロに両替。チェックインもボディチェックもスムーズでした。日本航空411便は定時に出発、12時間のフライトを経てアムステルダムに無事(これもみごとに定時に)到着しました。航路はロシア上空、高度1万メートルをシベリア方面にカーブしながらもほぼまっすぐに進んで行くものでした。エコノミークラスの三人掛けのシートでしたが、同じシートには私しかいなかったのでゆうゆうと使うことができました。フライトの間は退屈だろうとそれだけを憂鬱に思っていましたが、それは昔の話だと分かりました。座席前に各個人用のテレビが備わり、それで映画を鑑賞したり、音楽を聴いたり、ゲームをすることができました。映画は立て続けに四本も見てしまいました。「ハンサム☆スーツ」(主演 塚地武雅)という映画には、他人事ではない話に思えて感動しました。機内食は三食ありました。けっこう美味しく食べました。



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スキポール空港には、たいへん心強いことに、野村信先生(東北学院大学教授、アムステルダム自由大学客員研究員)が迎えに来てくださいました。野村先生の案内で今週水曜日に「国際ファン・ルーラー学会」(Internationaal Van Ruler Congres)が開催されるアムステルダム自由大学をさっそく見学しました。講堂(auditorium)の前に飾られた初代学長アブラハム・カイパーの像を見ることができました。夕食は野村先生と一緒に自由大学の学生食堂で食べました。5ユーロほど払ったとき、レジの若くて美しい黒人の女性が「モヘラック!」(Mogelijk!)とおっしゃって私の顔を見てニコッと笑ったので、野村先生に意味を伺いましたら「『たくさん食べてね』というくらいの意味でしょう。フランス語のボナペティ!(Bon appetit! どうぞ召し上がれ!)と同じようなことです」と教えてくださいました。夕食後、自由大学の図書館(bibliotheek)や書店コーナー(boekhandel)も見に行きました。書店には興味深い本が並んでいましたが(ほとんどがオランダ語のものです)、衝動買いを抑えて抑えて。その後、トラム(路面電車)でホテルまで行きました。トラムの乗車方法からホテルのチェックインまですべてを野村先生が助けてくださいました。寝室は古いですが、こざっぱりした、とてもいい感じです。同じ部屋で四泊します。



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2008年12月7日日曜日

主において常に喜びなさい


フィリピの信徒への手紙4・2~7、ルカによる福音書2・10~12

「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・2~7)

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(ルカ2・10~12)

今日は聖書を二個所読みました。一つは、先週まで学んできたフィリピの信徒への手紙の続きです。もう一つは、わたしたちの救い主イエス・キリストがお生まれになった日に起きた出来事を描いているルカによる福音書の言葉です。

この二個所に共通している一つのキーワードがあることに、すぐにお気づきいただけると思います。それは「喜び」という言葉です。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

前者は使徒パウロがフィリピ教会に書き送った言葉です。後者は天の御使がベツレヘムの羊飼いたちに伝えた言葉です。別の言い方をすれば、これはベツレヘムの羊飼いたちが天の御使からこのように伝えられたと信じた言葉でもあります。つまりこれは羊飼いたち自身の信仰を告白する言葉でもあるのです。

今申し上げた点はともかく、今日取り上げた二つの個所には、両者に共通する「喜び」というキーワードが埋め込まれているということを確認することができます。しかも私が考えさせられたことは、二つの個所の「喜び」という言葉に含まれている深い意味も実はかなり共通しているようだということです。私が今何を言おうとしているのかを、もう少し説明してみたいと思います。

前者の「喜び」について、すなわち4・4に出てくる意味での「喜び」について、前後の文章を読むかぎりで分かりますことは、パウロはこのことを必死に、一生懸命に言い聞かせているようだということです。「常に」とか「重ねて言います」と書いています。読み方によっては、くどくて、ねちっこい表現です。もしかしたら腹を立てる人が出てくるかもしれないほどに執拗です。子どもたちは親から何度も同じことを言われると腹を立てます。「ハイハイ、分かった分かった。うるさいよ」と。それと同じような反応を引き起こしかねないほどの、くどくてねちっこい反復があると言えます。

これらの表現は、パウロにとっては意図的なことでもあったようです。そのことに私ははっと気づかされました。パウロが書いていることは、カメラマンが写真を撮影する前にみんなに向かって「はい笑ってください」と言うのに似ています。緊張で顔がこわばっている、笑っていない人々に「笑ってください」と、「喜んでください」とパウロは命令しているのです。パウロは「喜び」という言葉を用いながら、そのなかに一種独特の意味での批判を述べています。この点にはっと気づかされたのです。

パウロが「喜び」という言葉を用いて何を、あるいは誰を批判しているのかについては、はっきり分かります。批判の対象は、名前が出てくるエポディアとシンティケという二人の女性です。この二人を名指ししながらパウロが書いていることは「主において同じ思いを抱きなさい」です。逆転させて考えることができるでしょう。短く言えば、この二人は同じ教会に属しながら同じ思いを抱いていなかったのです。二人は対立していたのであり、もっとはっきり言えば、けんかしていたのです。同じ教会の中での女性同士の対立であり、戦いであったとも言えるでしょう。

「真実の協力者」と呼ばれているのは、エポディアとシンティケが教会の中で対立しているということをパウロに告げた人のようです。この人の名前をパウロが伏せているのは、「あの人がパウロに告げ口した」とその人自身が二人の女性から、あるいは教会の他の人々から非難される結果を招いてしまうことを防ぐためであると考えることができそうです。おそらくは、このときすでに、パウロがその人の名前を伏せなければならないほどに事態は深刻なものに発展しており、危険きわまりない状態に陥っていたのです。

ここまで申し上げれば、皆さんには、ぴんと来るものがあるはずです。問題は、パウロが用いている「喜び」という言葉に込められている批判的な意図とは何のことかです。

その答えは単純明快です。「けんかをやめなさい」です。「教会のなかでけんかするのはやめなさい」です。「教会は喜ぶために存在するのであって、けんかするために存在するのではない」です。「教会員同士がけんかしあうことで、どんな良い結果があるのだろうか。良い結果などありえない。けんかなど直ちにやめなさい。教会に混乱をもたらすことは、厳に慎みなさい」です。

この件に関して私は、現実の教会のなかでの実例は挙げないでおきます。そういうことをすること自体、どこかの火に油を注ぐ結果を生みかねないからです。

また、女性同士の対立の場合だからどうだとか、男性の場合はどうだとか。そういう話もしたくありませんし、すべきではないと考えています。何か分かること、感じることがあるとしても、そういうことは決して口にすべきではありません。女性に対しても男性に対しても失礼なことです。皆さんはどうか、そういう分類や割り切り方はおやめください。教会の中でけんかをしてはならないことに関しては、男も女もありません。

ここで、今日二番目に読みました、ルカによる福音書の言葉のほうに話題を移していきたいと思います。私が申し上げたいことは、ベツレヘムの羊飼いたちに向かって天の御使が告げた「喜び」の中にも、ある独特の意味での批判が述べられているように思われるということです。

その根拠ないし理由は、天使の言葉の中にあります。すなわちそれは「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」です。

ここで「あなたがたへのしるし」と呼ばれているのは、明らかに「喜びのしるし」です。つまり、あなたがたに告げるこの喜びの知らせが、あなたがたにとって本当に喜ぶことができる内容をもっているかどうかを判断するための材料ないし根拠としてのしるしです。天使が語っているのは「あなたがたへのしるし」、つまりあなたがたベツレヘムの羊飼いにとって、これは本当に喜ぶことができるものだとはっきり分かってもらえるはずのしるしであるということです。

逆に言えば、もしそのしるしを見て「いや、これは、このわたしにとっては喜ぶことができないものである」と判断する人がいるとしたら、それはそれだということです。その判断そのものは、ある意味で尊重されるべきものでもあるでしょう。

それはともかく、いずれにせよはっきりしていることは、天使が告げているベツレヘムの羊飼たちにとっての「喜びのしるし」とは、すなわち「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」のことです。となりますと、内容的に見れば、このしるしは、明らかに「貧しさのしるし」であると思われるものです。豊かな人、裕福な人、そのような家庭に生まれる人は、通常の場合、飼い葉桶のなかに寝かされたりはしません。そのようなことは、通常ありえません。飼い葉桶のなかに寝かされる可能性があるのはそれとは正反対の人々です。豊かさの反対である貧しさの中にある人々です。

そうなりますと、今申し上げた意味での「貧しさのしるし」としての飼い葉桶のなかに寝かされた乳飲み子の姿を見て「喜び」を感じると見ている天使たちの考えのなかに前提されていることは、明らかに「ベツレヘムの羊飼たちは貧しい人々である」という点です。そして、そこからさらに分かることは、貧しい人々にとって、救い主イエス・キリストのお生まれになったときの姿は「喜びのしるし」でありうるのだと、天使たちが言っているのだということです。

それでは、先ほどから申し上げている「喜び」の批判的な意味とは何かです。明らかに批判されているのは豊かな人々です。豊かな人々が「これはわたしの喜びだ」と感じたり語ったりしているそれは本当の喜びではない。本当の喜びは別のところにあるのだと天使たちが言っているのです。「あなたがた豊かな人々は、本当に喜ぶべきものを喜んでいない。喜ぶべきでないことを喜んでいる」。非常に厳しくはっきり言うとしたら、このような感じになります。天使たちによる批判の矛先は、豊かな人々に向けられているのです。

なるほどたしかに、聖書には、どう読んでも豊かな人にとっては厳しいと感じられる、あるいは不愉快とさえ感じられる言葉がたくさん出てきます。たとえばイエス・キリスト御自身がお語りになったなかでも最も有名な言葉のひとつ、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19・24、マルコ10・25、ルカ18・25)をどのように解釈すれば、豊かな人々にとっても満足できる説教ができるでしょうか。私には無理だと感じます。しかし、あきらめてしまうつもりはありません。この件についても具体的な実例を挙げることはやめておきますが、ごく一般論として考えてみるときに思い当たることがあります。

それは要するに次のようなことです。豊かな人がいつまでも豊かであり続けることは、無いとは言えないが、非常に困難なことであるということです。また、ひとりの人の人生の中で、貧しかった時期もあり、かつ豊かだった時期もあるという感じに両方を経験するということのほうが現実的には高い可能性としてありうるということです。地上に生まれてから死ぬまでのあいだに一度も貧しさを経験しなかったという人は、いないとは言えないが、多くはないだろうということです。

私が申し上げていることのなかにもし少しでも当たっているところがあるとしたら、天使が告げている「しるし」を見て一度も喜びを感じることがないままで死ぬ人は、いないとは言えないが、多くはないかもしれないというようなことを考えさせられるのです。

豊かな人に向かって「貧しくなりなさい」と語ることは難しいことですし、無理な面があります。しかしそんなことを誰かから言われなくても、わたしたちの人生(それが長いか短いかはともかく)の中では、一度ならず何度となく、貧しい生活に転じることがありうるはずです。かつて貧しかった人々が豊かになった。しかし再び貧しくなるということが十分、または当然ありうるのです。

バブルはいつかはじけます。夢が現実の前に打ち砕かれるときがくるのです。そのとき、わたしたちは天使の言葉に対してもっと素直に耳を傾けることができるかもしれません。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」はあなたがた“貧しい人々”にこそ与えられた喜びのしるしである。救い主イエス・キリストを信じて生きる人々に与えられる「喜び」は、金銭的に豊かな人々が「喜び」としているものとは違うものなのです。

(2008年12月7日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年11月30日日曜日

わたしたちの本国は天にあります


フィリピの信徒への手紙3・17~4・1

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」

前々回の説教の中で申し上げましたことは、パウロはこの手紙を3・1の「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」という言葉で締めくくろうとしたということです。「では」という言葉は手紙などを締めくくるときに用いられるものだからです。

しかしパウロは、実際にはそうしませんでした。その理由として考えられることについてもお話ししました。パウロはこの手紙を「喜び」というキリスト教信仰の肯定的な側面を語ることだけで済ますことに、おそらく躊躇を覚えたのです。

実際のパウロは「あの犬どもに注意しなさい」(3・2)と続けました。キリスト教信仰に敵対する人々がいるということを、強く激しく語りはじめました。あからさまに書かれているのは当時のユダヤ教徒のことです。しかしキリスト教信仰に敵対してきた人々はユダヤ教徒だけではありません。あらゆる国の、あらゆる時代の、そしてあらゆる宗教の持ち主たち、あるいはいかなる宗教をもまじめに信じようとしない人々もまたキリスト教信仰に敵対してきました。あらかさまに敵対しない場合でも、危険視する、禁止する。無視する、右から左へ聞き流す、無関心を決め込む。あるいは軽く見る、笑うというような態度をとってきました。

最近はあまり聞かなくなったような気がしますが、日本でも私が子どもだった頃には「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」だのと言われることがありました。実に嫌な気分を味わいました。多勢に無勢でしたので食ってかかることはしませんでしたが、何も言いたくないと思わされました。教会に通っているということを誰にも言いたくありませんでした。トラブルに巻き込まれるのが嫌でした。

しかしまた、私の場合は、だからこそ牧師という仕事を選んだという面もあります。トラブルのようなことに巻き込まれたくはないのです。しかし、教会に通っているということを誰にも言いたくないという気分を味わわされていること自体が嫌でした。「私は悪いことをしているわけではない!」という思いがあったからです。

教会に通うことが悪いでしょうか。わたしたちはここで何かひどいことをしているでしょうか。どうして悪口を言われたり、けんか腰で食ってかかられたり、冷たい目で見られなければならないのでしょうか。そのような何かをわたしたちがしているというならば話は別ですが、何も悪いことをしていないのにひどいことを言われるのは理不尽だと感じました。

“隠れキリシタン”のままでいることは神さまに対して申し訳ないことだと思いました。教会に通っていること、洗礼を受けていること、キリスト者であることを早く“カミングアウト”したかった。そのための、当時の私にとっては“唯一の”と感じられた方法が「牧師になること」でした。

なんだか私の話になってしまっていることをお許しください。しかし、この機会にまとめてお話ししておきたいことがあります。

それは、私にとって「牧師になること」は、自分の弱さのゆえであったということです。早い話、味方になってくれる人々が欲しかったのです。私はこの世のなかで、ひとりでキリスト者であるわけではないということを確認したかったのです。多勢に無勢のなかで孤立していました。トラブルに巻き込まれるのが嫌でした。しかしそのような理由で「教会に通っていること」を隠している状態を続けて行くことに耐えがたいものを感じたのです。

そういうのは自己目的的であると非難されるかもしれません。動機が不純であると思われるかもしれません。しかし、私が牧師になることを決心したのは高校生のときでした。自慢するわけではありませんが、高校生がたったひとりで戦っていたのです。

私の卒業した高校は、創立134周年になる古い学校です。数万人の名前が記されているであろう分厚い同窓会名簿の中で、牧師という仕事を選んだのは私を含めて3人か4人くらいです。

進路指導の先生に「牧師になるための大学に行きます」と伝えましたところ、「はあ、そうですか。どうぞご勝手に。そういう話は凡人の私には分かりません」と突き放されました。「はい、勝手にします」と言い残して立ち去りました。私のクラスの担任の先生でもありましたが、その日から二度と口を聞きませんでした。伝道的な態度ではないかもしれませんが、高校生としての精一杯の抵抗でした。

わたしたちが教会に通っていること、洗礼を受けていること、キリスト者であることで「世間を狭くしている」という面が無いかと言えば、「ある」と言わなければならないかもしれません。信仰者としての人生には喜びや楽しみの要素ばかりではなく、苦しみや失望の要素もたくさんあるということを率直に認めなければならないことも知っているつもりです。

私はけんかが嫌いなので、たとえ売られても、買いません。泣き寝入りもしませんが、我慢していることのほうが多いです。しかし、黙っていることができないときがあります。私のことならば何を言われても構いません。しかし、教会のこと、神さまのことを馬鹿にするようなことを言われると、黙っていることのほうが罪深いと感じてしまいます。自分の父親を他人から馬鹿にされるときに感じるのと似たような感情が芽生えます。

私の話はこれくらいにします。今日の個所をパウロは、泣きながら書いています。そのように彼自身がはっきり書いています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。これは大げさに書いていることではありません。おそらくパウロは本当に泣いていた。このあたりの字が、涙でにじんでいたのではないかと思うくらいに。

しかし、パウロが泣いていたのは、自分が信じている宗教を馬鹿にされたからとか、自分のしていることを貶されたからというようなこととは少し違うように思います。続きを読みますと「彼らの行き着くところは滅びです」とあります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません」。

ここでパウロが考えていることは、救い主としてのイエス・キリストに、あるいは宗教としてのキリスト教に、敵対する人々の「先行きを案じている」というのが最も近い。要するにパウロは、彼らのことを心配しているのです。

余計なお世話であると言われれば、それまでです。他人の心配をするよりも自分の心配をしなさいと言われるだけかもしれません。あなたがたの切り口から世界をとらえて、信仰を持たない人の行く先は滅びであるとか、あなたがたは腹を神としているだけだと言いだすのは一方的すぎるし、傲慢であると反論されるだけかもしれません。


「腹を神とする」とは何のことでしょうか。これと同じ意味の「腹」という言葉をパウロはローマの信徒への手紙16・18にも用いています。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」(ローマ16・18)。

この「自分の腹に仕える」と「腹を神とする」は同じ意味です。自分の腹をまるで神であるかのように礼拝することです。もちろんこれは比喩であり、また皮肉です。パウロが書いている意味での「腹」は間違いなく欲望の象徴です。食欲だけではなく性欲や所有欲などすべてがその中に含まれます。

欲望を満たすことのすべてが悪いと言いたいわけではありません。そのようなことを私が言っても説得力はありません。しかし問題は、自分の腹と神を引き換えにすることです。自分の腹を選ぶか、それとも神を選ぶかという二者択一を迫られる場面がもしあるとしたら、そのとき迷わず腹を選ぶということになるならば、それは自分の腹と神とを引き換えにすることを、事実上意味しています。

しかし、よく考えてみれば、わたしたちが自分の欲望ないし欲求を満たすことと、神を信じること、教会に通うこと、礼拝に参加すること、洗礼を受けてキリスト者になることとは、それほど激しく対立することではないはずです。欲望だの欲求だのといいますと、まるでそのすべてが罪深くて悪いことであるかのように響いてしまうのですが、わたしたちが毎日生活していく中で間違いなく必要な要素でもあるはずです。

そしてまた、わたしたちが神を信じて生きるとは、神の祝福のもとに置かれること、神の恵みが豊かに注がれることを意味しているのですから、それは言葉の正しい意味での幸福な人生であり、満足できる人生でもあると言ってよいものです。満足することと、欲望ないし欲求が満たされることは、矛盾することでも対立することでもありません。

ところが、両者がまるで対立するものであるかのようにとらえ、神か腹か、宗教か欲望か、教会か社会かというような二者択一を考え、神と教会とを切り捨てる選択肢をえらんでいくときに、パウロの言う意味での「自分の腹を神とする」という批判の言葉が該当しはじめるのです。

もちろん、どの宗教を信じても同じという意味ではありません。そのようなことを私が言うはずがありません。パウロもそのようなことを言っているのではありません。彼は、ただひたすら心配しているのです。あの突然のイエス・キリストとの神秘的な出会いを体験して以来、神と教会から離れて生きることができなくなった者として。彼自身が深く大きな罪をもっていることを自覚している者として。自分は弱い人間であることを知り、神と教会に頼らなければ、このわたしはどんなふうになってしまうのかを悟っている者として。誰が何と言おうと。

「わたしたちの本国は天にあります」と、パウロは書いています。文脈的にはやや唐突に出てくる言葉ではありますが、パウロの意図は分かります。「本国」と訳されているギリシア語(ポリテューマ)は、「コロニア」というラテン語に訳されてきたものです。コロニーという言葉をご存じの方は多いでしょう。「植民地」などと訳されます。しかし、このパウロの言葉を「わたしたちの植民地は天にあります」と訳してしまいますと、ちょっとおかしいし、誤解を生むと思います。

この手紙の最初の読者、フィリピの教会の人々はローマ帝国の植民地(コロニア)に住んでいました。彼らがローマ帝国に逆らうことはそのまま死を意味していました。ローマ帝国は支配下の人々に対し、ローマ皇帝を神のごとく崇拝すること、皇帝礼拝を行うことを強制しました。キリスト教信仰に敵対していたのはユダヤ教徒たちだけではなく、ローマの皇帝礼拝を強制する人々でもありました。

しかし、「キリスト者のコロニアは天にある」。このパウロの言葉には、ローマ帝国が強制する皇帝礼拝への明確な拒絶があります。わたしたちの真の支配者は、父なる神と、救い主イエス・キリストだけであって、ローマ皇帝ではない。真の神がわたしたちを愛してくださり、守ってくださる。そのことを信じて生きていこうではないか。神の他に何も恐れるものはない。そのようにパウロは彼らを励ましているのです。

(2008年11月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年11月28日金曜日

国際ファン・ルーラー学会に出席します

来月12月10日(水)にオランダで開催される「国際ファン・ルーラー学会」(ファン・ルーラー生誕100年記念シンポジウム、会場:アムステルダム自由大学)の主催者から私宛てに招待状が届きました。驚き、また光栄に思いましたので、私も出席することにしました。出席を決意した時点(今月の初めのことでした)ではパスポートさえ持っていない状態でしたので、準備に少し手間取りましたが、なんとか整えることができました。学会の中で短時間ながら「日本からのメッセージ」(Message from Japan)と題するスピーチをさせていただけることになりました。オランダ国内からはもとより、ドイツ、アメリカ、南アフリカなどから集結した碩学たちの前ですので、当然ですが緊張するでしょう。原稿は自分で書き、それを日本語が堪能なアメリカ人宣教師に英訳していただきました。費用については松戸小金原教会の皆さんが「学会参加支援カンパ」を始めてくださいました。このようなうれしい日を迎えることができましたことを、感謝しています。旅程は、12月8日(月)正午に成田を発ち、午後4時30分ごろ(現地時刻)にアムステルダム・スキポール空港到着。学会の前後(火曜日、木曜日、金曜日)にはファン・ルーラーゆかりの地(出身教会や出身大学、勤務した教会や大学など)を巡ろうと思っています。そして、12日(金)午後7時(現地時刻)アムステルダムを発ち、翌13日(土)午後2時30分ごろ成田に帰ってくる予定です。14日(日)には、もちろん松戸小金原教会で説教を行います。現地では留学中の先生たち(野村信教授、石原知弘牧師、青木義紀牧師)と感動の再会を果たしたいと願っています。帰国後はできるだけ詳しい報告をさせていただくつもりですので、ご期待ください。なお、「国際ファン・ルーラー学会」のプログラムの内容が最初に公開されたものから少しずつですが動いているようです。おそらくは、ご苦労なことに主催者が調整に走り回っておられるところでしょう。最新情報はhttp://www.aavanruler.nl (「Events」→「Internationaal Van Ruler Congres」→「Programma」をクリック)に公開されています。カルヴァン神学校(アメリカ)のジョン・ボルト教授も急遽、「ファン・ルーラーとセオクラシーをめぐる近年のアメリカの議論について」という講演をなさることになったようです。