2008年9月21日日曜日

わたしたちは生きて何をなすべきか


フィリピの信徒への手紙1・21~26

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」

使徒パウロのフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。これまで二回の学びの中で明らかになった点が一つあります。それはパウロにとっての優先順位は何かという問題にかかわることでした。

この手紙は、獄中に監禁された状態で書かれています。パウロを監禁状態に置いたのは、もちろん彼の迫害者たちです。しかしパウロを苦しめていたのは迫害者たちだけではありませんでした。彼が獄中にいることを喜ぶキリスト者、なかでもそのような伝道者がいるということをパウロは知っていました。パウロが熱心に伝道してきたことを見て「ねたみ」を感じ、「争いの念」からキリストを宣べ伝えている人々がいるというのです(1・15)。おそらくその人々は、パウロが監禁されている今こそ我々の伝道のチャンスであるという考えをもったのです。

しかしパウロは、そのことを熟知したうえで、「だが、それがなんであろう」(1・18)と書きました。彼らの伝道の動機など私には関係ない。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのだから、わたしはそれを喜んでいます」(同上)と書いています。ここから分かることはパウロにとっての優先順位は何かということであると私は申しました。彼にとって重要なことは、とにかくキリストが宣べ伝えられることでした。そのことこそが優先順位の第一位でした。

途中は省略いたします。それでは最下位は何か。間違いなく言えることは、最下位は彼自身の存在であったということです。パウロ自身の生活であり、彼の命そのものでした。それを彼はいちばん後回しにしました。私の命などどうなってもよい。そのように考えていたことが、はっきりと伝わってきます。

しかしそのことをわたしたちが、パウロはこのとき自暴自棄の状態に陥っていたのだというふうに理解することは、たぶん間違っています。パウロは自暴自棄などということとは最も縁遠い人でした。パウロは自分のことに関しては、いつもどこか冷静です。しかし彼は自分のことをいつもいちばん後回しにするのです。キリストと教会を、常に優先順位の上位に置き続けるのです。そのことは、今日の個所にも明確に表われています。

「わたしにとって、生きるとはキリストである」(1・21)とはどういう意味でしょうか。パウロが書いているとおりに訳すとたしかにこうなりますが、日本語としては省略しすぎです。パウロの真意を読み解く鍵は、一つ前の節です。「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願っています」(1・20)。これで分かることは、「生きるとはキリストである」とは「わたしパウロが生きることによってキリストが公然とあがめられる」という意味であるということです。

「公然とあがめられる」という語を直訳しますと「大きなものとされる」ということです。キリストが大きなものとされるとは小さなもの、取るに足りないものとみなされ、無視されることの反対です。パウロが生きているかぎり彼の口から出てくる言葉は常にキリストであり、キリストにおいて啓示された神御自身の教えです。また、彼の行いにおいて示されるのも常にキリストであり、キリストにおいて啓示された神御自身の戒めです。

ですから、「わたしにとって生きるとはキリストである」を別の言葉で言い換えるなら、わたしが生き続けるかぎりキリストを宣べ伝え続けるのだということです。キリストを礼拝し続けるのであり、キリストを説教し続けるのだということです。

それは礼拝と説教の継続であり、そしてそれはもちろん信仰の継続です。わたしが生きているかぎり、それをやめてしまうことはありえない。それで殺されようとも、監禁されたまま死んでしまおうとも、です。

そしてまたもちろんパウロは、自分自身が宣べ伝えているキリストの言葉に自ら従って生きることを忘れることはありません。パウロの言葉と行いは一致していました。だからこそ、敵対する人々から迫害もされたわけです。迫害者の目的は、信仰者から、信仰そのものと信仰生活とを奪い去ることにあるからです。

しかし、今日の個所には、今申し上げたことと共に、もう一つの強調点があり、それが私の心を悩ませます。それは、パウロが「わたしにとって・・・死ぬことは利益です」と書いている点です。明らかにパウロが書いていることは、「生きること」と「死ぬこと」のどちらを選ぶべきかが「分からない」ということであり、「この二つのことの間で板挟みの状態」であるということです。そして、さらに一歩進んで「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と書いている点です。

激しい苦しみの中にいたでありましょうパウロ先生に向かって文句をつけたいわけではありません。しかし正直に言えば、こういうことはなるべくなら書かないで欲しかったという思いが私のうちにないわけではありません。こういうことを考えることは誰でもあるでしょう。考えてはいけないとは申しません。しかし、考えることと書き残すこととは別です。書かれた言葉は独り歩きします。大きな誤解を生みだす火種にもなりかねません。

「生きること」と「死ぬこと」は、はたして本当にわたしたち人間を「板挟み」にするでしょうか。どちらを選ぶべきかが「分からない」などということが、本当にありうるでしょうか。「この世を去ること」のほうが「はるかに望ましい」というようなことを、どうして言えるでしょうか。「生きること」のほうが、良いに決まっているではありませんか!「この世にとどまる」ほうが、はるかに望ましいに決まっているではありませんか!

パウロ先生、あなたほど強い方がそのような弱音のようなことをお書きになりますと、あなたよりもはるかに弱いわたしたちが弱音を吐くことができなくなるではありませんかという思いが去来しないわけではありません。それは、オトナとコドモ、あるいは親子の関係にも当てはまります。オトナであり親である人々がコドモたちの前で弱音を吐きますと、彼らは困ってしまいます。弱音を吐くことも、甘えることもできなくなります。

また私は、わたしたちはパウロがこのように書いている言葉を、決して誤解してはならないとも思います。パウロが書いていることは、死ぬことを選び、この世を去りさえすれば、そこにはいつもキリストが共にいてくださるということではありません。「生きるとはキリストである」と書いているではありませんか!

キリストが共にいてくださるのは何も“死後の世界”というようなところでだけではありません。「地上の人生は地獄そのものであり、地上には何の良いこともない。だから、わたしたちはここから一刻も早く立ち去るべきであり、死んで向こうに行けばキリストにお会いできる。だからわたしは早く天国に行きたい!早く死にたい!」というふうにわたしたちは決して考えるべきではありません。死んだらだれでも自動的に天国に行けるわけでもありません。そのような信仰をパウロが持っていたわけでもありません。

パウロが書いていることの意図は、わたしたちキリスト者は、今ここで、この地上で、すでにキリストにお会いしているのであり、その意味でわたしたちは、この地上において、生きながらにして、すでに神の国の喜びを十分に味わっている者たちであり、その喜びは死によって奪い去られるものではありえないということです。キリストと共に生きる生活は、今ここで、地上に生きているこのときからすでに始まっているのであり、その生活はたとえ人生の終わりを迎えても永遠に続くものであるということです。つまり、パウロの確信は、地上と天国の連続性であり、キリストとこのわたしの関係の連続性です。

しかしまた、それはもちろん、キリストとの関係という点が明確であるかぎりにおいて、という断り書きをつけておかなければならないことでもあるでしょう。キリストのことは全く信じることができないが、天国の喜びだけは味わいたいという人がおられるかもしれません。しかし、そのようなことは、事実として無理な話であると言わねばなりません。

なぜなら、わたしたちがこの地上において天国の喜びを味わうことができるのはキリストを信じる信仰があるからです。わたしたちが正直な感覚としては地獄のなかにいるとしか思えないような苦しみを味わっているときにも、それに耐えることができ、絶望しないで生きていくことができるようになったのは、キリストがわたしたちの身代りに死んでくださり、わたしたちの罪を赦し、わたしたちのどうしようもない弱さをかばってくださったことを信じることができるからです。

キリストを信じない人は、自分の罪が赦されるものであることを信じることができないはずです。そのとき、その人はどうするのでしょうか。自分は罪など犯していないと思いこみ、開き直って生きるか。そうでなければ、犯した罪の結果に怯え、苦しみ、不安と絶望のどん底をはいずりまわって生きるかのどちらかしかないように思われてなりません。罪を犯さない人は一人もいないからです。すべての人が自分の犯した罪の結果を背負って生きていかなければならないからです。

もちろんわたしたちの人生は苦しいものです。しかし、死ねば苦しみから逃れられる。地上の苦しみから逃れるためにこの世を去ることのほうがはるかに望ましい、というようなことをパウロが書いているわけではありません。なぜなら、パウロの苦しみはキリストと共に生きることから生まれる苦しみだからです。迫害の苦しみとはそのようなものです。

それはある意味で、たとえば、自分が望んで結婚し、子供をもうけて家庭を築くことにも苦しみが伴うことに似ています。自分が望んだ学校に進学し、あるいは自分が望んだ会社に就職し、そこで勉強や仕事の苦しみを味わうことにも似ています。人生には嫌なことがあります。どうしようもない苦しみが続くばかりです。しかしそこですべてを投げ出し、すっきりし、せいせいして、それで「私はすっかり楽になりました」と言ったところで、何の解決もないし、喜びもありません。パウロはそのことをよく知っている人なのです。

パウロはそのことをよく知っているからこそ「肉にとどまること」、そして「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすこと」を続けようとするのです。「わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せること」ができる日を待ち望むのです。

日曜日ごとの礼拝は、教会につらなるわたしたちにとっては、その意味での出会いの場でもあります。「この礼拝が人生最後の礼拝になるかもしれない」。わたしたちはそのような緊張感をもって集まっています(このようなことはうんと冗談めかして語るべきことかもしれませんが、しかし紛れもない事実です!)。しかし、です。また会うことができた。顔と顔を合わせ、手と手を合わせて、互いに励まし合い、心を通わせ合うことができた。そのことを本当に喜び、感謝することができるのが教会であり、日曜日ごとの礼拝です。

人生に絶望するくらいなら、教会に通いましょう。わたしたちは生きて教会に通うべきなのです。教会の人間関係に絶望するということが実際にはあるかもしれません。しかしそれは、通う教会を間違えているのです。どこの教会にも通ったことがないままで、または教会に通うことをやめて、自分の部屋に引きこもって、一人で絶望しないでください。体がほんの少しでも動くなら、自分の部屋・自分の家・自分の砦から出てきてください。

教会にはパウロのような人がいます。自分のことはいつも後回し。どうしたらあなたを助けることができるのか、どうしたらあなたが喜んで生きることができるようになるのかということばかりに関心をもち、常に前傾姿勢であなたを迎えてくれる人がいるでしょう。

(2008年9月21日、松戸小金原教会主日礼拝)