2008年10月12日日曜日

わたしはどうしたら救われるのか


フィリピの信徒への手紙2・12~13

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

パウロがフィリピの教会の人々に求めていることは「従順であること」、または「謙遜であること」です。今申し上げている「従順であること」と「謙遜であること」は原語的には同じ意味です。しかし日本語としては少しニュアンスの違うものがあるかもしれません。

「従順であること」の中で最も重要な要素は、従うことです。誰かあるいは何かに従うことです。従う相手が必要です。考えるべきことは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会とその教えに従うことです。

しかし、「謙遜であること」においては、相手の存在が絶対的に必要であるわけではありません。誰かあるいは何かと比較して、その相手よりも自分を下に置くということだけが謙遜の意味ではありません。誰もいなくても、比較すべき対象がなくても自分をいちばん下に置くことが謙遜です。目上の人の前ではへりくだるが目下の人の前では自分を大きく見せようとする。このような使い分けは、「謙遜」のあり方としてはあまりよろしいものではありません。

パウロはどちらの意味で語っているでしょうか。おそらく両方の意味があります。従順であることと謙遜であること、すなわち、従う相手がいて初めて成り立つもの(従順)と相手がいなくても成り立つもの(謙遜)とは、一応の区別はしなければならないだろうとは思いますが、だからといって互いに矛盾しあうものではありません。

前回の個所でパウロは、わたしたちキリスト者の人生の模範はイエス・キリスト御自身であるということが分かるように書いていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(2・6~7)。

この、神から人へと降りていく下向きの矢印のうちにキリストの歩まれた道が描き出されています。このキリストの謙遜の模範に従って生きることが、わたしたちに求められています。わたしたちはこのキリストと同じように謙遜でなければなりません。そのことをパウロは強く訴えていました。

そして今日の個所にパウロが書いていることはその続きです。「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」と言われています。そして、そのことによってあなたがたは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と続いています。

このようにパウロが書いていることの中に、私はいろんな意味を読み取ります。パウロの目から見ると、フィリピのキリスト者たちは、パウロが共にいるときは「いつも従順」でした。この場合の「従順」のなかには、ただ単なる謙遜というだけではなく、つまり、先ほどから申し上げている意味での相手がいなくても成り立つ生き方ということだけではなく、やはり、彼らと共にいる教師であるパウロとその教師が語る教えとに対する従順な姿勢という点が含まれていると思われます。

だからこそパウロは「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら」という点を付け加えているのです。ここでパウロが求めている「従順」には、このわたしパウロへの従順という点が含まれているのです。

しかしまた、ここで同時に考えなければならないことは、パウロは、いかなる意味でも個人的に活動していたわけではないということです。パウロの背後には、常に「教会」がありました。パウロは教会によって任職された教師であり、また教会によって海外に派遣された宣教師でした。これは使徒言行録の学びの中で何度も確認してきた点です。パウロの活動の中には個人プレーの要素はないのです。

そのため、もしパウロが彼の手紙の中で「わたしに従いなさい」と書いたり実際にそのように語ったりすることがあったとしても、その意味は「俺様について来い」というようなものではありえず、常に必ず「わたしを教師として任職し、またわたしを派遣している“教会”に従いなさい」という意味が込められていると読むべきです。この点は、決して誤解されるべきではありません。

しかしまた、そこにもう一点、どうしても付け加えなければならないこともあります。それは、このフィリピの信徒への手紙における、いわば隠れたテーマでもあります。

それは、パウロに言わせると、教会によって任職された教師、あるいは、教会によって派遣された宣教師の中にもいろんな人々がいるという点です。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(1・15)と書かれていたとおりです。要するに、教会によって任職された同じ教師の中にも“従うべき教師”と“従ってはならない教師”とがいるということです。教師と名の付く人であれば誰でも従うべきである、という話にはならないのだということです。

もっとも、パウロが取り上げている問題を、狭い意味の「教師」だけの事柄に限定してしまってよいかどうかは微妙です。キリストを宣べ伝えることは教師たちだけの仕事ではなく、すべてのキリスト者の仕事だからです。しかし、このように言うことによって教師の責任を免除してよいわけではありません。キリストを宣べ伝えることをだれよりも先に教師が率先して行うのです。そして、教師の模範に従ってすべてのキリスト者がキリストを宣べ伝えるのです。この順序があることを否定できません。もしそうでないとしたら、教師が存在する意味がありません。

パウロの求める「従順」の中に、他の教師ではなく「このわたし」(パウロ自身)に従いなさいという点が含まれているということをどうしても無視することができません。それは今申し上げた事実があるからです。ある見方をすれば、パウロには自信過剰なところがあると見えるかもしれません。しかし、間違った教えを語る教師、間違った生き方を示す教師がいる。その人々にあなたがたが惑わされるようなことが決してあってはならないのだと、パウロは願っているのです。これは、彼の自信過剰によることではなく、責任感の強さによると考えるべきです。

以上、ここまでお話ししてきたことは、主に、パウロがフィリピの教会の人々に求めている日本語で言うところの「従順」の要素に関することでした。従順とは、神に従うこと、キリストに従うこと、そして教会に従うことです。さらに加えるなら、教会によって任職された教師に従うことを意味していると言わなければなりません。

それならば、(少し余談的なことですが)、教師である者は誰にまたは何に従順でなければならないのでしょうか。教師は誰の言うことも聞く必要がないというのでは、あまりにも不公平ですし、それこそ傲慢の道を突き進んでいくことになるでしょう。もちろん教師にも教師が必要です。教師の間違いをはっきりと指摘し、悔い改めさせることができるのは他の教師です。先輩か同僚の教師が該当するでしょう。そのように、教師同士がお互いを良い意味で監視しあい、譴責しあう仕組みをもつことができるのも“教会”の務めなのです。

しかし、です。私は今日、ここで話を終わりにしてはならないと考えています。パウロの語っていることは、日本語としての「従順」の要素だけではなく、明らかに「謙遜」の要素も含まれているからです。

そのことは今日の個所が前回の個所からの続きであるという単純な事実を確認するときに明らかになることです。わたしたちはイエス・キリストの謙遜の模範に従うべきである。わたしたちは謙遜に生きるべきである。このことについてはもちろん、イエス・キリストという相手があって、その相手に従順であるべきだと説明でも、間違いとは言えません。

しかし、ややこだわりたいのは、日本語の「謙遜」のニュアンスです。問題は、だれかとの比較ではない。「あの人より下だ」とか「あの人よりは上だ」という話にしてはならない。そういうことを考えている時点で、そこにはすでに十分に、傲慢の要素が紛れ込んでいるでしょう。むしろ、そのような比較を一切抜きにした姿勢をとること、つまり、誰がどうあれとにかく自分自身をいちばん下に置くときには他の誰との比較も問題にならなくなること(「いちばん下」なのですから!)、これが「謙遜」において重要な点なのです。

そして、です。これから申し上げることが今日最も強調したいと願っている点なのですが、それは、今日の個所にパウロが書いていることを、わたしたちは、今申し上げた意味での「謙遜」に到達することこそが実は「自分の救いを達成すること」に他ならない、と読むことができるのではないだろうかということです。

もう少し端的に言いなおします。要するにパウロが言っていることは、「自分をだれよりもいちばん下に置くことが、わたしたちの救いである」ということです。

さらに別の言い方もできるでしょう。他のだれかとの比較や競争、すなわち「ねたみと争いの念」(1・15)、あるいは「利己心や虚栄心」(2・3)のようなものからすっかり解放されたところに立つことができるときこそ初めてわたしたちは、心の底から「救われた」という確信をもつことができる。

逆に言えば、教会という場所の中でも、依然として「私はこの人より上だ」とか「私はあの人のことが羨ましくて妬ましくて仕方がない」というような思いや感情に支配されたままであっては「救われた」という確信をもつことができない。

このようなことをパウロが考え、そのように書いているのではないかと私には思われてならないのです。「従順でいること」によって「自分の救いを達成するように努める」とはどのような意味であるかを考えて行くと、このような結論に至らざるをえないのです。

今申し上げたことは、おそらく皆さんには、理屈の上だけではなく、体験的に理解していただけることではないでしょうか。少なくとも私には、非常にリアルな事柄として理解できます。現実の教会においては教師たち同士の比較や競争心、そしてそこから生まれる「ねたみや争い」は絶えることがないからです。惨めなほどに、恥ずかしいほどに、そうです。何が悲しくて、教会に来てまでそれほど競争し合うのか。あなたは何のために教師になり、牧師になったのかと問いたくなります。

教会員同士のことは、あまり言いたくありません。私は松戸小金原教会の中にその種の争いや分裂がないことを本当に喜んでいます。しかしこの種のことで悩んだり苦しんだりしている他の教会の人々の声を聞くたびに、悲しくなります。

13節は重要です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。私の読み方は、次のとおりです。

「あなたがた」とは教会のことです。つまり「教会の内に働いておられるのは神である」ということです。「御心」とは神の御心のことです。つまり「教会とは神の御心を(地上で)行うものである」ということです。二つの点を合わせて言えば、「教会とは地上で神の御心を行う存在であり、神御自身のみわざそのものである」ということです。

そのとおり、教会の中でのわたしたち一人一人の働きは、神がお用いになるものです。わたしの働きは、神に徴用された働きなのです。個人プレーではありませんし、わたしの名誉や業績の中にカウントしてよいものでもありません。その種の競争心によっていつも追い立てられている状態から神によって救い出されること(解放されること)が、あなたの救いです。またそれこそが、教会として本来の(教会らしい)あり方なのです。

(2008年10月12日、松戸小金原教会主日礼拝)