2008年9月13日土曜日

断言しえないことを断言しない勇気をもて

「説教において問いを発し続けること」とは、「釈義に集中すること」(とくにバルト的なる何か)に似ている面もありますが、私のなかでは明確に区別されています。聖書の歴史的・文法的釈義に終始するばかりで適用に至らないような言説を「説教」と呼ぶことはできません。「説教において問いを発し続けること」の意味として私が考えているのは、次のようなことです。釈義においても適用においても多様性を認めること。事柄(ザッヘ!)をあまりにも一義的・一面的・一元的に単純化しすぎないこと。我々をとりまく複雑怪奇な生のリアリティに可能なかぎり寄り添って考えぬくこと。実は土曜日の夜に手早くでっち上げただけの「不用意な説教」によって、難しい状況の中で日々戦い傷ついている人々の心をさらに傷つけ、追い打ちをかけることによって、彼/彼女の足を無意味に引っ張るようなことだけはするまいと心に誓うこと。宗教的権威を笠に着て、高い位置から「教会的常識」を押しつけて、それで「自分の役目は完了した」などと夢にも思わないこと。自分が語った言葉はもしかしたら教会的でも常識的でもないかもしれないと常に警戒し、十分に反省・吟味すること。人類が日々体験しているあらゆるリアリティを単純な図式の中に押し込めて思考停止する(させる)ようなバカにだけはならない(させない)ことです。換言すれば、口ごもるべき場面で口ごもること。分からないことを「分からない」と語ること。曖昧にしか語りえないことを曖昧に語ること。断言しえないことを断言しない“勇気”を持つことです。 たとえそれが「神の言葉」(verbum Dei)と称される説教の言葉であっても、です。