2008年9月28日日曜日

今の苦しみは神の恵みとして与えられている


フィリピの信徒への手紙1・27~30

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

フィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。今日の個所には、パウロがこれまでに書いてきたことのまとめ、または結論があります。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。これは丁寧な解説が必要な言葉です。「ひたすら」(モノン)の意味はオンリーです。「ただそれだけ」とか「唯一」と訳すこともできます。あなたがたの歩むべき道は、ただ一つです。他の道、別の道はありません。そのようにパウロは言っているのです。

ここで「ふさわしい」とは、一致しているという意味です。ここでパウロが強く勧めているのは、キリストの福音に一致している生活です。「福音」の意味は喜びの知らせです。キリストが与えてくださった喜びの知らせ、これが「キリストの福音」です。キリストの福音にふさわしい、福音に一致している生活とは、喜びの生活です。キリストに救われたことを喜ぶ生活です。感謝と賛美に満たされた生活です。

そしてまた、「福音」とは知らせであるという点を重んじるならば、それは明らかに言葉という形を取った何かです。福音とは、イエス・キリストの救いを伝える言葉です。その言葉に一致している生活が「福音にふさわしい生活」です。

その言葉が書かれているのは、もちろん聖書です。ですから、それは“聖書の言葉”に一致している生活であると、説明することができるでしょう。しかしまた同時に、聖書の言葉を噛み砕いて解説する“説教の言葉”を加えてもよいでしょう。聖書と説教の言葉に一致している生活、それが「福音にふさわしい生活」です。

パウロは、この手紙を書くよりも前に、フィリピの町で伝道しました。つまり、その町で説教を行ったことがあります。そのとき彼らに伝えた言葉、彼らをイエス・キリストへの信仰に導いた言葉、それをいつまでも大事にしてほしいという願いがパウロにあったと考えることは不可能ではないでしょう。

しかしまた、パウロは、かつて行った説教だけではなく、このように手紙を書くことによってもフィリピの信徒たちを励ましています。その意味で“手紙の言葉”も、キリスト者たちが一致すべき「キリストの福音」のうちに加えてもよいでしょう。

パウロがこの手紙を書いているのは獄中に監禁されている状態だったからでもあります。もしこのとき監禁されておらず、自由に活動することができたなら、すぐにでもフィリピの町に飛んで行きたかったのです。しかし、そうすることがパウロにはできませんでした。手紙を書く仕事は伝道者たちにとって、やむをえずしていることでもあります。私も今は年間二千通くらいのメールを書くようになりました。飛んで行けるものなら、行きたい。今すぐ行きたい。しかし、行くことができないので、やむをえず、手紙であるいはメールで、こちらの考えや気持ちを伝えるのです。

27節の後半にパウロが「離れているにしても」と書いている言葉は意味深長です。物理的距離において遠く離れている人々との連絡は手紙を用いるほかはありません。私は自由に動くことができない。監禁状態に置かれている。しかしたとえそうであっても、あなたがたに伝えたいことがあり、またあなたがたから聞きたいことがあります。あなたがたはキリストの福音にふさわしい生活を送っているでしょうか。イエス・キリストをとおして与えられた救いの喜びの知らせに一致している生活を送っているでしょうか。そうであることを心から願っているし、もしそうでない状態にあるならば、今すぐにでもその状態に立ちかえってほしい。そのことを願いながら、パウロはこの手紙を書いているのです。

そして、その意味での喜びの生活とは、やはり、教会との関係を抜きにして考えることはできないものであると私は信じています。パウロはこの手紙を個人に宛てて書いているのではなく教会に宛てて書いています。

それが意味することは、この手紙を最初に読んだであろう人々は、教会に通っていた人々であるということです。これ以上のことは言わなくてもよいことかもしれません。しかし、パウロが知っている人々の中で、すでに教会に通うのをやめてしまっていた人々は、この手紙が届いたことを知ることができなかったに違いないということも考えさせられます。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」というパウロの言葉のなかに「ひたすら教会に通い続けてください」という点が含まれていると考えることは、決して間違いではありません。パウロが願っている、フィリピ教会の人々が一致すべき言葉は、聖書の言葉、説教の言葉、そして手紙の言葉であると、先ほど申し上げました。しかし、それらすべてをひっくるめて“教会の言葉”でもあると語ることが許されるでしょう。

今年の夏休み中の日曜日、わたしたち家族は、神戸の神港教会の礼拝に出席しました。神戸改革派神学校で学んだ一年半のあいだ会員籍を置かせていただいた教会であり、長女の幼児洗礼を授けていただいた教会でもあります。11年ぶりでした。牧師は交代し、三名の長老が亡くなられ、三名の若い長老へと交代していました。しかし、ほとんどの方々は11年前のままでした。もちろん11歳ずつ年齢を重ねておられましたが、それはわたしたち家族のほうも同じです。

わたしたちが体験的に知っている教会の中での人間関係というのは、まさにそのようなものです。久しぶりにその教会の礼拝に出席したとき、再びお会いすることができる人々がいるのです。ふだんは遠く離れていてなかなか会うことができなくても、教会との関係、礼拝との関係が続いているかぎりにおいて、キリスト者同士の関係が続いていくのです。逆に言えば、教会との関係、礼拝との関係が切れてしまったら、二度とお会いすることができない場合もあるのです。

わたしたちはなぜ、教会に通い続けなければならないのでしょうか。それはもちろん、わたしたち自身の信仰を維持するためでもあるでしょう。そのこと自体は重要なことです。しかし、わたしたちは自分のことにしか関心がないようであってはならないと思います。わたしたちが教会に通う目的の中には、ここに定期的に顔を出すことによって、この体を持ち運んでくることによって、ここに集まる多くの人々を励まし、力づけることができるのだという点が含まれていなければならないと思います。

わたしたちは、自分のためだけに教会に通うのではなく、同じ教会に通っている人々のためにも、また遠くの教会に通っている人々のためにも通うのです。このわたしが毎日の生活の中でさまざまな苦しみに遭いながらもイエス・キリストへの信仰を捨てないで保ち続けているというその事実を多くの人々に見てもらうためにも通うのです。信仰を捨ててしまいたくなるほどのひどい苦しみを味わっている人々を励ますためにも通うのです。

しかし、です。この事柄にはもう一つの面があるということをわたしたちは無視すべきではありません。繰り返しますと、パウロはこのとき監禁されている状態にありました。もしかすると、いわゆる「教会に通うこと」ができる状態になかったかもしれないのです。教会の礼拝の中で、多くの人々の前で、説教を行うことができる状態になかったかもしれません。本当は顔を出したいのに!本当は体を持ち運んで行きたいのに!そうすることができないことを残念に思い、苦にしていたかもしれません。

教会のなかには、通いたくても通うことができない事情に置かれている人々もいます。その人々のことを、わたしたちは、あまり事情を知らないままで厳しく裁くようなことがあってはなりません。パウロが書いている「離れているにしても」という語の意味を繰り返し深く考えぬく必要があります。今このとき教会から、あるいは礼拝から「離れている」人々のすべてが、信仰を捨てた人であるわけではないのです。

監禁状態の中でパウロはこの手紙を書きました。何のためでしょうか。「離れている」(!)フィリピの教会の人々を励ますためです。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」。このように書いているとおりのことをパウロは信じていましたし、またそうであることを心から願っていました。

「反対者」とはイエス・キリストの救いを否定する人々のことであり、聖書のキリスト教的解釈を否定し、キリスト教的説教を否定する人々のことです。そしてそれはキリスト教会の存在そのものを否定し、人々が教会に通うことに反対する人々のことです。その人々に反対されても、ひどい目に遭わされても、この福音、この信仰へと固くとどまり続けることを、パウロは「戦い」と呼んでいます。

わたしたちの戦いは、こちらから攻撃をしかけるとか、けんかを売るというようなことではありません。それは大きな誤解です。わたしたちにとっての戦いとは、わたしたちが信仰をもって教会に通うこの喜びの生活をせっかく続けていこうとしているのに、それを何とかしてやめさせようとする力が働くときに、これをやめないで続けていくことです。妨害にも誘惑にも負けないで、神から与えられた喜びを、ひたすら喜び続けることです。

それが「反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示す」とパウロは書いています。これも誤解がないように。わたしたちが反対者たちを滅ぼすわけではありません。教会に通っていない人々に向かって、死を宣告しなければならないわけではありません。正反対です!

わたしたちのなすべきことは、「わたしたちが味わっているこの喜びを、どうぞあなたも味わってください」と勧めることだけです。「この喜びを失ったら、わたしは生きていくことができないのです」と、迫力満点に語ることだけです。「ここに教会がある」ということ、そして「ここにこの教会が無くなってしまったら、わたしはもはや生きていくことができないのです」ということを、迫力をもって語ることによって、教会を守り続けることだけです。さらに加えて言えば、福音なしに、信仰なしに、教会なしに生きている人々の将来を心配しつつ、祈ることだけです。それ以上のことは、わたしたちにはできません。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と書いています。この意味は、これまでお話ししてきたことでお分かりいただけるはずです。神の恵みとしてわたしたちに与えられている「キリストのための苦しみ」とは、要するに、わたしたちがこの信仰生活を続けること、そしてこの教会の存在を維持し続けることに伴う苦しみであるということです。

毎週の礼拝に通い続けることにも、多くの苦しみが伴います。この私自身も毎週の説教を準備することが楽しくて楽しくて仕方がないというだけでもなく、毎回それなりの苦労を味わっています。もちろん、聴いていただくのも一苦労でしょう。

しかし、この苦しみこそが神の恵みです。苦しみを与えてくださる神が、わたしたちをこの苦しみを耐え抜くことができる者へと成長させてくださっています。そのことを感謝をもって受け入れようではありませんか!

(2008年9月28日、松戸小金原教会主日礼拝)