2008年10月19日日曜日

死と葬儀 ~あなたを独りで死なせない~


詩編23編

「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」

本日は松戸小金原教会の特別伝道集会です。多くの方々にお集まりいただき心から感謝いたします。テーマは「死と葬儀」です。副題に「あなたを独りで死なせない」とつけました。このテーマを取り上げるかどうかを私はずいぶん悩みました。勇気が必要でした。しかし教会の皆さんは快く了解してくださいました。今こそ、このテーマについてみんなで考えることが大切であることを理解してくださいました。教会の皆さんのお支えをいただき、本当にうれしく思いました。

あらかじめ申し上げておきたいことがあります。それは、私はこのテーマを興味本位のような気持ちで取り上げたわけではないということです。冗談まじりにおもしろおかしく話せるようなことではありません。まさに真剣そのものです。

そしてこのテーマは、言うまでもなく、わたしたち全員にとって絶対に避けて通ることができないテーマであることは事実です。とくに今大きな苦しみの中にある人々自身が、このわたしはどうしたら希望をもって生きることができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。あるいはそのような方が身内におられる方々にとっては、どうしたらその方を慰め、励ますことができるのかを考えていくうえで避けて通ることができません。なぜなら、死と葬儀の問題は、それを真剣に考えて行くことが、わたしたちの人生のあり方そのものを考えて行くことを、そのまま意味しているからです。

しかし、この礼拝において私に許されている時間はごく限られたものです。「死と葬儀」というあまりにも大きすぎるテーマについて25分や30分くらいの時間で語れることは、ほんのわずかなことです。今申し上げているような前置き的な話をしているうちにも時間はどんどん過ぎ去って行きます。補いとして今日の午後予定している講演会で教会の葬儀についての具体的な話をさせていただきます。ぜひご出席いただきたいと願っています。

しかし間違いなく言えることは、先ほど申し上げましたとおり、死と葬儀の問題を真剣に考えて行くことはこのわたしがどうしたら希望をもって生きて行くことができるのかという問題にそのまま直結しているということです。重要な問題はわたしたちの死に方ではなく、生き方であるということです。逆説的かもしれませんが、私が願っていることは、死と葬儀の問題をこのようにして教会で、ここに集まっているみんなと一緒に考えることによって、わたしたちは、良い意味でこの問題を忘れて(!)しまおうではないかということでもあります。

ここから先はほんの少しだけ冗談がまじるのですが、確かに言えることは、わたしたちは、自分の葬儀を自分自身で行うことは不可能であるということです。この点だけは絶対的な真理であると言いきれます。わたしたちは自分自身の葬儀だけは誰かにまたはどこかに完全に委ねてしまわなければなりません。しかしまた、その点にこそ大きな不安があるのかもしれません。誰かにあるいはどこかに委ねてしまえと言われますと、どんなふうにされてしまうのか、想像するだけで恐ろしいと感じる人々もおられるだろうと思います。しかしこのこと――自分の葬儀は自分自身では決して行うことができないということ――だけは、わたしたちがどんなにもがこうが、あがこうが、どうすることもできない、全く動かしがたい事実なのです。

だからこそ、です。ここから先が私の申し上げたい点です。それは、わたしたちがまさに今生きている間に真剣に考えなければならないことは、このわたしの死を、そしてこのわたしの葬儀を、安心して委ねることができる、その意味で信頼することができる相手を見つけることなのだということです。

この特別伝道集会のためにこの地域に配布させていただいたチラシに「もしかしたら、教会が、あなたのお役に立てるかもしれません」と書かせていただきました。この文章を書いたのは私です。「もしかしたら」とか「かもしれません」というような、なんだか遠慮がちで弱々しい言葉をあえて用いました。押しつけがましい言い方はしたくありませんでした。「あなたの葬儀をぜひ教会で行わせてください」というような意味にとられては困るとも思いました。私が書いたことは、そういう意味ではないのです。

ならば、どういう意味なのか。私が考えているのは、次のようなことです。死と葬儀の問題には、自分独りでいくら考えても、自分で解決しようとしても、決して解決できない側面が必ずありますということです。どんなに一生懸命になって自分の遺書を書いても、それを何度も書き直しても、それによって、わたしたちの心が穏やかになることも、納得することもありえません。虚しい思いが募るばかりです。

また、わたしたちの家族の誰かが、このわたしのために葬式の準備を始めたとします。そのことを嬉しいと思うとか安心するということがありうるでしょうか。私は牧師ですが、私の家族が、私の生きている間に、私の葬儀の準備を始めたとしたら、私はやっぱり嫌だと思うでしょう。いつ死んでくれるのかと、待たれているような気がするだけです。準備などしないでほしいです。

たしか今から10年くらい前のことだと記憶していますが、岡山県にある実家に帰省したとき、両親から「お墓を買うかどうか迷っている」と言われて複雑な気持ちになりました。そういうことは考えないでほしいと思いましたし、そのように言いました。どうでもいいことだとは思いませんでしたが、お父さん、お母さん、それはお二人自身が悩むことではないはずだと言いました。死ぬことの準備とか、死んだあとの準備なんかするヒマがあるのなら、生きることに集中してほしいと、そのようなことまで口走った記憶があります。その種のことは自分自身で解決しなければならないような問題ではないはずだという確信が、私の中にあったからです。

死の問題はともかく、自分の葬儀の問題あるいは自分のお墓の問題について、どうしてわたしたち自身が悩まなければならないのでしょうか。私には未だに全く理解できません。あなたはまだ若いからだと言われてしまうかもしれませんが、私の関心はとにかく生きることだけです。死んだあとのことは、どうにでもして、という気持ちです。そこから先はどんなに手を伸ばしても、自分の思い通りにしようとしても、決して届かない、どうにもならない部分だからです。

しかし、それは私にとっては、あきらめではありません。私には先ほど申し上げた意味での信頼できる仲間がいるからです。「ここから先はお願いします」とすべてを委ねることができる、そうです、「教会」があるからです!

ここで私の両親の名誉のためにつけくわえておきますと、先ほどご紹介した墓の話は、実際にはちょっと考えてみたという程度のことでした。困り果てているとか夜も眠れないほど悩んでいるというほどのことではありませんでした。私の両親も教会のメンバーです。神を信頼し、神にすべてを委ねることを知っているキリスト者です。

今日、私が皆さんにお勧めしたいことは、まさに今申し上げた点にかかわっています。自分自身ではもはやどうすることもできないこと、すなわち、自分の死と葬儀に関することについて一切を委ねることができる「教会」を、皆さんの生涯をかけて捜し求めていただきたいということです。そのことが皆さんの心に本当に大きな安心をもたらしますし、良い意味でこの問題を忘れる(!)ことができる根拠にもなります。

実際問題として、教会が死と葬儀の問題を扱うときには、わたしたちの家族のだれかがこそこそと、あるいは大っぴらに、このわたしの葬儀の準備をするようなこととは全く別次元で扱うことができます。教会はこの件について「扱い慣れている」というような言い方はあまり適切なものではないかもしれません。しかし、いずれにせよ教会は多くの人々の死をみとり、遺族に対する慰めを語り、傷ついた人々に立ち直っていただくための努力を何年も何十年も、いや何百年も何千年も続けてきた経験とスキルをもっているのです。

何度も言うようですが、死と葬儀の問題は、自分独りで悩んでも、抱えこんでも決して解決しません。また、家族や友人たちが悩んだり、考えたりすることでもないと思います。はっきり申しますと、それは「教会」の仕事です。あるいは、もう少し広く言えば「宗教」の仕事です。

考えてもみてください。実際の葬儀の場面に立ち会ったことがある人なら誰でも知っていることですが、家族や友人たちは、その場面でたしかに一生懸命に立ち働いてはいますが、本当のところを言えば、他の誰よりも傷つき悲しみ、今にも倒れそうな思いでいるのです。人前に出られるような精神状態ではないのです。しかし責任があるから、誰かがやらねばならないから、無理やり立っているのです。

そして、です。あまりこのようなことを言うべきではないかもしれませんが、親しい人の葬儀の場面においてはこのわたし、司式をする牧師自身もまた、本当のところを言えば泣いていたい場面なのです。教会員の方々の中に「わたしの葬儀はぜひ関口先生にお願いしたいです」とおっしゃる方がおられるのですが答えに困ります。心の中で悲鳴があがります。「あなたほど大切な人の葬儀を、私にしろと言うのですか。誰よりも泣いていたいのは私なのに」と。正直勘弁してもらいたいです。しかし、牧師がそのようなことを言ってはいけません。葬儀がすべて終わってから泣くことにします。牧師もまた無理やり立っているのです。

この点から言えば、わたしたちの死と葬儀の問題は、最終的に言えば「教会に委ねる」ということだけでは不十分かもしれません。教会は人間だからです。牧師はもちろん人間です。だからこそ、私が最終的に申し上げたいことは、あなたの死と葬儀を、「教会」でも「牧師」でもなく、「神」に委ねてくださいということです。生きているときも、死ぬときも、いつもあなたと共にいてくださる「神」を信じてくださいということです。

最初にお読みしました聖書のみことばは詩編23編です。今から三千年前のイスラエル王ダビデの詩として知られてきたものです。「主」とは神です。主なる神が「羊飼い」であり、ダビデは「羊」です。「神」という信頼できる羊飼いに守られている「羊」は「何も欠けることがない」。「死の陰の谷」を行くときも「災いを恐れない」。「あなた(神)が、わたしと共にいてくださる」からであると告白されています。このダビデの信仰をわたしたちのものとすることができるなら、死を恐れない力を手に入れることができるのです。

今日教会に初めて来てくださった方々にお伝えしたいことは、まさにこの点です。

神を信じてください。神があなたを独りで死なせることはありません!

安心してすべてを神に委ねてください!大丈夫ですから!

(2008年10月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年10月12日日曜日

わたしはどうしたら救われるのか


フィリピの信徒への手紙2・12~13

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

パウロがフィリピの教会の人々に求めていることは「従順であること」、または「謙遜であること」です。今申し上げている「従順であること」と「謙遜であること」は原語的には同じ意味です。しかし日本語としては少しニュアンスの違うものがあるかもしれません。

「従順であること」の中で最も重要な要素は、従うことです。誰かあるいは何かに従うことです。従う相手が必要です。考えるべきことは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会とその教えに従うことです。

しかし、「謙遜であること」においては、相手の存在が絶対的に必要であるわけではありません。誰かあるいは何かと比較して、その相手よりも自分を下に置くということだけが謙遜の意味ではありません。誰もいなくても、比較すべき対象がなくても自分をいちばん下に置くことが謙遜です。目上の人の前ではへりくだるが目下の人の前では自分を大きく見せようとする。このような使い分けは、「謙遜」のあり方としてはあまりよろしいものではありません。

パウロはどちらの意味で語っているでしょうか。おそらく両方の意味があります。従順であることと謙遜であること、すなわち、従う相手がいて初めて成り立つもの(従順)と相手がいなくても成り立つもの(謙遜)とは、一応の区別はしなければならないだろうとは思いますが、だからといって互いに矛盾しあうものではありません。

前回の個所でパウロは、わたしたちキリスト者の人生の模範はイエス・キリスト御自身であるということが分かるように書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(2・6~7)。

この、神から人へと降りていく下向きの矢印のうちにキリストの歩まれた道が描き出されています。このキリストの謙遜の模範に従って生きることが、わたしたちに求められています。わたしたちはこのキリストと同じように謙遜でなければなりません。そのことをパウロは強く訴えていました。

そして今日の個所にパウロが書いていることはその続きです。「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」と言われています。そして、そのことによってあなたがたは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と続いています。

このようにパウロが書いていることの中に、私はいろんな意味を読み取ります。パウロの目から見ると、フィリピのキリスト者たちは、パウロが共にいるときは「いつも従順」でした。この場合の「従順」のなかには、ただ単なる謙遜というだけではなく、つまり、先ほどから申し上げている意味での相手がいなくても成り立つ生き方ということだけではなく、やはり、彼らと共にいる教師であるパウロとその教師が語る教えとに対する従順な姿勢という点が含まれていると思われます。

だからこそパウロは「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら」という点を付け加えているのです。ここでパウロが求めている「従順」には、このわたしパウロへの従順という点が含まれているのです。

しかしまた、ここで同時に考えなければならないことは、パウロは、いかなる意味でも個人的に活動していたわけではないということです。パウロの背後には、常に「教会」がありました。パウロは教会によって任職された教師であり、また教会によって海外に派遣された宣教師でした。これは使徒言行録の学びの中で何度も確認してきた点です。パウロの活動の中には個人プレーの要素はないのです。

そのため、もしパウロが彼の手紙の中で「わたしに従いなさい」と書いたり実際にそのように語ったりすることがあったとしても、その意味は「俺様について来い」というようなものではありえず、常に必ず「わたしを教師として任職し、またわたしを派遣している“教会”に従いなさい」という意味が込められていると読むべきです。この点は、決して誤解されるべきではありません。

しかしまた、そこにもう一点、どうしても付け加えなければならないこともあります。それは、このフィリピの信徒への手紙における、いわば隠れたテーマでもあります。

それは、パウロに言わせると、教会によって任職された教師、あるいは、教会によって派遣された宣教師の中にもいろんな人々がいるという点です。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1・15)と書かれていたとおりです。要するに、教会によって任職された同じ教師の中にも“従うべき教師”と“従ってはならない教師”とがいるということです。教師と名の付く人であれば誰でも従うべきである、という話にはならないのだということです。

もっとも、パウロが取り上げている問題を、狭い意味の「教師」だけの事柄に限定してしまってよいかどうかは微妙です。キリストを宣べ伝えることは教師たちだけの仕事ではなく、すべてのキリスト者の仕事だからです。しかし、このように言うことによって教師の責任を免除してよいわけではありません。キリストを宣べ伝えることをだれよりも先に教師が率先して行うのです。そして、教師の模範に従ってすべてのキリスト者がキリストを宣べ伝えるのです。この順序があることを否定できません。もしそうでないとしたら、教師が存在する意味がありません。

パウロの求める「従順」の中に、他の教師ではなく「このわたし」(パウロ自身)に従いなさいという点が含まれているということをどうしても無視することができません。それは今申し上げた事実があるからです。ある見方をすれば、パウロには自信過剰なところがあると見えるかもしれません。しかし、間違った教えを語る教師、間違った生き方を示す教師がいる。その人々にあなたがたが惑わされるようなことが決してあってはならないのだと、パウロは願っているのです。これは、彼の自信過剰によることではなく、責任感の強さによると考えるべきです。

以上、ここまでお話ししてきたことは、主に、パウロがフィリピの教会の人々に求めている日本語で言うところの「従順」の要素に関することでした。従順とは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会に従うことです。さらに加えるなら、教会によって任職された教師に従うことを意味していると言わなければなりません。

それならば、(少し余談的なことですが)、教師である者は誰にまたは何に従順でなければならないのでしょうか。教師は誰の言うことも聞く必要がないというのでは、あまりにも不公平ですし、それこそ傲慢の道を突き進んでいくことになるでしょう。もちろん教師にも教師が必要です。教師の間違いをはっきりと指摘し、悔い改めさせることができるのは他の教師です。先輩か同僚の教師が該当するでしょう。そのように、教師同士がお互いを良い意味で監視しあい、譴責しあう仕組みをもつことができるのも“教会”の務めなのです。

しかし、です。私は今日、ここで話を終わりにしてはならないと考えています。パウロの語っていることは、日本語としての「従順」の要素だけではなく、明らかに「謙遜」の要素も含まれているからです。

そのことは今日の個所が前回の個所からの続きであるという単純な事実を確認するときに明らかになることです。わたしたちはイエス・キリストの謙遜の模範に従うべきである。わたしたちは謙遜に生きるべきである。このことについてはもちろん、イエス・キリストという相手があって、その相手に従順であるべきだと説明でも、間違いとは言えません。

しかし、ややこだわりたいのは、日本語の「謙遜」のニュアンスです。問題は、だれかとの比較ではない。「あの人より下だ」とか「あの人よりは上だ」という話にしてはならない。そういうことを考えている時点で、そこにはすでに十分に、傲慢の要素が紛れ込んでいるでしょう。むしろ、そのような比較を一切抜きにした姿勢をとること、つまり、誰がどうあれとにかく自分自身をいちばん下に置くときには他の誰との比較も問題にならなくなること(「いちばん下」なのですから!)、これが「謙遜」において重要な点なのです。

そして、です。これから申し上げることが今日最も強調したいと願っている点なのですが、それは、今日の個所にパウロが書いていることを、わたしたちは、今申し上げた意味での「謙遜」に到達することこそが実は「自分の救いを達成すること」に他ならない、と読むことができるのではないだろうかということです。

もう少し端的に言いなおします。要するにパウロが言っていることは、「自分をだれよりもいちばん下に置くことが、わたしたちの救いである」ということです。

さらに別の言い方もできるでしょう。他のだれかとの比較や競争、すなわち「ねたみと争いの念」(1・15)、あるいは「利己心や虚栄心」(2・3)のようなものからすっかり解放されたところに立つことができるときこそ初めてわたしたちは、心の底から「救われた」という確信をもつことができる。

逆に言えば、教会という場所の中でも、依然として「私はこの人より上だ」とか「私はあの人のことが羨ましくて妬ましくて仕方がない」というような思いや感情に支配されたままであっては「救われた」という確信をもつことができない。

このようなことをパウロが考え、そのように書いているのではないかと私には思われてならないのです。「従順でいること」によって「自分の救いを達成するように努める」とはどのような意味であるかを考えて行くと、このような結論に至らざるをえないのです。

今申し上げたことは、おそらく皆さんには、理屈の上だけではなく、体験的に理解していただけることではないでしょうか。少なくとも私には、非常にリアルな事柄として理解できます。現実の教会においては教師たち同士の比較や競争心、そしてそこから生まれる「ねたみや争い」は絶えることがないからです。惨めなほどに、恥ずかしいほどに、そうです。何が悲しくて、教会に来てまでそれほど競争し合うのか。あなたは何のために教師になり、牧師になったのかと問いたくなります。

教会員同士のことは、あまり言いたくありません。私は松戸小金原教会の中にその種の争いや分裂がないことを本当に喜んでいます。しかしこの種のことで悩んだり苦しんだりしている他の教会の人々の声を聞くたびに、悲しくなります。

13節は重要です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。私の読み方は、次のとおりです。

「あなたがた」とは教会のことです。つまり「教会の内に働いておられるのは神である」ということです。「御心」とは神の御心のことです。つまり「教会とは神の御心を(地上で)行うものである」ということです。二つの点を合わせて言えば、「教会とは地上で神の御心を行う存在であり、神御自身のみわざそのものである」ということです。

そのとおり、教会の中でのわたしたち一人一人の働きは、神がお用いになるものです。わたしの働きは、神に徴用された働きなのです。個人プレーではありませんし、わたしの名誉や業績の中にカウントしてよいものでもありません。その種の競争心によっていつも追い立てられている状態から神によって救い出されること(解放されること)が、あなたの救いです。またそれこそが、教会として本来の(教会らしい)あり方なのです。

(2008年10月12日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年10月8日水曜日

緒形拳さん

緒形拳さん死去の一報に驚きました。私にとっては思い出深い俳優です。岡山の県立高校に通っていた頃、親の目を盗んで見た(というほどでもない)映画が、緒形さん主演の「北斎漫画」でした。若き日の(失礼)田中裕子さんや樋口可南子さんの美しさに心底魅了されました。あの映画を見た日、私の心に小さからぬ何かの疼きが始まったように思います。緒形さんがうらやましかった。「男」を教えてくれた人でした。(切ない)青春の一ページとして書き残しておきます。



今年は「ファン・ルーラー生誕百年」です

「忙しい」という言葉をできれば口にしたくないのですが、そうであると言わざるをえない状況が(あいかわらず)続いております。今年は「ファン・ルーラー生誕百年」として過ごしておりますが、その中でのファン・ルーラー研究会としての小さな働きを紹介できる運びになりました。



(1)日本基督教団改革長老教会協議会の季刊『教会』誌の最新号(第69号、2008年秋号)より、牧田吉和先生の訳によるファン・ルーラーの論文「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」の連載が始まりました。



この論文は、ドイツの説教学者ルードルフ・ボーレン先生の主著『説教学』の「第4章 聖霊」において大々的に取り上げられたことによってファン・ルーラーの名を世界的に知らしめたものです。「キリスト論的視点」と「聖霊論的視点」の区別は、厳密な組織神学的方法論において整理されたものとしてはファン・ルーラー自身が「発見者の喜び」をもって見出したものであり、現代神学に一種のコペルニクス的転回をもたらしたものであると評してよいものです。もちろん、ファン・ルーラーに反対する人々はまさにこの点(そのような区別ができるのかという点)に異論を唱えることが多いのですが、それはともかく、この論文におけるファン・ルーラーの主張を無視して現代神学について語ることは、今や不可能というべきです。そのような非常に重要な論文の全訳がこのたび公開されはじめたことを心から喜ぶと共に、多くの反応を期待しています。ご労力くださっている牧田吉和先生に、格別の感謝を申し上げます。



(2)今月10月1日発行の神戸改革派神学校紀要『改革派神学』の最新号(第35号、神戸改革派神学校創立60周年特別記念号)に、拙論「説教・教会形成・政治参加、そして神学――A. A. ファン・ルーラーの『教会的実践』の軌跡――」が掲載されました。



この論文は、昨年9月10日のファン・ルーラー研究会第5回神学セミナー(於日本基督教団頌栄教会)で私が行った研究発表「伝道と教会形成、そして神学」に大幅な加筆修正を施してまとめ直したものです。私のものはともかく、『改革派神学』最新号には優れた論文が多く掲載されています。組織神学関連では、市川康則校長の「エミール・ブルンナーの弁証的、宣教的神学」と、石原知弘先生の「オランダ改革派神学における敬虔の意義」は、必読の論文です。一冊1,800円です。どなたもぜひお買い求めくださいますよう、お願いいたします。



今年の前半は心身ともに疲れや弱りを覚えていましたが、このところかなり元気を回復しております。牧田先生からは「集中力を高めよ」と叱咤激励をいただきました。本当にそのとおりと、ありがたいお言葉に感謝しています。



2008年10月5日日曜日

人生の模範はイエス・キリスト


フィリピの信徒への手紙2・1~11

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。私なりの言葉で言い換えますと、次のようになります。

教会に集まるわたしたちは、自分のことしか関心がないような人間であってはならない。教会のみんなが心を合わせて一つにならねばならない。そのために重要なことは、わたしたちがみな、謙遜な人間になることである。

わたしたちに謙遜の模範を示してくださったのが、イエス・キリストである。キリストはわたしたちの人生の模範であり、謙遜の模範である。キリストが示してくださった謙遜の模範に従って生きることは、教会の一致のために重要である。

今私が申し上げたことの中に、今日の個所に限ってパウロが書いていない字があります。それは「教会」という二文字です。しかしここで考えなければならないことは、そもそもこの手紙そのものが、フィリピという町の「教会」に宛てて書かれたものであるということです。この点は繰り返し申し上げてきました。この手紙の中に「あなたがた」という字を見つけたら、それは直接的にはフィリピの教会の人々のことです。加えて当時「教会」に属していたすべての人々のことです。これは「教会に宛てられた手紙」であるという点を無視して読み進めることは不可能なのです。

また、ここで付け加えておきたいもう一つのことがあります。それは、これまでの個所にパウロが書いていることから分かることです。教会は、キリスト者の集まりです。同じ信仰をもって集まっている人々の団体です。しかし、その教会の中にはいろんな考え方や立場の人がいるということです。

パウロが書いていたことは、キリストを宣べ伝えるのに「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば「善意でする者」もいるということでした。「愛の動機」からキリストを宣べ伝える人もいるが、「不純な動機」からする人もいる。「だが、それがなんであろう」とも書かれていました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。

しかし、パウロが喜んでいることと、教会の中にいろんな考え方や立場の人がいて分裂や不一致に陥ることは、区別して考えなければならない面があります。てんでばらばら、好き勝手に、各自言いたい放題のことを言って、誰が傷つこうが嫌な思いをしようが関係ないというような状態を放置しておくことが良いことなのかと考えてみれば、いくらなんでもそれは違うだろうと誰でも感じるでしょう。てんでばらばらのままであるよりも一致しているほうが良いに決まっているではありませんか!けんかするよりも仲良くするほうが良いに決まっているではありませんか!

実際、パウロの言葉をじっくり読みますと、不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいることをパウロは「喜んでいる」と書いていますが、しかし、喜びと同時に「苦しみ」も感じていたに違いないことが分かります。パウロはなにもへらへら笑っていたわけではありません。他のだれよりも彼自身が深く傷つき、苦しみを感じていました。しかしこの苦しみは「神の恵み」として与えられたものである、そうなのである、そうなのであると、一生懸命、自分自身に言い聞かせていた面があったに違いないのです。

だからこそパウロは、今日の個所においては教会の一致の必要性を力説しているのです。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。「幾らかでも」というのは、ちょっと遠慮しすぎです。しかし原文を見ますと、「幾らかでも」(ティス)という字は「キリストによる励まし」の前にも「愛の慰め」の前にも「“霊”による交わり」の前にも「慈しみや憐れみの心」の前にもついています。繰り返されている字には強調があります。「幾らかでも(ほんのちょっとでも!)」という点をパウロは強調しているのです。逆に、そのようなものを全く持っていないならば話は別である。その場合は、あなたがたはもはや「教会」ではない。そのようなニュアンスを読み取ることもできるのです。

しかし、そのようなものをあなたがたが「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)持っているならば、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「同じ思い」や「同じ愛」と言う場合の「同じ」の意味は、教会に集まっている人々の中での共通性です。わたしパウロと同じ、ということも含んでいるかもしれませんが、それだけではありません。強く勧められていることは、教会内部の一致です。ばらばらでないこと。けんかをしないこと。一致し、協力して伝道に励むことです。それがパウロの喜びにもなると言われているのです。

「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)という点が強調されていることの意図は、よく考えてみる必要があるように思われます。これはまた、あからさまに言うところの教会の現実はいろんな考えや立場の人の集まりであるということに関係してくるでしょう。別の言い方をすれば、教会の中の温度差の問題であると言ってもよいでしょう。

教会のなかには、非常に熱心な人もいるし、少し温度が低い人もいます。願いとしては熱心でありたいのだけれども、今の事情がそれを許さないという人もいます。今のところ熱心である人が、今のところ熱心でない人を裁くこともありえます。ついこのあいだまでは、あるいは何年か前までは熱心であった人が今ではすっかり冷めてしまっているという場合もあります。

そのような事情のすべてをパウロはよく分かっているのです。だからこそ「幾らかでも」と言っているのです。パウロにとっては、伝道の動機が純粋であるか不純であるかは関係ないと書いているのと同様、熱心であるか冷めているかも、実はあまり関係ないことなのです。ほんのちょっとでもあるならば、十分なのです。熱い気持ちが多いか少ないかは、あまり関係ない。少ないことが教会の一致を乱してよい理由にはならないし、多いからと言って少ない人を裁いてもよい理由にもならないのです。

しかしまた、この教会内の温度差というべき問題についてパウロは(これはあくまでも私自身の一つの読み方として申し上げることですが)、今日の個所に限っては、どちらかというと、温度を上げるほうではなく、少し下げるほうのことを勧めているように感じられます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とパウロは書いています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも書いています。ここでわたしたちが考えてよさそうなことは、パウロが書いていることは、信仰の熱心さに伴いやすい傲慢さに対する戒めであるということです。

このわたしは熱心である。一生懸命がんばっている。誰にも文句を言われることはないくらいに、よくやっている。この思いには、大きな落とし穴もあるのです。他の人がしていることが小さく見えます。自分よりも熱心でない人の存在に苛立ちを覚えます。わたしがこんなにがんばっているのに、誰もついてきてくれないし、理解してくれないと寂しさや孤独感を覚えたりもします。その人々の思いは、理解できないものではありませんが、しかし、一つの大きな落とし穴に通じる道でもあるのです。

もちろんそれは、傲慢の道です。熱心な人を熱心でない人が裁くことは、良くないことです。足を引っ張るようなことはすべきではありません。これもあからさますぎる言い方かもしれませんが、現実の教会は全員が同じ思い、同じ温度で一致協力することができている場合は少ないと言わねばなりません。熱心な人々が熱心でない人々を含む教会全体を支えているという場合が少なくありません。しかし、だからといって、熱心な人が熱心でない人を裁くことは、教会においては決して許されるべきことではありません。そのようなことを許すのは、はっきり言って「教会」ではないのです。教会ではない別の何かです。「わたしはこんなにがんばっている。がんばっていないあなたがたは、間違っている」と言った瞬間に、その人は、このわたしは、教会を破壊する言葉を語っているのです。

教会を破壊する傲慢の道に進んで行かないために、パウロが勧めていることは、イエス・キリストの模範に従うことです。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とある「それ」が指しているのは「へりくだって」です。謙遜であることです。つまり、「イエス・キリストの模範」とは最初に申し上げましたとおり「謙遜の模範」であるということです。わたしたち人間が謙遜に生きるための模範をイエス・キリストが示してくださったのです。

謙遜とは、傲慢の反対です。矢印の方向が正反対です。「傲慢」とは下から上へとのぼる道であり、「謙遜」とは上から下へとくだる道です。先ほど私が、温度を上げる方ではなく少し下げる方のことをパウロが勧めていると申し上げたのは、この点にかかっています。熱心であること、一生懸命にがんばることは、悪いことではありませんし、誰かから文句を言われたり裁かれたりしなければならないことでもありません。しかし、熱心であることの落とし穴は、他人を裁きはじめることです。他人の存在が小さく見えはじめ、他人のしていることが取るに足りないものに思えることです。知らず知らず、利己心や虚栄心が混ざりはじめることです。相手よりも自分のほうが優れていると考えはじめることです。

イエス・キリストはそうではなかった、ということを、パウロは読者に訴えています。キリストは「神の身分」であられたのに、そのことに「固執」なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。ここでパウロが描いているのは、キリストがたどった道です。キリストは、人間になられた神であると言っています。神である方が神であることにとどまらずに人間になられたのだと言っているのです。それが上から下へとくだって来る道です。傲慢が示す矢印とは正反対を向いた謙遜の道です。

パウロはそこまでは書いていないことながらこの文脈から読み取ってよさそうなことは、ねたみや争いの念にかられて伝道する人々、自分の利益を求めて教会に集まる人々、利己心や虚栄心を満たすことばかり考え、わたしはあの人よりも優れた人間であると競争心を燃やす人々は、キリストがたどった道とは正反対の道、つまり、「何とかして自分自身が神になろうとする道」を進んでいるのではないかという、一つの冷静な問いかけです。

わたしたちが教会の中で何か傷つくことがあるとしたら、ほとんどの場合、今日の説教で申し上げたようなことに関係しているのではないかと、私は考えております。イエス・キリストの模範、謙遜の模範に従うのが「教会」です。松戸小金原教会は「謙遜な教会」であり続けたいと願っています。

(2008年10月5日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年9月28日日曜日

今の苦しみは神の恵みとして与えられている


フィリピの信徒への手紙1・27~30

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

フィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。今日の個所には、パウロがこれまでに書いてきたことのまとめ、または結論があります。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。これは丁寧な解説が必要な言葉です。「ひたすら」(モノン)の意味はオンリーです。「ただそれだけ」とか「唯一」と訳すこともできます。あなたがたの歩むべき道は、ただ一つです。他の道、別の道はありません。そのようにパウロは言っているのです。

ここで「ふさわしい」とは、一致しているという意味です。ここでパウロが強く勧めているのは、キリストの福音に一致している生活です。「福音」の意味は喜びの知らせです。キリストが与えてくださった喜びの知らせ、これが「キリストの福音」です。キリストの福音にふさわしい、福音に一致している生活とは、喜びの生活です。キリストに救われたことを喜ぶ生活です。感謝と賛美に満たされた生活です。

そしてまた、「福音」とは知らせであるという点を重んじるならば、それは明らかに言葉という形を取った何かです。福音とは、イエス・キリストの救いを伝える言葉です。その言葉に一致している生活が「福音にふさわしい生活」です。

その言葉が書かれているのは、もちろん聖書です。ですから、それは“聖書の言葉”に一致している生活であると、説明することができるでしょう。しかしまた同時に、聖書の言葉を噛み砕いて解説する“説教の言葉”を加えてもよいでしょう。聖書と説教の言葉に一致している生活、それが「福音にふさわしい生活」です。

パウロは、この手紙を書くよりも前に、フィリピの町で伝道しました。つまり、その町で説教を行ったことがあります。そのとき彼らに伝えた言葉、彼らをイエス・キリストへの信仰に導いた言葉、それをいつまでも大事にしてほしいという願いがパウロにあったと考えることは不可能ではないでしょう。

しかしまた、パウロは、かつて行った説教だけではなく、このように手紙を書くことによってもフィリピの信徒たちを励ましています。その意味で“手紙の言葉”も、キリスト者たちが一致すべき「キリストの福音」のうちに加えてもよいでしょう。

パウロがこの手紙を書いているのは獄中に監禁されている状態だったからでもあります。もしこのとき監禁されておらず、自由に活動することができたなら、すぐにでもフィリピの町に飛んで行きたかったのです。しかし、そうすることがパウロにはできませんでした。手紙を書く仕事は伝道者たちにとって、やむをえずしていることでもあります。私も今は年間二千通くらいのメールを書くようになりました。飛んで行けるものなら、行きたい。今すぐ行きたい。しかし、行くことができないので、やむをえず、手紙であるいはメールで、こちらの考えや気持ちを伝えるのです。

27節の後半にパウロが「離れているにしても」と書いている言葉は意味深長です。物理的距離において遠く離れている人々との連絡は手紙を用いるほかはありません。私は自由に動くことができない。監禁状態に置かれている。しかしたとえそうであっても、あなたがたに伝えたいことがあり、またあなたがたから聞きたいことがあります。あなたがたはキリストの福音にふさわしい生活を送っているでしょうか。イエス・キリストをとおして与えられた救いの喜びの知らせに一致している生活を送っているでしょうか。そうであることを心から願っているし、もしそうでない状態にあるならば、今すぐにでもその状態に立ちかえってほしい。そのことを願いながら、パウロはこの手紙を書いているのです。

そして、その意味での喜びの生活とは、やはり、教会との関係を抜きにして考えることはできないものであると私は信じています。パウロはこの手紙を個人に宛てて書いているのではなく教会に宛てて書いています。

それが意味することは、この手紙を最初に読んだであろう人々は、教会に通っていた人々であるということです。これ以上のことは言わなくてもよいことかもしれません。しかし、パウロが知っている人々の中で、すでに教会に通うのをやめてしまっていた人々は、この手紙が届いたことを知ることができなかったに違いないということも考えさせられます。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」というパウロの言葉のなかに「ひたすら教会に通い続けてください」という点が含まれていると考えることは、決して間違いではありません。パウロが願っている、フィリピ教会の人々が一致すべき言葉は、聖書の言葉、説教の言葉、そして手紙の言葉であると、先ほど申し上げました。しかし、それらすべてをひっくるめて“教会の言葉”でもあると語ることが許されるでしょう。

今年の夏休み中の日曜日、わたしたち家族は、神戸の神港教会の礼拝に出席しました。神戸改革派神学校で学んだ一年半のあいだ会員籍を置かせていただいた教会であり、長女の幼児洗礼を授けていただいた教会でもあります。11年ぶりでした。牧師は交代し、三名の長老が亡くなられ、三名の若い長老へと交代していました。しかし、ほとんどの方々は11年前のままでした。もちろん11歳ずつ年齢を重ねておられましたが、それはわたしたち家族のほうも同じです。

わたしたちが体験的に知っている教会の中での人間関係というのは、まさにそのようなものです。久しぶりにその教会の礼拝に出席したとき、再びお会いすることができる人々がいるのです。ふだんは遠く離れていてなかなか会うことができなくても、教会との関係、礼拝との関係が続いているかぎりにおいて、キリスト者同士の関係が続いていくのです。逆に言えば、教会との関係、礼拝との関係が切れてしまったら、二度とお会いすることができない場合もあるのです。

わたしたちはなぜ、教会に通い続けなければならないのでしょうか。それはもちろん、わたしたち自身の信仰を維持するためでもあるでしょう。そのこと自体は重要なことです。しかし、わたしたちは自分のことにしか関心がないようであってはならないと思います。わたしたちが教会に通う目的の中には、ここに定期的に顔を出すことによって、この体を持ち運んでくることによって、ここに集まる多くの人々を励まし、力づけることができるのだという点が含まれていなければならないと思います。

わたしたちは、自分のためだけに教会に通うのではなく、同じ教会に通っている人々のためにも、また遠くの教会に通っている人々のためにも通うのです。このわたしが毎日の生活の中でさまざまな苦しみに遭いながらもイエス・キリストへの信仰を捨てないで保ち続けているというその事実を多くの人々に見てもらうためにも通うのです。信仰を捨ててしまいたくなるほどのひどい苦しみを味わっている人々を励ますためにも通うのです。

しかし、です。この事柄にはもう一つの面があるということをわたしたちは無視すべきではありません。繰り返しますと、パウロはこのとき監禁されている状態にありました。もしかすると、いわゆる「教会に通うこと」ができる状態になかったかもしれないのです。教会の礼拝の中で、多くの人々の前で、説教を行うことができる状態になかったかもしれません。本当は顔を出したいのに!本当は体を持ち運んで行きたいのに!そうすることができないことを残念に思い、苦にしていたかもしれません。

教会のなかには、通いたくても通うことができない事情に置かれている人々もいます。その人々のことを、わたしたちは、あまり事情を知らないままで厳しく裁くようなことがあってはなりません。パウロが書いている「離れているにしても」という語の意味を繰り返し深く考えぬく必要があります。今このとき教会から、あるいは礼拝から「離れている」人々のすべてが、信仰を捨てた人であるわけではないのです。

監禁状態の中でパウロはこの手紙を書きました。何のためでしょうか。「離れている」(!)フィリピの教会の人々を励ますためです。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」。このように書いているとおりのことをパウロは信じていましたし、またそうであることを心から願っていました。

「反対者」とはイエス・キリストの救いを否定する人々のことであり、聖書のキリスト教的解釈を否定し、キリスト教的説教を否定する人々のことです。そしてそれはキリスト教会の存在そのものを否定し、人々が教会に通うことに反対する人々のことです。その人々に反対されても、ひどい目に遭わされても、この福音、この信仰へと固くとどまり続けることを、パウロは「戦い」と呼んでいます。

わたしたちの戦いは、こちらから攻撃をしかけるとか、けんかを売るというようなことではありません。それは大きな誤解です。わたしたちにとっての戦いとは、わたしたちが信仰をもって教会に通うこの喜びの生活をせっかく続けていこうとしているのに、それを何とかしてやめさせようとする力が働くときに、これをやめないで続けていくことです。妨害にも誘惑にも負けないで、神から与えられた喜びを、ひたすら喜び続けることです。

それが「反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示す」とパウロは書いています。これも誤解がないように。わたしたちが反対者たちを滅ぼすわけではありません。教会に通っていない人々に向かって、死を宣告しなければならないわけではありません。正反対です!

わたしたちのなすべきことは、「わたしたちが味わっているこの喜びを、どうぞあなたも味わってください」と勧めることだけです。「この喜びを失ったら、わたしは生きていくことができないのです」と、迫力満点に語ることだけです。「ここに教会がある」ということ、そして「ここにこの教会が無くなってしまったら、わたしはもはや生きていくことができないのです」ということを、迫力をもって語ることによって、教会を守り続けることだけです。さらに加えて言えば、福音なしに、信仰なしに、教会なしに生きている人々の将来を心配しつつ、祈ることだけです。それ以上のことは、わたしたちにはできません。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と書いています。この意味は、これまでお話ししてきたことでお分かりいただけるはずです。神の恵みとしてわたしたちに与えられている「キリストのための苦しみ」とは、要するに、わたしたちがこの信仰生活を続けること、そしてこの教会の存在を維持し続けることに伴う苦しみであるということです。

毎週の礼拝に通い続けることにも、多くの苦しみが伴います。この私自身も毎週の説教を準備することが楽しくて楽しくて仕方がないというだけでもなく、毎回それなりの苦労を味わっています。もちろん、聴いていただくのも一苦労でしょう。

しかし、この苦しみこそが神の恵みです。苦しみを与えてくださる神が、わたしたちをこの苦しみを耐え抜くことができる者へと成長させてくださっています。そのことを感謝をもって受け入れようではありませんか!

(2008年9月28日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年9月21日日曜日

わたしたちは生きて何をなすべきか


フィリピの信徒への手紙1・21~26

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」

使徒パウロのフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。これまで二回の学びの中で明らかになった点が一つあります。それはパウロにとっての優先順位は何かという問題にかかわることでした。

この手紙は、獄中に監禁された状態で書かれています。パウロを監禁状態に置いたのは、もちろん彼の迫害者たちです。しかしパウロを苦しめていたのは迫害者たちだけではありませんでした。彼が獄中にいることを喜ぶキリスト者、なかでもそのような伝道者がいるということをパウロは知っていました。パウロが熱心に伝道してきたことを見て「ねたみ」を感じ、「争いの念」からキリストを宣べ伝えている人々がいるというのです(1・15)。おそらくその人々は、パウロが監禁されている今こそ我々の伝道のチャンスであるという考えをもったのです。

しかしパウロは、そのことを熟知したうえで、「だが、それがなんであろう」(1・18)と書きました。彼らの伝道の動機など私には関係ない。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのだから、わたしはそれを喜んでいます」(同上)と書いています。ここから分かることはパウロにとっての優先順位は何かということであると私は申しました。彼にとって重要なことは、とにかくキリストが宣べ伝えられることでした。そのことこそが優先順位の第一位でした。

途中は省略いたします。それでは最下位は何か。間違いなく言えることは、最下位は彼自身の存在であったということです。パウロ自身の生活であり、彼の命そのものでした。それを彼はいちばん後回しにしました。私の命などどうなってもよい。そのように考えていたことが、はっきりと伝わってきます。

しかしそのことをわたしたちが、パウロはこのとき自暴自棄の状態に陥っていたのだというふうに理解することは、たぶん間違っています。パウロは自暴自棄などということとは最も縁遠い人でした。パウロは自分のことに関しては、いつもどこか冷静です。しかし彼は自分のことをいつもいちばん後回しにするのです。キリストと教会を、常に優先順位の上位に置き続けるのです。そのことは、今日の個所にも明確に表われています。

「わたしにとって、生きるとはキリストである」(1・21)とはどういう意味でしょうか。パウロが書いているとおりに訳すとたしかにこうなりますが、日本語としては省略しすぎです。パウロの真意を読み解く鍵は、一つ前の節です。「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願っています」(1・20)。これで分かることは、「生きるとはキリストである」とは「わたしパウロが生きることによってキリストが公然とあがめられる」という意味であるということです。

「公然とあがめられる」という語を直訳しますと「大きなものとされる」ということです。キリストが大きなものとされるとは小さなもの、取るに足りないものとみなされ、無視されることの反対です。パウロが生きているかぎり彼の口から出てくる言葉は常にキリストであり、キリストにおいて啓示された神御自身の教えです。また、彼の行いにおいて示されるのも常にキリストであり、キリストにおいて啓示された神御自身の戒めです。

ですから、「わたしにとって生きるとはキリストである」を別の言葉で言い換えるなら、わたしが生き続けるかぎりキリストを宣べ伝え続けるのだということです。キリストを礼拝し続けるのであり、キリストを説教し続けるのだということです。

それは礼拝と説教の継続であり、そしてそれはもちろん信仰の継続です。わたしが生きているかぎり、それをやめてしまうことはありえない。それで殺されようとも、監禁されたまま死んでしまおうとも、です。

そしてまたもちろんパウロは、自分自身が宣べ伝えているキリストの言葉に自ら従って生きることを忘れることはありません。パウロの言葉と行いは一致していました。だからこそ、敵対する人々から迫害もされたわけです。迫害者の目的は、信仰者から、信仰そのものと信仰生活とを奪い去ることにあるからです。

しかし、今日の個所には、今申し上げたことと共に、もう一つの強調点があり、それが私の心を悩ませます。それは、パウロが「わたしにとって・・・死ぬことは利益です」と書いている点です。明らかにパウロが書いていることは、「生きること」と「死ぬこと」のどちらを選ぶべきかが「分からない」ということであり、「この二つのことの間で板挟みの状態」であるということです。そして、さらに一歩進んで「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と書いている点です。

激しい苦しみの中にいたでありましょうパウロ先生に向かって文句をつけたいわけではありません。しかし正直に言えば、こういうことはなるべくなら書かないで欲しかったという思いが私のうちにないわけではありません。こういうことを考えることは誰でもあるでしょう。考えてはいけないとは申しません。しかし、考えることと書き残すこととは別です。書かれた言葉は独り歩きします。大きな誤解を生みだす火種にもなりかねません。

「生きること」と「死ぬこと」は、はたして本当にわたしたち人間を「板挟み」にするでしょうか。どちらを選ぶべきかが「分からない」などということが、本当にありうるでしょうか。「この世を去ること」のほうが「はるかに望ましい」というようなことを、どうして言えるでしょうか。「生きること」のほうが、良いに決まっているではありませんか!「この世にとどまる」ほうが、はるかに望ましいに決まっているではありませんか!

パウロ先生、あなたほど強い方がそのような弱音のようなことをお書きになりますと、あなたよりもはるかに弱いわたしたちが弱音を吐くことができなくなるではありませんかという思いが去来しないわけではありません。それは、オトナとコドモ、あるいは親子の関係にも当てはまります。オトナであり親である人々がコドモたちの前で弱音を吐きますと、彼らは困ってしまいます。弱音を吐くことも、甘えることもできなくなります。

また私は、わたしたちはパウロがこのように書いている言葉を、決して誤解してはならないとも思います。パウロが書いていることは、死ぬことを選び、この世を去りさえすれば、そこにはいつもキリストが共にいてくださるということではありません。「生きるとはキリストである」と書いているではありませんか!

キリストが共にいてくださるのは何も“死後の世界”というようなところでだけではありません。「地上の人生は地獄そのものであり、地上には何の良いこともない。だから、わたしたちはここから一刻も早く立ち去るべきであり、死んで向こうに行けばキリストにお会いできる。だからわたしは早く天国に行きたい!早く死にたい!」というふうにわたしたちは決して考えるべきではありません。死んだらだれでも自動的に天国に行けるわけでもありません。そのような信仰をパウロが持っていたわけでもありません。

パウロが書いていることの意図は、わたしたちキリスト者は、今ここで、この地上で、すでにキリストにお会いしているのであり、その意味でわたしたちは、この地上において、生きながらにして、すでに神の国の喜びを十分に味わっている者たちであり、その喜びは死によって奪い去られるものではありえないということです。キリストと共に生きる生活は、今ここで、地上に生きているこのときからすでに始まっているのであり、その生活はたとえ人生の終わりを迎えても永遠に続くものであるということです。つまり、パウロの確信は、地上と天国の連続性であり、キリストとこのわたしの関係の連続性です。

しかしまた、それはもちろん、キリストとの関係という点が明確であるかぎりにおいて、という断り書きをつけておかなければならないことでもあるでしょう。キリストのことは全く信じることができないが、天国の喜びだけは味わいたいという人がおられるかもしれません。しかし、そのようなことは、事実として無理な話であると言わねばなりません。

なぜなら、わたしたちがこの地上において天国の喜びを味わうことができるのはキリストを信じる信仰があるからです。わたしたちが正直な感覚としては地獄のなかにいるとしか思えないような苦しみを味わっているときにも、それに耐えることができ、絶望しないで生きていくことができるようになったのは、キリストがわたしたちの身代りに死んでくださり、わたしたちの罪を赦し、わたしたちのどうしようもない弱さをかばってくださったことを信じることができるからです。

キリストを信じない人は、自分の罪が赦されるものであることを信じることができないはずです。そのとき、その人はどうするのでしょうか。自分は罪など犯していないと思いこみ、開き直って生きるか。そうでなければ、犯した罪の結果に怯え、苦しみ、不安と絶望のどん底をはいずりまわって生きるかのどちらかしかないように思われてなりません。罪を犯さない人は一人もいないからです。すべての人が自分の犯した罪の結果を背負って生きていかなければならないからです。

もちろんわたしたちの人生は苦しいものです。しかし、死ねば苦しみから逃れられる。地上の苦しみから逃れるためにこの世を去ることのほうがはるかに望ましい、というようなことをパウロが書いているわけではありません。なぜなら、パウロの苦しみはキリストと共に生きることから生まれる苦しみだからです。迫害の苦しみとはそのようなものです。

それはある意味で、たとえば、自分が望んで結婚し、子供をもうけて家庭を築くことにも苦しみが伴うことに似ています。自分が望んだ学校に進学し、あるいは自分が望んだ会社に就職し、そこで勉強や仕事の苦しみを味わうことにも似ています。人生には嫌なことがあります。どうしようもない苦しみが続くばかりです。しかしそこですべてを投げ出し、すっきりし、せいせいして、それで「私はすっかり楽になりました」と言ったところで、何の解決もないし、喜びもありません。パウロはそのことをよく知っている人なのです。

パウロはそのことをよく知っているからこそ「肉にとどまること」、そして「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすこと」を続けようとするのです。「わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せること」ができる日を待ち望むのです。

日曜日ごとの礼拝は、教会につらなるわたしたちにとっては、その意味での出会いの場でもあります。「この礼拝が人生最後の礼拝になるかもしれない」。わたしたちはそのような緊張感をもって集まっています(このようなことはうんと冗談めかして語るべきことかもしれませんが、しかし紛れもない事実です!)。しかし、です。また会うことができた。顔と顔を合わせ、手と手を合わせて、互いに励まし合い、心を通わせ合うことができた。そのことを本当に喜び、感謝することができるのが教会であり、日曜日ごとの礼拝です。

人生に絶望するくらいなら、教会に通いましょう。わたしたちは生きて教会に通うべきなのです。教会の人間関係に絶望するということが実際にはあるかもしれません。しかしそれは、通う教会を間違えているのです。どこの教会にも通ったことがないままで、または教会に通うことをやめて、自分の部屋に引きこもって、一人で絶望しないでください。体がほんの少しでも動くなら、自分の部屋・自分の家・自分の砦から出てきてください。

教会にはパウロのような人がいます。自分のことはいつも後回し。どうしたらあなたを助けることができるのか、どうしたらあなたが喜んで生きることができるようになるのかということばかりに関心をもち、常に前傾姿勢であなたを迎えてくれる人がいるでしょう。

(2008年9月21日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年9月20日土曜日

牧師だって仕事をしている

今週もいろいろありました。

15日(月)10:30 東関東中会信徒研修会(日本キリスト改革派船橋高根教会:千葉県船橋市)
      18:00 グループホームに入所している方を敬老訪問
16日(火)13:00 日本基督教学会第56回学術大会 総会及び講演会(関東学院大学:神奈川県横浜市金沢区)
17日(水)10:30 松戸小金原教会水曜礼拝でウェストミンスター小教理問答講解
      16:00 千葉市内のキリスト教書店で季刊『教会』誌の最新号を購入
18日(木)13:00 来客(1名、一緒に夕食)
19日(金)午前  予定されていた委員会が一週間延期されることになり、出席予定者に緊急連絡
      午後  たまったメールに返信し、依頼された仕事に一つ一つ取り組む

来週の予定は以下のようになっています。

22日(月)18:00 カルヴァン生誕500年記念集会実行委員会(東京都内某所)
23日(火) 9:00 日本ルーテル神学校一日神学校(東京都三鷹市)
24日(水)10:30 関東甲信越静地区宗教法人実務研修会(千葉県教育会館:千葉県千葉市)
25日(木)午後  来客(2名)
26日(金)13:30 東関東中会とCRCミッションの宣教協力委員会(新浦安伝道所:千葉県浦安市)

ブログに書いて来たことのなかには「牧師の仕事」というカテゴリーのもとに整理できる文章が多くあるということに改めて気づかされます。「関口よ、お前は結局、自分のことにしか関心がないのだ」と非難されるだけかもしれませんが、そのようなひどい言われ方にはなるべく聞く耳を持ちたくないわけで、決してそんなことではなくて、私ができるだけ多くの人に知っていただきたいと本当に単純にひたすら願っていることは、「われわれ牧師も仕事をしているんですよ」ということです。「牧師とかいうあの連中は、日曜日だけ仕事をしていて、あとは何もせずにぶらぶらしている奴らだ」とか何とか思われているとしたら、それはかなり大きな誤解ですよと言いたいのです。誰かから後ろ指をさされなければならないような生き方はしていません。42才の牧師が上記くらいのペースで仕事をこなしているのですから、50才台、60才台の牧師たちの忙しさは尋常なものではないのだろうというくらいに思い巡らしていただくほうが、事実に即しています。


2008年9月14日日曜日

福音のために苦しむことは惨めではない


フィリピの信徒への手紙1・12~20

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」

先週から使徒パウロのフィリピの信徒への手紙を学びはじめました。先週学びましたのは、手紙の書き出しの部分でした。パウロは、祈りのなかでフィリピのキリスト者のことを思い起こしながらこの手紙を書いています。

パウロが神に感謝していることは、彼らが「最初の日から今日まで福音にあずかっている」(5節)という点でした。「福音にあずかっていたのは最初のうちだけでした。しかし、そのうち福音から離れてしまいました」と、そのような道を彼らが辿っていないことをパウロは神に感謝しています。月並みな言い方ですが「継続は力」なのです。教会生活は続けることに意義があります。途中でやめないこと、人生の最期まで続けることが重要なのです。

しかしまた、先週の個所で私がやや強調気味にお話ししましたことは、この手紙のなかにはフィリピの教会に属していたであろう人々の名前が全く出てこないという点でした。個人情報はどこにも記されていません。ともかくはっきりしていることは、パウロがこの手紙を書き送り、呼びかけている相手は「あなた」ではなく「あなたがた」であるということです。

その意味を考えました。結論は、この手紙のなかでパウロは「最初の日から今日まで」福音にあずかってきたと言いうる人々と、必ずしもそうとは言えない人々、すなわち教会生活を途中でやめてしまった人々とを明確に区別していないように見えるということです。

教会生活を途中でやめてしまってもよいという話には決してなりません。しかしパウロはそのことをこの手紙の中では問題にしていません。教会がとにかく存続し続けてきたこと。個人的な出たり入ったりはあったかもしれない。しかし、それでも、とにかく教会の灯は絶やされることなく輝き続けてきたこと。そのことを、パウロは神に感謝しているのです。

そのようなパウロの姿勢ないし態度は、はたして本当に正しいものなのだろうかという点は別の問題として扱う必要があるかもしれません。私が考えさせられることは、今申し上げているようなパウロの態度は、現代人の感覚とはかなりずれるだろうということです。何が言いたいか、お分かりいただけるでしょうか。

現代人とはわたしたちです。わたしたちの多くは、「教会」を重んじるべきか、それとも「個人」を重んじるべきかと問われるならば、迷わず「個人」を選ぶはずです。そして、最優先事項はおそらく「自分自身」です。「教会が存続していけるかどうか」という点よりも、教会の中のあの人この人が教会生活を続けているかどうか、「個人」の生き方がどうか。また誰よりも自分自身、つまり「このわたし」の生き方がどうかのほうがはるかに重要であると考えるでしょう。「個人」より「教会」を優先するというようなことは、わたしたちにとっては、ほとんどありえないことであり、奇異な感覚を持つだけでしょう。

私が今このようなことを申し上げていることには、もちろん理由があります。これから学ぼうとしている今日の個所にも、方向性において同じ、あるいは少なくとも「似ている」と言いうる言葉が書かれているからです。その点に話を進めて行きたいからです。

今日の個所にパウロが書いている言葉は、多くの人々に衝撃を与えてきたものであると言ってよいでしょう。第一に分かる衝撃の事実は、この手紙を書いているときのパウロは、監禁されていたということです。ただし、どこに監禁されているかは記されていませんし、はっきりとは分かりません。それが分からないということは、この手紙がどこでいつごろ書かれたものであるかもはっきりとは分からないということを意味しています。諸説あり、定説はありません。私はパウロがローマに監禁されていた頃に書かれたものではないかと考えていますが、別の答えもありうるでしょう。

衝撃を感じる第二点は、監禁されていたパウロは、しかしそのことを彼自身は、「福音の前進に役に立った」と書いている点です。パウロは監禁されているのです。彼は明らかに苦しみを感じています。監禁されても苦しくないということはありません。苦しいのです。しかしパウロは、自分自身が今まさに感じている苦しみを、否定的にではなく、肯定的にとらえていたのです。少なくともそのように読める言葉を書いています。

しかし、自分の苦しみを肯定的にとらえるとは、どういうことでしょうか。負け惜しみでしょうか。開き直りでしょうか。当てこすりとか皮肉のたぐいでしょうか。そのような可能性を全く否定することはできないかもしれません。パウロもまた人間だったわけですから、周りの人々に愚痴をこぼしたくなることもあったでしょうし、誰かに向かって痛烈な当てこすりを言いたくなるときもあったでしょう。しかし、注意すべきことは、わたしたちの手元にあるのは彼が書いた言葉だけであるということです。言葉の裏側を読み取ることには限界があります。詮索しすぎることは控えなければなりません。

そして、よくよく考えてみれば、パウロが言っていることはたしかな真実であることが分かります。パウロが監禁されていることによって、その監禁は「キリストのためである」ということが多くの人に分かる。これは事実です。

使徒言行録の説教のなかで何度かお話ししたことは、迫害をやめてもらう最も手っ取り早い方法は、信仰を捨てることであるということです。迫害者たちの目的は、信仰を捨てさせることなのですから。信仰者が信仰を捨てた時点で、迫害者たちの目的は達成するのです。

しかし、パウロは監禁されている。彼が信仰を捨てないからです。どんな目にあっても、激しい苦しみのなかに置かれても、このわたしの救い主イエス・キリストから離れることができない。その信仰を貫いているがゆえに、パウロは監禁されている。彼が監禁されているのは彼が信仰を捨てていない証拠であるということが、多くの人々に分かる。そのことを信じることができたので、パウロは、自分の苦しみ、不幸な境遇を肯定的にとらえることができたのです。

第三に分かることは、私自身は今日の個所全体の中で上から二番目に衝撃を感じることです。パウロによると、自分が監禁されているこのとき、福音の伝道をしている人々の中には「不純な動機」で取り組んでいる人々がいるということです。読むたびに、ええーっと驚かされます。

パウロから見ると、その人々は「ねたみと争いの念にかられている」(15節)のであり、「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようとしている」(17節)のです。これが何を意味するかを特定することはできません。しかし、ある程度想像がつきます。福音を宣べ伝えること、つまり「伝道」を、純粋に商売のようなものとしてとらえていた人々がいたのではないでしょうか(「商売」をおとしめる意図はありません)。

あの教会には、人が何人集まっているか。財政規模はどれくらいか。そのようなことが重要でないわけではありません。しかしそのことばかりに関心があり、他のことにはまるで関心が向かないというのでは困ります。そういう感覚をもった人々から見ると、パウロの姿がまるで商売敵(がたき)のように見えていたのではないでしょうか。

「パウロの伝道集会、パウロの教会には、いつもたくさんの人が集まる。でも、うちの教会にはちっとも集まらない。あいつが捕まってくれた。今がうちの教会にとって絶好のチャンスである」………想像するだけで、なんだかだんだん馬鹿馬鹿しくなってきます。

パウロは、教会というものに属している、いろんな種類の人々のことを熟知していた人です。そしてまた、パウロは、教会のなかの光の部分だけではなく、陰の部分、あるいは闇の部分をも熟知しており、またそのことを率直に言葉にし、書き残した人なのです。

キリストを宣べ伝えていた人は、もちろんキリスト者です。不純な動機のキリスト者がいるとパウロは言っているのです。わたしはユダヤ人や異邦人から苦しめられているだけではない。キリスト者たち、教会員たちからも苦しめられているのだと言っているのです。

しかし、第四に分かること、これが私にとっては今日の個所で最も大きな衝撃を受けた点です。18節の言葉です。「だが、それがなんであろう」(!)と記されています。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」。

伝道を商売のようなものととらえ、パウロの存在を商売敵のように見て、あいつが監禁されている今こそ我々のチャンスであると、ここぞとばかりに奮闘しはじめた人々がいた。しかし、動機が不純かどうかはどうでもよいことだと言っているのです。「喜んでいる」と書いています。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから」と。

ここで今日最初のほうでお話しした点に戻ります。パウロの考えは、現代人の感覚とはずれるだろうというあの話です。現代人の多くは「教会」か「個人」かどちらかを選べと言われたら、迷わず「個人」を選ぶでしょう。しかしパウロは違います。パウロならば、迷わず「教会」を選んだでしょう。そのことは今日の個所、とくに今問題にしている個所からも明らかにすることができると思われるのです。

わたしは迫害者たち、なかでもユダヤ人たち、あるいは異邦人たちからこんなに苦しい目に遭わされているけれども、自分の苦しみがキリストのため、福音のため、教会のために役に立っていることを「喜びます」と語ることができたパウロ。

そしてまた、本来は迫害者などではありえない、むしろパウロにとっては仲間であり、味方であるはずのキリスト者たち、しかも、福音の伝道に携わる伝道者たちが「ねたみや争いの念」から福音を宣べ伝えている。そのことをなんとも言えない気持ちで見てはいる。しかし、そのこともまた、キリストのため、福音のため、教会のために役立っていることを「喜びます」と語ることができたパウロ。

このパウロにとっての優先順位はどうであったかを考えさせられます。何よりも「教会」、次に「個人」。自分自身のことなどは最後の最後だったのではないでしょうか。そのようなパウロの姿を思うとき、「わたしたちが弱音を吐いている場合ではない!」と思わされます。

「このわたし」を犠牲にし、「個人」を犠牲にしてでも「教会」を優先するという選択肢を選ぶことは極めて困難な時代に生きているわたしたちです。しかし、キリストのために、福音のために、教会のために苦しむことは惨めなことではありません。キリスト教信仰は「自分のことしか考えないこと」の正反対です。自分のことはいちばん後回しにすることが求められる場面があります。そこにこそ、つまずきがあるかもしれません。しかし報いも必ずあります。わたしたちの人生に、神の恵み、救いの喜びが豊かに降り注ぐでしょう。そのように信じようではありませんか。

(2008年9月14日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年9月13日土曜日

断言しえないことを断言しない勇気をもて

「説教において問いを発し続けること」とは、「釈義に集中すること」(とくにバルト的なる何か)に似ている面もありますが、私のなかでは明確に区別されています。聖書の歴史的・文法的釈義に終始するばかりで適用に至らないような言説を「説教」と呼ぶことはできません。「説教において問いを発し続けること」の意味として私が考えているのは、次のようなことです。釈義においても適用においても多様性を認めること。事柄(ザッヘ!)をあまりにも一義的・一面的・一元的に単純化しすぎないこと。我々をとりまく複雑怪奇な生のリアリティに可能なかぎり寄り添って考えぬくこと。実は土曜日の夜に手早くでっち上げただけの「不用意な説教」によって、難しい状況の中で日々戦い傷ついている人々の心をさらに傷つけ、追い打ちをかけることによって、彼/彼女の足を無意味に引っ張るようなことだけはするまいと心に誓うこと。宗教的権威を笠に着て、高い位置から「教会的常識」を押しつけて、それで「自分の役目は完了した」などと夢にも思わないこと。自分が語った言葉はもしかしたら教会的でも常識的でもないかもしれないと常に警戒し、十分に反省・吟味すること。人類が日々体験しているあらゆるリアリティを単純な図式の中に押し込めて思考停止する(させる)ようなバカにだけはならない(させない)ことです。換言すれば、口ごもるべき場面で口ごもること。分からないことを「分からない」と語ること。曖昧にしか語りえないことを曖昧に語ること。断言しえないことを断言しない“勇気”を持つことです。 たとえそれが「神の言葉」(verbum Dei)と称される説教の言葉であっても、です。